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ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち

2023年05月07日 | 妙法

〈ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第31回 パール・バック2023年5月7日

全ての母に真心からの感謝を――池田大作先生が深紅のカーネーションをカメラに収めた(2007年5月撮影)。先生は語っている。「妙法に生きぬく女性が、幸せにならないわけがない。必ず最高に幸福な人生を歩んでいける。創価の母たちを、そして娘たちを全宇宙の仏菩薩が讃え、断固として守ることは、絶対に間違いないのである」
全ての母に真心からの感謝を――池田大作先生が深紅のカーネーションをカメラに収めた(2007年5月撮影)。先生は語っている。「妙法に生きぬく女性が、幸せにならないわけがない。必ず最高に幸福な人生を歩んでいける。創価の母たちを、そして娘たちを全宇宙の仏菩薩が讃え、断固として守ることは、絶対に間違いないのである」
 
〈パール・バック〉
どんな変化があろうとも、
今日こそ最良の一日にしようという
勇気と信念で、新しい日々を始めよう。

 85年前の1938年、アメリカ人女性として初めてノーベル文学賞を受賞した人物がいる。
 
 女性の名はパール・バック。代表作『大地』などを著した小説家であり、差別や暴力と戦い抜いた社会活動家としても知られる。
 
 彼女は言う。
 
 「生命と満足の秘訣は、どんな変化があろうとも、今日こそ最良の一日にしようという勇気と信念をもって、新らしい日々を始めることです」
 
 パール・バックと同時代を生きた「アメリカの人権の母」エレノア・ルーズベルト大統領夫人はつづっている。
 
 「もし我々年長者が、バック夫人のごとき勇気を示せば、おそらく次の世代の人々は、我が国を真の民主主義国家にする勇気を持つことでしょう」

アメリカの小説家パール・バック(1892―1973)©AP/アフロ
アメリカの小説家パール・バック(1892―1973)©AP/アフロ

 
 昨年、生誕130年を迎えたパール・バックは、アメリカ・ウェストバージニア州で生まれた(1892年6月)。生後数カ月で宣教師である父の任地・中国へ移住。幼少期から10代後半までを異国の地で過ごした。
 
 “青い目で金髪の外国人”として、偏見のまなざしを向けられることもあったという。西洋と東洋の間で生きるような孤立感は後年、人種差別撤廃運動などに身を投じるきっかけとなった。
 
 そんな彼女の成長に大きな影響を与えたのが、母の存在だった。列強諸国の侵略下にあった中国で、一家は憎悪の対象となり、時に命に危険が及ぶ困難に襲われた。
 
 しかし、母はどんな試練にも負けなかった。進んで人々の中へ飛び込み、母子のための健康相談所や読書指導の教室などを開設。宿命に泣く女性に同苦する姿が親しみを呼び、母の周りには中国の婦人たちが集まってきた。
 
 母のことを述懐したパール・バックの言葉にこうある。
 
 「わたしのもっているすべてのものは、母から与えられた」
 
 「母の澄んだ声は常に勝利の響きをもっていた」と――。

中国・鎮江市に立つパール・バックの旧居©アフロ
中国・鎮江市に立つパール・バックの旧居©アフロ
 
〈パール・バック〉
しなければならないことは
目の前にあります。今こそ女性が
自分自身を考え、扉を開く時です。

 高等教育を受けるため、パール・バックが中国からアメリカに渡ったのは18歳の時である。
 
 バージニア州のランドルフ・メイコン女子大学に入学。成績は優秀で、特に言語学や文学などの科目に力を注いだ。在学中には、小説の執筆も開始。卒業後は母の病の報を受け、中国に戻った。
 
 やがて農業経済学者で宣教師の夫と結婚。それから3年後の1920年、待望の長女キャロルを出産する。だが、喜びもつかの間、最愛の母が他界してしまう。
 
 さらに試練は続いた。夫が教壇に立つ南京大学で英文学を教えていた彼女だったが、娘に発育の遅れを感じ、その原因究明と治療を求め、アメリカの病院へ向かう。診断の結果、重い知的障がいがあることが判明。完治が見込めないと告げられたショックは、あまりにも大きかった。
 
 そこからパール・バックの苦悩の人生が始まった。悲嘆に暮れて中国に帰り、1人でいる時は「わたしの全身をすべて悲しみにまかせて泣いていました」と振り返っている。あまりのつらさに娘の死を願ったことさえあった。
 
 そうした歳月を経て、彼女は徐々に「悲しみとの融和の道程」を歩み出し、事実をあるがままに受け入れていく。「これが、わたしの人生なのだ。わたしはそれを生きぬかなくてはならないのだ」と。そして、娘の存在に深い意味を見いだし、後の文学活動と平和運動の力へと変えていったのである。
 
 「人はすべて人間として平等であること、また人はみな同じ権利を持っていることをはっきり教えてくれたのは、ほかならぬわたしの娘でした」
 
 「ノーベル賞は、この娘が与えてくれた」

ノーベル文学賞の授賞式に出席したパール・バック㊧(1938年12月、スウェーデンのストックホルムで) ©Bettmann/Getty Images
ノーベル文学賞の授賞式に出席したパール・バック㊧(1938年12月、スウェーデンのストックホルムで) ©Bettmann/Getty Images

 
 娘が9歳になった29年、将来を見据えて、アメリカの施設に預けることに。愛するわが子を支えるため、パール・バックは懸命に筆を振るった。
 
 翌30年、中国における東西両文明の確執を描いた『東の風・西の風』を出版。31年には、中国の農民生活に光を当てた『大地』を発表し、ベストセラー作家に。同作品で、全米の報道・文学界における栄誉「ピュリツァー賞」を受賞した。
 
 42歳になると、アメリカに永住帰国(34年)。人種差別や男女差別の撤廃運動などに積極的に取り組むようになる。
 
 ノーベル文学賞作家となってからも、信念のペンを執り続け、後年は恵まれない子どもたちへの支援に尽力。私財を投じてパール・バック財団などを創設した。
 
 73年3月、パール・バックは80年の生涯を閉じる。
 
 「しなければならないことはすでに目の前にあります。チャンスがあなたを待ち受けているのです。いまこそ、女性が自分自身を考え、扉を開く時です」
 
 「すべての活動になくてはならないのは、希望なのです!」

 ――動乱期の中国で過ごした日々。障がいのある娘の誕生。夫の無理解と離婚……。幾多の苦難の壁に直面しても「希望」を捨てなかった彼女の人生は、没後半世紀を経た今も、偉大な作品、珠玉の言葉と共に、世界中の人々を鼓舞し続ける。

母への感謝を忘れず、親孝行の人生を! 栄光の大空へ羽ばたけ!――未来を創りゆく使命深き子どもたちに、慈愛の励ましを送る池田先生ご夫妻(1991年9月、アメリカのボストンで)
母への感謝を忘れず、親孝行の人生を! 栄光の大空へ羽ばたけ!――未来を創りゆく使命深き子どもたちに、慈愛の励ましを送る池田先生ご夫妻(1991年9月、アメリカのボストンで)
 
〈パール・バックを語る池田先生〉
最も大きな苦しみを乗り越えた人は
最も大きな境涯を開き、
最も大きな幸福を広げゆく人だ。
この人間革命の体験を分かち合う
行動が平和と勝利の道を創るのだ。

 1960年5月、パール・バックは日本を訪問。東京など各地に足を運んでいる。
 
 同年5月3日、池田先生が第3代会長に就任。世界広布の大長征を開始した。
 
 後に先生は、意義深き「5・3」を「創価学会母の日」にと提案。本年で制定35周年を迎えた。この間、折々にパール・バックの生き方を通し、母たち女性たちに励ましを送っている。
 
 「彼女は語っている。
 
 『悲しみには錬金術に似たところがある』『悲しみが喜びをもたらすことはありませんが、その知恵は幸福をもたらすことができるのです』
 
 ましてや、苦労した人が一番、幸福になれる信心である。妙法を唱えながら貫いた努力と忍耐は、必ず未来の宝と輝くことを、明るく確信していただきたい」(2012年6月22日付「随筆 我らの勝利の大道」)
 
 「何があっても、たじろがない。嘆かない。たとえ、今が悔し涙の連続であろうと、無敵の祈りは、一切を栄光の歴史に昇華してゆくのだ。
 
 重い障がいのある娘を育てつつ、『母の肖像』『大地』等の名作を世に問い、平和運動に邁進したアメリカの女性作家パール・バックは叫んだ。『最も悲しみに満ちた行路を歩んでいる間に、人の精神はすべて尊敬に値することを知りました』
 
 最も深い悲しみから立ち上がった人は、最も深い哲学を学んだ、最も深い慈悲の人だ。最も大きな苦しみを乗り越えた人は、最も大きな境涯を開き、最も大きな幸福を広げゆく人だ。
 
 この人間革命の体験を友に語り、分かち合う、母たちの行動が『幸福と平和と勝利の道』を創り開くのである。
 
 『広宣流布は、女性の力で成し遂げられる!』
 
 恩師のこの確信は、私の胸にも、絶対の確信として輝き渡っている。母の祈りは、皆の心を動かさずにはおかない。母の言葉は、友の胸を揺さぶらずにはおかない。(中略)
 
 さあ、強く朗らかに、また堂々と、自身の体験を、創価の正義を、語り抜こうではないか!
 
 偉大なる幸の教養博士よ、万歳! 人間世紀の母たちよ、万歳!」(15年6月8日付「随筆 民衆凱歌の大行進」)
 
 パール・バックの『母の肖像』の結びには「彼女をめぐって生活していた私たちにとっては、何と素晴らしい生活であったろう!」と、母への感謝がつづられていた。
 
 かつて先生は、この言葉を紹介し、高らかに宣言した。
 
 「わが『創価の母』たちは今、彼女たちが夢見た平和と幸福と人道のスクラムを、世界中で、幾重にも大きく広げてくださっている。その尊貴な実像は、素晴らしい『創価の母の肖像』として、永遠に仰がれ、讃えられ、留められていくにちがいない」
 

 【引用・参考】パール・バック著『母の肖像』村岡花子訳(『ノーベル賞文学全集』7所収、主婦の友社)、同著『母よ嘆くなかれ』伊藤隆二訳(法政大学出版局)、ピーター・コン著『パール・バック伝 上下巻』丸田浩ほか訳(舞字社)、松坂清俊著『知的障害の娘の母:パール・バック』(文芸社)ほか
 

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