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第21回 21世紀は女性の世紀 ④池田先生ご夫妻と兵庫の友

2022年06月19日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第21回 21世紀は女性の世紀 ④池田先生ご夫妻と兵庫の友2022年6月19日

  • 日本一 世界一なる 兵庫かな 見よやあの地区 見よやこの支部
「1月24日」のメモ

 その日、池田大作先生は、兵庫婦人部長(当時)の西村尚子さんに一枚のメモを渡した。1985年1月24日のことである。
 メモは、先生の口述を香峯子夫人が筆記したもの。「兵庫婦人部の日 3月16日」と書かれていた。衝撃にも似た感動が、西村さんの五体を貫いた。さらに、三つの指針も記されていた。
 「清新な信心と幸の生活を作る兵庫」
 「希望の人生と求道常楽の兵庫」
 「あなたも私も仏子の兵庫」
 3月16日は、恩師・戸田城聖先生が池田先生をはじめとする青年たちに後事の一切を託した“広宣流布の記念式典”が行われた日である。西村さんは、兵庫の使命の重大さを痛感した。
 「兵庫婦人部の日」の制定が正式に発表されたのは、西村さんがメモを受け取ったその日に、兵庫池田講堂(現・西宮平和講堂)で行われた兵庫代表者会議である。
 先生は席上、「兵庫は日本一だ」と何度も語り、「人材も日本一、福運も日本一、仲の良さも日本一と誇れる素晴らしき兵庫を」と呼び掛けた。
 この日から23年前の62年1月24日、尼崎市体育会館(当時)で関西男子部幹部会が開かれた。先生は「善良な市民を苦しめている権力とは、断固、一生涯戦う」と宣言した。翌25日、先生に「大阪事件」の無罪判決が出された。
 先生が師子吼を放った「1月24日」から、「素晴らしき兵庫」の建設へ、友は新たな師弟共戦譜をつづり始めた。

神戸ポートタワーが青空に映える(1995年10月、池田先生撮影)
神戸ポートタワーが青空に映える(1995年10月、池田先生撮影)
決意のアルバム

 1991年7月、それまで3分県の布陣だった兵庫が6分県に発展した。
 藤田康子さんは、姫路県の婦人部長に就いた。同県のリーダーらは、新出発の決意を込めてアルバムを作成し、池田先生に届けた。
 新体制の発足から2カ月が経過した9月15日、藤田さんに一本の電話がかかってきた。「アルバムに、先生がご揮毫を認めてくださいました」との連絡だった。数日後、アルバムが戻ってきた。そこには、こう記されていた。
 「悔なき人生を おくりゆける人は 三世の幸福者であり 三世の長者である」。この言葉に続いて、「九月十五日 大作」とあった。さらに、左下のスペースには、「KANEKO」とつづられていた。
 先生ご夫妻の文字に、藤田さんの目は釘付けになった。“先生、奥さまの「姫路、頑張れ! 兵庫、負けるな!」とのエールだ”。湧き上がる感謝は、広布前進の力となった。
 当時、第2次宗門事件の真っただ中。藤田さんは師の励ましを胸に、一人一人と語り合い、「先生と共に、学会と共に、悔いなき人生を送ろう」と訴え続けた。
 昨年2月、肝細胞がんの手術を受けた。病が判明した時、藤田さんは「悔いなき人生を送る」との決意を一層、強くした。その誓いのまま、兵庫の地を駆け巡っている。

1991年9月15日、池田先生が姫路の友から届いたアルバムに、「悔なき人生を おくりゆける人は 三世の幸福者であり 三世の長者である」と揮毫。さらに、もみじや草花の絵があしらわれ、左下には「KANEKO」とのサインがつづられた
1991年9月15日、池田先生が姫路の友から届いたアルバムに、「悔なき人生を おくりゆける人は 三世の幸福者であり 三世の長者である」と揮毫。さらに、もみじや草花の絵があしらわれ、左下には「KANEKO」とのサインがつづられた
「やあ! お帰り!」

 それは突然の出来事だった。1989年10月17日、長瀬昭子さんは、西本時代さんが運転する車に乗っていた。
 赤信号で停車していると、後ろの車が、猛スピードでぶつかってきた。飲酒運転だった。
 翌18日、事故の報告を受けた池田先生は、即座に励ましの和歌を詠んだ。
 西本さんには「偉大なる 母の法難 耳にして 驚き祈らむ ひたすら無事をば」と送り、長瀬さんには「偉大なる 母の法難 耳にして 祈りに祈らむ 完治の笑顔を」と認めた。
 当時、二人は圏婦人部長として、互いに切磋琢磨しながら、広布拡大に挑戦していた。だが、事故に遭った後、“リーダーとして、同志の皆さんに申し訳ない”との思いが心を占め、悶々とした日々が続いた。
 事故から1年が過ぎた90年10月21日、二人に転機が訪れる。関西に滞在中の池田先生と懇談の機会に恵まれた。その日、関西文化会館に向かうと、先生はドクター部のメンバーの家族を励ましていた。
 「人生にはいろんなことがある。しかし、決して負けてはいけない。必ず宿命転換できる。どこまでも明るくいくんだよ」
 二人が近くで待っていると、香峯子夫人がそばに来た。
 事故からしばらくの間、長瀬さんは右腕に麻痺が残った。しかし、懸命にリハビリに励み、動くようになった。そのことを報告すると、夫人は先生に「ここに宿命転換をされた証明者がいます」と語った。先生は二人の方を向くと、両手を大きく広げた。
 「やあ! お帰り!」
 師は待っていた。二人が元気に戻ってくることを――。「お帰り」の一言は、暗雲が覆っていた二人の心に、まばゆい太陽の光となって差し込んだ。
 以来、この出会いを宝として、広布一筋の人生を歩んできた。今、立正安国の勝利劇をつづろうと、対話拡大に率先している。

兵庫池田文化会館の周辺に集まった求道の友に、三色旗を振って応える池田先生ご夫妻(1991年10月16日、同会館で)。この日に行われた関西総会で、先生は「関西は日本の『心臓部』である」と力説した
兵庫池田文化会館の周辺に集まった求道の友に、三色旗を振って応える池田先生ご夫妻(1991年10月16日、同会館で)。この日に行われた関西総会で、先生は「関西は日本の『心臓部』である」と力説した
感謝のある人は幸せに

 第1次宗門事件の折、播磨方面は宗門の悪僧らによる学会攻撃が、関西の中で激しかった地域の一つである。
 その嵐が吹き荒れていた渦中の1978年11月13日、池田先生は加古川文化会館を初めて訪問した。
 会館に到着すると、先生はすぐに同志の輪の中へ。握手を交わし、激励を重ねた。リーダーには「会員中心」の指揮を、と強調した。
 島津淳子さんは、館内の一室で役員に就いていた。そこにも先生は姿を現し、陰の戦いに徹する献身に、心からの感謝を伝えた。
 会館の2階では、婦人部の合唱団が練習していた。先生は香峯子夫人と共に足を運び、メンバーを励ました。
 加古川支部結成17周年を記念する勤行会で先生は、「きょうは、おそばでも食べているような気持ちで楽しく語り合いましょう」と切り出した。
 そして、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし」(新1623・全1192)との御聖訓を拝し、「いかに三障四魔三類の強敵が競い起こったとしても、“法華経に勝る兵法なし”の信心があれば、すべてに打ち勝っていける」と訴えた。
 勤行会の終了後、香峯子夫人は島津さんに声を掛けた。懇談の中で、夫人が語った「感謝のある人は幸せになります」との言葉を、島津さんは胸に深く刻んだ。
 師への感謝、学会への感謝――。先生の加古川初訪問を原点として、報恩の人生を進んだ。地域活動にも率先。健康体操を通して、近隣同士の絆を育んでいる。

大好きな丹波

 1982年4月17日、池田先生と兵庫の各部代表のリーダーとの懇談会が開かれた。
 その場で、吉竹としゑさんは、「明日の18日、丹波の総会を開催します」と伝えた。先生は「分かっているよ。大成功を祈っています」と語った。
 としゑさんと夫の五雄さんは、丹波地方の一粒種。自宅を広布の会場として提供した。畳を替えるたび、畳店から「なんでこんなに、お宅の畳は隅から隅まで傷むんですか」と不思議がられた。
 多くの同志の依怙依託となり、ひたすら丹波広布の原野を開拓した。旧習の深い地で、地域の有力者にも次々と学会理解の輪を広げた。
 吉竹さん夫婦の苦闘を、先生ご夫妻は誰よりもたたえてきた。78年、先生は「山奥に 福運一灯 久遠の幸」と詠み贈っている。
 師に見守られて迎えた総会は、2600人が集い、爆発的な盛り上がりを見せた。先生は、「2600人とは、よく集まったね。これで丹波は一つの突破口を開いたよ」と伝言を送った。
 総会から7カ月後の11月15日、丹波の婦人部総会が行われた。先生ご夫妻は友に寄せる真情を、メッセージにつづった。
 「兵庫第一に大好きな丹波の皆様」
 「どうか、素晴らしい信心第一、家庭第一、健康第一で兵庫第一の、いな日本第一のお幸せなお一人お一人になられますことを祈って、東京の地よりメッセージを送ります」
 メッセージは、香峯子夫人の手書きだった。
 この婦人部総会から今年は40周年。先生ご夫妻の深き慈愛は、今も丹波の女性たちを優しく包んでいる。

万感の和歌

 1994年5月、兵庫県の総会が東京牧口記念会館で行われた。
 池田先生は和歌を贈った。
 「わが天地 誉れの兵庫に 生まれけむ 三世の友との 広宣誓いて」
 「行くならば 栄光輝く この道を 兵庫の友と 歩む楽しさ」
 さらに、万感の思いを詠んだ。
 「日本一 世界一なる 兵庫かな 見よやあの地区 見よやこの支部」

池田先生ご夫妻が神戸市中央区の同志が作製した「フラワーカー」に“記念乗車”(1991年10月16日、兵庫池田文化会館で)。花馬車は、かつての神戸の異人館街を駆けたものを復元した。先生は友の真心に感謝して、「勝ちにけり フラワーロードの 晴れの城」と詠んだ。兵庫の友は“常勝の花道”を痛快に進む
池田先生ご夫妻が神戸市中央区の同志が作製した「フラワーカー」に“記念乗車”(1991年10月16日、兵庫池田文化会館で)。花馬車は、かつての神戸の異人館街を駆けたものを復元した。先生は友の真心に感謝して、「勝ちにけり フラワーロードの 晴れの城」と詠んだ。兵庫の友は“常勝の花道”を痛快に進む
【アナザーストーリーズ】
一切は一念の変革から

 今から55年前の1967年、兵庫本部(現・灘文化会館)が誕生した。同本部で、兵庫の主要行事が開かれ、池田先生は友との出会いを刻んできた。
 ある時、香峯子夫人が出席しての懇談会が行われた。その場に、小嶋悦子さんも集った。
 小嶋さんは、新たな役職に就いたばかり。組織には年長者が多く、どのように活動を進めていけばいいか分からなかった。
 その苦悩を率直に打ち明けた。すると、夫人は「私もそうでしたよ」と寄り添い、優しく語り掛けた。
 「ご年配の方は人生経験、生活の知恵が豊かです。そのことを学ぼうとする姿勢が大切です。信心のことは、御書を通して、しっかりお話しするようにしてください」
 夫人の励ましに、小嶋さんの心はすっきりとした。御書の研さんに挑戦し、メンバーと一方通行ではなく、双方向の関係を築いた。気心が知れてくると、組織の雰囲気は自然と明るくなった。
 心が変われば、行動が変わる。自身の一念の変革から一切は始まる――この確信を、小嶋さんは55年前の夫人との出会いでつかんだ。

明石から勝利の証しを

 「いい子だね」
 池田先生は、溝垣慶子さんが抱いていた、生後7カ月の長男・雅人さんの頬をなでた。1986年11月10日、関西文化会館の周辺でのことである。
 先生と溝垣さんが語らっていると、雅人さんが、握っていた先生の指を口の中に入れてしまった。「すみません!」と謝る溝垣さんに、先生は笑顔を浮かべて、「あれ、乳歯が生えてきているね」と。
 香峯子夫人は「おなかがすいているんじゃないかしら」と語り、手元にあった饅頭を取り出した。「これは、赤ちゃんには無理よね」。すると、先生が「それなら、お母さんにあげよう」と、饅頭を溝垣さんに手渡した。
 この出会いの翌月、雅人さんの難聴が判明した。検査を続ける中で、医師から「5歳になったら、手術をしましょう」と言われた。
 母として、手術は避けたかった。溝垣さんは必死に祈り、宿命転換を懸けて、学会活動に励んだ。
 2歳、3歳、4歳と、雅人さんの難聴は続いた。ところが、5歳の時、聴力が突然、回復した。医師は首をかしげた。手術の必要はなくなった。溝垣さんは、信心の力を心から実感した。
 次男の高志さんは、先天性の弱視で生まれた。その試練も、溝垣さんは夫・好人さんと共に乗り越えた。
 現在、雅人さんはITエンジニアとして、高志さんは中学校の教員として、社会で奮闘を重ねる。
 あの時の先生の励ましがあったから、今の家族がある――溝垣さんの感謝は尽きない。その師恩に報いるには、広布勝利の証しを打ち立てることと決め、使命の天地である明石、そして兵庫を奔走している。 

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