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牧口先生 生誕150周年に寄せて―

2021年06月11日 | 妙法

牧口先生 生誕150周年に寄せて――〈寄稿〉教育実践から価値哲学へ㊦ 創価大学・伊藤貴雄教授2021年6月11日

白金尋常小学校校長時代の牧口先生
白金尋常小学校校長時代の牧口先生

 今月6日、牧口常三郎先生の生誕150周年を迎えた。これを記念し、5日に新潟県で行われた教育本部主催の講演会には、創価学会学術部員であり、創価大学教授の伊藤貴雄氏がリモートで登壇。この講演内容を踏まえ、牧口先生の思想の卓越した先見性などについて伊藤教授が綴った寄稿「教育実践から価値哲学へ」を上下にわたって紹介する。
  
  
※㊤は、こちらからご覧になれます。
  
  

創価大学 伊藤貴雄教授
創価大学 伊藤貴雄教授
激動の時代に「民衆知」を結集

 今から100年前、日本の民主主義は転換点を迎えていました。1918~20年にかけてのスペイン風邪、23年に関東大震災、29年に世界恐慌といった混乱の中で、軍国主義が台頭し始め、政党政治は一気に終焉に向かいます。創価教育学が誕生したのは、そうした激動の時代でした。
  
 『創価教育学体系』発刊(1930年)に際し、巻頭の揮毫を寄せた犬養毅(翌年、首相に)は、32年、五・一五事件で青年将校らによって暗殺されています。
  
 時代の流れに抗うかのように、牧口先生は数々の提案を行いました。科学的教育学の樹立、国立教育研究所の設置、視学(教育を監督する役人)の廃止、学校自治権の確立、小学校長登用試験制や、半日学校制の導入などです。それらの中には戦後に実現されたものも少なくありません。
  
 次々と襲い掛かってくる困難に対して、どう立ち向かっていくかという「民衆知」を結集させたものが、創価教育学であったといえます。
  
  

「答え」ではなく「プロセス」を重視

 牧口先生が自身の教育学のエッセンスを述べている言葉があります。
  
 「教育は知識の伝授が目的ではなく、学習法を指導することだ。研究を会得せしむることだ。知識の切売や注入ではない。自分の力で知識することの出来る方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与へることだ。労せずして他人の見出したる心的財産を横取りさせることでなく、発見発明の過程を踏ませることだ」(『創価教育学体系』第4巻)
  
 答えを与えるのではなく、発明・発見のプロセスを踏ませる。それはまさに、今日の教育が重視する「考える力」であり、「生きる力」にほかなりません。
  
 他人の考えをうのみにせず、自分自身でファクトチェック(事実かどうかの確認)をするという、メディアリテラシーの根幹にも通じます。現に牧口先生は、「誤認」が生んだ悲劇の例として、関東大震災下で発生した朝鮮人虐殺事件を挙げています(同、第2巻)。
  

牧口先生は教員として第一歩を踏み出した北海道を訪れ、8会場で講演を行った(1938年6月、帯広で)
牧口先生は教員として第一歩を踏み出した北海道を訪れ、8会場で講演を行った(1938年6月、帯広で)

 人間の自立的思考を重視するこうした主張は、民主主義的な国家観に基づくものです。牧口先生は「国民あつての国家であり、個人あつての社会である」(『創価教育学体系』第1巻)とし、学校を「立憲政治の一部」であるとも明言しています(同、第3巻)。
  
 ちなみに、『創価教育学体系』全巻で見ると、「立憲政治」「立憲政体」「憲政」という言葉が計26回、全て肯定的な意味で使用されています。ただし、日本にはまだ真の意味での立憲主義が根付いていないとも指摘しています。
  
 「立憲政治は即ち『万機公論に決すべし』といふ議論政治である。議論を恐れて居ては何時までも立憲政治の完全は期せられぬ」(同、第3巻)。
  
 民衆一人一人が自分の頭で考えて、徹底的に議論するという点に、牧口先生は立憲政治の理想を見ていました。自身の信仰する仏法の「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)という思想についても、立憲政体の本義に合致するものであるとの解釈を加えているほどです(同、第2巻)。
  
  

仏法の信仰と言論闘争

 「利・善・美」のうち、牧口先生が最も重視されたのは「善」の価値でした。日本が日中戦争へ突入する頃から、発言のなかに「大善」という言葉が登場します。その精神的支柱となったのは、『創価教育学体系』執筆と並行して始めた仏法信仰でした。
  
 信仰によって「暗中模索の不安が一掃され、生来の引込思案がなくなり、生活目的が愈々遠大となり、畏れることが少くなり、国家教育の改造を一日も早く行はせなければならぬといふやうな大胆なる念願を禁ずる能はざるに至った」(『創価教育学体系梗概』)と述べています。
  

牧口先生の御書。「開目抄」の所々に朱線が引かれている
牧口先生の御書。「開目抄」の所々に朱線が引かれている

 そして「大善生活」とは、「人に依つてゐた基準を革めて法に依れ」ということであると述べています(「大善生活法即ち人間の平凡生活に」)。いかに権威権力のある人が言うことであっても、間違ったことであれば従ってはならないというのです。
  
 牧口先生の晩年は、こうして国家権力に対する言論闘争となっていきます。
  
  

弾圧に屈せず信念を貫く

 1941年3月、治安維持法が改正され、「国体ヲ変革スルコト」を目的とした結社だけでなく、「神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スベキ事項ヲ流布スルコト」を目的とした結社も禁じられるようになりました。
  
 国家による言論弾圧が厳しさを増す中、牧口先生は、信仰の体験を人々と共有するための“大善生活法実証座談会”を全国各地で開催します。そして太平洋戦争が始まって2年目の43年7月6日、治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で検挙されました。
  

東京・豊島区内の座談会で(1942年)。牧口先生は、41年5月からの2年間だけで、実に240回以上もの座談会を開催している
東京・豊島区内の座談会で(1942年)。牧口先生は、41年5月からの2年間だけで、実に240回以上もの座談会を開催している
軍部政府による弾圧が厳しさを増す中、牧口先生は各地の友のもとへ。九州総会の翌日、福岡で同志と共に(1941年)
軍部政府による弾圧が厳しさを増す中、牧口先生は各地の友のもとへ。九州総会の翌日、福岡で同志と共に(1941年)

 『特高月報』(43年7月分)を見ると、検挙理由として、牧口先生が「天皇も凡夫である」と述べたこと、また教育勅語から「忠誠心」を説く一節を削除するよう主張したことが第一に挙げられています。
  
 つまり、牧口先生の「人間平等の思想」と、「国家主義教育への批判」が、罪に問われたのです。国家権力の恐ろしさは、まことに言語に絶するものがあります。同時に、国家中心の人間観・社会観に対し、自分の頭でその正否を考え続けた牧口先生の面目躍如たるものがあります。
  
 『特高月報』(同年8月分)には、「創価教育学会々長牧口常三郎に対する尋問調書抜萃」という記録が入っています。
  
 その中で牧口先生は、仏法に基づく国家社会が実現した時には、「戦争」やそれがもたらす「饑饉疫病」等の災禍から免れ得るだけでなく、各人の日常生活にも「極めて安穏な幸福が到来する」と述べています。注目すべきは、「戦争」から免れることが「幸福」である、と明言している点です。
  
 当時、民衆の間には厭戦感情が高まりつつありました。『特高月報』を見ると、「食はずに働けと言ふのか。百姓は死んでもよいのか」(同年3月分)という発言や、「我国民はもうこれ以上は忍ばれない、今に内乱が起きるから見てゐろ」(同年5月分)という投書が、不穏な言動として記録されています。食糧不足による民衆の栄養失調は深刻で、結核死亡率も上昇し続けていました。
  
 牧口先生は、特高警察を前に、こうした民衆の苦悩の声をはっきりと代弁したのです。
  
 特高警察は尋問の中で、「法華経とは如何なる教へなりや」と聞いています。牧口先生はこう答えています。――「世間法は必ずしも善因は善果とならず反対の結果も生ずる」が、法華経はそうではない。「善因は必ず善果」「悪因は必ず悪果」という「因果の法則」を説いているので、「未来の生活方針が定まる」のだ、と。
  
 また、法華経は「終世変らざる処の人類行動の規範」を示したものであり、「絶対不変万古不易の大法」である。この理想に照らしたときには「現在あるが如き法律諸制度中一部分のものは変更される様な事になるかも知れません」とも述べています。
  
 牧口先生の眼は、ある時代の、ある国家にしか通用しない規範ではなく、どの時代の、どの国家にも通用するグローバルな「人類行動の規範」に向けられていました。また、この巨視的な視点の大切さを、特高警察に対しても諄々と諭したのです。
  
 東京拘置所での過酷な獄中生活が始まって約14カ月後の1944年11月18日、牧口先生は老衰と栄養失調により、73歳で亡くなりました。逝去の直前、牧口先生が獄中から家族に送ったはがきに、こうあります。
  
 「カントの哲学を精読している。百年前、及びその後の学者どもが、望んで、手を着けない『価値論』を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。これゆえ、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(現代表記に改めた)
  

牧口先生が、獄中から家族に送ったはがきの一部(1944年10月13日付)。右上には「カントノ哲学ヲ精読シテ居ル」と。これが絶筆となった
牧口先生が、獄中から家族に送ったはがきの一部(1944年10月13日付)。右上には「カントノ哲学ヲ精読シテ居ル」と。これが絶筆となった

 牧口先生がどの著作を読んだかは不明ですが、先生が掲げた「依法不依人」というモットーは、カントの哲学と響き合うものがあります。カントもまた、どの時代、どの国家にも通用する「普遍的法則」を希求した哲学者でした。
  
 冷え込む晩秋の獄中でも、自身の価値哲学が間違っていないこと、それどころか、カントから法華経に至るまでの人類の知的遺産に支えられていることを、牧口先生が強く確信されていたことがうかがえます。
  
  

戸田先生、池田先生に受け継がれ
世界に広がった平和への理想と連帯

 牧口先生の思想と行動は、戦時下の日本における稀有なレジスタンスの記録です。それは人間が「自ら考える権利」を奪われた暗い時代にあって、まばゆい光を放っています。その精神は、生きて牢獄を出た弟子の戸田城聖先生によって受け継がれることとなります。
  
 戸田先生は戦後、師の『価値論』を補訂し、世界の大学図書館等に寄贈しました。また、「世界民」というグローバルな平和への理想を、「地球民族主義」や「原水爆禁止宣言」として、後継の青年たちに託しました。
  
 さらに、戸田先生の弟子である池田大作先生は、この理想を192カ国・地域におよぶ「世界市民」のネットワークへと拡大するとともに、東西冷戦期から一貫して、中国、ロシア、アメリカをはじめとする世界のリーダーと対話を続けてこられました。
  
 名誉学術称号を受ける折には、たびたび「先師・牧口常三郎先生、恩師・戸田城聖先生に捧げます」と述べておられます。牧口先生の正義は証明されたのです。
  

牧口先生の著作と全集    
牧口先生の著作と全集    

 牧口先生は、宗教の価値を、人を救うという「利」の価値と、世を救うという「善」の価値に見ました。この精神は創価学会員の生き方に継承されています。
  
 創価学会員は、悩み苦しむ人に寄り添い、同苦します。友のもとへ足を運び、言葉を交わし、より良い地域や社会の建設のために行動しています。教義は単独で価値を持つのではなく、あくまで人間のコミュニケーションの中で価値を持つと捉えています。
  
 地域を起点とした信仰活動が、世界中のあらゆる場所で行われています。これは牧口先生、戸田先生、池田先生と学会員が、90年という歴史の中で、連綿と築き上げてきた文化です。世界中の識者が称賛を惜しまない理由もここにあるのではないでしょうか。
  
 いま牧口先生がおられたら、未曽有の危機の時代にあって、苦境に立たされながらも粘り強く行動し続ける民衆の連帯に、きっと慈眼の微笑を向けてくださることと思います。
  
  

  
 〈プロフィル〉
 いとう・たかお 1973年生まれ。創価大学文学部教授・東洋哲学研究所研究員。博士(人文学)。専門は哲学・思想史。著書に『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学』など。

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