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小説「新・人間革命」学習のために 第29巻

2021年07月10日 | 妙法

〈My Human Revolution〉 小説「新・人間革命」学習のために 第29巻2021年7月10日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを、巻ごとに紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第29巻を掲載する。次回は第30巻〈上〉を24日付2面に掲載の予定。

唱題は苦悩の生命を転換する力

 〈1978年(昭和53年)11月、大阪・泉州文化会館の開館記念勤行会で山本伸一は、信心の極意について指導した〉
 「人生は、何が起こるかわかりません。順風満帆とはいかず、浮き沈みもある。生きるということは戦いであり、ある意味で苦難の連続であるといえるかもしれない。病や不慮の事故、経済的な問題、人間関係の悩み、あるいは、子どものことで苦しむ場合もある。しかし、仏法では、『煩悩即菩提』『生死即涅槃』と教えている。いかなる迷い、苦悩に直面しても、この原理を忘れてはならない。
 日蓮大聖人は、私たちが、煩悩を菩提へ、生死を涅槃へ、四苦八苦に苦しむ身を常楽我浄の生命へと転換し、人生の幸せを満喫して生きていくために御本尊を顕された。いわば、迷い、苦悩の生命を転換していくための回転軸こそが御本尊であり、その回転の力となるのが唱題です。ところが、窮地に陥ると、“もう駄目だ”と絶望的になったり、信心が揺らいだりしてしまう。それは、縁に紛動され、根本の一念が御本尊から離れてしまっているからなんです。
 生命が御本尊と合致していれば、どんな苦難も、必ず乗り越えていくことができる。信心の極意は、何があっても御本尊に向かい、題目を唱え抜いていくことしかありません。
 苦しい時も、悲しい時も、嬉しい時も、この姿勢を貫き通していくことが、“御本尊根本”の信心であり、それが正信なんです。
 そうすれば、御本尊が助けてくれないわけがない。困難を乗り越える大生命力が、智慧が、湧かないわけがありません。常に、根底の一念を御本尊に定め、その信心を持続することが、現世安穏・後生善処の人生につながっていくことを知っていただきたい」(「常楽」の章、102~103ページ)

友への献身に人間の尊貴な輝き

 〈11月、東京・信濃町で第1回関東支部長会が開催される。席上、伸一は支部長・婦人部長(当時)の功労をたたえた〉
 「それぞれ、仕事や家庭のことなど、悩みと格闘しながら、同志のため、法のために、献身されている。時には“大変だな、苦しいな”と思うこともあるでしょう。皆さんのご苦労はよくわかっているつもりです。私も戸田先生の事業を軌道に乗せようと奔走するなかで、男子部の役職を兼任しながら、地区の責任者や支部幹事、支部長代理を務めた経験があります。会合の時間を捻出することさえ大変な闘いでした。
 しかし、それが、信心の基礎を築き、人生の基盤となり、仏法のリーダーとしての力を養い、無量の福運を積んだと、強く確信しております。苦労こそが財産なんです。
 “自分が生きるのに精いっぱいで、他人のことなど、とてもかまってはいられない”というのが、大多数の人の生き方です。そのなかで皆さんは、自らもさまざまな苦悩と闘いながら、多くの同志を励まし、人びとの幸福を願い、広宣流布に邁進されている。人間として最も尊貴な生き方です。
 皆さんが抱えているそれぞれの悩み、苦しみは、必ず勝ち越えていくことができる。それはなぜか――信心をもって苦悩を克服することで、仏法の大功力を証明していくのが、私たち地涌の菩薩の使命であるからです。
 人生は、激浪の日々であるかもしれない。しかし、だからこそ、勇んで戦い抜いた時には、最高の充実がある。爽快な歓喜がある。現実社会のなかで、自分に勝って、広宣流布の歩みを進めることが仏道修行なんです」(「力走」の章、136~137ページ)

「強き信心」は果敢なる実践に!

 〈79年(同54年)1月、伸一は東北指導へ。青森・秋田合同の代表幹部会で、「信心」と「実践」の関係について述べた〉
 「正しい仏道修行には、『信』と『行』の両方が、正しく備わっていなければなりません。『信』とは、御本尊を信じ抜いていくことです。『行』とは、自ら唱題に励むとともに、人にも正しい仏法を教えていく、折伏・弘教であり、現代でいえば学会活動です。たとえ、御本尊を信受していたとしても、信心の実践、すなわち具体的な修行をおろそかにしては、本物の信心とはいえません。
 青森から東京へ行こうとしても、ただ思っているだけでは、到着することはない。行動を起こし、実践があってこそ、目的を果たすことができる。また、せっかく行動に移し、出発したとしても、途中で止まってしまえば、東京へは着きません。
 同様に、信心も観念的で中途半端なものに終わってはならない。実践がなければ、功徳の体験を積めず、強い確信を育むこともできない。そして、何かあると縁に紛動され、退転してしまうことになりかねません。
 (中略)その実践は、大聖人が『行学は信心よりをこるべく候』(御書1361ページ)と仰せのように、『行』も、『学』すなわち教学の研鑽も、御本尊への強い『信』から出発するものでなければならない。『信』なき実践は、一生懸命に動いていても、形式的なものになり、惰性化し、次第に歓喜も失われていってしまいます。
 ともあれ、純粋にして強き信心は、おのずから、果敢にして忍耐強い実践につながっていく。『我もいたし人をも教化候へ』(同)の御聖訓のごとく、自行化他にわたる実践を展開し、この東北の天地から、新しい広布の光を放っていただきたいのであります」(「清新」の章、286~287ページ)

幸福社会の実現こそ学会の使命

 地涌の菩薩が末法において「折伏」を行ずる時には、「賢王」すなわち在家の賢明なる指導者となって、荒れ狂う激動の社会に出現するのだ。「愚王を誡責」するとは、社会に君臨し、民衆を不幸にしている権威、権力の誤りを正していくことである。主権在民の今日では、各界の指導者をはじめ、全民衆の胸中に正法を打ち立て、仏法の生命尊厳の哲理、慈悲の精神を根底にした社会の改革、建設に取り組むことを意味していよう。つまり、立正安国の実現である。弘教という広宣流布の活動は、立正安国をもって完結する。個人の内面の変革に始まり、現実の苦悩から人びとを解放し、幸福社会を築き上げていくことに折伏の目的もある。
 しかし、それは困難極まりない労作業といえよう。伸一は、末法の仏法流布を実現しゆく創価学会の重大な使命を、深く、強く、自覚していた。
 初代会長・牧口常三郎は、軍部政府が国家神道を精神の支柱にして戦争を遂行していくなかで、その誤りを破折し、神札を祭ることを敢然と拒否して逮捕された。取り調べの場にあっても、日蓮仏法の正義を語り説いた。まさに「愚王を誡責」して獄死し、殉教の生涯を閉じたのである。また、共に軍部政府と戦い、獄中闘争を展開した第二代会長・戸田城聖は、会員七十五万世帯の大折伏を敢行し、広宣流布の基盤をつくり、民衆による社会変革の運動を進め、立正安国への第一歩を踏み出したのである。
 戸田は、学会を「創価学会仏」と表現した。そこには、濁世末法に出現し、現実の社会にあって、広宣流布即立正安国の戦いを勝ち開いていく学会の尊き大使命が示されている。(「源流」の章、431~433ページ)

宗教への検証作業

 日蓮大聖人は「法華経最第一」とし、諸宗の誤りを鋭く指摘していった。それをもって、大聖人は独善的、非寛容、排他的であるとの批判がある。「清新」の章には、大聖人が、法華経以外の諸経をいかに捉えていたかに言及されている。
 ◇ 
 大聖人は、念仏をはじめ、禅、律、真言の教えを厳格に検証し、批判していったが、法華経以外の諸経の意味を認めていなかったわけではない。
 それは、御書の随所で、さまざまな経典を引き、信心の在り方などを示していることからも明らかである。
 第二代会長・戸田城聖は、青年たちへの指針のなかで、「われらは、宗教の浅深・善悪・邪正をどこまでも研究する。文献により、あるいは実態の調査により、日一日も怠ることはない。(中略)その実態を科学的に調査している」と記している。
 この言葉に明らかなように、創価学会もまた、日蓮大聖人の御精神を受け継いで、常に宗教への検証作業を行ってきた。そして、調査、研究を重ね、検証を経て、日蓮仏法こそ、全人類を救済し、世界の平和を実現しうる最高の宗教であるとの確信に立ったのである。
 自分が揺るがざる幸福への道を知ったとの確信があるならば、人びとにも教え伝え、共有していくことこそ、人間の道といえよう。
 ゆえに学会は、布教に励むとともに、座談会という対話の場を重視し、他宗派や異なる考え方の人びとと語り合い、意見交換することに努めてきた。それは、納得と共感によって、真実、最高の教えを人びとに伝えようとしてきたからである。
 宗教は、対話の窓を閉ざせば、独善主義、教条主義、権威主義の迷宮に陥ってしまう。
 対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける。
 座談会などでの仏法対話によって、共に信心をしてみようと入会を希望する人は多い。また、信心はしなくとも、語らいのなかで学会への誤解等は解消され、日蓮仏法への認識と理解を深めている。そして、相手の幸せを願っての真剣な語らいが進むにつれて、私たちの真心が伝わり、人間としての信頼と友情が育まれている。
 日蓮大聖人の仏法は、人間が苦悩を乗り越え、幸せを築き上げるための宗教である。
 大聖人御自身が、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書758ページ)と仰せのように、仏法の目的は、人間の苦悩からの解放にある。宗教が人間の救済を掲げるならば、決して人間を手段にしてはならない。(314~316ページ)

 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。

【挿絵】内田健一郎

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