〈HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第23回 アルバート・アインシュタイン2022年9月11日
他の人とともに苦しむこと――
これが人間にとって一番の指針です。
「笑ってください」とのカメラマンの要望に、舌を出してユーモアたっぷりにほほ笑む。
飾らないユニークな人柄で知られるアルバート・アインシュタインの有名な写真は、72歳の誕生日パーティーの帰り際に撮影されたものだった。
“現代物理学の父”アインシュタインは1879年3月、ドイツ南部の都市ウルムで暮らすユダヤ人の両親の元に生まれた。
科学に興味を抱くきっかけとなったのは、幼少期に手にした方位磁石。どの方角に向けても北を指し続ける磁針――物体に作用する“目に見えない不思議な力”の存在を知り、科学のとりこになった。
磁針に据えられた少年の眼は、やがて宇宙の謎の解明へと向けられ、科学者になるという夢をもつように。しかし、そこへ至る道は決して平たんではなかった。
父が営む工場の経営不振を機に学校を中退。その後、受験の失敗を経て大学進学を果たすも、今度は就職でつまずいた。
やむなく臨時の教師をしながら研究を続ける中、友人の助けもあり、スイスの特許局に就職。そこは安定した職場ではあったが、夢をかなえられる場所とは言いがたかった。
それでも、アインシュタインの科学への情熱が消えることはなかった。「私には特別な才能などありません。ただ好奇心が激しく強いだけです」
1905年、26歳の時に「特殊相対性理論」をはじめとする三つの科学論文を発表。それは200年以上、物理現象の常識とされた「ニュートン力学」に基づく「時間」と「空間」の概念を覆す内容であった。
支持を表明する著名な物理学者はいたものの、無名の青年の論文は容赦なく誹謗された。ユダヤ人という理由で中傷されもした。
「人間としての真の偉大さにいたる道はひとつしかない。何度もひどい目にあうという試練の道だ」――彼の信念はその11年後、「一般相対性理論」の完成として結実する。精密な天体観測の結果、この理論は証明され、科学の発展に尽くした功績によって21年度のノーベル物理学賞が贈られた。
アインシュタインは後年、次のように記している。
「他人のために生きる人生だけが生きがいのある人生だ」「他の人の喜びを喜び、他の人とともに苦しむこと――これが人間にとっていちばんの指針です」と。
“何のための科学か”――波瀾万丈の人生の中でそれを問い続けた姿こそ、「20世紀最大」と称される物理学者の実像であった。
〈HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第23回 アルバート・アインシュタイン(1面から続く)2022年9月11日
「私の永遠は、今、この瞬間なんだ」
清新な決意の一念に立ち返るならば、
わが生命に元朝の旭日が赫々と昇る。
人生は戦いである。充実と歓喜の峰へ、
新たな一歩を踏み出すのだ。
我々は自らの心を変え、勇敢に
声を発することによってのみ、
他者の心を変えることができる。
アインシュタインは戦争を憎んだ平和主義者でもあった。
彼が生きたのは、日進月歩の科学技術が、2度の世界大戦で武力として使用された時代。科学はあくまで手段であり、それを用いる人間次第で「希望」にも「恐怖」にもなり得る、というのが彼の考えであった。
本格的に反戦・平和運動へと身を投じるようになったのは、1914年の第1次大戦勃発以降。欧州の文化を支持し、人々に分断ではなく連帯を呼びかける声明書に署名したほか、戦争の早期終結を目指してフランスの文豪ロマン・ロランらと意見を交わした。
また、国際連盟の知的協力委員会にも所属。「人々の間の語らいは、魂のふれ合いを進めうる」との思いで、物理学者マリー・キュリー、詩聖タゴール、心理学者フロイトら知識人と親交を結ぶ。
そうした中、祖国ドイツではナチスが政権を掌握(33年)。ユダヤ人は総じて迫害の対象となり、アインシュタインは一家でアメリカへと亡命する。
遠い異国の地にまで届く同胞の悲痛な叫び。胸をえぐられるような毎日を過ごしていたある日、一人の物理学者から相談が持ちかけられる。それは、ドイツが原子力を利用した新型爆弾をつくっている可能性と、対応が必要だと米国のルーズベルト大統領に伝えるべきであるとの趣旨であった。
アインシュタインは、大統領宛ての書簡に署名。ドイツが製造間近ではないと分かるのは後の話だが、これが米国による原子爆弾開発の「マンハッタン計画」を急がせることになった。
彼自身、実際の開発には携わっていない。しかし、新型爆弾の原理には、相対性理論で示した質量とエネルギーの関係を表す公式が応用されたのである。
45年8月6日、世界初の原爆が広島に投下。3日後には長崎にも落とされ、無数の尊い命が一度に奪われた。人類最悪の悲劇が起きた事実を知り、アインシュタインは絶句した。そして、その後悔を背負い、残りの人生を対話による核兵器の廃絶に捧げていく。
「恒久の平和は脅迫によってではなく、相互の信頼を招く真摯な努力によってのみ、もたらされるものです」「我々は、自らの心を変え、勇敢に声を発することによってのみ、他者の心を変えることができる」と。第2次大戦が終結したこの年、彼は65歳になっていた。
アインシュタインが生涯を閉じたのは、10年後の55年4月のことである。最後まで科学の探究と平和の創造に生き抜き、亡くなる7日前には全ての国に核兵器と戦争の根絶を訴える共同声明への署名を承諾。この声明は「ラッセル=アインシュタイン宣言」として、科学者など11人の連名で世界に発信され、平和の誓いとして次代に継承されていった。
今から100年前の1922年秋。アインシュタインは日本を訪れ、各地で講演活動を行った。
最初の講演会の場所は、東京・慶應義塾大学。会場には、創価の父・牧口常三郎先生と22歳の戸田城聖先生の姿があった。
戸田先生は5時間にわたる相対性理論の講義を受講した思い出を“人生の誉れ”として、折々に愛弟子の池田先生に語った。
池田先生は恩師の会社で少年雑誌の編集長をしていた21歳の時、「少年日本」の第1号(49年10月号)でアインシュタインを取り上げ、その魅力を伝えている。
そして「ラッセル=アインシュタイン宣言」から2年がたち、同宣言に基づく世界の科学者の連帯「パグウォッシュ会議」が発足されて2カ月後の57年9月8日。
戸田先生は青年部の「若人の祭典」で、核兵器を絶対悪と断ずる「原水爆禁止宣言」を発表した。
民衆の生存の権利を脅かす魔物を断じて許してはならぬ! この思想を広めることこそ、青年の使命である――烈々たる師子吼が、横浜・三ツ沢の競技場に集った5万人の胸に刻まれた。
恩師が「青年への遺訓の第一」とした宣言は学会の平和運動の原点となり、その精神は池田先生に継承された。先生は毎年の「SGIの日」記念提言や各国の首脳・識者との対話を行うとともに、青年を軸にした草の根の運動を提案するなど、核兵器廃絶を目指す連帯を世界に広げてきた。
「ラッセル=アインシュタイン宣言」の署名者の中では、ライナス・ポーリング博士(ノーベル化学賞・平和賞受賞者)、ジョセフ・ロートブラット博士(パグウォッシュ会議名誉会長、ノーベル平和賞受賞者)と深い交友を結び、それぞれ対談集を発刊している。
さらには、随筆やエッセー、スピーチなどでアインシュタインの珠玉の言葉を紹介し、社会の繁栄と平和の建設に尽くす友に指針を贈ってきた。
「大科学者アインシュタイン博士は、『私の永遠は、今、この瞬間なんだ』と言った。
仏法は一念三千と説く。『今、この瞬間』の一念に、『永遠の勝利』も『三世の功徳』も納まっている。いついかなる時も、清新な決意の一念に立ち返るならば、わが生命には、元朝の旭日が赫々と昇りゆくのだ。(中略)
人生は戦いである。ならば今、悔いなく、不滅の戦いを起こすのだ。自身の充実と歓喜の峰へ、新たな一歩を踏み出すのだ」(2007年12月29日付「随筆 人間世紀の光」)
「博士は、こんな言葉も残している。『高貴な思想と行為に導きうるのは、偉大でかつ純粋な個性の実例のみである』と。
率先垂範の『実例』がありてこそ、新たな価値創造の波動も広がる。我らの掲げる『青年の拡大』も、先駆の『一人』から始まるのだ」(17年1月25日付「随筆 永遠なれ創価の大城」)
今月8日、「原水爆禁止宣言」の発表から65周年を迎えた。広宣流布即世界平和の大誓願へ――弟子が立ち、弟子が戦い、弟子が勝つ時は常に「今」である。
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