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きょう「大阪事件」無罪判決の日

2023年01月25日 | 妙法

きょう「大阪事件」無罪判決の日2023年1月25日

  • 戦いは絶対に負けたらあかん!

 きょう25日は「大阪事件」の無罪判決が出された「民衆勝利の日」。1957年(昭和32年)7月3日、池田先生は不当逮捕・勾留された。その後の法廷闘争は4年半、公判は84回を数えた。「大阪事件」を通して、関西に刻まれた「負けじ魂」は今、世界の模範と輝く。ここでは、その広布史を不敗の原点とする友のドラマを紹介する。

最終陳述での叫び

 国の重要文化財であり、大阪のシンボルの一つでもある中之島の大阪市中央公会堂。1957年(昭和32年)7月17日、同公会堂で「大阪大会」が行われた。
 その2週間前の7月3日、池田先生は事実無根の公職選挙法違反の容疑で、不当逮捕される。検事は取り調べで、“罪を認めなければ戸田会長を逮捕する”と恫喝した。池田先生は、恩師と学会を守るため、法廷闘争で潔白を証明すると決断した。
 17日に出獄した先生は、大阪大会で烈々と宣言した。“最後は信心しきったものが必ず勝つ!”。この師子吼は、関西同志の永遠の誓いともなった。
 同年10月18日から、大阪地方裁判所で裁判が開始。84回の公判で、先生は23回、出廷している。
 61年(同36年)12月16日、最終陳述が行われた。先生は「選挙を行うのは憲法に保障された国民の権利であり、義務であります。われわれが選挙運動をやってなぜ悪いか」と堂々と訴えた。
 閉廷後、そばに寄ってきた公判担当の検事には、こう強調した。
 「民主主義が続く限り、私たちは正々堂々と行動し、絶対に勝っていきます」

「大阪事件」無罪判決の日である1月25日は「北大阪総県の日」。同総県の男子部、池田華陽会、学生部のメンバーが大阪市中央公会堂の前で(1月15日) 
「大阪事件」無罪判決の日である1月25日は「北大阪総県の日」。同総県の男子部、池田華陽会、学生部のメンバーが大阪市中央公会堂の前で(1月15日) 
北区
「勝って泣く」の誓い

 大阪市中央公会堂、大阪地方裁判所は、どちらも大阪市北区に立つ。
 池田先生が勾留された大阪拘置所もかつて、北区にあった。だからこそ、友は「無罪判決」に至るまでの歴史と、そこにとどめられた精神をひときわ大切にする。
 梅原悦子さんも、その一人だ。54年(同29年)、4歳の時に家族で入会。56年(同31年)の「大阪の戦い」では、母・國重睦子さん(故人)と共に、池田先生の早朝の御書講義に参加したこともある。
 「大阪の戦い」の折、睦子さんのもとに先生から激励のはがきが届いた。以来、「負けて泣くより、勝って泣く」が睦子さんの誓いとなる。
 だが57年(同32年)4月、参議院大阪地方区の補欠選挙で、学会が推薦する候補者が落選。さらに、同年7月3日、池田先生が事実無根の容疑で逮捕された。睦子さんの頬を、悔し涙が濡らした。
 それでも、睦子さんは一歩も引かなかった。2週間後の17日、娘と一緒に大阪大会に参加。当時、まだ7歳だった梅原さんは、公会堂までどのように行き、どう帰宅したのかすら記憶にない。
 ただ、幼いながらも強烈に印象に残ったことがある。公会堂周辺に集った大勢の大人たちが皆、スピーカーから流れる音声に、真剣に耳を傾けていた姿だ。
 梅原さんが「大阪大会」の背景を知ったのは後のこと。その歴史を知れば知るほど、あの日、大人たちがなぜ、大雨に打たれながらも、その場から離れようとしなかったのかが理解できた。
 梅原さんは、母の「勝って泣く」との誓いを自らの信条とした。母は長年、茶道と生け花を地域で教え、友好の輪を広げてきた。その道に、梅原さんも続いた。
 「大阪事件」の判決日の前日である62年(同37年)1月24日、大阪市中央公会堂で関西女子部の幹部会が開催された。席上、関西の新本部の建設計画が発表された。過去と今を重ねつつ、梅原さんは力を込めた。
 「関西池田記念大講堂の計画が進む今、常勝関西の新たな歴史を開く戦いに勝利し、自身の人間革命の実証を地域に示していきます」

都島区
がむしゃらに広布一筋

 北区に隣接する都島区。ここにも、師の足跡が刻まれている。56年(同31年)の「大阪の戦い」の折、池田先生は幾度も同区を訪れた。
 激戦の最中、同区の友を励まし、模造紙に「大勝」としたためた。またある時には、座談会に出席。新来者22人のうち、20人が入会した。
 同区の柏木良子さん(故人)は、大阪大会に参加した数カ月後、長男の邦彦さんが脳性小児まひを患った。
 良子さんは長男を背負い、仏法対話に歩いた。罵声を浴びせられても、信心の確信が揺らぐことはなかった。
 60年(同35年)には、夫が経営する印刷会社が倒産。家族5人、四畳半一間のアパート暮らしが始まった。良子さんは宿命の嵐にも、負けじ魂を燃やして立ち向かった。
 邦彦さんは体調がいい時、座談会に参加。精いっぱい生きる姿が地域の友に勇気を送った。母の慈愛に包まれ、39歳で新たな生へと旅立った。
 長女の横山瑞枝さんは、信心に懸命に励む母の背中を見てきた。「母は広布一筋に、がむしゃらに戦う人でした」
 その母に触発され、瑞枝さんも「100%以上の戦いをしないと、納得できないようになりました」と笑う。「5・3」へ、200人との対話を目標に、都島を奔走する。
 次男の柏木清宏さんは学生部の時、座談会で行った「大阪大会」の劇で、山本伸一の役を担った。
 参加者が皆、感動の面持ちだった。その方々の姿を通して、「大阪大会」が自分が思った以上に、大切な歴史であることを胸に刻んだ。
 真珠腫性中耳炎や咽頭がんなど、数々の病を乗り越えてきた。3年前には心筋梗塞で緊急手術。その宿命も信心で勝ち越えた。
 柏木さんは語る。
 「2026年秋に完成予定の『関西池田記念大講堂』は都島区内に建ちます。だからこそ、私たちが負けるわけにはいきません。断じて凱歌の歴史を築きます!」
 それは、わが地域を愛し、幸の連帯を広げる、都島の全同志の誓いである。

1957年7月17日、大阪市中央公会堂で行われた「大阪大会」。約2万人の同志が集い、“戦いは負けたらあかん!”との「関西魂」が燃え上がった
1957年7月17日、大阪市中央公会堂で行われた「大阪大会」。約2万人の同志が集い、“戦いは負けたらあかん!”との「関西魂」が燃え上がった
東成区
「私は一生涯 祈りをおくります」

 大阪市東成区の井上正子さんは幼少の時、父親の河野正三さん(故人)が事業に失敗。54年(同29年)7月、一家で信心を始めた。
 大阪支部が1万1111世帯の弘教という「不滅の金字塔」を打ち立てた56年(同31年)5月、正三さんも弘教を実らせている。
 正三さんは「大阪大会」にも参加。師を心のど真ん中に置いた父の生き方を、井上さんも継いだ。
 81年(同56年)、井上さんは夫の邁さんと結婚し、東成の地へ。翌82年(同57年)5月4日、関西文化会館での東成区の「5・3」記念勤行会に、池田先生が出席。その場に夫婦で集った。
 この年、東成区の同志は、年頭から怒濤の勢いで対話に奔走。4月にはブロック1の弘教を達成し、全関西をリードする拡大を成し遂げた。その喜びの中で、師を迎えた。
 勤行会には当初、先生の出席予定はなかった。それが急遽の変更となったのだ。
 先生は「ぜひ一目でも、皆さんにご挨拶をと思い、来させていただきました」と語り、勤行・唱題の実践の意義を強調した。
 勤行会から10年後の92年(平成4年)、井上さんは区婦人部長の任命を受けた。そして翌93年(同5年)11月、関西国際友好会館(現・東成文化会館)で、師との生涯の原点を刻んだ。
 25日、同会館を訪問した先生は、関西最高会議(26日)、関西栄光総会(27日)、関西広布功労者の懇親会(28日)に出席。29日、岡山へ出発する前に、井上さんをはじめ、東成区の代表の友が会館に集った。
 先生は館内で記念のカメラに納まると、同会館訪問の間に、当時の本紙に連載されていた小説『新・人間革命』第1巻「錦秋」の章の執筆が進んだことを紹介した。
 井上さんは「東成で書かれたのは、差別について言及されている場面でした。“私たち東成のメンバーが、創価の人権闘争に立ち上がろう”と決意しました」と述懐する。
 師への感謝を胸に、東成の隅から隅まで歩いた。友と会い、互いに励まし合った。その“戦い”は今も続く。
 先生はかつて、東成の友に万感の思いを寄せた。
 「尊き わが佛子である
  皆様に 私は一生涯
  祈りをおくります。
  同志の心は
  美しく永遠なり」

1989年10月、池田先生ご夫妻が大阪・東成区の関西国際友好会館(当時)を訪問。この折、先生は「臆病であったり、名聞名利に流された弱い心では、人々を守ることはできない。強盛な信心で、心美しく、たくましきリーダーに」と関西の友に望んだ                                                                        
1989年10月、池田先生ご夫妻が大阪・東成区の関西国際友好会館(当時)を訪問。この折、先生は「臆病であったり、名聞名利に流された弱い心では、人々を守ることはできない。強盛な信心で、心美しく、たくましきリーダーに」と関西の友に望んだ                                                                        
城東区
一人も残らず福運と長寿の人生を

 「私は『大阪大会』には参加していませんが、その精神は広布拡大の戦いの中で、先輩方から骨身に染みるほど、何度も教わってきました」――大阪市城東区の達城良明さんは、そう語る。
 小学3年生の時、交通事故に遭った。2週間ほど意識を失った。目が覚めた時、最初に耳に入ってきたのは、母の題目の声だった。
 “母の祈りに救われた”。信心の力を実感し、学会の庭で自らを鍛え、育んできた。
 原点は、78年(昭和53年)10月11日、池田先生が出席して、豊中市の関西戸田記念講堂で開催された「城東区総会」。この時、達城さんは壇上役員の任務に就いていた。
 総会は「熱原の法難」700年の意義をとどめていた。席上、先生は語った。
 「広布のために尽くすことは、自分自身のために尽くすことでもある。また、その自分に連なる一家が、楽しく無事安穏の人生を送っていくためのものでもある」
 「広布の前進も、大河の時代に入った今日においては、一人の犠牲者もなく、一人も残らず福運と長寿の人生を勝ち取っていくことが大切であり、それが私の心からの祈りであり、願いである」
 さらに、御書の「我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし」(新117・全234)を、自らの魂とし、最高に充実した人生を送ることを訴えた。
 師の全幅の信頼は、城東中に歓喜を広げた。師が総会で拝した「開目抄」の一節の暗唱運動が起こった。一人一人が、御文を「自らの魂」にする挑戦を開始した。
 その戦いが花開いたのは、5年後の83年(同58年)。この年、城東の友は関西を牽引する対話拡大を達成。以来、師弟共戦の誉れの歴史をつづってきた。
 達城さんは決意する。
 「昨年、関西池田記念大講堂の基本構想が発表された喜びを前進の力として、青年を先頭に、新たな常勝の金字塔を打ち立てていきます」

我らは信心の王者なり

 北、都島、東成、城東の4総区からなる北大阪総県。
 88年(同63年)1月2日、池田先生は60歳の誕生日を迎えたその日、一枚の色紙に揮毫した。
 「信心の王者 北大阪」
 以来、35星霜。今、北大阪のあの地、この地で、痛快な広布勝利のドラマが始まっている。友は「我らは信心の王者なり」との誇りで進む。
 先生は語っている。
 「一念の力は無限だ! 一念の力は偉大だ! 『断じて勝つ』。この執念が強いほうが勝つ。心で勝ったものが勝つ。信心の王者こそ、絶対不敗の勝利者なのである」

1988年1月2日、池田先生は色紙に「信心の王者 北大阪」と揮毫した
1988年1月2日、池田先生は色紙に「信心の王者 北大阪」と揮毫した
 
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