〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第13回 詩心とは「正義の闘魂」の異名なり㊤2021年10月21日
フランスのビエーブル市に立つその建物は、かつて「ロシュの館」と呼ばれていた。芸術や文学を語り合うサロンであった。文豪ビクトル・ユゴーも家族と共に足を運び、詩想を練ったという。
1991年6月、この「ロシュの館」が、「ビクトル・ユゴー文学記念館」として装いを新たにした。ユゴーの小説の下書き原本や直筆書簡など、約7000点を所蔵。そのうち、長編小説『レ・ミゼラブル』の校正刷り、『静観詩集』の校正刷りなど、5点がフランスの「国宝」に指定されている。
記念館の誕生から、さかのぼること10年。81年6月15日、池田大作先生はフランス上院のアラン・ポエール議長と会談した。その折、議長の厚意で、リュクサンブール宮殿を見学。一室がユゴーをたたえる部屋になっていた。
先生は同行の友に、「ユゴーも反対勢力によって、島流しにされた経験をもっているね」と語り、文豪の生涯に思いを巡らせた。
ナポレオン3世の弾圧によって、ユゴーが亡命を余儀なくされたのは49歳の時。迫害の渦中、ユゴーは『レ・ミゼラブル』やナポレオン3世を弾劾する『懲罰詩集』などを完成させた。試練が創造の魂を鍛えたのである。
先生のリュクサンブール宮殿の訪問は、10年後の「ビクトル・ユゴー文学記念館」の創立を着想するきっかけとなった。

先生がユゴーと同じ49歳の時、宗門僧は衣の権威をかさに、悪辣な学会批判を繰り返し始めた。宗門は先生に、“会合で指導してはならない”“聖教新聞に出てはいけない”と制約をつけた。この師弟分断の謀略に対する本格的な反転攻勢が、開始されたのが81年である。
先生は1月の北米訪問、2月中旬からの北・中米訪問に続き、5月9日からは61日間で北半球を一周する平和旅へ。この時の思いを、「海外から日本を激励するんだ」と記している。
永遠の法をよりどころとしながら、縁に随って、最も適切に対応していく真実の自在の智慧を「随縁真如の智」という。聖教新聞の海外報道の記事は、日本の同志の歓喜となり、希望となった。それは、先生の「随縁真如の智」の励ましにほかならなかった。
帰国後の10月31日、先生は創価大学の第11回「創大祭」のオープニングセレモニーに出席。学生からの要請を受け、「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題する講演を行った。
その中で、菅原道真や頼山陽をはじめ、ユゴーやルソーなど、古今東西の人物について言及した。苦難の渦中に信念を貫いた生き方に触れ、率直に真情を語った。
「私も一仏法者として、一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僭越ながら、この“迫害の構図”に照らして見れば、迫害こそ、むしろ仏法者の誉れであります」
「後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく糾弾していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます」
講演の会場となった中央体育館(当時)は、79年5月3日、第3代会長辞任後の本部総会が行われた場所だった。同じ場所で、先生は高らかに勝利を宣言した。

その日、フランスのソー市にあるパリ会館で、フランス青年部の大会が開催されることになっていた。1981年6月14日のことである。
宿舎を出た池田先生は、ルーブル美術館に隣接するチュイルリー公園沿いの通りを歩き、地下鉄の駅に向かった。構内に入ると、先生は語った。
「青年たちの新しい出発のために、詩を贈ろう」
ホームで口述が始まった。
「今 君達は/万年への広宣流布という/崇高にして偉大な運動の/先駆として立った……」
チュイルリー駅から三つ目のシャトレ駅で、郊外へ向かう線に乗り換える。待ち時間の間も、詩作は続いた。乗車後、しばらくして口述は終わった。
詩は走り書きのメモから、ノートに清書された。先生は車内で推敲を重ね、直しを入れていく。その時、「センセイ!」と呼ぶ声がした。3人のフランスの青年が立っていた。
その一人、ナタリー・パパンさんは、前年の80年に信心を始めたばかり。彼女は胸の内の悩みを口にした。
「私が住む町で信心しているのは、私だけです。座談会の会場まで数時間かかります。どうしたら、この仏法を広げていけるでしょうか」
先生は答えた。
「心配ありません。あなたがいるではありませんか。全ては一人から始まるんです」
「仏法を持ったあなたが、大樹のように、皆から慕われ、信頼されていくことが、そのまま仏法への共感となり、弘教へとつながっていきます」
師の励ましを原点に、ナタリーさんは劇作家として活躍。“私自身が地域の大樹になろう”と、地道に対話と励ましを重ねた。彼女が住む町サン・ブリューでは今、座談会が幾つもの会場で開かれている。
列車がソー駅に着く頃、詩は完成した。先生一行がパリ会館に到着すると、直しが入ったままの原稿が、翻訳のスタッフに手渡された。先生は翻訳の作業室に足を運び、一人一人に感謝を伝えている。
午後5時半、青年部の代表者大会の幕が開けた。先生の詩「我が愛する妙法のフランスの青年諸君に贈る」を男子部のリーダーが読み上げていった。
「君達よ/フランス広布の第二幕の/峰の頂上に立ちて/高らかなるかっさいと/凱歌をあげるのだ/そのめざしゆく指標の日は/西暦二〇〇一年六月十四日/この日なりと――」
詩の誕生から20年後の2001年6月。師との約束の時を迎えた青年たちは皆、フランス広布のリーダーへと成長した。
この月、先生は再び詩を贈った。タイトルは「希望のシャトー(大城)よ 永遠に輝け!」である。
「時は来た/勇敢に立ち上がれ!/満々たる希望をもて!/新鮮な光で身を包みながら/新しき世紀の城門を開くのだ」
「さあ 前進だ!/今再び/学会創立百周年の/二〇三○年へ/共に行進しよう!」
師が示した学会創立100周年の2030年へ――。フランスの友は「良き市民」として、社会貢献に力を尽くしている。

フランスの青年に詩を贈った2日後の81年6月16日、シャルル・ド・ゴール空港を出発した池田先生は、大西洋を越えて、アメリカ・ニューヨークに降り立った。
翌17日の朝、今度はアメリカの青年に指針となる詩を贈ろうと、先生は詩作に取り掛かった。詩が完成したのは、3日後の20日である。
この日、先生はアメリカの詩人・ホイットマンの生家を訪ねた。ニューヨークに到着した16日、青年たちからホイットマンについての評論集と、その日本語訳が届けられていた。
79年、一人の青年が古書店でホイットマンの評論集を手に入れた。時あたかも第1次宗門事件の渦中。余波は、ニューヨークにも及んでいた。その中で、青年たちが創価の旗を掲げ、学会の正義を語り抜いた。
“今こそ、自分たちの決意を先生に伝えたい”との一心で、翻訳を開始した。しかし、専門家ではない。有志も手伝い、2年越しでようやく完成した。
一緒に添えた手紙に、「ホイットマンの生家を、ぜひ訪問してください」とつづった。先生が生家に足を運んだのは、青年たちの苦労と真心に応えるためでもあった。
ホイットマンの詩集『草の葉』は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』などと共に、先生の青春時代からの座右の書である。
「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」(富田砕花訳)――78年2月19日、先生は東京・立川文化会館で開催された信越男子部幹部会で、『草の葉』にある「大道の歌」の一節を贈っている。折々にホイットマンの言葉を通し、励ましを送ってきた。
生家を訪れた先生は、生家協会の関係者から請われ、ノートに記した。
「我が青春の新鮮なる心を/いやがうえにも燃え上げた/ホイットマン生誕の家に今来る/詩人とは 詩心とはを/今再び/自然の心に戻りて/思索の一時を送る」

先生がホイットマンの生家を後にした午後4時ごろ、ニューヨーク市内の高校で、日米親善交歓会が行われていた。2人の青年が、先生が詠んだ長編詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」を朗読した。
「私は広布への行動の一切を/諸君に託したのだ/一切の後継を信ずるがゆえに/今 世界のすみずみを歩みゆくのだ/君達が/小さき道より/大いなる道を創りゆくことを/私は信ずる/ゆえに/私は楽しく幸せだ」
朗読が終わると、会場は喝采に包まれた。ニューヨークの多くの友が、当時を振り返り、こう語っている。
「あの“魂の詩”で、ニューヨークの組織は蘇生したんです」
慈雨は大地に等しく降り注ぎ、万物を潤す。師の激闘によって、アメリカは第1次宗門事件という“干ばつ”に終止符を打ち、新たな黎明の時を迎えたのである。

先生がアメリカで激励を重ねていた81年7月1日、詩人の国際団体「世界芸術文化アカデミー」が、先生に「桂冠詩人」の称号の授与を決定した。
「桂冠詩人」として、先生が初めて作詞した学会歌は、四国で誕生した「紅の歌」。最初の長編詩は、九州・大分で詠んだ「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」である。
(以下、㊦に続く)
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