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EROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第34回 アレクサンドル・デュマ

2023年09月17日 | 妙法

HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第34回 アレクサンドル・デュマ2023年9月17日

あなたの人生はあなた自身のものだ。
「別の生き方もできた」ではなく、
「自分は生きた」といえる人生であれ。
デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の誕生の舞台となった南フランスには、サント・ヴィクトワール山(聖なる勝利山)がそびえる。1991年6月、欧州研修道場を訪れた池田大作先生が名山をカメラに収めた(トレッツで)
デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の誕生の舞台となった南フランスには、サント・ヴィクトワール山(聖なる勝利山)がそびえる。1991年6月、欧州研修道場を訪れた池田大作先生が名山をカメラに収めた(トレッツで)

 ルソー、ユゴー、ゾラ、キュリー夫人……。フランスの名だたる偉人が眠る霊廟・パンテオンに、生誕200年を記念して、ある人物の遺灰が埋葬された(2002年)。19世紀を代表する小説家アレクサンドル・デュマである。
 生涯で小説や戯曲、旅行記など600冊近い本を出版。中でも、世界的に有名な『三銃士』『モンテ・クリスト伯』は、今なお多くの人々に読み継がれている。
 1802年7月、パリ北東の町ビレル・コトレでデュマは生まれた。時はフランス革命直後の激動期。ナポレオン軍の将軍として名をはせた父は、後に冷遇を受け、3歳の頃に死別。デュマは貧しい生活を余儀なくされたが、無類の読書好きで『聖書』や『ロビンソン・クルーソー』などを5、6歳で読破したという。
 作家の道を志すようになったのは17歳の時。友人と観劇した「ハムレット」に魅了されたことがきっかけだった。
 4年後、パリにある公爵家の秘書室に就職。その傍ら、博学の同僚から文学と歴史の個人教授を受け、寝る間も惜しんで古今の名著を読み抜き、脚本の修業にいそしんだ。不遇の中で燃やした飽くなき向学心が、類いまれな才能を開花させたといえよう。
 29年、創作した演劇「アンリ三世とその宮廷」が大成功し、一躍人気作家に。44年には新聞連載小説という新たなジャンルで『三銃士』が空前のヒットを記録した。
 こうした目覚ましい活躍をねたみ、足を引っ張ろうとする者も現れた。金もうけ本位で作品を量産する“小説製造”との批判本が出され、デュマが黒人奴隷の子孫であることから、出生に対しても罵詈雑言を浴びせられたのである。
 しかし、彼は動じなかった。
 「もしぼくが、自分に投げつけられたあらゆる石を集めていたら、それだけで、昔から一人の文学者の名誉のために建てられた記念碑のなかの最大のものをもつことができるだろう」
 中傷をものともせず、小説家として不動の地位を築いたデュマ。晩年には、こんな言葉も残している。「あなたの人生はあなた自身のものであることを忘れてはいけない」「あなたが年寄ったとき、『自分は生きた』といえるようになるべきで、『別の生き方もできたのだ』と考えるようであってはならない」

HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第34回 アレクサンドル・デュマ(1面から続く)2023年9月17日

 
トレッツの欧州研修道場で和やかに語り合う池田先生ご夫妻(1991年6月)。先生は同道場を舞台に文化祭や記念撮影会などを通して、同志と師弟の絆を結んだ
トレッツの欧州研修道場で和やかに語り合う池田先生ご夫妻(1991年6月)。先生は同道場を舞台に文化祭や記念撮影会などを通して、同志と師弟の絆を結んだ
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【「モンテ・クリスト伯」を語る池田先生】
「待て、しかして希望せよ!」
苦境にあっても「希望」を忘れない。
忍耐強く、祈りまた祈り、
未来への大道を切り開くのだ。
これが「巌窟王」の精神である。
 
【アレクサンドル・デュマ】
何事であれ、いったん腹が決まると、
その時から、自分の力が十倍になり、
自分の世界がぐっとひらけていく。

 『モンテ・クリスト伯』は新聞連載小説として1844年から翌々年にわたって掲載された。日本では明治時代、黒岩涙香の邦訳により『巌窟王』との題名で発表。一世を風靡した。
 ――物語の舞台は19世紀のフランス・マルセイユ。主人公の若き航海士エドモン・ダンテスは大型帆船の船長への昇格と恋人メルセデスとの結婚を控え、洋々たる人生が開けるはずだった。しかし披露宴の最中に突然、逮捕されてしまう。ダンテスの出世をねたむダングラールと恋敵のフェルナンらの謀略で、ナポレオン派のスパイに仕立て上げられたのだ。
 さらに、取り調べに当たった検事代理の保身により、事実無根の罪で絶海の孤島・イフ島の牢獄に14年間もとらわれの身となる。
 婚約者と引き裂かれ、残された父は他界。奈落の底のような地下牢でダンテスは苦悩する。
 そんな時、政治犯として収監されていた老神父ファリアと出会う。わが身の不遇を嘆くダンテスにファリアは自らの経験を語る。
 「人智のなかにかくれているふしぎな鉱脈を掘るためには、不幸というものが必要なのだ」
 苦難こそ自身の可能性を引き出す鍵である――ダンテスはファリアを師と仰ぎ、万般の学問の個人教授を受けた。ファリアもまた、ダンテスを息子のように薫陶し、知性の闘士へと育てた。
 やがてファリアは重い病に倒れる。死の直前、最後の力を振り絞って語ったのは「信ずること、望むこと、これが青年の特権だ」との言葉であった。
 師の最期をみとり、奇跡的に脱獄を果たした弟子は、師から教えられたモンテ・クリスト島の莫大な財宝を手にし、悪人たちへの仇討ちに身をささげる。
 小説には、こう記されている。
 「何ごとであれ、すばやく腹をきめ、思いきってキビキビやって行かなければならず、自分の身をかばうというようなことだけが、じゃまになるものということを幾度となく思い知らされました。(中略)いったんこうした腹がきまりますと、その時から、自分の力が十倍になり、自分の世界がぐっとひらけたような気持になります」
 裏切り者はそれぞれに、男爵、貴族院議員、検事総長へとのし上がっていた。ダンテスは自らをモンテ・クリスト伯と名乗って社交界に君臨。知力と富の限りを尽くし、悪の正体を暴いていく。
 一方で、かつて自分を船長に推薦し、投獄中に生前の父を支えてくれた船主の一家には、惜しみない支援を施した。
 「仇討ち」と「報恩」――目的を果たし、新たな航海に出たダンテスは、親友に手紙を残す。
 ――人間の智慧は、ただこの二つの言葉にふくまれている。待て、しかして希望せよ!――
 ダンテスの波瀾万丈の生涯に、わが理想を託したデュマは1870年、68歳で人生の幕を閉じるまでペンを振るい続けた。 

 『巌窟王』を戸田城聖先生はこよなく愛し、男子部の人材育成グループ「水滸会」の教材にも選んだ。池田先生も青春時代から親しんだ一書である。
 牧口常三郎先生の十一回忌法要の折、戸田先生は先師の獄死を聞いた当時を述懐しながら語った。
 「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」と。
 ゆえに戸田先生は、聖教新聞創刊号から連載した小説『人間革命』の主人公の名を「巌九十翁」とした。
 1981年6月、池田先生はフランス・トレッツの欧州研修道場を訪問。懇談会の席上、求道の友に「巌窟王のごとき、信心と広布の執念の人に」と訴えた。
 そして、同志の激励の合間を縫ってマルセイユを訪れ、『モンテ・クリスト伯』ゆかりのイフ島を望んだ。
 小説『新・人間革命』には、山本伸一がイフ島を眺めた際の心情がつづられている。
 「巌窟王とは、勇気の人、不屈の人、信念の人であり、忍耐の人である。広宣流布は、そうした人がいてこそ、可能になる。ゆえに、いかなる困難にも決して退くことなく、目的を成就するまで、粘り強く、執念をもって前進し続けるのだ。そこに立ちはだかるのは、“もう、いいだろう”“これ以上は無理だ。限界だ”という心の障壁である。それを打ち破り、渾身の力を振り絞って、執念の歩みを踏み出してこそ、勝利の太陽は輝く」(第30巻〈上〉「暁鐘」の章)
 さらに先生は、創価の師弟を貫く“信心の巌窟王”の精神を幾度となく語ってきた。
 「仇討ちといっても、個人的な仕返しのようなものではない。血を流す復讐でもない。
 それは、戦時中、正義の師匠を迫害し、獄死させ、多くの人々を不幸のどん底に落としていった権力の魔性と戦うことであった。そしてまた、虐げられてきた民衆を目覚めさせ、民衆に力を与え、手と手を結び合って、真実の平和と幸福の社会を築いていくことであった。すべては、われらの広宣流布の運動に含まれているのである」
 「『巌窟王』の物語の最後の言葉は何であったか?
 『待て、しかして希望せよ!』である。どんなことがあっても、『希望』を忘れてはならない。どんな思うようにいかぬ苦境にあっても、忍耐強く、祈りまた祈り、未来への大道を切り開くのだ。これが『巌窟王』の精神である」(2008年6月7日、「広布第2幕 第9回全国青年部幹部会」でのスピーチ)
 さあ、巌のごとき不動の信心で誓願の「11・18」へ! その先に無限の「希望」が広がっていることを強く深く確信して――。

 【引用・参考】『モンテ・クリスト伯』全7巻・山内義雄訳(岩波書店)、辻昶・稲垣直樹共著『アレクサンドル=デュマ 人と思想139』(清水書院)、ガイ・エンドア著『パリの王様』河盛好蔵訳(東京創元社)ほか


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