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「新・人間革命」に学ぶ 第25巻 基礎資料編

2020年11月04日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第25巻 基礎資料編 2020年11月4日

 

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
 
イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第25巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。挿絵は内田健一郎。

 
【物語の時期】1977年(昭和52年)3月11日~5月29日
「福光」の章
 

 1977年(昭和52年)3月11日、山本伸一は完成したばかりの福島文化会館を訪問。出迎えた東北長、福島県長らに青年育成の在り方などを語り、夜には、開館記念勤行会に臨む。席上、8年前に示した「希望に燃えて前進する福島」などの3指針の意義を確認する。また、「福島に、東北に、幸せの春よ来い!」と祈りを託して、ピアノを演奏する。
 県・圏の代表との懇談会では、リーダーの姿勢や団結の重要性などを語る。さらに青年部には、信仰への絶対の確信をつかむよう訴えた。
 翌日の懇談会では、かつて文京支部員であった婦人たちを励ます。文京支部に所属する福島の同志は、57年(同32年)7月、伸一が大阪事件で不当逮捕された折、支部長代理である彼の獄中闘争を思い、伸一が打ち出した“一班一〇闘争”(班10世帯の弘教)に奔走。全国模範の結果を示したのである。
 13日、「3・16」の意義を込めた福島県青年部の記念集会では、「これだけの青年が、人びとの勇気の原動力となり、未来を照らす福光の光源となっていくなら、福島は盤石です」と期待を寄せる。

 

「共戦」の章

 1977年(昭和52年)、山本伸一は、全国各地に完成した新会館の開館記念勤行会に相次ぎ出席。5月18日には、九州平和会館での本部幹部会へ。人材育成とともに、年配の功労者への温かな配慮を訴える。
 翌日、伸一は「第二の山口開拓指導」の決意で山口文化会館へ。56年10月から57年1月の山口開拓指導は、伸一の指揮のもと実施された広布史上に燦然と輝く大闘争である。
 夕方に行われた懇談会では、山口開拓指導の「共戦」の同志に、「人生の総仕上げ」について指導。第一に報恩感謝の思いで、命ある限り広宣流布に生き抜く。第二にそれぞれが幸福の実証を示す。第三に広宣流布の後継者を育て残していくことが重要である、と訴えた。
 懇談会終了後、伸一は、山口市内を視察。サビエル記念聖堂を眺め、フランシスコ・ザビエルの日本での布教活動に思いをはせる。そして、世界広布のために死身弘法の信念に立つ、真の信仰者の育成を誓う。
 さらに伸一は、山口文化会館や徳山文化会館、防府会館を訪れ、一人一人の同志の心に不退の火をともしていった。

「薫風」の章
 

 5月22日、北九州文化会館での句碑の除幕で、山本伸一は、“先駆”の九州の使命は最後まで常に“先駆”であり続けることにあると語る。
 本部幹部会で司会を務めた福岡県男子部長との語らいから、司会の在り方、勤行の副導師の基本についても指導する。また、歯科医の青年たちを激励。翌23日は北九州での支部結成17周年を記念する勤行会へ。24日は福岡県の功労者追善法要に出席。その後、小倉南区の田部会館でメンバーと共に勤行し、励ます。
 25日、佐賀県を10年ぶりに訪問した伸一は、佐賀文化会館での懇談会に創価大学の現役生、卒業生の代表を招き、“皆が開拓者に!”と励ます。26日には佐賀文化会館の開館記念勤行会が行われた。伸一は明るく、晴れやかな集いにするために県長に歌を歌うことを提案。その後の懇談会でも、各部のリーダーを全力で激励する。
 懇談会が終わると、婦人部員との約束を果たすために、彼女の夫が営む理容店へ。誠実な伸一の姿を目の当たりにした夫は、やがて真剣に活動するように。伸一が行くところ、蘇生と歓喜のドラマが広がった。

 
「人材城」の章

 5月27日、山本伸一は、熊本文化会館へ。会館由来の碑等の除幕式から青年の育成を開始。幹部との懇談で、人材の根本要件は、広宣流布の師弟の道に生き抜く人であるとし、先輩幹部が実践をもって同志を触発していくことが大切であると述べた。
 翌28日の熊本文化会館の開館記念勤行会では、「人材の熊本」を合言葉に前進するよう指導する。
 夕刻の本部長らとの懇談会では、かつて伸一が熊本への第一歩をしるした三角の同志の活躍や、玉名の兄弟の宿命転換のドラマ、1963年(昭和38年)に集中豪雨に遭った五木の同志の奮闘の報告に耳を傾ける。伸一は、五木村に伝わる「五木の子守唄」から、子どもたちの幸福のために教育改革に立ち上がった牧口常三郎を思い、断じて不幸をなくそうというのが創価教育の原点であり、学会の心であると訴える。さらに、未入会の父がいる医学生を励ます。
 懇談会後も、城の石垣を例に、多彩な人材の育成と異体同心の団結によって、難攻不落の創価城ができると語る。翌29日、伸一は、熊本を出発するまでピアノを弾き、共に勤行するなど入魂の激励を重ねる。

 
【学会のシンボルマーク】

 1977年(昭和52年)3月19日、聖教新聞で、新時代を象徴する、八葉蓮華をデザインした創価学会の新しいシンボルマークが発表された。
 「八葉の花模様が、幾重にも広がりをみせる姿は『八とは色心を妙法と開くなり』(御書七四五ページ)の意義を踏まえ、一人一人の生命の仏界を開き顕し、また日蓮大聖人の妙法が未来永劫に世界を包んで流布していく様相を表象している」(「共戦」の章、106ページ)

 

山本伸一の激励行】
 
福島
福島文化会館(当時)の開館記念勤行会で、同志と万歳を(1977年3月11日)
福島文化会館(当時)の開館記念勤行会で、同志と万歳を(1977年3月11日)
 
山口
山口・防府会館を訪れ、オルガンで「熱原の三烈士」などを演奏し、激励した(同年5月21日)
山口・防府会館を訪れ、オルガンで「熱原の三烈士」などを演奏し、激励した(同年5月21日)
 
福岡
北九州訪問を終え、出発する間際まで、友に手を振る(同年5月25日、福岡の北九州文化会館<当時>で)
北九州訪問を終え、出発する間際まで、友に手を振る(同年5月25日、福岡の北九州文化会館<当時>で)
 
佐賀
未来部員に万感の励ましを送る(同年5月26日、佐賀文化会館で)
未来部員に万感の励ましを送る(同年5月26日、佐賀文化会館で)
 
熊本
「太平洋のような大きな心で信心に励んでください」とあいさつし、「荒城の月」等を奏でた(同年5月29日、熊本文化会館で)
「太平洋のような大きな心で信心に励んでください」とあいさつし、「荒城の月」等を奏でた(同年5月29日、熊本文化会館で)
【九州の句碑】
 
北九州平和会館にある句碑
北九州平和会館にある句碑
 

 1977年(昭和52年)5月22日、北九州文化会館(現・北九州平和会館)の庭で、句碑の除幕が行われた。
 碑に刻まれた「九州が ありて二章の 船出かな」との句は、73年(同48年)3月21日に開催された第1回「九州青年部総会」を記念して、池田先生が詠んだ。総会終了後、先生は「学会の原型は九州にある。九州から新風を起こして、学会を守り支えてください」と期待を語った。

 

【山口開拓指導】
 
山口開拓指導の陣頭指揮を執る若き日の池田先生(1956年11月16日、山口・柳井市内で)
山口開拓指導の陣頭指揮を執る若き日の池田先生(1956年11月16日、山口・柳井市内で)
 

 1956年(昭和31年)10月、11月、翌57年(同32年)1月の3度にわたって展開された「山口開拓指導」。延べ22日間で、山口の会員世帯数を約10倍にする弘教を達成した。
 「共戦」の章では、「戸田城聖と伸一の師弟の魂の結合、さらに、伸一を中心とした同志の結合――それが、あの山口開拓指導の大勝利を打ち立てたのだ」(174ページ)など、「山口開拓指導」の魂がつづられている。

 

 

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本部幹部会への池田先生のメッセージ 2020年11月2日

2020年11月02日 | 妙法

 本部幹部会への池田先生のメッセージ 2020年11月2日

2009年11月の本部幹部会でスピーチする池田先生(八王子市の東京牧口記念会館で)
2009年11月の本部幹部会でスピーチする池田先生(八王子市の東京牧口記念会館で)
 
我らは「時」にめぐり合った家族

 一、戸田先生は、「時にあい、時にめぐりあって、その時にかなうということは、生まれてきたかいのあるものであります」と、「時にめぐりあう喜び」を語られました。
 
 今、私たちが「創立90周年」という不思議な時にめぐりあい、共々に祝賀できることは、この上ない喜びであり、誉れであります。
 
 日本全国、全世界の尊き貴き創価家族の一人一人に、私は満腔の感謝を捧げたい。とともに、この90年、広宣流布の陣列に連なり、亡くなられた全ての同志、ご家族、友人方へ、追善の題目を懇ろに送らせていただきます。
 

 

1985年に牧口先生をしのしたためた一書
1985年(昭和60年)、池田先生が殉教の牧口先生を偲び、認めた「大心」の書。脇書には「創立五十五年 記念として」と
1985年(昭和60年)、池田先生が殉教の牧口先生を偲び、認めた「大心」の書。脇書には「創立五十五年 記念として」と

一、今日は、35年前の1985年、創立55周年を記念して、殉教の牧口先生を偲び、認めた一書を贈りたい。
 
 「大心」――「大きな心」「大いなる心」という書であります。
 
 戦乱と貧困と病苦の渦巻く時代に、牧口先生は叫ばれました。
 「宗教革命によって心の根底から建て直さなければ、一切の人間社会の混乱は永久に治めることができない」と。
 
 そして、日蓮仏法を高らかに掲げて、民衆の「心」に、限りなき勇気と智慧と慈悲の太陽を一人また一人と昇らせていかれました。
 
 牧口先生は、軍部政府の弾圧で3畳の狭く寒い独房に囚われても「心一つで地獄にも楽しみがあります」と記されております。
 
 まさに「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(御書1448ページ)との御聖訓さながらの大闘争でありました。
 
 どんな試練があろうとも、妙法と共に一切を変毒為薬して、大きく強く、賢く明るく、自在に価値を創造していく「創価の大心」を、創立の先師は命を賭して、後継の弟子に示し託してくださったのであります。
 

 
しんせんな価値創造こそ創価の生命
大串女子部長が、新たな青年学会建設の10年を勝ち開く「新・人間革命」世代の決意を述べた(広宣流布大誓堂で)
大串女子部長が、新たな青年学会建設の10年を勝ち開く「新・人間革命」世代の決意を述べた(広宣流布大誓堂で)

一、明年は、牧口先生の生誕満150年、戸田先生の会長就任70周年であり、平和と幸福の太陽たる婦人部、また全世界に連帯を広げた本門の地涌たる男女青年部の結成70周年でもあります。
 
 さらに牧口・戸田両先生の悲願であった創価大学は創立50周年、そして共に21世紀の希望の光と輝くアメリカ創価大学も開学20周年を迎えます。
 
 「妙とは蘇生の義」(同947ページ)と仰せの通り、創価の生命は、いつでも、どこでも、生き生きと若々しく、新鮮な価値創造の前進であり、開拓であります。
 
 そこで、幾重にも意義深き「希望・勝利の年」の1月の本部幹部会は、心機一転、創立100周年へ向けての「第1回」として新出発することを提案したいけれども、みんな、どうだろうか!(大拍手)
 

 
立正安国のせいがんへ異体同心で
晴れやかな青空のもと、広宣流布大誓堂に集う青年部の代表ら
晴れやかな青空のもと、広宣流布大誓堂に集う青年部の代表ら

 一、さらに明年は、御本仏・日蓮大聖人の御聖誕800年であります。
 
 大聖人は、「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(同1351ページ)と宣言されました。
 
 我らは大聖人の正統として、大地も大空も、大海原も太陽も、大宇宙までも包みゆく「大きな心」で、広宣流布・立正安国という最も気高く最も大きな祈りを貫き通し、一つ一つ誓願を叶えてまいりたい。
 

 

「歓喜の中の大歓喜」を自他共に

 法のため、友のため、社会のために大きく悩み、苦労して戦った分、大きく心の財を積み、「歓喜の中の大歓喜」の大境涯を自他共に開いてゆけるのが、人間革命のドラマであります。
 
 我ら創価の師弟は、桜梅桃李の一人一人を励まし照らす異体同心の団結で、苦難に立ち向かう地球社会に「大いなる希望」を贈り、人類の宿命転換という「大いなる心の勝利」へ勇猛精進することを朗らかに決意し合っていこうではありませんか!
 
 全宝友の健康長寿と和楽安穏、福徳無量をひたぶるに祈り、題目を送ります。みな、お元気で!(大拍手)

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【ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】第1回 ネルソン・マンデラ

2020年11月01日 | 妙法

【ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】第1回 ネルソン・マンデラ  2020年11月1日

南アフリカの大統領に就任し、来日したマンデラ氏と、池田先生が再会。両者の会見は5年ぶり2度目となった(1995年7月5日、東京・迎賓館で)
南アフリカの大統領に就任し、来日したマンデラ氏と、池田先生が再会。両者の会見は5年ぶり2度目となった(1995年7月5日、東京・迎賓館で)

 池田大作先生は述べている。「歴史を繙き、歴史に学んでこそ、人類の未来に平和があり、勝利があり、栄光の軌道が開けてくる」と。新連載「ヒーローズ」では、逆境を勝ち越えた世界の英雄たちの人生や言葉、その生き方を通じて池田先生が贈った指針から、未来を開くヒントを探る。第1回は南アフリカのネルソン・マンデラ氏。
 

 

〈マンデラ氏〉
新しい世界を勝ち取るのは腕組みして傍観する者ではない。
愚弄されてもくじけない人に、栄誉は与えられる。
 

 獄中生活の過酷さは、経験した者でなければ分からない。それが27年半、日数にして1万日にも及んだ――反アパルトヘイト(人種隔離)運動を率いたマンデラ氏の投獄期間である。
 
 独房は、歩いて3歩ほどの狭さ。体を伸ばすこともできず、向こうが透けて見える薄い毛布で酷寒の夜をしのいだ。孤独から房内の虫に話し掛けようとしたこともあった。「一時間が一年にも感じられた」という。
 
 家族や同志は迫害され、母の病死、長男の事故死を塀の中で知った。嘆願した葬儀への参列も、かなうことはなかった。
 
 だが、言語に絶する地獄のような苦しみを味わっても、氏は希望を失わなかった。全ての人種が平等に暮らせる「虹の国」を築く――心には大いなる理想の炎が燃え続けていた。「自分の信念の正しさを信じ、信念のために闘いなさい」――母の励ましの手紙にも支えられた。
 
 獄中で氏はつづっている。
 
 「新しい世界を勝ち取るのは腕組みして傍観する者ではなく、闘技場に立ち、嵐に服をずたずたにされ、闘いの過程で重傷を負った者なのです」
 
 「愚弄されても、屈辱を受けても、敗北を喫してもくじけない人に、栄誉は与えられます」
 
 氏の静かなる闘争は、同胞を奮い立たせた。それはやがて国際社会をも動かし、アパルトヘイト撤廃への潮流は大きなうねりとなっていった。
 
 そして1990年2月11日。ついに釈放の日がやって来た。
 
 奇しくもその日は、第2代会長・戸田城聖先生の誕生日だった。池田先生は、交友録にこう記した。「南アの『夜明け』に喝采を送りながら、私は同じく巌窟王であった恩師を偲んだ」
 

 

〈マンデラ氏〉
どんな相手でも、考え方は変わる。
だから、あらゆる手段を尽くして揺り動かしていくべきなのだ。
 

 マンデラ氏にとって“闘争”は、釈放されてからが本番だった。収監当時、働き盛りの44歳だった年齢は70歳を過ぎていた。
 
 人種対立は深刻の度を増し、暴力が激化するなど、課題は山積み。黒人の復讐が始まるとの懸念が広がったが、氏は対話の力で融和の道を探った。
 
 「どんな相手でも、たとえ看守だろうと、考えかたが変わる余地はあるのだから、あらゆる手段を尽くして揺り動かしていくべきなのだ」――これが監獄の中で培った氏の確信であった。
 
 粘り強い対話の末、1991年にアパルトヘイト関連法が廃止に。94年には南アフリカ初の全人種参加の選挙が実施され、マンデラ氏が大統領に選出される。氏は就任式で訴えた。
 
 「絶対に、二度とふたたび、この美しい国で、人が人を抑圧するようなことがくり返されてはなりません」
 
 “交渉による革命”は成し遂げられた。しかし、人種間にはぬぐいがたい不信が残ったままだった。そこで氏は、黒人解放運動のシンボルである歌とアパルトヘイト時代の国歌をつなぎ合わせた新国歌の作成や、新たな国旗の制定など「あらゆる手段」を講じていく。

 

大統領として、ラグビーワールドカップに挑む南アの代表選手を激励するマンデラ氏。チームの帽子をかぶり、力強く握手(95年5月、AFP=時事)
大統領として、ラグビーワールドカップに挑む南アの代表選手を激励するマンデラ氏。チームの帽子をかぶり、力強く握手(95年5月、AFP=時事)

その一つの成果が、95年に開催されたラグビーワールドカップの南アフリカ大会である。
 
 同国においてラグビーは「白人のスポーツ」。「スプリングボクス」の愛称で親しまれる代表チームは、それまではアパルトヘイトの象徴でもあった。
 
 氏はチームカラーの“緑と黄金色”の帽子をかぶり、最前線で応援した。代表のスローガンは「一つのチーム、一つの国」。その人気は勝ち進むにつれ、人種を問わず高まっていく。試合の日には“黒人居住区でも人影が消える”といわれるほど、多くの国民がテレビの前で声援を送った。
 
 迎えた決勝戦。スプリングボクスは強豪ニュージーランドに競り勝ち、初優勝を飾る。スタジアムでは至る所で新国旗が振られ、新国歌が高らかに歌われた。白人と黒人が一つになった大会は、「虹の国」実現への確かな一歩となった。
 

 

〈マンデラ氏を語る池田先生〉
人生には、思うにまかせぬ境遇に立たされる時が幾たびもある。
嘆かず、腐らず、焦らず、「じっとこらえて今に見ろ」と不屈の旗を振り通していくことだ。
〈マンデラ氏を語る池田先生〉

 池田先生に会うために、マンデラ氏が東京・信濃町の旧・聖教新聞本社を訪れたのは、1990年10月31日。釈放から8カ月後のことであり、会見は氏のたっての願いだった。
 
 先生と共に500人の青年が歓迎し、創価大学生の代表が高らかに叫んだ。「アマンドラ・ンガウェトゥ!(民衆に力を!)」――それは、人種差別の壁を打ち破った南アの人々の合言葉。そして「ロリシャシャ・マンデラよ……」と、同国の愛唱歌の大合唱が始まった。氏は驚き、満面に笑みを浮かべた。
 
 5年後の95年7月、氏は大統領として来日。池田先生と再会を果たしている。
 
 2度の会見は「教育」と「後継」が焦点に。「一本の高い樹だけではジャングルはできません。他の多くの木々が同じような高さまで伸びて、大きな森の茂みができあがる」。先生が訴えると、氏は深く頷いた。

 

池田先生が500人の青年と共に、人権の闘士・マンデラ氏を歓迎。創大生が歌う南アフリカの愛唱歌に“マンデラ・スマイル”が輝いた(1990年10月31日、旧・聖教新聞本社で)
池田先生が500人の青年と共に、人権の闘士・マンデラ氏を歓迎。創大生が歌う南アフリカの愛唱歌に“マンデラ・スマイル”が輝いた(1990年10月31日、旧・聖教新聞本社で)

 氏の言葉や生き方を通し、先生は友に語り残してきた。
 
 「マンデラ氏は、身近なところから、敵をも味方にしていったのである。地道といえば、じつに地道である。しかし、こうした地道な対話のなかにこそ、勝利の栄光は築かれていく。牧口先生、戸田先生もまた、獄中にあって、果敢に仏法を語られた。そして、看守や検事にも、仏縁を広げられた」(95年6月12日、栃木・茨城代表協議会でのスピーチ)
 
 「人生の行路にあっては、思うにまかせぬ境遇に立たされる時が幾たびもあります。その時が勝負です。嘆かず、腐らず、焦らず、『じっとこらえて今に見ろ』と不屈の旗を振り通していくことです。必ず、そこから反転攻勢の流れを起こせるからです」(2012年3月21日、創価大学・女子短大卒業式へのメッセージ)
 
 大いなる理想がある限り、いつでもどこでも、何歳からでも、希望を紡ぎ出すことはできる。巌窟王の不屈の歩みは、それを私たちに教えてくれている。
 
 ――90年の訪日で最もうれしかったのは「池田SGI会長にお会いしたことです」と語った氏。そして、言葉を継いだ。
 
 「その際、若い学生の方々らが温かく迎えてくださり、歌まで歌ってくださった。私は、27年間、囚われの身で戦ってきましたが、“これで、その努力が報われた”と思いました」
 
 忘れ得ぬ出会いから30年。昨日が、その記念日である。 

 

 【引用・参考】『ネルソン・マンデラ 私自身との対話』長田雅子訳(明石書店)、『ネルソン・マンデラ自伝 自由への長い道㊤㊦』東江一紀訳(NHK出版)、『ネルソン・マンデラ 闘いはわが人生』浜谷喜美子訳(三一書房)、ジョン・カーリン著『インビクタス 負けざる者たち』八坂ありさ訳(NHK出版)、池田大作著『私の世界交友録』(『池田大作全集』第122巻所収)、映画「インビクタス/負けざる者たち」クリント・イーストウッド監督、映画「マンデラの名もなき看守」ビレ・アウグスト監督、ほか

 

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 【メール】 kansou@seikyo-np.jp
 【ファクス】 03―5360―9613

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