毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

青年・飛躍の源流――二月闘争70周年

2022年02月01日 | 妙法

〈青年・飛躍の源流――二月闘争70周年〉第1回 明確な目的と目標2022年2月1日

 70年前の2月、蒲田支部を舞台にした「二月闘争」で24歳の池田大作先生は、当時の限界を打ち破る「支部201世帯」の弘教を成し遂げ、恩師・戸田城聖先生の願業「75万世帯」へ、飛躍の突破口を開いた。まさに「青年・飛躍」の源流にほかならない。5回にわたり、若き先生の戦いに、広布拡大の要諦を学ぶ。

二月闘争の舞台となった東京・大田での本部幹部会で、学会歌の指揮を執る池田先生(1991年11月、大田池田文化会館で)
二月闘争の舞台となった東京・大田での本部幹部会で、学会歌の指揮を執る池田先生(1991年11月、大田池田文化会館で)

 東京・大田区鵜の木3丁目。多摩川の流れに程近い、閑静な住宅街の一角に、その建物はあった。今、同じ場所には、建て替えられた2階建ての集会所が立っている。
 
 1952年(昭和27年)1月29日、ここで蒲田支部の緊急組長会が開かれた。
 
 24歳の若き池田支部幹事は、青年らしく訴えた。
 “2月は日蓮大聖人の御聖誕の月であり、2月11日は戸田先生の誕生の日です。私たちがこの信心に巡り合えたのは、戸田先生が広布に一人立たれたおかげです。報恩感謝の思いで、この2月を戦い切り、先生の誕生の月をお祝いしようではありませんか”
 
 「わが初陣」。池田先生がそう振り返る「二月闘争」の火ぶたは切られた。戸田先生の経営する会社に入社し、影が身に添うごとく仕えて3年。ここから、192カ国・地域へと広がる世界広布の指揮は始まったのである。
 
 二月闘争から9カ月前の51年(同26年)5月3日。戸田先生は第2代会長の就任式で宣言した。
 「私が生きている間に、75万世帯の折伏は、私の手でいたします」
 「達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は、品川の沖に投げ捨てなさい!」
 
 参加した同志は、決意に身震いしたものの、現実の目標として受け止めた者は、ほとんどいなかった。中には“7万5千の間違いでは”と耳を疑う人、“戸田先生は長生きされるのだろう”と考える人もいた。当時の会員数は実質、約3千人である。
 
 それでも戸田先生は、広宣流布の未来を見据え、矢継ぎ早に手を打っていった。
 会長就任直前の4月には、当時の二十数支部を、蒲田支部を含む12支部に再編。同月20日に聖教新聞を創刊する。
 
 5月には、広宣流布の「金剛不壊の大車軸」として、創価学会常住の御本尊を発願。
 6月に婦人部、7月に男子部、女子部を結成。同月22日の臨時総会で、創価学会版の御書全集発刊を発表する。
 
 だが現実の折伏は遅々としており、1支部で1カ月100世帯前後が限界だった。51年末の総世帯数は5728。100年かかっても75万世帯に届かないペースである。

75万への決定打

 「大白蓮華」で戸田先生は、深い決意を改めて歌に詠んだ。
 
 「一度は 死する命ぞ 恐れずに 仏の敵を 一人あますな」(51年12月)
 「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」(52年1月)
 のちに池田先生の会長就任式で、遺影と共に掲げられた、あの歌である。
 
 52年1月5日の支部長会では、従来の地区委員が「地区部長」となり、「支部―地区―班―組」の体制が敷かれた。
 
 さらに、戸田先生が放った75万世帯への決定打――。それが、わが後継者と頼む“懐刀”を、戦の最前線に送り込む決断だった。
 「いよいよ大作を出すか」
 
 戸田先生が弟子に命じたのは、蒲田支部の「支部幹事」だった。正役職ではない。支部長、支部婦人部長を支える副役職である。
 
 先生は早速、支部長と大森駅西口の食堂で打ち合わせをし、「日本一の支部長にしてみせます」と宣言した。支部婦人部長宅を訪れると、「2月に200世帯の折伏をやりましょう」と意気込みを語った。
 そして、1月29日の緊急組長会で“戸田先生のために組2世帯の折伏を”と訴えたのである。
 
 青年の決意に、先輩幹部も心一つに立ち上がった。
 なぜか。先生は振り返る。
 「私が誰よりも真剣であったからだ。たった一人になっても、自分が師の構想を実現すると、誰よりも一生懸命であったからだ。立場や口先や要領で、人が動くはずがない。人を真剣にさせるものは、虚栄も気取りも捨てた、自分の真剣さ以外には絶対にない」(「随筆 新・人間革命」)

二月闘争の当時、24歳の池田先生が住んでいた「青葉荘」。大田区の大森にあった
二月闘争の当時、24歳の池田先生が住んでいた「青葉荘」。大田区の大森にあった
皆が主役の革命

 「二月闘争」で先生は、なぜ、当時の限界に倍する201世帯の弘教を果たすことができたのか。第一の理由は、出発に当たって明確な目的と目標を示した点にあろう。
 「目的」は「師恩に報いる」。それは師匠と苦楽を共にしてきた弟子の、率直な真情だった。
 
 小説『新・人間革命』に、先生はつづっている。
 「その日、集った蒲田支部の同志は、戸田城聖を思う伸一の指導に、まことの弟子の心を知った。皆、伸一を通して、戸田との一念の距離が近づいた思いがした。すると、戸田とともに広宣流布をしていくのだという使命感が脈打ち、勇気がわいてくるのを覚えるのであった。
 師を求め、師とともに戦おうとする時、広宣流布に生きる、師の生命の脈動が流れ通うといってよい」(第3巻「平和の光」の章)
 
 そして「目標」は「組2世帯の折伏」である。「組」は現在の「ブロック」に当たる広布の最前線である。
 「今後は、『組本位』の、緻密にして強靱な活動に入るべき」というのが、当時の戸田先生の指導だった。だが幹部には、心のどこかに“組長には経験も力もない。組では戦えない”という先入観があった。
 
 池田青年は違った。恩師の指導を真正面から受け止め、祈り、思索して、実践に移した。それはいわば、一つの「革命」であった。
 「私が出した結論は、『組』が『地区』『支部』に従属するというような発想を変え、むしろ組織あげて『組』を支え、応援するということであった。発想の革命であり、組織を貫く思想の革命である」
 「皆が“主役”となってこそ、民衆の革命ではないか」(「随筆 新・人間革命」)
 
 「200世帯」と聞けば、はるかな目標に思えるが、「組2世帯」ならできるじゃないか――皆の一念が、“誰かがやるだろう”から、“まず自分がやる”という自発能動へと変わっていった。
 
 52年といえば、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本がようやく独立を回復する頃。組長会に集った130人余りの身なりは貧しかった。だが、心には明々と人間王者の誇りが点火した。
 
 池田先生は記している。
 「戦いの第一歩は、明確な目標を決めることだ。目標が漠然としていては、誰もが“自分の挑戦課題”として受け止めることができない。ゆえに結局は、真剣になれないものである。
 また、目標を押しつけてはいけない。皆が『よし、やろう!』と納得できるようにすべきである。
 それには、中心者自身が、自分の責任で、たとえ一人になっても、掲げた目標は断じて達成するとの、決意を定めることだ。その決定した心に燃え盛る情熱の炎が、皆の胸に、広布に戦う心を燃え上がらせていくのである」(同)
 (つづく)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「目の前の一人」を幸福に | トップ | 酪農家の“うっしっし”な話 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

妙法」カテゴリの最新記事