マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第11巻 2020年6月5日
小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを、巻ごとに紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第11巻を掲載する。次回の第12巻は12日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。
<1966年(昭和41年)3月、山本伸一は、ブラジル・リオデジャネイロの広布が思うように進まないと話す、河野支部長夫妻を励ます>
「何事にも、時というものがあります。
ここの登り口に、小さな苗木が植えられていたが、あの木だって、十年、二十年とたてば、立派な木に育つでしょう。リオの組織も、今は小さいかもしれないが、十年、二十年と、題目を唱え抜いて、頑張っていくならば、必ず大発展します。
大事なことは、最初の決意を忘れることなく、一日一日が前進であった、勝利であったという、悔いなき力強い歴史を、わが身につづっていくことです。
つまり、“今日、何をするのか”“今、何をするのか”を、常に問い続け、必死になって、挑戦し、行動し抜いていくことです。
これが法華経寿量品で説く『毎自作是念』(法華経493ページ、毎に自ら是の念を作す)ということです。また、少し難しくなるが『未曽暫癈』(同482ページ、未だ曽て暫くも癈せず)ということでもある。
すなわち、広布のための連続闘争こそ、仏の所作を実践している尊い姿であり、絶対的幸福への軌道なんです。
この美しきリオの未来の栄光は、あなたたちの双肩にかかっている。一緒に、黄金の歴史をつくろうではありませんか」
(「暁光」の章、32ページ)
<66年3月15日、ブラジルからペルーに渡った伸一は、リマの宿舎で現地の代表と懇談し、教学の大切さを訴える>
「教学と聞いただけで、難しいなと思う方もいるかもしれない。
しかし、教学は、一般の学問とは違います。生活、人生に、密接に結びついているんです。
まず最初は、難しい御書でなくてよいから、しっかりと拝読し、自分自身の身で読んでいくように提案したいと思います。
たとえば『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる』(1253ページ)との有名な御文でもよい。
あるいは、『湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く』(1132ページ)との御文でもよい。
その仰せを信じて、心を定め、御文のままに精進していく。そうすれば、“まさにその通りだ!”と、実感し、御本尊への大確信をもつことができる。
それが、本当の意味で、御書を拝するということであり、『実践の教学』ということなんです。
また、仏法者として、人生の哲学をもつということにもなります。
一つの御文を、身で拝して、自分のものにすることができれば、自然に、ほかの御書もわかっていきます。すべてに通じていくんです」
皆、伸一の指導を聞いているうちに、“教学”や“御書の研鑽”ということが、身近なものに感じられてくるのであった。
(「開墾」の章、140ページ)
<ベトナム戦争が激化していく中で、アメリカ青年部のメンバーは恒久平和実現の方途を求め、仏法の研鑽に励む。そして、戦争は人間生命に潜む「魔」の働きであると確信していく>
「魔」は、「殺者」「能奪命者」「破壊」などと訳され、煩悩など、衆生の心を悩乱させ、生命を奪い、智慧を破壊する働きである。
そして、この「魔」の頂点に立つのが、「第六天の魔王」である。
それは「他化自在天」といわれ、他者を隷属させ、自在に操ろうとする欲望を、その本質としている。
だが、「第六天の魔王」といっても、人間に潜む生命の働きなのである。
この魔性の生命が人間の心を支配する時、人間は殺者や破壊者の働きをなし、戦争を引き起こしていくのである。
では、何をもって、この「第六天の魔王」を打ち破ることができるのか。
それは、ただ一つ、「仏」の生命のみであることを、仏法は教えているのだ。
青年たちは語り合った。
「国家を形成しているのも人間だ。戦争を引き起こすのも、平和を築くのも、すべて人間だ。
つまり、人間こそがいっさいの原点だと思う。
その人間の心のなかに宿る、憎悪や破壊や支配といった『魔性』の生命を打ち砕き、『仏』の生命を打ち立てていかなければ、本当の平和はないのではないだろうか」
「ぼくも同じ考えだ。国家の指導者同士の和平交渉も大事だが、根本的な平和の道は、一人ひとりの人間の生命を変革する以外にない。
つまり、人間の心のなかに、崩れざる“平和の砦”を築く、“人間革命”しかないんだ」
「だから、結局は、遠い道のりのように思えても、広宣流布の推進こそが、最も確かで、本質的な平和への道ということになる」
(「常勝」の章、301~302ページ)
<58年(同33年)7月、伸一は新潟の佐渡へ。同志に、人生を光り輝かせていく道について語った>
「人生の輝きを増していくには、どうすればよいか。まず、人生の根本目的をどこに定めるかです。
自分のみの幸せを願って、財産や、地位、名誉、名声、権威、権力を求めるのではなく、『広宣流布に生きよ!』というのが、大聖人の御指南です。
人は、どこに人間の輝きを見るのか。
それは、エゴイズムの殻を打ち破り、時には自分を犠牲にしながら、悩める友のため、人びとのため、社会のために献身する姿ではないでしょうか。
それこそが、広宣流布に生きる姿です。
しかも、広布の道には犠牲はない。
苦労したことは、すべて未来の大福運となり、大功徳となります」
参加者は、熱のこもる伸一の話に、真剣に耳をそばだてていた。
「また、人生の輝きは、自身の使命を自覚して、自ら勇んで広宣流布に邁進していくなかに生まれます。
信心は義務ではありません。権利です。
ところが、受け身になり、ただ人に言われたから動くというだけになってしまうと、どうしても義務感の信心になり、歓喜も湧いてきません。
反対に、自分から一人立ち、積極的に、果敢に行動していくところには、大歓喜があります。
さらに、日々、自分を磨き鍛えていくことです。つまり、持続の信心です。
持続というのは、ただ、昨日と同じことをしていればよいのではありません。『日々挑戦』『日々発心』ということです。
信心とは、間断なき魔との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。
その戦いのなかにこそ、自身の生命の輝きがあり、黄金の人生があることを知っていただきたいのです」
(「躍進」の章、364~366ページ)
「躍進」の章では、伸一が“大楠公”の歌を通して、青年を励ます場面が描かれている。この歌は戸田城聖が広宣流布の師弟の精神を込め、青年たちに指導してきた歌であった。
◇
「さあ、みんなで一緒に歌おう」
伸一が弾く、“大楠公”の調べに合わせて、青年たちが歌い始めた。
〽青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
…………
この歌は、戸田城聖が生前、よく青年たちに歌わせた歌であった。
“大楠公”は、一三三六年(延元元年・建武三年)、朝敵・足利尊氏の上洛を防ぐために、湊川の戦いに赴く武将・楠木正成と、長子の正行の、父子の別れを歌った歌である。
敗北が必至の湊川の戦いに臨む正成は、桜井の地でわが子・正行を呼び、故郷に引き返すように告げる。
だが、正行も父とともに死ぬ覚悟であり、帰ろうとはしなかった。しかし、正成は、二人が討ち死にするならば、尊氏の天下となってしまうことを訴え、生きて、早く立派に成長し、国のために仕えよと諭して、故郷に帰すのである。
戸田は、この歌に広宣流布の師弟の精神を託して、青年たちに歌わせ、歌い方についても、厳しく指導してきた。
特に、正行が父とともに討ち死にせんとする決意を歌った、「父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人……」の箇所は、一人ひとりに何度も歌わせ、こう言うのであった。
「正行の心は、そんなものではない! 君のそんな目では、ましてや広宣流布の戦いはできんぞ。俺の目を見ろ!」
殉難を覚悟で広宣流布に生き抜く後継の師子を、鍛え育もうと、戸田は必死であったのである。また、正成が正行に言う「早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為」のところでは、よく、こう語っていた。
「君たちも、一日も早く大成長し、立派な指導者になって、広布のため、社会のために、献身していくんだぞ。いいな!」
佐渡の青年たちも、“大楠公”の歌への戸田の思いは、何度となく、幹部から聞かされてきた。それだけに、伸一の奏でる“大楠公”の曲に合わせて合唱していると、戸田の姿が目に浮かび、胸が熱くなるのであった。伸一は、歌い終わった青年たちを励ますように、大きな声で言った。
「早く生い立て――これが戸田先生の私たちへの願いであり、期待であった。
佐渡のみんなも、その心で立ち上がり、大成長していくんだ。私は、もう立ち上がったよ。君たちも早く立とうよ」
(「躍進」の章、370~372ページ)
※“大楠公”(青葉茂れる桜井の)の歌は落合直文作詞。
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聖教電子版の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」第11巻「解説編」の池田博正主任副会長の紙上講座と動画を閲覧できます。
第11巻「解説編」はこちら。
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