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第6回「大阪の戦い〈下〉」

2021年06月25日 | 妙法

第6回「大阪の戦い〈下〉」 信心と団結でしか勝てぬことを忘れるな 2021年6月25日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【大逆転劇への心得】
一、執念で勝つ
一、喜び勇んで勝つ
一、団結で勝つ
(「随筆 希望の大道」<庶民の勝利が学会精神>から)
「もう一度、私が指揮を執ります! 一緒に戦おう!」――第3回関西総会で、池田先生は呼び掛け、勇壮な舞を披露した(1981年11月22日、関西戸田記念講堂で)
「もう一度、私が指揮を執ります! 一緒に戦おう!」――第3回関西総会で、池田先生は呼び掛け、勇壮な舞を披露した(1981年11月22日、関西戸田記念講堂で)
リーダーが先頭に

 大阪の名菓として知られる粟おこしは、米を細かく砕き、水あめで固めたお菓子だ。
 1956年(昭和31年)の「大阪の戦い」の折、池田先生は関西の同志と粟おこしを口にし、“粟おこしは団結の姿です”と、ユーモアたっぷりに語ったという。小さな一粒一粒も、一つにまとまったとき、名菓になることを団結に例えたのである。
 「団結」こそが、広宣流布の短期決戦における最重要の勝利の要諦であることを、先生は何度も、関西の同志に訴えた。
 ある時、一人の婦人が先生に悩みを吐露した。リーダーとして、どのように活動を進めていけばよいのかが分からない、と。先生は扇子を取り出した。
 「扇子は、“要”が回転して開いていきますね。皆を動かそうとするのではなく、あなた自身が戦い、成長していけばいいのです」
 団結とは、皆を動かすことではない。リーダー自らが先頭に立って、祈り、動き、語っていくことから生まれることを力説した。
 先生は団結について記している。
 「堅固な団結は、必ず各人の『境涯の拡大』をともなう。広宣流布の回転に心を合わせれば、自分中心の小さなエゴの殻を破っていけるからだ」
 激戦の中、東京からの派遣幹部と地元幹部に感情的なもつれが生じた。「小さなエゴ」にとらわれていた。先生は、互いの言い分を聞いた後、厳しく諭した。
 「意見の衝突はよい。しかし、感情の衝突は喧嘩です。これほど味方の戦力を潰すものはない」
 組織の中で起こる非難・中傷は、ことごとく“魔の仕業”であることを強く説いた。
 先生の指揮のもと、大阪が大躍進を遂げる一方、東京は苦戦を強いられていた。先生は、「信心と団結でしか、勝てぬことを忘れるな」「われは、断じて関西で指揮をとる。東京の闘争に栄光あれ」(『若き日の日記』、1956年4月10日)と、東京の同志に呼び掛けるかのように書きとどめた。

【「若き日の日記」1956年(昭和31年)4月22日から】
前途は多難あり、嵐あり。
その中に勝ちゆく「栄光」が、
真実の「栄光」か。
「大阪の戦い」で、池田先生は「勇戦」と揮ごう。それを大切に保管していた同志が、1983年3月、“先生のもとにお返ししたい”と届けた。先生は“その代わりに”と、この書をしたためた(同月、関西文化会館で)
「大阪の戦い」で、池田先生は「勇戦」と揮ごう。それを大切に保管していた同志が、1983年3月、“先生のもとにお返ししたい”と届けた。先生は“その代わりに”と、この書をしたためた(同月、関西文化会館で)
頑張る時は「今」

 「特筆すべき事は、全くの信心したての人々が揃って折伏に励んでいる姿である」――1956年(昭和31年)5月6日付の本紙の記事。なぜ関西は躍進しているのか。その要因として、池田先生を中心とした強固な異体同心の団結とともに、「歓喜」を挙げている。
 生活は苦しかった。入会から日も浅く、信心もよく分からなかった。しかし、とにかく楽しかった――。「大阪の戦い」を戦った友が、異口同音に語ることである。
 その「歓喜」の源泉こそ、池田先生の激闘である。例えば、4月末から5月にかけての1週間だけでも、先生は大阪と東京を2往復。夜行列車の移動では、車中で原稿を書き、同志への激励の一文もしたためている。
 戸田先生によって徹底して磨かれ、鍛えられた「常在戦場」の一念は、どんな時も同志の激励のために注がれたのである。
 本紙が関西の圧倒的な勢いを報じた9日後の5月15日、6人の学会員が逮捕された。すでに個々別々で解決していた出来事を蒸し返し、組織的な暴力があったかのように見せる警察の思惑だった。大阪の新聞は夕刊で、学会が「暴力宗教」であると報じた。
 翌日、先生は事件の善後策を講じるために奔走。17日、筆に墨を含ませて、「電光石火」と大書した。この日に行われた早朝の御書講義。先生は関西の友の動揺を吹き払う師子吼を放った。
 「頑張る時は今です。信心の利剣で、魔を打ち破るのも今です!」「正しい仏法が、正しい信仰が、最後に必ず勝たないわけがない」
 早朝講義の脈動は、この日の夜にかけ、大阪全域に一気に広がっていった。
 暴力宗教というデマを信じる友人もいた。しかし、同志は「その宗教の座談会を見に来ませんか?」と切り返した。
 先生は、「見方が変わる、つまり一念が変われば、全ての苦難が自身の人間革命の糧となる」と記している。関西の同志は、相手の学会に対する「見方」を変える言論によって、「味方」を広げていったのである。

色鮮やかな虹が、大阪城公園に姿を現す(1995年11月、池田先生撮影)。かつて先生は、関西7府県の“虹のスクラム”の前進をたたえた
色鮮やかな虹が、大阪城公園に姿を現す(1995年11月、池田先生撮影)。かつて先生は、関西7府県の“虹のスクラム”の前進をたたえた
敵も味方に変える勇気

 法華経の文に「魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る」(御書1242ページ)とある。いかなる相手でも、自分の信心が強くあれば、広宣流布のために働く存在に変わっていく、との意味だ。この御文を、先生は「大阪の戦い」の中で、幾度も拝した。
 敵をも味方に変えていく。その勇気の行動こそ、広布拡大の根本だ。
 56年6月、参院選の公示の日、先生は、御本尊への祈りに、新たな祈念を加えた。「大阪のいかなる人であれ、このたびの戦列に加わって、味方となること」である。先生の祈りに呼応し、大阪各地で気迫と執念の対話拡大が展開されていった。
 「大阪の戦い」の最終日、先生は早朝5時ごろに目を覚ました。一人のリーダーがそっと玄関のドアを開け、足早に同志のもとへ駆けていく姿を目にした。
 この時、先生は“これでよし、勝てる!”と確信する。リーダーが最後の最後まで、緊張感を持続している姿勢が、そこにあったからである。その直後、電話が鳴った。戸田先生からだった。「関西はどうだい?」との問い掛けに、池田先生は「こちらは勝ちます!」と即答した。
 「大阪の戦い」の出発の時、先生は関西の友に「今度の関西の戦いは勝った!」と宣言した。最終日には、師に勝利の確信を伝えた。そして、実際に「まさかが実現」と世間を驚嘆させる大逆転劇を飾ったのである。
 先生は語っている。「今の皆さん方の真剣な行動が、後世の教科書になっていく」「皆がどう戦ったのかを、50年後、100年後の同志が学ぶ。そういう時代が必ず来るのだ」
 「大阪の戦い」から65周年となる本年は、2030年の学会創立100周年へ向けての初陣の年。コロナ禍の中で、立正安国の実現のために、いかに動いたのか。未曽有の危機にあっても、広布の誓願を燃やし続けることができたのか。
 私たちは折に触れて、「大阪の戦い」から法華経の将軍学を学ぶ。今の私たちの必死の激闘もまた、50年後、100年後の同志が、“コロナ禍でどう戦ったのか”を知る「後世の教科書」となるに違いない。

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