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小説「新・人間革命」学習のために 第26巻

2021年03月06日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第26巻2021年3月6日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを、巻ごとに紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第26巻を掲載する。次回の「多宝会」編は3月20日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

“粘り強さ”が勝利の力に

 <1977年(昭和52年)10月、山本伸一は「北海道未来会」第4期の結成式で、人生は苦難、悩みとの戦いであると訴えた>
 
 「ある意味で、人生は、絶望との戦いであるといえるかもしれません。
 
 テストの結果もよくない。家庭環境も大変である。経済的にも厳しい。理想と自分の現実との間に、大きな隔たりがある――など、悩みの連続が人生であり、特に青春時代です。そして、ともすれば、“自分はダメな人間なんだ”“なんの力もないんだ”と考え、卑屈になり、絶望的な思いをいだいてしまう。
 
 しかし、そうではありません。“みんなが、尊い使命をもって生まれてきている。必ず自分らしく輝くことができる”と教えているのが仏法なんです。
 
 では、どうすれば、自分を輝かせていくことができるのか――それは“粘り”です。
 
 思うような結果がでない。失敗する。挫折する。時には、生きる気力さえなくなってしまうかもしれない。それでも、また立ち上がり、自分の目標に向かって進んでいく。その粘り強さこそが大事なんです。
 
 “力がなくてもいいじゃないか。かっこ悪くたっていいじゃないか。でも、自分は負けないぞ!”と、心の炎を燃やすことです。
 
 順風満帆に生きて、苦労もせずに、成功を収めた人などいません。失敗も、挫折もなく、人生の勝利者になった人もいません。泣く思いで苦労に耐え、何度も絶望の淵に立ちながら、粘り強く、前へ、前へと進んでいった人が、人生の勝利者になっているんです。(中略)その粘り強さを身につけていくための唱題であり、仏道修行であることを忘れないでください」
 
 (「厚田」の章、57~59ページ)

小単位での語らいこそ根本

 <78年(同53年)1月、婦人部では活動の機軸の一つとして、小単位での学習・懇談が打ち出された。その報告を受けた伸一は、語った>
 
 「何百人、何千人の人が集う大きな会合も、元気が出るし、勢いがついていいでしょう。しかし、本当に大事なのは、小単位での、一人ひとりとの懇談です。それが、一切の根っこになっていくからなんです。小単位での語らいを根とするなら、大会合は、枝葉の茂る幹です。大会合がいかに盛り上がっていても、根である小単位での語らいがしっかりできていない組織は、もろいものです。
 
 小グループでの語らいは、一方通行ではなく、皆の声に、じっくりと耳を傾けることができる。本当の悩みや疑問を聞き、それに答えることができます。つまり、納得の対話ができる。これが重要なんです。また、一個の人間対人間として、強い絆を結ぶことができる。それが心の結合をつくっていきます。
 
 学会が、初代会長の牧口先生以来、座談会を重視してきたのは、対話を運動の中心にすえてきたからなんです。牧口先生も、戸田先生も、座談会の名人、対話の達人でした」
 
 大勢の人が集まる会合が大動脈であるとするならば、小単位の学習・懇談、そして、個人指導は、毛細血管といえるかもしれない。
 
 人体も、大動脈だけでは、体の隅々にまで血液を運ぶことはできない。
 
 無数の毛細血管があってこそ、温かく、清らかな血が流れ通い、人は生き生きと活動することができる。
 
 同様に、学会の組織にあっても、各小グループなどでの懇談や個人指導こそが、信心の血液を一人ひとりに送り届け、広宣流布を支える生命線となっていくのである。
 
 (「法旗」の章、137~138ページ)

偉大なる“無冠の友”に感謝

 <78年(同53年)1月、伸一は奈良支部結成17周年の記念幹部会で、あいさつに立ち、「聖教新聞」の配達員である“無冠の友”への深い感謝の思いを述べた>
 
 「新聞を届けてくださる配達員の皆さんのご苦労は、大変なものがあります。何人ものお子さんをもつ主婦もいれば、勤めに行く前に配ってくださるサラリーマンもいる。また、なかには、一流会社の重役であったり、博士の夫人という方もいらっしゃる。まさに、多士済々です。心から広宣流布のために尽くし、法友のために奉仕してくださる、こうした数多の老若男女の方々を、私どもは、どこまでも尊敬してまいりたい」
 
 伸一は、彼の周りにいた、副会長や県長らに厳しい視線を向けて言った。
 
 「幹部は、そういう方たちの無事故と健康を、懸命に祈り抜いていくんです。深く感謝し、偉大なる同志として、仏を敬うように大切にしていくんです。そうでないと幹部は慢心の徒になってしまう。皆がやってくれて当然であるなどと思ってはいけません。
 
 奈良から仏教が起こったが、結局、僧侶が権威化していき、仏教本来の精神が失われていってしまった。絶対に、同じ轍を踏んではならない。私は、学会が民衆仏法の団体として永遠に発展していくために、あえて言っておきます」
 
 創価学会は、民衆のなかに生まれ、民衆を組織し、民衆勝利の絵巻を織り成してきた。
 
 国家に庇護され、国家の僕となった宗教ではない。民衆のための宗教であり、人類のための宗教である。権威、権力に屈服、隷属せず、人間自身に至高の価値を見いだす人間主義の宗教であるからこそ、世界宗教として広がりをもつのである。
 
 (「勇将」の章、312~313ページ)

わが地域に模範の広布像を

 <1月、広布第2章の「支部制」がスタートし、東京・杉並区の方南支部結成大会が開催された。席上、伸一は御書の一節を拝し、指導した>
 
 「仏法では、『我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり』(御書716ページ)と説かれております。私ども自体が、妙法蓮華経の当体であります。また、『足は経』とありますが、敷衍すれば、それは行動を意味するといえましょう。
 
 私たちは、今いる地を、深い因縁で結ばれた本有常住の国土ととらえ、“必ずこの地域を広宣流布するのだ! 幸せの花園にするのだ!”と決めて、勇んで行動を起こしていこうではありませんか。
 
 その決意と実践がなければ、何十年と、そこに住んでいても、広宣流布は進みません。草創の同志は、学会に対する地域の見方や評価が厳しければ厳しいほど、闘魂を燃え上がらせてきました。迫害にも動ずることなく、何があろうが、体当たりするかのように、必死になって弘教していった。だから、広宣流布の道が切り開かれたんです。だから、皆が大きな功徳を受けてきたんです。だから、歓喜と希望に満ちあふれていたんです。
 
 広布第二章の今、さらに新しい、その心意気を、その気概を、その決意を、燃え上がらせていくための『支部制』なんです。名称や形式の問題ではありません」(中略)
 
 「広宣流布といっても、どこか遠い、別のところにあると思うのは間違いです。自分自身のなかにあるんです。家庭のなかにあるんです。近隣の人びととの絆のなかにあるんです。創価の法友の輪のなかにあるんです。そこに、模範の広布像をつくるんです」
 
 (「奮迅」の章、329~332ページ)

発迹顕本

 <発迹顕本とは、仏が仮の姿(垂迹)を開き、真実の姿、本来の境地(本地)を顕すことである。「勇将」の章には、創価学会の発迹顕本について言及されている>
 
 大聖人の誓願は、敷衍して言えば、御自身が発迹顕本されたように、末法の一切衆生を発迹顕本させることにあったといえよう。すなわち、一人ひとりに地涌の菩薩の使命と実践とを教え、御本仏の弟子として、仏の境涯を顕すことを念願されていたのだ。(中略)
 
 初代会長・牧口常三郎は、一九四三年(昭和十八年)ごろから、「学会は発迹顕本しなくてはならん」と、口癖のように語っていた。戸田城聖をはじめ、牧口の門下生は、その意味がわからなかった。
 
 そして、軍部政府による、あの大弾圧が学会を襲ったのだ。牧口は捕らえられるが、むしろ国家諫暁の好機ととらえ、仏法の正義を叫び抜いて、殉難の生涯を閉じた。永遠の創価の師・牧口の発迹顕本といえよう。
 
 一方、牧口と共に捕らえられた戸田は、獄中での法華経の精読と唱題の末に、「われ地涌の菩薩なり」との悟達を得る。四五年(同二十年)七月、生きて牢獄を出た戸田は、殉教した師・牧口に広宣流布を誓うのである。戸田は記している。
 
 「われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります」
 
 その自覚は、戦後、広く会員に浸透していったが、各人の自覚にすぎず、「いまだ学会自体の発迹顕本とはいいえない」状況であった。学会が一丸となっての広宣流布への本格的実践がなかったからだ。
 
 一九五一年(昭和二十六年)、戸田城聖が第二代会長として立つと、全会員は広宣流布の使命を自覚し、折伏大行進を開始した。その同志について、戸田は、こう述べている。
 
 「教相面すなわち外用のすがたにおいては、われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である」(中略)
 
 そして、牧口会長の遺志を継いで、東洋への広宣流布の使いとして、仏法に身命を捧げることを誓い、「これこそ発迹顕本であるまいか」と記している。
 
 いわば、私たちにとって、発迹顕本とは、人びとの幸福と平和を実現する広宣流布を、人生の至上の目的、使命と定め、その果敢なる実践を、現実生活のなかで展開していくことにある。御本仏・日蓮大聖人の眷属であることを、行動をもって示し抜いていくのだ。
 
 (215~218ページ)

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 聖教電子版の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」第26巻「解説編」の池田博正主任副会長の紙上講座と動画を閲覧できます。

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