創価の平和運動原点の9月8日 師弟の闘争に学べ2021年9月8日
9月8日は戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表の日。この日に池田先生は日中国交正常化提言を発表し、ソ連(当時)に第一歩をしるし、小説『新・人間革命』の本紙連載を完結した。「9・8」に込められた師弟の魂を、池田先生の指導に学ぶ。
1957年(昭和32年)9月8日、戸田先生は青年部の「若人の祭典」で「原水爆禁止宣言」を発表。“核兵器は絶対悪”との思想を全世界に広めゆくことを後継の青年たちに託した。
池田先生は恩師の心を胸に世界の各界の識者と対話を重ね、平和提言などを発信。学会は平和実現のために、各国各地でさまざまな市民運動を展開している。
〈池田先生の指針〉
祭典の掉尾を飾ったのが、戸田先生の師子吼であった。青年を中心にした約五万人を前に「宣言」が放たれ、こだました。
「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」
当時、水爆や大陸間弾道弾(ICBM)の実験が行われ、米ソの核兵器開発競争が激化していた。核戦争などによって、人類が滅亡に至るまでの残り時間を象徴的に示す「世界終末時計」も、二分前という滅亡寸前まで進んでいたのだ。
そうした渦中に、わが師は、人類の生存さえ断絶しかねない原水爆の本質を、国家や政治体制、人種や民族といった次元を超え、「人間生命」という深層から告発したのである。
ある参加者は広島で被爆した友人を思い出し、平和な世界を築くために、師と共に、心固く歩んでいこうと決意を新たにした。
学会が“貧乏人と病人の集まり”と悪口された時代である。だが、困難な境遇など一切突き抜け、恩師の叫びは、皆を「広宣流布」即「世界平和」への使命に目覚めさせる、偉大な光源となった。
(『随筆 対話の大道』所収、「不滅の原水禁宣言55周年〈上〉」)
◇
平和への直道である対話を実らせるには、信頼を築いていくことだ。友情を結び、育んでいくことだ。
そのためには――
相手の話を「聞く」。
相手を「敬う」。
相手から「学ぶ」。
これが、価値ある対話の鉄則である。
御聖訓には、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書一一七四ページ)と仰せである。私たちの誠実と真剣な行動によってこそ、平和の思潮の水かさも増していくのだ。
(前掲書所収、「不滅の原水禁宣言55周年〈下〉」)
1968年(昭和43年)9月8日、池田先生は「日中国交正常化提言」を発表した。当時、冷戦と中国国内の文化大革命の影響で対中感情は冷え切り、国交回復を訴えた日本の政治家の刺殺事件も起きていた。先生は命の危険をも顧みず、①中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること②国連における正当な地位を回復すること③経済的・文化的な交流を推進することを主張。その内容は即座に国内外へ伝わり、72年の国交正常化実現への道を開いた歴史の分岐点となった。
〈池田先生の指針〉
わが英知の学生部一万数千人が勇んで大結集した総会の席上、私は強く訴えた。
「諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない」
戦争と分断の悲劇の時代を生きてきた一人として、叫ばずにはいられない熱願であった。私は展望した。
「日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになった時こそ、今日のアジアを覆う戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が燦々と降り注ぐ時代である」と。
さらに国際社会の動向を見据えつつ、「核時代の今日、人類を破滅から救うか否かは、国境を超えた友情を確立できるか否かにかかっているといっても過言ではない」と論じていった。
(本紙2013年8月31日付「随筆 我らの勝利の大道」<平和の道 友情の橋>)
◇
激しい圧迫の嵐が吹き荒れるなか、私は日中の国交正常化を、勇気をもって提言しました。どれだけの反対があったか。非難、中傷があったか。危険を避けるため、自宅にいられないことさえあった。
しかし、私は戸田先生の弟子です。戸田先生も、また牧口先生も、日中友好を念願しておられた。私は、師匠の心の苦しみを知っています。かつて日本は、この、一番の大恩人の国を侵略した。とんでもないことだ。その歴史は、あまりにも重い。
私の「日中国交正常化提言」は、あらゆる障害を突破して、両国の青年のため、未来の友好を開きゆく、生命を賭した挑戦であった。
(08年5月4日、広布第2幕 第8回全国青年部幹部会でのスピーチ)
1974年(昭和49年)9月8日、池田先生はソ連(当時)を初訪問。東西冷戦下で、米国と対立するソ連は中国とも一触即発の状態にあった。宗教指導者がなぜソ連に行くのか――批判の声に先生は「平和を願う、同じ人間がいるから行くのです」との信念を貫く。滞在の最終日には、コスイギン首相との会見が実現。冷戦の“氷”を解かす人間外交が繰り広げられた。
〈池田先生の指針〉
コスイギン首相は私に、「あなたの根本の思想は何ですか」と聞いてこられた。
会見には、大勢の人が同席していた。私は、間髪を入れずに答えた。
「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」
仏法の思想を、仏法の言葉を使わずに申し上げたのである。
首相は、“なるほど”と納得した様子であられた。
また私は、コスイギン首相に率直に質問した。
「ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」
じつは、このソ連訪問の直前、私は中国を訪れていた(74年5、6月)。人々は、地下に防空壕を掘っていた。
“ソ連が攻めてくるかもしれない”と、脅威を感じていたのである。中国の10億近い民衆が、中ソ対立の影に不安を抱いていた。
私の問いに、コスイギン首相は答えた。
「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」
「それを中国の首脳に、そのまま伝えてよろしいですか」
「結構です」
そして私は、このソ連の意向を中国の要人に伝えた。
私の両国訪問に対しては、さまざまな批判や中傷があったが、何と言われようと、世界の平和のために行動する信念であった。
(2004年11月11日、第29回SGI総会でのスピーチ)
◇
反対や批判を押し切ってソ連を初訪問した際(1974年9月)、私の胸にあったのは、「ソ連が怖いのではない。ソ連を知らないことが怖いのだ」との信念でした。
対立や緊張があるから、対話が不可能なのではない。相手を知らないままでいることが対立や緊張を深める。だからこそ自分から壁を破り、対話に踏み出すことが肝要であり、すべてはそこから始まる――。
(第41回「SGIの日」記念提言)
池田先生は小説『新・人間革命』の起稿から25年を経た2018年、執筆開始と同じ8月6日に長野で脱稿。新聞連載は、恩師の「原水爆禁止宣言」発表の日となる9月8日付で完結を迎えた。
現在、同小説は海外13言語、23カ国・地域で出版。世界中の友が「創価の精神の正史」を学び、人間革命の劇をつづっている。
〈池田先生の指針〉
戸田先生の小説『人間革命』の主人公の名前は「巌九十翁」。まさに転んでも転んでも起き上がり、師匠の正義を宣揚せずにはおかない不撓不屈の「巌窟王」の意義が留められていた。
そして私が続編として書き継いだ『人間革命』に登場し、恩師の逝去後の大前進を描く『新・人間革命』の主人公となるのは「山本伸一」――。烈風にも揺るがぬ富士の如き、「巌窟王」の闘魂を受け継ぎ、踏まれても踏まれても伸びて、師弟勝利の大樹と聳え立つ決意が、「山本伸一」の名には込められている。(中略)
『新・人間革命』に託した私の真情は、「戸田大学」で恩師から一対一の薫陶を受けたように、日本中、世界中の青年たちと、この書を通して命と命の対話を交わしたいということであった。
嬉しいことに、その願いの通り、今、いずこの地でも地涌の若人が「人間革命」の精神を学び、「山本伸一」の心を体して、人生と広布に、栄光の実証を威風堂々と勝ち示してくれている。(中略)
『新・人間革命』は、「旭日」の章で始まった。旭日が昇るように、創価の師弟は世界広布へ飛翔を開始したのだ。
恩師の分身として、仏法の慈光を世界へ届けるため、私は走った。
人間の中へ、民衆の中へ飛び込み、対話の渦を巻き起こしていった。そして、最後の章は、「誓願」として結んだ。(中略)
さあ、人類が待望してやまぬ「世界広布」即「世界平和」へ、新たな決意で、新たな出発だ。
我は進む。君も進め。
我は戦う。君も戦え。
我は勝つ。君も勝て。
我らは、共々に「人間革命」の大光を放ちながら、新鮮なる創価の師弟の大叙事詩を綴りゆくのだ! 君と我との誓願の旅を、永遠に!
(『随筆 輝く民衆の大城』所収、「『人間革命』の大光」)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます