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 楽聖の魂の調べは鳴り響く

2021年12月19日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第15回 楽聖の魂の調べは鳴り響く2021年12月19日

  • わが道を歓喜をもって走れ!

 日本の師走を彩る風物詩の一つに、ベートーベン作曲の「交響曲第9番ニ短調」の演奏がある。今年も列島各地で「第九」が高らかに鳴り響く年末を迎えた。
 ベートーベンは「極めて優れた作曲家・音楽家」を意味する「楽聖」といわれる。交響曲第5番「運命」や第6番「田園」など、彼が残した作品の数々は、今も多くの人を魅了する。
 池田大作先生は若き日から、楽聖の伝記などを読み、その生涯に強く共感した。友人たちから、“ベートーベン博士”と呼ばれ、近所の中学校の夏季学校に招かれて、楽聖に関する講義をしたこともあった。

オーストリアのウィーンに立つベートーベンの像。楽聖の生涯を通して、池田先生は述べている。「万策尽きたと言う前に、本当に万策を試してみたのか。千策も、いや百策だって本気でやってみたのか。行け。自分を信じよ」
オーストリアのウィーンに立つベートーベンの像。楽聖の生涯を通して、池田先生は述べている。「万策尽きたと言う前に、本当に万策を試してみたのか。千策も、いや百策だって本気でやってみたのか。行け。自分を信じよ」

 1949年1月3日、池田先生は戸田城聖先生が経営する出版社に初めて出社した。少年雑誌の編集に携わり、この年の5月には編集長となった。
 だが、不況に加えて、戦前からの大手出版社が雑誌の復刊などに乗り出した。出版物は過剰生産に陥り、同年12月、少年雑誌は休刊を余儀なくされる。
 戸田先生は新たな事業を開始したものの、暗礁に乗り上げた。翌50年8月には、業務停止が決定した。
 この窮地の時、池田先生が手回しの蓄音機で繰り返し聴いたレコードが、ベートーベンの「運命」だった。
 「ベートーベンの『運命』が、狭い一室に轟然と響きわたった時、その力強く厚い音の真っ只中に陶然として聴き入った感動は、今も鮮やかである」
 肺病による発熱。給料は遅配が続いた。絶体絶命の中で、レコードがすりきれるほど聴いた「運命」は、若き先生の魂を鼓舞したのである。
  
 53年1月2日、先生は25歳の誕生日を迎えたその日、男子部の第1部隊長に就任した。
 年末までに部隊1000人の達成へ向けて驀進していたある日、第1部隊の会合終了後、一人の青年が池田先生のもとへ来た。“男子部の役職をやめたい”という相談だった。
 青年は弱気になっていた。先生は、「逃げるんですか!」と一喝し、「一つ一つあきらめずに、力の限り挑戦していけば、すべてに勝利することができるものだ。私が応援するよ」と。
 それでも、青年は自信が持てず、意を決して、池田先生のアパートへ向かった。先生はその青年と銭湯に行った後、アパートでレコードを2曲かけた。スッペの「軽騎兵」序曲と、ベートーベンの「運命」である。レコードを聴くと、青年に語った。
 「悔しくとも、悲しくとも、また、どんなに大変でも、前へ、前へと進むんだ」
 青年は後に長野広布のリーダーとなる。この時の先生の励ましについて、「現在も私の心の中に生きている」と手記に残した。音楽を通した激励は、青年の心をいつまでも温め続けた。

池田先生が青年時代に使用した蓄音機と同時代のもの
池田先生が青年時代に使用した蓄音機と同時代のもの

 音楽家にとって、聴覚は命そのものである。その聴覚の異常を、ベートーベンが自覚するようになったのは、1798年ごろといわれる。
 ベートーベンは主治医の勧めで、1802年の半年間ほど、オーストリアのウィーン郊外に位置するハイリゲンシュタットに居を構えた。そこで、彼は幾つもの名曲を生み出した。
 ハイリゲンシュタットの建物は現在、ベートーベンの記念館に。1981年5月27日、オーストリア訪問の折、池田先生は記念館に足を運んだ。
 楽譜や手紙、肖像画など、先生は一つ一つを丹念に見学。記念館の関係者から一筆を求められると快く応じ、ペンを走らせた。
 「正義/青年時代に憧れの/大作曲家の家に来たる/ベートーベンと/常に生き語りし想い出を/思い出しながら/しばし、この地にたたずむ」
 この日、先生に同行したヨシオ・ナカムラさん。2年前の79年4月10日、次男のケイジさんが生後6カ月で亡くなった。すぐに東京から電報が届いた。池田先生からだった。
 「ダイショウニンノブッポウハ(大聖人の仏法は) シュクメイテンカンノブッポウデス(宿命転換の仏法です)」
 「フドウノシンジンニタチ(不動の信心に立ち) スベテヲヘンドクイヤクシテ(全てを変毒為薬して)……」
 同年4月24日、先生は第3代会長を辞任。ヨシオさんは、「最も大変な時に、日本から遠く離れた私と妻のヤスエのことを心配して電報を打たれた。先生が一人のために、どれほど心を砕かれてきたか。そのことを示しているのではないでしょうか」と振り返る。
 師の励ましは続いた。2003年10月5日、聖教新聞にベートーベンの記念館を訪れた思い出をつづったエッセーが掲載された。
 ヨシオさんとヤスエさんは目を真っ赤にしながら、紙面を読んだ。10月5日が、ケイジさんの25歳の誕生日だったからである。
 「生きよう。もう数えるな。自分に何ができなくなったかを。もう数えるな。自分の手からこぼれてしまった幸福の数々を。むしろ、自分にもまだできることがある。それだけを考えて生きよう」――エッセーの一文一文を胸に刻み、ナカムラさん夫妻は、オーストリア広布に突き進んだ。
 しかし、再び過酷な運命が待ち受けていた。2007年、創価大学に学び、オーストリアのテレビ局で働いていた長男のシンイチさんが、急性白血病で倒れた。先生は病床のシンイチさんに伝言を贈った。
 「シンイチ君。断じて生き抜け。皆が待っている。創大生が、学会員が世界中で待っている。絶対負けるな。笑顔で会おう」
 ステロイドの副作用で骨はもろくなり、両足にチタンを入れた。重度の貧血にも苦しめられた。それでも、生きることを諦めなかった。壮絶な闘病生活を続けて8年。シンイチさんはついに、社会復帰を果たした。
 長女のカヨコさんも、創価大学を卒業し、オーストリアの地で自他共の幸福の輪を広げる。
 難聴に苦しむベートーベンは、「僕は運命の喉元を締めつけてやりたい。どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない」(片山敏彦訳)と記した。
 師の激励を生きる力に変え、蘇生の階段を一歩また一歩と上ってきた、ナカムラさん一家。楽聖のような不屈の歩みを、現在も続けている。

ウィーン郊外にあるベートーベンの記念館を訪問(1981年5月27日)。難聴に苦しんだ楽聖が遺書を書いたことから“ハイリゲンシュタットの遺書の家”とも呼ばれる。池田先生は遺書の複製やピアノなどを見て回り、その生涯に思いを巡らせた
ウィーン郊外にあるベートーベンの記念館を訪問(1981年5月27日)。難聴に苦しんだ楽聖が遺書を書いたことから“ハイリゲンシュタットの遺書の家”とも呼ばれる。池田先生は遺書の複製やピアノなどを見て回り、その生涯に思いを巡らせた

 ベートーベンの肖像画を一度でも見たことがある人は多いだろう。バッハやモーツァルトなどの肖像画はかつらを着けているが、楽聖のそれは地毛である。
 音楽家はかつて、王侯・貴族の支援によって生計を立てていた。かつらは宮廷の仕事場において必需品だった。
 ベートーベンは王侯・貴族から自立した生活を望んだ。権力・財力など“力を持つ人間”にへつらうことを嫌った。楽聖は、自らの音楽は貧しい人々にささげられなければならない、と考えていた。
  
 1990年11月16日、学会創立60周年を祝賀する本部幹部会が開催された。席上、富士交響楽団と創価合唱団によるベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」の演奏・合唱が行われた。
 先生はスピーチで、「歓喜の歌」に言及し、いかなる苦悩も突き抜けて、人生の勝利と歓喜を勝ち開いていこうと訴えた。さらに、創立65周年には5万人、創立70周年には10万人で「第九」の合唱を提案。“ドイツ語でもやろう”と呼び掛けた。
 1カ月後の12月16日、宗門から「お尋ね」と題する文書が学会に送付されてきた。ドイツ語で「歓喜の歌」を歌うことは、キリスト教の神を賛嘆することであり、「外道礼讃」であるという的外れなものだった。そこには、宗門の「文化否定」の体質が如実に表れていた。
 宗門が文書を送り付けてきた12月16日は、くしくも、ベートーベンの生誕の日である。この日、一年の掉尾を飾る本部幹部会が行われた。
 先生は、ベートーベンが難聴という絶望の中で、作曲を続けた理由について、自らがつかんだ歓喜の境涯を、未来の人々のために分け与えたかったからであると語った。
 この年、世界では、東西に分断されていたドイツが統一。その前夜、東ドイツで行われた式典で「歓喜の歌」が合唱された。ドイツ語では「神々」との表現があるが、それは特定の宗教を示したものではない。哲学者の河端春雄氏は、「人間の内なる精神の極致、理想」と指摘している。
 「第九」は、宗派を超越し、人類の融和と勝利の象徴として、世界で歌われてきた。その普遍性を「外道礼讃」と否定した宗門は、閉鎖的な教団であることを自ら“逆証明”したのである。

本部幹部会の席上、池田先生がVサインを(1990年12月16日、大田池田文化会館で)。さあ、「青年・飛躍の年」へ! 歓喜の凱歌を轟かせよう
本部幹部会の席上、池田先生がVサインを(1990年12月16日、大田池田文化会館で)。さあ、「青年・飛躍の年」へ! 歓喜の凱歌を轟かせよう

 創立65周年に5万人、創立70周年に10万人で「第九」の合唱を――この師の提案を実現したのが、九州青年部だった。しかも、ドイツ語である。
 94年11月23日、福岡ドーム(当時)での「アジア青年平和音楽祭」で、5万人が「歓喜の歌」を合唱。2001年12月2日には、マリンメッセ福岡と九州の116会場、さらに東京の学会本部を生中継で結び、「アジア青年平和文化総会」が行われ、10万人の「歓喜の歌」が響き渡った。
 「5万人の第九」が決定した後、幾つもの課題が出てきた。なかでも、“5万人の混声合唱が一つになれるか”は最大のものだった。
 5万人がオーケストラの音を同時に聞くために、全員がレシーバーを耳に着けた。また、ロイヤルボックスから均等の距離で、合唱メンバーが扇形に並ぶようにした。さらに、各パートの歌声を一つにするために、合唱メンバーの指揮者を配置した。青年たちは、できる全てのことをやり抜いた。
 本番数日前に初めて行われた5万人のリハーサル。ロイヤルボックスで、歌声は見事に一つに溶け合った。本番は、より力強く、より崇高な響きをたたえた。
 音楽祭の終了後、先生は「数万の 若き歌声 世界へと 胸を貫き 飛びゆく美事さ」など3首の和歌を詠んだ。空はあかね色に染まっていた。先生は「この50年で、一番素晴らしい夕日だ」と。夕焼けは、九州青年部の勝利を現していた。
  
 「歓喜の歌」に、「走れ、兄弟たちよ、汝らの道を/凱旋の英雄のように歓びをもって」(渡辺護訳)と。
 2022年は、7年ごとの前進を期す「第2の七つの鐘」の4番目の鐘を打ち鳴らす出発の時である。
 進もう。師と共に、同志と共に。
 わが使命の道を、歓喜をもって。

苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!――5万人の青年が「第九」を高らかに歌い上げた、九州のアジア青年平和音楽祭(1994年11月23日、福岡ドーム〈当時〉で)。池田先生は、「九州は勝ったね! 完璧だった」と青年たちの奮闘を最大にたたえた
苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!――5万人の青年が「第九」を高らかに歌い上げた、九州のアジア青年平和音楽祭(1994年11月23日、福岡ドーム〈当時〉で)。池田先生は、「九州は勝ったね! 完璧だった」と青年たちの奮闘を最大にたたえた
【アナザーストーリー】

 1957年8月30日、本紙に「運命の人 ベートーヴェン」と題する記事が掲載になった。執筆したのは池田先生である。
 先生は、聴覚を奪われた中で、不朽の名作を残したこと自体が、楽聖の偉大さを物語っているとつづった。
 執筆1カ月前の7月3日、先生は権力の横暴によって、無実の罪で逮捕・勾留された。過酷な獄中闘争は17日まで続いた。
 8月上旬には、東京・荒川区で広布の指揮を執り、わずか1週間で区の会員世帯の1割を超える拡大を成し遂げた。
 激闘に次ぐ激闘の中で、先生は原稿を書き、紙面を通して同志に勇気を届けた。
 ベートーベンは、「おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!」(片山敏彦訳)と書き残した。この言葉を通して、先生は述べている。
 「わが友は、その使命と責任の大きさゆえ、来る日も来る日も、忙しい。労苦も多い。しかし、だからこそ、幾百倍、幾千倍も充実した人生を生きている。この生命を最大に輝かせているのだ。
 この一年も『私は勝った!』『我らは勝った!』と、万歳の歓呼を共々に送り合おうではないか」

 
【引用・参考文献】中野雄著『ベートーヴェン』(文春新書)、ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳(岩波文庫) 

 
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