毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

〈池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞く〉第1回 未曽有の世界広宣流布㊤

2020年03月23日 | 妙法

〈池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞く〉第1回 未曽有の世界広宣流布㊤  2020年3月23日

  • 初代・二代の構想を「わが使命」と誓願
  • 日蓮仏法が地球を照らす時代に
  • 初代・二代の構想を「わが使命」と誓(せい)願(がん)
  • 日蓮仏法が地球を照(て)らす時代に
池田先生の会長就任60周年へ!――原田会長と語らう、西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長(13日、学会本部別館)
池田先生の会長就任60周年へ!――原田会長と語らう、西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長(13日、学会本部別館)
池田先生の会長就任60周年へ!――原田会長と語らう、西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長(13日、学会本部別館)

 1960年(昭和35年)5月3日、池田大作先生が創価学会第3代会長に就任されてから、本年で60年の佳節を迎える。この60年、学会は先生の死身弘法の闘争により、世界宗教へと大きく飛躍を遂げた。目前に控えた「5・3」へ、長年にわたり、先生のもとで行動してきた原田会長に、青年部各部の部長が聞いた。

 1960年(昭和35年)5月3日、池田大作先生が創価学会第3代会長に就(しゅう)任(にん)されてから、本年で60年の佳(か)節(せつ)を迎(むか)える。この60年、学会は先生の死(し)身(しん)弘(ぐ)法(ほう)の闘(とう)争(そう)により、世界宗教へと大きく飛(ひ)躍(やく)を遂(と)げた。目(もく)前(ぜん)に控(ひか)えた「5・3」へ、長年にわたり、先生のもとで行動してきた原田会長に、青年部各部の部長が聞いた。

宗祖の御遺命を現実に
宗(しゅう)祖(そ)の御(ご)遺(ゆい)命(めい)を現実に

 ◆西方 第1回の今回は「世界広宣流布」について伺います。
 1954年夏、故郷である北海道の厚田を訪れた戸田先生は池田先生に語られます。
 「ぼくは、日本の広宣流布の盤石な 礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ」
 ご逝去直前には、「メキシコに行った夢を見たよ。みな待っていてくれた」と言われます。池田先生にとって世界広布は、師匠の構想を現実のものにする闘争であったと思います。
  
 ◇原田 「世界広宣流布」は日蓮大聖人の御遺命であり、大聖人正統の教団である創価学会の使命です。そして創価三代の会長、なかんずく池田先生の身命を賭した戦いがあったからこそ、仏教史上初めて現実のものとなったのです。
 戸田先生は第2代会長に就任した翌52年の正月、「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」と詠まれました。1カ月後の男女合同青年部研究発表会では初めて、「地球民族主義」との理念を発表されています。日本国内にわずかな学会員しかいない時代から、戸田先生は明確に世界広布、世界平和の実現を考えられていたのです。
 それは、牧口先生の教えによるものでもありました。軍部政府下において牧口先生は、機関紙「価値創造」で“妙法こそ、世界の人類が等しく渇望する「無上最大の生活法」であり、「成仏の法」である。この偉大な力を、我々同志の実験によって証明し、誰にもたやすく分かるようにするのだ。そして、その功徳を普く施して、一切衆生を無上最高の幸福へ至らしめるまで、前進していこうではないか”と訴えられています。
 1953年11月18日、牧口先生の十回忌に際し、『価値論』が再版されます。「牧口常三郎著 遺弟戸田城聖補訂」と記されたこの本を、戸田先生は“世界の大学・研究機関に送ろう”と言われ、池田先生を中心に準備が進められました。そして、約50カ国422の大学・研究機関へと送られたのです。
 こうした戸田先生の世界広布の構想を誰よりも真剣に受け止め、実現を誓われたのが池田先生です。だからこそ、会長就任式の壇上には、「いざ往かん――」との戸田先生の和歌が掲げられたのです。
 宗祖の御遺命であり、初代、第2代会長の熱願であった世界広宣流布を「わが使命」と決めた「誓い」から、池田先生の60年はスタートしました。
  
 ◆樺澤 小説『新・人間革命』第1巻「旭日」の章には、「伸一は、戸田城聖に、世界の広宣流布を使命として託された日から、やがて、海外で直面するであろう諸問題について思いをめぐらし、その一つ一つについて、熟慮に熟慮を重ねてきたのである。(中略)彼の胸中には、既に世界広布の壮大にして精緻な未来図が、鮮やかに描かれていた」と記されています。
  
 ◇原田 先生は第3代会長に就任された年の10月から、7年間で計13度も海外を訪問されています。それは、アメリカから始まり、北・南米、アジア、欧州、オセアニアと各地にわたります。
 この時期は、世界宗教への第一歩をしるされ、助走を始めた期間と位置づけられると思います。小説『新・人間革命』にも記されている通り、最初の訪問地となったハワイをはじめ、行く先々で先生は、大地に染み込ませるように題目を唱えていきます。61年のイタリア訪問の折には、古代ローマの遺跡を見ながら、「ローマの 廃墟に立ちて 吾思う 妙法の国 とわにくずれじ」と詠まれました。“繁栄を誇ったローマ帝国は滅びたが、私たちは永遠に崩れない妙法の国を建設するのだ”――そう決意を深めながらの闘争であったと拝察されます。
  
 ◆樺澤 原田会長が初めて、池田先生の海外訪問に同行したのはいつでしょうか。その際、先生からは、どのような指導がありましたか。
  
 ◇原田 72年4月です。先生から「具体的な計画は全面的に任せるから」とのお話をいただき、緊張しながら、必死でスケジュールづくりなどの準備に当たったことは忘れられません。
 当時、先生は67年半ばからの5年で、「七つの鐘」のうち、第六の鐘が鳴り終わる72年に向かって、日本の広宣流布の基盤を完成させようと全国を駆け巡られていました。そして72年、イギリスでのトインビー博士との対談をはじめ、フランス、アメリカへと渡られるのです。
 羽田空港から経由地のソ連(当時)のシェレメチェボ空港を目指した機中でのことです。先生は「私が最初、海外指導に出掛けた時は、胸のポケットに、戸田先生の遺影をしのばせていたんだ」と話してくださいました。“いつ、どこにあっても、池田先生は戸田先生と共にあるんだ”と強く心に刻みました。

 ◆西方 第1回の今回は「世界広宣流布」について伺(うかが)います。
 1954年夏、故郷である北海道の厚田を訪(おとず)れた戸田先生は池田先生に語られます。
 「ぼくは、日本の広宣流布の盤(ばん)石(じゃく)な 礎(いしずえ)をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ」
 ご逝(せい)去(きょ)直前には、「メキシコに行った夢を見たよ。みな待っていてくれた」と言われます。池田先生にとって世界広布は、師匠の構想を現実のものにする闘(とう)争(そう)であったと思います。
  
 ◇原田 「世界広宣流布」は日蓮大聖人の御(ご)遺(ゆい)命(めい)であり、大聖人正(せい)統(とう)の教団である創価学会の使命です。そして創価三代の会長、なかんずく池田先生の身命を賭(と)した戦いがあったからこそ、仏教史上初めて現実のものとなったのです。
 戸田先生は第2代会長に就(しゅう)任(にん)した翌52年の正月、「いざ往(ゆ)かん 月(がっ)氏(し)の果(はて)まで 妙法を 拡(ひろ)むる旅に 心勇(いさ)みて」と詠(よ)まれました。1カ月後の男女合同青年部研究発表会では初めて、「地球民族主義」との理(り)念(ねん)を発表されています。日本国内にわずかな学会員しかいない時代から、戸田先生は明確に世界広布、世界平和の実現を考えられていたのです。
 それは、牧口先生の教えによるものでもありました。軍部政府下において牧口先生は、機関紙「価値創(そう)造(ぞう)」で“妙法こそ、世界の人類が等(ひと)しく渇(かつ)望(ぼう)する「無(む)上(じょう)最大の生活法」であり、「成(じょう)仏(ぶつ)の法」である。この偉(い)大(だい)な力(ちから)を、我(われ)々(われ)同志の実験によって証明し、誰(だれ)にもたやすく分かるようにするのだ。そして、その功(く)徳(どく)を普(あまね)く施(ほどこ)して、一(いっ)切(さい)衆(しゅ)生(じょう)を無上最高の幸福へ至(いた)らしめるまで、前進していこうではないか”と訴(うった)えられています。
 1953年11月18日、牧口先生の十回忌(き)に際し、『価値論』が再版されます。「牧口常三郎著(ちょ) 遺(ゆい)弟(てい)戸田城聖補(ほ)訂(てい)」と記(しる)されたこの本を、戸田先生は“世界の大学・研究機関に送ろう”と言われ、池田先生を中心に準備が進められました。そして、約50カ国422の大学・研究機関へと送られたのです。
 こうした戸田先生の世界広布の構想を誰(だれ)よりも真(しん)剣(けん)に受け止め、実現を誓(ちか)われたのが池田先生です。だからこそ、会長就(しゅう)任(にん)式(しき)の壇(だん)上(じょう)には、「いざ往(ゆ)かん――」との戸田先生の和歌が掲(かか)げられたのです。
 宗(しゅう)祖(そ)の御(ご)遺(ゆい)命(めい)であり、初代、第2代会長の熱(ねつ)願(がん)であった世界広宣流布を「わが使命」と決めた「誓(ちか)い」から、池田先生の60年はスタートしました。
  
 ◆樺澤 小説『新・人間革命』第1巻「旭(きょく)日(じつ)」の章には、「伸一は、戸田城聖に、世界の広宣流布を使命として託(たく)された日から、やがて、海外で直面するであろう諸(しょ)問(もん)題(だい)について思いをめぐらし、その一つ一つについて、熟(じゅく)慮(りょ)に熟慮を重(かさ)ねてきたのである。(中略)彼(かれ)の胸(きょう)中(ちゅう)には、既(すで)に世界広布の壮(そう)大(だい)にして精(せい)緻(ち)な未来図が、鮮(あざ)やかに描(えが)かれていた」と記されています。
  
 ◇原田 先生は第3代会長に就(しゅう)任(にん)された年の10月から、7年間で計13度も海外を訪(ほう)問(もん)されています。それは、アメリカから始まり、北・南米、アジア、欧(おう)州(しゅう)、オセアニアと各地にわたります。
 この時期は、世界宗教への第一歩をしるされ、助走を始めた期間と位置づけられると思います。小説『新・人間革命』にも記されている通り、最初の訪(ほう)問(もん)地(ち)となったハワイをはじめ、行く先々で先生は、大地に染(し)み込(こ)ませるように題目を唱(とな)えていきます。61年のイタリア訪(ほう)問(もん)の折には、古代ローマの遺(い)跡(せき)を見ながら、「ローマの 廃(はい)墟(きょ)に立ちて 吾(われ)思う 妙法の国 とわにくずれじ」と詠(よ)まれました。“繁(はん)栄(えい)を誇(ほこ)ったローマ帝(てい)国(こく)は滅(ほろ)びたが、私たちは永遠に崩(くず)れない妙法の国を建設するのだ”――そう決意を深めながらの闘(とう)争(そう)であったと拝(はい)察(さつ)されます。
  
 ◆樺澤 原田会長が初めて、池田先生の海外訪(ほう)問(もん)に同行したのはいつでしょうか。その際、先生からは、どのような指導がありましたか。
  
 ◇原田 72年4月です。先生から「具体的な計画は全面的に任(まか)せるから」とのお話をいただき、緊(きん)張(ちょう)しながら、必死でスケジュールづくりなどの準備に当たったことは忘(わす)れられません。
 当時、先生は67年半(なか)ばからの5年で、「七つの鐘(かね)」のうち、第六の鐘が鳴り終わる72年に向かって、日本の広宣流布の基(き)盤(ばん)を完成させようと全国を駆(か)け巡(めぐ)られていました。そして72年、イギリスでのトインビー博士との対談をはじめ、フランス、アメリカへと渡(わた)られるのです。
 羽田空港から経由地のソ連(当時)のシェレメチェボ空港を目(め)指(ざ)した機中でのことです。先生は「私が最初、海外指導に出(で)掛(か)けた時は、胸(むね)のポケットに、戸田先生の遺(い)影(えい)をしのばせていたんだ」と話してくださいました。“いつ、どこにあっても、池田先生は戸田先生と共(とも)にあるんだ”と強く心に刻(きざ)みました。

1960年(昭和35年)5月3日、池田先生の創価学会第3代会長就任式。壇上には、戸田先生の和歌が墨痕鮮やかに。“先生! 先生の後を継いで、私は世界広布の旅路を征きます”と(内田健一郎作の油彩画)
1960年(昭和35年)5月3日、池田先生の創価学会第3代会長就任式。壇上には、戸田先生の和歌が墨痕鮮やかに。“先生! 先生の後を継いで、私は世界広布の旅路を征きます”と(内田健一郎作の油彩画)
1960年(昭和35年)5月3日、池田先生の創価学会第3代会長就任式。壇上には、戸田先生の和歌が墨痕鮮やかに。“先生! 先生の後を継いで、私は世界広布の旅路を征きます”と(内田健一郎作の油彩画)
勇気と希望送る 新たな闘争開始
勇気と希望送る 新たな闘(とう)争(そう)開始

 ◆林 その72年4月から75年7月まで続く計12回の海外訪問では、SGI(創価学会インタナショナル)の発足という、今も燦然と輝く世界平和への大絵巻が繰り広げられます。当時のことを教えていただけますか。
  
 ◇原田 70年、言論問題で学会は無理解の非難にさらされていました。そうした中にあって、“新たな広布の歩みを開始していこう。海外から日本の会員に勇気と希望を送っていこう!”――先生は、こう決意されていたのだと思います。
 72年5月には、トインビー博士との1度目の対談に臨まれます。これは69年に博士から、対談を希望する書簡が寄せられて実現したものです。
 先生は対談の1年以上前から、準備を始められていました。博士の著作を読み深めながら、質問や構成を考え抜かれていたのです。車での移動中や、そばにいる時など、「原田君はどういう質問がいいと思うか」とたびたび問われました。全魂を傾けての真剣勝負の気迫でした。それが今や世界29言語で出版され、多くの識者が“座右の書”“人類の教科書”と称賛する対談集へ結実したのです。
  
 ◆林 そして、池田先生は72年秋、「広布第2章」に入ったことを宣言されます。その後、トインビー博士との2度目の対談(73年5月)などを経て、74年5月の初訪中、9月の初訪ソ、12月の周恩来総理との会見へと続きます。
  
 ◇原田 75年の1月にはキッシンジャー博士との会見やSGIの発足式が行われ、同年4月には3度目の中国訪問、さらに5月にはフランスでローマクラブ創立者のペッチェイ博士や、作家のマルロー氏、美術史家のユイグ氏らとも会見されます。
 まさに、この3年間は、本格的な『世界広布の幕開け』の時代であり、先生の人間外交が見事なまでにダイナミックに展開された時でもありました。
 池田先生は日中関係が非常に厳しかった68年、学生部総会で「日中国交正常化提言」を発表されます(4年後に「国交正常化」が実現)。この提言と学会の民衆運動に着目し、評価していたのが周総理です。だからこそ、病身を押して、先生と会見されたのだと思います。
 当時は中ソの対立も激しく、一触即発の危機が憂慮されていました。74年、先生の初訪中に同行した際、中学校の教員、生徒らが、“隣国の超大国に備えています”と、地下に防空壕を掘っている現場も見ました。
 こうした状況を見聞きして先生の胸中には、“絶対に戦争を起こさせない”との強い強い決意が深まったのだと思います。
 約3カ月後、ソ連のコスイギン首相に会った際、先生は問い掛けます。「率直に伺いますが、ソ連は中国を攻めますか」
 すると首相は、「いいえ、攻撃するつもりはありません」と言われ、「それをそのまま、中国の首脳部に伝えてもいいですか」と先生が返されると、「伝えてくださって結構です」との返答がありました。
 それから約3カ月後の2度目の訪中の折、先生は中国首脳にその話を伝えました。
 この第2次訪中の最後に、病床にあった周総理は、周囲の反対を押し切って、入院先の病院で、池田先生、奥さまと会見されるわけです。それは、日中友好の万代にわたる契りを結ぶ語らいとなりました。
  
 ◆西方 こうした先生の行動について、南開大学周恩来研究センターの所長を務めた孔繁豊氏は、「周総理はこの情報を知り、非常に重視したと私は分析している。当時、国内の激動の政治状況の中、周総理は『四つの現代化』に取り組んでいた。この計画の実現には正確な国際情勢の判断が不可欠だった。その時、(池田)名誉会長を通じてソ連の態度を知り、周総理は『中ソ開戦はありえない』との確信を深め、国家の再建計画を大胆に実行することができたのだ」と語っています。
  
 ◇原田 実際、中国首脳の一人である鄧小平副首相(当時)の年譜を見ると、先生と会見した直後の12月中旬に病院へ見舞いに行き、周総理と懇談を重ねています。翌75年1月の全人代には、その周総理が病を押して出席し、「四つの現代化」の推進を提起しています。これが78年の鄧小平氏の「改革・開放」路線につながっていくのです。
 孔氏の分析にあったように、先生があの時、コスイギン首相の言葉を中国側に伝えられたことが、どれほど重要であったか。「四つの現代化」から「改革・開放」路線、その後の現代中国の大発展にいたる流れを見るときに、あの先生の中ソの“橋渡し”は、歴史の歯車を動かした「人間外交の真価」であるといっても過言ではないと思うのです。

 ◆林 その72年4月から75年7月まで続く計12回の海外訪(ほう)問(もん)では、SGI(創価学会インタナショナル)の発(ほっ)足(そく)という、今も燦(さん)然(ぜん)と輝(かがや)く世界平和への大(だい)絵(え)巻(まき)が繰(く)り広(ひろ)げられます。当時のことを教えていただけますか。
  
 ◇原田 70年、言論問題で学会は無理解の非(ひ)難(なん)にさらされていました。そうした中にあって、“新たな広布の歩(あゆ)みを開始していこう。海外から日本の会員に勇気と希望を送っていこう!”――先生は、こう決意されていたのだと思います。
 72年5月には、トインビー博士との1度目の対談に臨(のぞ)まれます。これは69年に博士から、対談を希望する書(しょ)簡(かん)が寄(よ)せられて実現したものです。
 先生は対談の1年以上前から、準備を始められていました。博士の著(ちょ)作(さく)を読み深めながら、質問や構成を考え抜(ぬ)かれていたのです。車での移動中や、そばにいる時など、「原田君はどういう質問がいいと思うか」とたびたび問(と)われました。全(ぜん)魂(こん)を傾(かたむ)けての真(しん)剣(けん)勝負の気(き)迫(はく)でした。それが今や世界29言語で出版され、多くの識者が“座(ざ)右(ゆう)の書(しょ)”“人類の教科書”と称(しょう)賛(さん)する対談集へ結(けつ)実(じつ)したのです。
  
 ◆林 そして、池田先生は72年秋、「広布第2章」に入ったことを宣(せん)言(げん)されます。その後、トインビー博士との2度目の対談(73年5月)などを経(へ)て、74年5月の初訪中、9月の初訪ソ、12月の周恩来総理との会見へと続きます。
  
 ◇原田 75年の1月にはキッシンジャー博士との会見やSGIの発(ほっ)足(そく)式(しき)が行われ、同年4月には3度目の中国訪(ほう)問(もん)、さらに5月にはフランスでローマクラブ創立者のペッチェイ博士や、作家のマルロー氏、美術史家のユイグ氏らとも会見されます。
 まさに、この3年間は、本格的な『世界広布の幕(まく)開(あ)け』の時代であり、先生の人間外交が見(み)事(ごと)なまでにダイナミックに展(てん)開(かい)された時でもありました。
 池田先生は日中関係が非常に厳(きび)しかった68年、学生部総会で「日中国交正常化提(てい)言(げん)」を発表されます(4年後に「国交正常化」が実現)。この提言と学会の民(みん)衆(しゅう)運動に着(ちゃく)目(もく)し、評価していたのが周総理です。だからこそ、病(びょう)身(しん)を押(お)して、先生と会見されたのだと思います。
 当時は中ソの対立も激(はげ)しく、一(いっ)触(しょく)即(そく)発(はつ)の危(き)機(き)が憂(ゆう)慮(りょ)されていました。74年、先生の初訪中に同行した際、中学校の教員、生徒らが、“隣(りん)国(ごく)の超(ちょう)大(たい)国(こく)に備(そな)えています”と、地下に防(ぼう)空(くう)壕(ごう)を掘(ほ)っている現場も見ました。
 こうした状(じょう)況(きょう)を見聞きして先生の胸(きょう)中(ちゅう)には、“絶対に戦争を起こさせない”との強い強い決意が深まったのだと思います。
 約3カ月後、ソ連のコスイギン首相に会った際、先生は問(と)い掛(か)けます。「率(そっ)直(ちょく)に伺(うかが)いますが、ソ連は中国を攻(せ)めますか」
 すると首相は、「いいえ、攻(こう)撃(げき)するつもりはありません」と言われ、「それをそのまま、中国の首(しゅ)脳(のう)部(ぶ)に伝えてもいいですか」と先生が返されると、「伝えてくださって結(けっ)構(こう)です」との返答がありました。
 それから約3カ月後の2度目の訪(ほう)中(ちゅう)の折、先生は中国首脳にその話を伝えました。
 この第2次訪中の最後に、病(びょう)床(しょう)にあった周総理は、周囲の反対を押し切って、入院先の病院で、池田先生、奥さまと会見されるわけです。それは、日中友好の万(ばん)代(だい)にわたる契(ちぎ)りを結(むす)ぶ語らいとなりました。
  
 ◆西方 こうした先生の行動について、南開大学周恩来研究センターの所長を務(つと)めた孔(こう)繁(はん)豊(ほう)氏は、「周総理はこの情報を知り、非常に重(じゅう)視(し)したと私は分(ぶん)析(せき)している。当時、国内の激(げき)動(どう)の政治状(じょう)況(きょう)の中、周総理は『四つの現代化』に取り組んでいた。この計画の実現には正確な国際情(じょう)勢(せい)の判断が不(ふ)可(か)欠(けつ)だった。その時、(池田)名誉会長を通じてソ連の態(たい)度(ど)を知り、周総理は『中ソ開(かい)戦(せん)はありえない』との確信を深め、国家の再(さい)建(けん)計画を大(だい)胆(たん)に実行することができたのだ」と語っています。
  
 ◇原田 実際、中国首脳の一人である鄧(とう)小(しょう)平(へい)副首相(当時)の年(ねん)譜(ぷ)を見ると、先生と会見した直後の12月中旬に病院へ見(み)舞(ま)いに行き、周総理と懇(こん)談(だん)を重(かさ)ねています。翌75年1月の全人代には、その周総理が病(やまい)を押(お)して出席し、「四つの現代化」の推(すい)進(しん)を提(てい)起(き)しています。これが78年の鄧小平氏の「改(かい)革(かく)・開(かい)放(ほう)」路線につながっていくのです。
 孔(こう)氏の分(ぶん)析(せき)にあったように、先生があの時、コスイギン首相の言葉を中国側に伝えられたことが、どれほど重要であったか。「四つの現代化」から「改(かい)革(かく)・開(かい)放(ほう)」路線、その後の現代中国の大(だい)発(はっ)展(てん)にいたる流れを見るときに、あの先生の中ソの“橋(はし)渡(わた)し”は、歴史の歯(は)車(ぐるま)を動かした「人間外交の真(しん)価(か)」であるといっても過(か)言(ごん)ではないと思うのです。

インド創価学会の新「本部」が完成(2019年9月)。世界広布の大河は今、192カ国・地域を潤す。日蓮大聖人が仰せの「地涌の義」を、創価学会が証明
インド創価学会の新「本部」が完成(2019年9月)。世界広布の大河は今、192カ国・地域を潤す。日蓮大聖人が仰せの「地涌の義」を、創価学会が証明
インド創価学会の新「本部」が完成(2019年9月)。世界広布の大河は今、192カ国・地域を潤す。日蓮大聖人が仰せの「地涌の義」を、創価学会が証明
自分こそが弟子 師弟の道を歩む
自分こそが弟子 師弟の道を歩(あゆ)む

 ◆大串 私は昨年9月、原田会長と一緒に、青年部の訪印団に参加しました。インド創価学会の、青年を先頭にした勢いある拡大の様子は、とても感動的で大きな示唆を受けました。また、創価菩提樹園や新本部のスケールの大きさは、日本の私たちには想像がつかないものでした。
  
 ◇原田 インドの大発展には目を見張るものがあります。
 今は23万人を超えるインド創価学会ですが、池田先生の初訪問(61年1月)の際、メンバーは一人もいませんでした。それでも先生は、東洋広布を熱願された戸田先生との誓いを胸に、「仏法西還」の決意をとどめようと訪印されました。そして、自分と同じ決意に生きる弟子よ「出でよ!」と心で叫ばれています。
 私は、池田先生の3度目のインド訪問(79年2月)に同行させてもらいましたが、この時、集まったメンバーは40人ほどでした。先生は、そのメンバーを「雄大にして悠久なるガンジス川の流れも、一滴の水から始まる。同じように皆さんは、インド広布の大河をつくる、源流の一滴、一滴となる方々です。洋々たる未来を信じて前進していっていただきたい」と大激励されます。
 この一人一人が、先生の指導をしっかりと受け止め、使命を自覚し、大河の流れをつくるべく奮闘して、今の礎を築くのです。その精神が、後継の青年たちに受け継がれます。
 つまり、“自分こそが先生の弟子として、広布を実現する!”との決意が、インド大発展の要因です。41年前、“ガンジスの一滴に”と励まされた草創の先輩と同じく、インドの青年部の一人一人が、「アイ アム シンイチ・ヤマモト!(私は山本伸一だ!)」、「アイ アム ザット ワン ディサイプル(私がその一人の弟子だ!)」の合言葉で前進しています。
 どこまでも、「師弟」です。師弟なくして、信心も広布もありません。インドの大発展が、それを証明しています。私たちも、“自分こそが先生の弟子である!”との決意で、生涯「師弟の道」を貫き通していきましょう。


学び続ける人は「聡明な人」 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2020年3月22日

2020年03月22日 | 妙法

学び続ける人は「聡明な人」 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2020年3月22日

 【写真の説明】青々と葉を茂らせて伸びる木々。1983年(昭和58年)6月、ルーマニアの首都ブカレストの市内で、池田大作先生がカメラに収めた。
 先生は同国に滞在中、名門ブカレスト大学で「文明の十字路に立って」と題し記念講演を。ロシア・モスクワ大学、フランス学士院など、これまで先生が行ってきた海外の大学・学術機関等での講演は32回に及ぶ。アメリカのコロンビア大学では「今の私の98%は、すべて、恩師より学んだものであります」と語った。
 私たちもまた、池田先生の精神闘争に連なる思いで、「学びの道」を朗らかに歩みゆこう。
 

 【写真の説明】青々と葉を茂(しげ)らせて伸(の)びる木々。1983年(昭和58年)6月、ルーマニアの首都ブカレストの市内で、池田大作先生がカメラに収(おさ)めた。
 先生は同国に滞在中、名門ブカレスト大学で「文明の十字路に立って」と題し記念講演を。ロシア・モスクワ大学、フランス学士院など、これまで先生が行(おこな)ってきた海外の大学・学術機関等での講演は32回に及(およ)ぶ。アメリカのコロンビア大学では「今の私の98%は、すべて、恩師より学んだものであります」と語った。
 私たちもまた、池田先生の精神闘(とう)争(そう)に連(つら)なる思いで、「学びの道」を朗(ほが)らかに歩(あゆ)みゆこう。
 

池田先生の言葉
池田先生の言葉

 学びゆく人は、強い。
 学び続ける人は、
 何ものも恐れない。
 だれびとにも臆さない。
 「学ぶ」というのは、
 人間がもてる一つの力である。
 ゆえに「学問は権利」だ。
 義務ではない。
 「学問は人生の光」である。
 そして
 「学問は、人生勝利の法則」だ。
  
 精神の大地を耕して、
 豊かな感情を培うには
 どうすればいいか。
 いろいろな方法があると思うが、
 私はその重要な一つとして、
 読書ということを提案したい。
 多くの書を読み、
 そこから思索を深めていく。
 読書と思索は、
 不可欠の精神の養分であり、
 偉大な自己を確立するための
 重要な柱である。
  
 何があろうが、太陽は毎日昇る。
 それと同じく、あせらず、休まず、
 堂々と、「努力」し抜いてほしい。
 努力また努力――そのなかに、
 創造力が、人格が、忍耐力が、
 挑戦が、生きゆく力がある。
  
 信念に生き抜く人に、後悔はない。
 いわんや、
 偉大な仏法を持った皆さんには、
 後悔なんて必要がない。
 仏法は、常に「さあ今から!」
 「これからだ!」と、
 前へ前へ進んでいく
 希望の哲学だからである。
  
 聡明な人間とは、
 生涯、学び続ける人である。
 旺盛な向上心、
 求道心をもった人である。
 日々、妙法を学び、
 実践する私たちは、
 最高に聡明な人生を生きていける。
 宇宙と生命を貫く法則を
 知っているからだ。
 「聡明」でいきましょう!


マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第2巻 マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第2巻 2020年3月21日

2020年03月21日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第2巻 マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第2巻 2020年3月21日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを、巻ごとに紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第2巻を掲載する。次回の第3巻は27日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激(げき)励(れい)・指導などを、巻ごとに紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第2巻を掲(けい)載(さい)する。次回の第3巻は27日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

師との絆が学会の強さ
師との絆(きずな)が学会の強さ

 <1960年(昭和35年)5月の女子部幹部会で、山本伸一は恩師・戸田城聖について語る>

 「(戸田)先生が、一人ひとりを励ますために、陰でどれほど心を砕いていたか計り知れない。生涯を通じて、連日、個人指導に何時間も時間を費やし、また、手紙で、電話で、あるいは人を介して、さまざまな指導、激励の手を差し伸べられた。先生に、直接、指導を受け、幸せになっていった人は、何万人にものぼります。
 つまり、一人ひとりが先生につながり、人間として、師匠として、敬愛していたから、皆が自主的に、喜び勇んで、広宣流布に挺身してきた。だからこそ、学会は、花のような明るい笑顔に包まれ、ここまで発展を遂げたんです。それが学会の強さの秘密です。学会は、信心を根本に、戸田先生との人間の絆で結ばれた、自立と調和の共同体であるといえましょう。
 その学会の真実を見極めようとせず、戸田先生のことを、命令一つで組織を動かすカリスマのように思っている。なかには、敢えてそのように喧伝し、学会の悪印象を植えつけようとするマスコミも一部にありました。
 戸田先生は、そうしたなかで、自分は凡夫であると言い切られた。それは、宗教の神秘主義、権威主義への挑戦です。また、大聖人の人間仏法の本義もそこにあります。
 戸田先生が、ご自身を“立派な凡夫”と言われた意味は、仏法のうえでも、深いものがあります。
 現実の振る舞いに即して“立派な凡夫”ということを論じれば、それは自己の人間完成に向かって、常に学び、磨き高めていく、向上、求道の生き方といえます」
 (「先駆」の章、27~28ページ)

 <1960年(昭和35年)5月の女子部幹部会で、山本伸一は恩師・戸田城聖について語る>

 「(戸田)先生が、一人ひとりを励(はげ)ますために、陰(かげ)でどれほど心を砕(くだ)いていたか計り知れない。生(しょう)涯(がい)を通じて、連日、個人指導に何時間も時間を費(つい)やし、また、手紙で、電話で、あるいは人を介(かい)して、さまざまな指導、激(げき)励(れい)の手を差(さ)し伸(の)べられた。先生に、直接、指導を受け、幸せになっていった人は、何万人にものぼります。
 つまり、一人ひとりが先生につながり、人間として、師(し)匠(しょう)として、敬(けい)愛(あい)していたから、皆(みな)が自主的に、喜び勇んで、広宣流布に挺(てい)身(しん)してきた。だからこそ、学会は、花のような明るい笑顔に包(つつ)まれ、ここまで発(はっ)展(てん)を遂(と)げたんです。それが学会の強さの秘(ひ)密(みつ)です。学会は、信心を根本に、戸田先生との人間の絆(きずな)で結ばれた、自(じ)立(りつ)と調(ちょう)和(わ)の共同体であるといえましょう。
 その学会の真実を見(み)極(きわ)めようとせず、戸田先生のことを、命令一つで組織を動かすカリスマのように思っている。なかには、敢(あ)えてそのように喧(けん)伝(でん)し、学会の悪印象を植えつけようとするマスコミも一部にありました。
 戸田先生は、そうしたなかで、自分は凡(ぼん)夫(ぷ)であると言い切られた。それは、宗教の神(しん)秘(ぴ)主義、権(けん)威(い)主義への挑(ちょう)戦(せん)です。また、大聖人の人間仏法の本(ほん)義(ぎ)もそこにあります。
 戸田先生が、ご自身を“立(りっ)派(ぱ)な凡夫”と言われた意味は、仏法のうえでも、深いものがあります。
 現実の振(ふ)る舞(ま)いに即(そく)して“立派な凡夫”ということを論(ろん)じれば、それは自(じ)己(こ)の人間完成に向かって、常に学び、磨(みが)き高めていく、向上、求(きゅう)道(どう)の生き方といえます」
 (「先(せん)駆(く)」の章、27~28ページ)

悩みは幸福へのステップ
悩(なや)みは幸福へのステップ

 <7月の婦人部大会で婦人部長の清原かつは、婦人の信心の在り方を訴える>

 「女子部の幹部の方たちに、どういう動機で信心をしたのかを尋ねてみました。すると、七人いた女子部員全員が、生活も大変ななかで、グチも文句も言わずに、いつも笑顔で頑張っている母親の姿を見て、信心をしてみようという気になったと言うのです。
 つまり、お母さんの強さや優しさ、また、すばらしさの源泉が、信心にあることに気づき、若い娘さんが信心を始めているのです。(中略)
 もう一つ申し上げておきたいことは、皆、それぞれに悩みを抱えていますが、その克服を自分の課題として、学会活動に励んでいこうということであります。たとえば、夫の仕事がうまくいかずに悩んでいるなら、今月は、それを願って一人の友人に信心を教えよう、何遍の唱題に挑戦しようというように、悩みを広宣流布の活動のバネにしていくことが大事ではないかと思います。
 広宣流布のために働き、祈るならば、必ず功徳があります。したがって、一つ一つの活動に自分の悩みをかけて、幸福へのステップとしていくことです。個人としての活動の意味が明確になれば、張り合いも生まれ、力も出ます。私たちは、全員が幸福という確かな道を、堂々と歩んでまいりましょう」
 (「錬磨」の章、93~94ページ)

 <7月の婦人部大会で婦人部長の清原かつは、婦人の信心の在(あ)り方(かた)を訴える>

 「女子部の幹部の方たちに、どういう動機で信心をしたのかを尋(たず)ねてみました。すると、七人いた女子部員全員が、生活も大変ななかで、グチも文句も言わずに、いつも笑顔で頑(がん)張(ば)っている母親の姿(すがた)を見て、信心をしてみようという気になったと言うのです。
 つまり、お母さんの強さや優(やさ)しさ、また、すばらしさの源(げん)泉(せん)が、信心にあることに気づき、若(わか)い娘(むすめ)さんが信心を始めているのです。(中略)
 もう一つ申し上げておきたいことは、皆(みな)、それぞれに悩(なや)みを抱(かか)えていますが、その克(こく)服(ふく)を自分の課題として、学会活動に励(はげ)んでいこうということであります。たとえば、夫の仕事がうまくいかずに悩んでいるなら、今月は、それを願って一人の友人に信心を教えよう、何(なん)遍(べん)の唱題に挑(ちょう)戦(せん)しようというように、悩みを広宣流布の活動のバネにしていくことが大事ではないかと思います。
 広宣流布のために働き、祈るならば、必ず功(く)徳(どく)があります。したがって、一つ一つの活動に自分の悩みをかけて、幸福へのステップとしていくことです。個人としての活動の意味が明確になれば、張り合いも生まれ、力(ちから)も出ます。私たちは、全員が幸福という確かな道を、堂々と歩んでまいりましょう」
 (「錬(れん)磨(ま)」の章、93~94ページ)

新入会の友を広布の人材に
新入会の友を広布の人材に

 <10月の本部幹部会で、伸一は折伏の目的と個人指導の重要性を確認>
 
 「折伏の目的は相手を幸せにすることであり、それには、入会後の個人指導が何よりも大切になります。皆さんが担当した地区、班、組のなかで、何人の人が信心に奮い立ち、御本尊の功徳に浴したか。それこそ、常に心しなければならない最重要のテーマです。
 本年は十二月まで折伏に励み、明年一月は『個人指導の月』とし、人材の育成に力を注いでいくことを発表して、私の本日の話といたします」
 弘教が広がれば広がるほど、新たに入会した友にも、信心指導の手が差し伸べられなければならない。
 信心をした友が、一人の自立した信仰者として、仏道修行に励めるようになってこそ、初めて弘教は完結するといってよい。
 三百万世帯に向かう“怒濤の前進”のなかで、その基本が見失われ、砂上の楼閣のような組織となってしまうことを、伸一は最も心配していたのである。
 また、世界広布といっても、今はその第一歩を踏み出したばかりであり、広漠たる大草原に、豆粒ほどの火がともされた状態にすぎない。それが燎原の火となって燃え広がるか、あるいは、雨に打たれて一夜にして消えてしまうかは、ひとえに今後の展開にかかっている。そのためにも、今なすべきことは、一人ひとりに信心指導の手を差し伸べ、世界広布を担う真金の人材に育て上げることにほかならなかった。
 (「勇舞」の章、176~177ページ)

 <10月の本部幹部会で、伸一は折(しゃく)伏(ぶく)の目的と個人指導の重要性を確(かく)認(にん)>
 
 「折伏の目的は相手を幸せにすることであり、それには、入会後の個人指導が何よりも大切になります。皆(みな)さんが担(たん)当(とう)した地区、班(はん)、組のなかで、何人の人が信心に奮(ふる)い立(た)ち、御本尊の功(く)徳(どく)に浴(よく)したか。それこそ、常に心しなければならない最重要のテーマです。
 本年は十二月まで折伏に励(はげ)み、明年一月は『個人指導の月』とし、人材の育成に力(ちから)を注(そそ)いでいくことを発表して、私の本日の話といたします」
 弘(ぐ)教(きょう)が広がれば広がるほど、新(あら)たに入会した友にも、信心指導の手が差(さ)し伸(の)べられなければならない。
 信心をした友が、一人の自立した信(しん)仰(こう)者(しゃ)として、仏道修行に励めるようになってこそ、初めて弘教は完結するといってよい。
 三百万世帯に向かう“怒(ど)濤(とう)の前進”のなかで、その基本が見失われ、砂(さ)上(じょう)の楼(ろう)閣(かく)のような組織となってしまうことを、伸一は最(もっと)も心配していたのである。
 また、世界広布といっても、今はその第一歩を踏(ふ)み出したばかりであり、広(こう)漠(ばく)たる大草原に、豆(まめ)粒(つぶ)ほどの火がともされた状態にすぎない。それが燎(りょう)原(げん)の火となって燃え広がるか、あるいは、雨に打たれて一(いち)夜(や)にして消えてしまうかは、ひとえに今後の展(てん)開(かい)にかかっている。そのためにも、今なすべきことは、一人ひとりに信心指導の手を差し伸べ、世界広布を担(にな)う真(しん)金(きん)の人材に育て上げることにほかならなかった。
 (「勇(ゆう)舞(まい)」の章、176~177ページ)

布教は最極の友情の証
布(ふ)教(きょう)は最(さい)極(ごく)の友情の証(あかし)

 <伸一は11月の女子部総会で、弘教に挑戦する友へ励ましを送る>
 
 「大聖人が、折伏をすれば宿命を転換し、成仏できると、お約束なさっている。ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうというのです。
 しかも、それが友を救い、社会の繁栄と平和を築く源泉となっていく。これほどの“聖業”はありません。
 なかには、一生懸命に弘教に励んでいても、なかなか実らないこともあるかもしれない。(中略)
 皆さんは、まだ若いのですから、決して、結果を焦る必要はありません。
 布教していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈愛の修行であるとともに、人びとを幸福と平和へと導きゆく、最極の友情の証なんです。
 大切なことは、“あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい”という心で、周囲の人に、折に触れ、仏法を語り抜いていくことです。今は信心しなくとも、こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目覚める時が来ます。
 また、幹部は、弘教が実らずに悩んでいる人を(中略)優しく包み、仏の使いとして、懸命に生きようとしている姿勢を讃え、励ましてあげていただきたい。
 さらに、いろいろな境遇や立場で、思うように活動に参加できない人もいるでしょう。そのメンバーに対しても、『必ず春が来るように、時間的にも余裕がもてる時が来るから、その時はいつでもいらっしゃい』と言って、温かく励ましてほしいのです」
 (「民衆の旗」の章、270~271ページ)

 <伸一は11月の女子部総会で、弘(ぐ)教(きょう)に挑(ちょう)戦(せん)する友へ励(はげ)ましを送る>
 
 「大聖人が、折(しゃく)伏(ぶく)をすれば宿命を転(てん)換(かん)し、成仏できると、お約束なさっている。ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうというのです。
 しかも、それが友を救い、社会の繁(はん)栄(えい)と平和を築(きず)く源(げん)泉(せん)となっていく。これほどの“聖(せい)業(ぎょう)”はありません。
 なかには、一(いっ)生(しょう)懸(けん)命(めい)に弘教に励んでいても、なかなか実らないこともあるかもしれない。(中略)
 皆(みな)さんは、まだ若(わか)いのですから、決して、結果を焦(あせ)る必要はありません。
 布(ふ)教(きょう)していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈(じ)愛(あい)の修行であるとともに、人びとを幸福と平和へと導(みちび)きゆく、最(さい)極(ごく)の友情の証(あかし)なんです。
 大切なことは、“あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい”という心で、周囲の人に、折に触(ふ)れ、仏法を語り抜(ぬ)いていくことです。今は信心しなくとも、こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目(め)覚(ざ)める時が来ます。
 また、幹部は、弘教が実らずに悩(なや)んでいる人を(中略)優(やさ)しく包(つつ)み、仏の使いとして、懸命に生きようとしている姿(し)勢(せい)を讃(たた)え、励ましてあげていただきたい。
 さらに、いろいろな境(きょう)遇(ぐう)や立場で、思うように活動に参加できない人もいるでしょう。そのメンバーに対しても、『必ず春が来るように、時間的にも余(よ)裕(ゆう)がもてる時が来るから、その時はいつでもいらっしゃい』と言って、温かく励ましてほしいのです」
 (「民(みん)衆(しゅう)の旗(はた)」の章、270~271ページ)

歓喜の体験談に創価の実像
歓喜の体験談に創価の実(じつ)像(ぞう)

 <12月に開催された大分支部結成大会では、感動的な体験発表が行われた>

 最後に辻堂糸子は、しみじみとした口調で語った。
 「私は学問もないし、誇れるもんはなんもありません。ただ信心だけは素直にやってきました。それで、自分でも信じられんぐらい、幸せになっちょります。御本尊様に不可能はないちゅうことです。その信心を教えてもろうた学会に、心から感謝しちょります」(中略)
 辻堂は、壇上で万雷の拍手に包まれながら、山本伸一の方を見た。目と目が合うと、伸一は大きく頷きながら、祝福の拍手を送り続けた。
 体験発表とは、見方によっては、自分の過去の恥を暴露することともいえる。しかし、その体験談が学会の随所で、喜々として語られているのは、それに勝る苦悩を克服した喜びがあるからだ。そして、同じように苦悩を抱えている人びとに対して、早く幸せになってほしいという、慈愛の発露にほかならない。さらに、どんなに自分の過去をさらけ出しても、それによって、蔑まれたり、差別されることはないという信頼の絆があってこそ、成り立つものといえよう。
 ともあれ、無名の民衆が織り成す人生の凱歌の姿のなかにこそ、日蓮仏法の偉大なる法理の証明があり、創価学会の実像がある。
 (「民衆の旗」の章、307~308ページ)

 <12月に開催された大分支部結成大会では、感動的な体験発表が行われた>

 最後に辻堂糸子は、しみじみとした口(く)調(ちょう)で語った。
 「私は学問もないし、誇(ほこ)れるもんはなんもありません。ただ信心だけは素直にやってきました。それで、自分でも信じられんぐらい、幸せになっちょります。御本尊様に不可能はないちゅうことです。その信心を教えてもろうた学会に、心から感謝しちょります」(中略)
 辻堂は、壇(だん)上(じょう)で万(ばん)雷(らい)の拍(はく)手(しゅ)に包(つつ)まれながら、山本伸一の方(ほう)を見た。目と目が合うと、伸一は大きく頷(うなず)きながら、祝福の拍手を送り続けた。
 体験発表とは、見方によっては、自分の過去の恥(はじ)を暴(ばく)露(ろ)することともいえる。しかし、その体験談が学会の随(ずい)所(しょ)で、喜々として語られているのは、それに勝(まさ)る苦(く)悩(のう)を克(こく)服(ふく)した喜びがあるからだ。そして、同じように苦悩を抱(かか)えている人びとに対して、早く幸せになってほしいという、慈(じ)愛(あい)の発(はつ)露(ろ)にほかならない。さらに、どんなに自分の過去をさらけ出しても、それによって、蔑(さげす)まれたり、差別されることはないという信(しん)頼(らい)の絆(きずな)があってこそ、成り立つものといえよう。
 ともあれ、無名の民(みん)衆(しゅう)が織(お)り成す人生の凱(がい)歌(か)の姿(すがた)のなかにこそ、日蓮仏法の偉(い)大(だい)なる法(ほう)理(り)の証明があり、創価学会の実(じつ)像(ぞう)がある。
 (「民衆の旗」の章、307~308ページ)

父・山本伸一
父・山本伸一

 <「民衆の旗」の章には、わが子の成長を願い、行動する父・山本伸一の姿が描かれている>

 <「民(みん)衆(しゅう)の旗(はた)」の章には、わが子の成長を願い、行動する父・山本伸一の姿(すがた)が描(えが)かれている>

 会長になる前は、わずかな時間だが、子どもたちと接する時間をつくることもできた。三人の子どもを連れて、銭湯に行ったこともあった。
 物語などを話してやったこともあった。豊かな情操を培い、夢と勇気と正義の心を育みたいとの気持ちからである。もっとも、彼の健気な努力にもかかわらず、「ママの方がうまいよ!」と、正直だが、手厳しい感想を聞かされることもあったが……。
 長男の正弘には、一緒に武蔵野の美しい自然を眺めながら、自ら詩をつくり、詩の書き方を教えたこともあった。
 (326~327ページ)

 ◇

 会長として活動を開始した彼は、多忙に多忙を極めたが、子どもとの心の交流は怠らなかった。全国を駆け巡りながらも、行く先々で子どもたちに絵葉書を送った。文面は今日はどこに来ていて、明日はどこへ行くという簡単なものであったが、宛名は連名にせず、必ず一人ひとりに出した。
 また、土産を買うことも忘れなかった。それは、決して高価なものではなかったが、そこには彼の、子どもたちへの親愛の情が託されていた。
 (329ページ)

 ◇

 彼は、噓をついてはならないということだけは、厳しく言ってきた。あとはまことに鷹揚であった。父親が叱ってばかりいれば、どうしても子どもは、萎縮してしまうからである。
 彼は、親の責任として、子どもたちを、生涯、広宣流布の使命に生き抜く“正義の人”に育て上げねばならないと誓っていた。
 (333~334ページ)


創大・短大学位記授与式への池田先生のメッセージ 2020年3月19日

2020年03月19日 | 妙法

創大・短大学位記授与式への池田先生のメッセージ 2020年3月19日

  • 「誓願の 誉れの生命は 朗らかに」
2009年3月、卒業する創大生・短大生に万感の励ましを送る創立者・池田大作先生(創価大学池田記念講堂で)
2009年3月、卒業する創大生・短大生に万感の励ましを送る創立者・池田大作先生(創価大学池田記念講堂で)

 一、キャンパスのしだれ桜をはじめ花々も、わが愛する卒業生を寿ぐ心を宿しているかのように、いつもより早く咲き薫っています。
 
 創大46期生ならびに短大34期生の皆さん、通信教育部の皆さん、さらに、大学院生の皆さん、そして世界からの留学生の皆さん、栄光の門出、誠におめでとう!
 
 それぞれの国で今日を迎えている卒業生も、心は一つです。生命で結ばれています。
 
 皆、本当によく頑張ってくれました。新たな伝統を堂々と築いてくれました。
 私は、一人ひとり、奮闘を讃えながら、固い握手を交わす思いで、全てを見守っております。
 
 どうか、皆さんの晴れ姿を何よりの喜びとされている父上方、母上方に、勝利の学位記を、最大の感謝とともに捧げてください。そして、希望あふれるご一家の新出発の劇を、聡明な親孝行の心で思い出深く飾っていただきたいのであります。

桜花に包まれた創価大学のキャンパス。2017年4月、創立者・池田先生が香峯子夫人と共に訪問した際に撮影した
桜花に包まれた創価大学のキャンパス。2017年4月、創立者・池田先生が香峯子夫人と共に訪問した際に撮影した

 一、新型コロナウイルスの感染拡大の渦中に、新社会人として第一歩を踏み出す皆さんへ、私は22歳の時の一詩を謹んで贈りたい。
 
 70年前の当時も、日本の経済界全体が未曽有の苦境に直面していました。恩師の事業は荒波に翻弄され、私は青年らしく一心不乱に支え働きました。日々、悪戦苦闘の只中で、自らを鼓舞して綴った詩です。
 
 「苦闘よ、苦闘よ。
 
  汝は、その中より、真の人間が出来るのだ。
 
  汝は、その中より、鉄の意思が育つのだ。
 
  汝は、その中より、真実の涙を知ることができるのだ。
 
  汝よ、その中より、人間革命があることを知れ」と。
 
 この創価の青春の負けじ魂を、不二の皆さんに託したいのであります。

満開の桜の向こうに、創価女子短期大学のキャンパスを望んで(2007年4月、池田先生撮影)。短大歌「誉れの青春」の歌詞には「桜花を見つめ 歩みゆく 知性の乙女は 美しく」と
満開の桜の向こうに、創価女子短期大学のキャンパスを望んで(2007年4月、池田先生撮影)。短大歌「誉れの青春」の歌詞には「桜花を見つめ 歩みゆく 知性の乙女は 美しく」と
たくましき価値創造の走者たれ

 一、私は「平和のフォートレス」たる創価大学の創立と同時に、世界の知性と文明を結び、人類を結ぶ対話を開始しました。その忘れ得ぬ語らいを偲びつつ、今日は一点、「21世紀を照らす、たくましき価値創造の走者たれ!」と申し上げたい。
 
 トインビー博士のご紹介でお会いした、世界的な医学・細菌学者のルネ・デュボス博士も、創大が掲げる「人間教育の最高学府たれ」との建学の精神に深い共感を寄せてくださった一人であります。
 
 「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー(地球的に考え、地域で行動する)」という有名な標語を編み出し、環境保護に心血を注がれた闘士でもありました。
 
 感染症をはじめ人類を苦しめる病の脅威と戦い続けてきたデュボス博士は、人間の潜在的可能性に揺るぎない信頼を持たれていました。
 
 ゆえに「新しい環境に遭遇したときは、いつでも新しい創造が生じうる」(野島徳吉・遠藤三喜子訳『人間であるために』紀伊國屋書店)と強調され、試練に屈しない人間生命の開花にこそ、文明の成長の希望を見いだされていたのであります。
 
 人生100年の時代を迎え、皆さんには21世紀を丸ごと生き抜き、けん引する使命がゆだねられています。
 
 「創価」の哲学を抱いた皆さんは、人生と社会の難局に遭遇すればするほど、たくましく価値創造の英知の光を放っていただきたいのであります。

21世紀から22世紀へ 平和と共生の「灯」を

 一、私との語らいでも笑みを絶やさなかったデュボス博士は、社会の最も有益な存在として「生きる喜びに最も貢献する人」を挙げ、「明朗と快活」「自然なほほえみと笑い」が、皆の幸福にとって、どれほど大切であるかを力説されていました。<参照‖長野敬・中村美子訳『人間への選択』紀伊國屋書店>
 
 そして博士は、リレーの走者のように「生命の灯」を次々に手渡しながら、人類の未来へ尽くし続けていくことを呼び掛けてやまなかったのであります。<参照‖長野敬・新村朋美訳『生命の灯』思索社>

メジロと桜が卒業生にお祝いを告げるかのように
メジロと桜が卒業生にお祝いを告げるかのように

 どうか、世界にまで感動を贈ってくれた、あの箱根駅伝のように、皆さんの勇気と連帯の力走で、今世紀を「生命尊厳の世紀」に、「平和と共生の世紀」に照らし晴らしてください。
 
 そして22世紀へ「価値創造の灯」をつないでいただきたいのです。
 
 終わりに
  
 誓願の
  誉れの生命は
   朗らかに
  走れ広げよ
    民衆の笑顔を
  
 と贈り、祝福のメッセージとします。
 
 かけがえのない、わが命たる君たちに、幸福凱歌あれ!(大拍手)


小説「新・人間革命」に学ぶ 第17巻 御書編 2020年3月18日

2020年03月18日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第17巻 御書編 2020年3月18日

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第17巻の「御書編」。小説で引用された御書、コラム「ここにフォーカス」を紹介する。挿絵は内田健一郎。

「勇気」こそ勝利の要諦
【御書】

 つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし(御書1124ページ、経王殿御返事)

【通解】

 剣なども、進まない人のためには何の役にも立たない。

【小説の場面から】

 <1957年(昭和32年)8月、山本伸一は東京・荒川の同志に、弘教を進めるうえでの要諦を語る>

 「ともすれば一度ぐらい話をしただけで、“あの人はだめだ”“この人は無理だ”と思い込んでしまう。でも、人の心は刻々と変わる。いや、執念の対話で、断じて変えていくんです。
 それには自分の話し方に問題はないか、検討してみる必要もあります。たとえば、家庭不和で悩んでいる人に、病気を克服することができると訴えても、関心は示さない。病気の人に商売がうまくいくと訴えても、共感はしません。相手が納得できるように、いかに語るか――これも智慧なんです。(中略)
 ともかく、智慧は、本来、無尽蔵なんです。その智慧が不可能を可能にするんです。そして、智慧というのは、断じて成し遂げようという懸命な一念から生まれます。必死の祈りこそが、智慧を生む母なんです」
 伸一はさらに、智慧が湧いたら、それを行動に移す「勇気」が不可欠であることを訴えた。(中略)
 「無量の智慧をもたらす法華経という剣も、臆病であっては、使いこなすことはできません。苦手だから避けようと思う心。仕方ないのだと自らの臆病や怠惰を正当化しようという心――その自分の弱さに挑み、打ち勝つ勇気をもってください。そこに自身の人間革命があり、一切の勝利の要諦があります」(「民衆城」の章、255~256ページ)

異体同心の団結で前進
【御書】

 総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり(御書1337ページ、生死一大事血脈抄

【通解】

 総じて日蓮の弟子檀那等が、自他彼此の隔ての心なく、水魚の思いで、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えるところを生死一大事の血脈というのである。

【小説の場面から】

 「自他彼此の心」とは自分は自分、他人は他人というように、自分と他人とを差別する、断絶した心である。
 たとえば、自分の利害ばかり考えて他者を顧みないエゴイズム、無関係を決め込む心、あるいは敵対視、また、己の感情を根本にした生き方といえよう。
 皆の心がバラバラに分断された、そんな集団に仏法の血脈が通うことはない。ゆえに大聖人は、そうした生き方を厳しく戒められたのである。
 また、「水魚の思」とは、切っても切れない同志相互の、密接不可分な関係を、深く自覚することである。互いに、広布の使命に生きる同志を、なくてはならない尊い存在として支え合い、敬い合っていくことが、「水魚の思」の姿といえよう。
 また、「異体同心」とは、それぞれの個性、特質を最大限に生かしながら、広宣流布という大目的に心を合わせて前進していくことである。
 大聖人は、総じては、御自身の生命に流れる血脈は、この「異体同心」の団結のなかに伝わり、「広宣流布」の大願に生きる、一人ひとりの生命に脈打つことを明言されているのである。(中略)
 一般的に、団結というのは、目標を成就するための一つの手段と考えられている。しかし、正法をもって万人を幸福にするための「異体同心」の姿は、それ自体が人間共和の縮図であり、広宣流布の実像である。いわば目的ともいえよう。(「緑野」の章、349~350ページ)

ここにフォーカス/題目に勝る力なし

 「民衆城」の章に、1973年(昭和48年)5月の山本伸一の欧州訪問がつづられています。
 この時の伸一の訪問国は、フランスとイギリスの2カ国でした。オランダでは、師の欧州での諸行事の成功を祈念しつつ、“1%でもオランダにお迎えできるチャンスがあれば”と、唱題の渦が巻き起こっていました。
 池田先生は当初、モスクワ経由で帰国する予定でしたが、急遽、オランダ・アムステルダムの空港を経由する便に変更することに。しかも、1時間の待機の予定が、機体の整備で4時間ほど出発が延びたのです。
 空港には、十数人のメンバーが駆け付けていました。伸一は語ります。「お題目の力に勝るものはありません。何があっても唱題し抜いた人は勝ちます」「題目こそが、幸福の源泉なんです。どうか、このことを強く確信して、進んでいってください」
 その後、伸一はメンバーと共に空港近くの公園に向かいます。青空の下、風車小屋がある公園の芝生の上で、座談会が行われ、彼は一人一人に励ましを送ります。“青空座談会”は、オランダの友の「不滅の原点」です。それは、師の指導を求める真剣な祈りによって実現しました。
 「題目に勝る力なし」――この確信で前進することが、広布の歴史を切り開いていくのです。