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逆境を勝ち越えた英雄たち】第25回 チャールズ・チャップリン

2022年11月20日 | 妙法

ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】第25回 チャールズ・チャップリン2022年11月20日

イギリス・ロンドンのシンボルであるタワー・ブリッジ(1989年5月、池田大作先生撮影)。この街で生まれたチャップリンは、試練に負けず俳優の夢を実現し、人々の心に“平和の橋”“希望の橋”を架けた
イギリス・ロンドンのシンボルであるタワー・ブリッジ(1989年5月、池田大作先生撮影)。この街で生まれたチャップリンは、試練に負けず俳優の夢を実現し、人々の心に“平和の橋”“希望の橋”を架けた
<チャールズ・チャップリン>
宇宙にある力が地球を動かす。 
君の中にある力と同じだ。
それを使う勇気と意志を持つんだ。

 本年は、喜劇王チャールズ・チャップリンの没後45年。日本では今月、彼の代表作を一挙に紹介する映画祭が開幕した。

 上映作品の一つで、“チャップリンの映画人生の集大成”と呼ばれる「ライムライト」(1952年公開)。足が動かなくなって絶望するバレリーナを、彼扮する芸人が励ます場面がある。

 「君は戦おうとしない。たえず病気と死を考えている。死と同じく生も避けられない。生命だ、命だ。宇宙にある力が地球を動かし木を育てる。君の中にある力と同じだ。その力を使う勇気と意志を持つんだ」

 多くの作品を通して、人間の持つ偉大な可能性を訴えたチャップリン。彼のメッセージは混迷の現代社会を照らす灯となって、世界中に勇気と希望を送り続ける。

トレードマークのちょびひげに山高帽、ステッキを身に着けたキャラクター「チャーリー」に扮するチャップリン(1889―1977年)。国や世代を超えて愛されている(時事)
トレードマークのちょびひげに山高帽、ステッキを身に着けたキャラクター「チャーリー」に扮するチャップリン(1889―1977年)。国や世代を超えて愛されている(時事)

 1889年4月、チャップリンはイギリス・ロンドンで生まれた。両親は舞台で活躍していたが、父の酒癖の悪さが原因で翌年に離婚。兄と共に母の女手一つで育てられた。

 彼が5歳の時のこと。過労で喉に異変が生じていた母が、舞台上で声を出せなくなってしまう。場内に飛び交う罵声やヤジ。どうにか事態を収めようと、劇場の支配人は付き添いで来ていたチャップリン少年をステージに立たせた。

 緊張の中、チャップリンが当時の流行歌を歌うと、そのかわいらしさに観客は大喜び。予期せぬ形で実現した初舞台は、鮮烈な思い出として少年の記憶に刻まれた。

 結局、この日を境に母は職を失い、家族の生活は困窮を極めた。それでも、母はいつも明るく振る舞い、時にはパントマイムなどをして、子どもたちを楽しませた。

 それが「俳優になるという最終目標だけは、一度として見失わなかった」という彼の原動力となったのだろう。打ち続く経済苦や母の病などの苦境も、チャップリンはたくましい楽観主義で、その一つ一つを乗り越えていく。身なりは粗末でも、心には夢への情熱の炎が赤々と燃えていた。

 10代になると、自らを売り込みながら、さまざまな劇団を渡り歩くように。その中で類いまれな才能が磨かれ、やがてアメリカで舞台に立つチャンスが来た。この巡業が大成功を収め、映画界の目に留まった彼は、ハリウッドの会社にスカウトされ、1914年2月、24歳で銀幕デビュー。喜劇王の階段を駆け上がっていった。

<チャールズ・チャップリン>
お互いの不幸ではなく、幸せのために生きよう。
幸福を生み出せるのは、
あなた方、普通の人々なのです!

 チャップリンが生きたのは、2度の世界大戦が起きた激動の時代でもあった。

 軍靴の響きが高まる中、「笑いと涙とが、憎しみと恐れの解毒剤になることを信じて疑いません」と語る彼が発表した作品に「独裁者」(1940年公開)がある。

 映画の最終盤、ヒトラーを彷彿させる独裁者とうり二つのユダヤ人の“床屋”が、ひょんなことから間違えられ、代わりに群衆を前に演説することに――。

 「わたしたちは、お互いの不幸ではなく、お互いの幸せのために生きたいと思っています。憎んだり、軽べつしたりしたいのでありません。だれがこの地球の上に住んでも良いのです」

 「幸福を生み出す力をもっているのは、あなた方、普通の人々なのです! あなた方は、人生を自由で、美しくまたすばらしい冒険にあふれたものにする力を持っています」

ナチス・ドイツのヒトラーを痛烈に皮肉った映画「独裁者」。笑いを武器に戦争と戦った©Bettmann/Getty Images
ナチス・ドイツのヒトラーを痛烈に皮肉った映画「独裁者」。笑いを武器に戦争と戦った©Bettmann/Getty Images

 製作中から激しい妨害を受けながらも「独裁者」を完成させ、ユーモアを武器に平和と自由のために戦い抜いたチャップリン。だが戦後の冷戦期に入ると、アメリカに吹き荒れたマッカーシズム(共産主義者追放運動)の嵐に苦しめられる。長年、米国内で活動してきたにもかかわらず、自らを「世界市民」と位置付け、国籍はイギリスのままだったことから“赤”のレッテルが貼られ、国外追放されてしまったのだ(52年)。

 それでも、彼の偉大な功績が色あせることはなかった。54年、ベルリンで開かれた世界平和会議で国際平和賞を受賞。その後、英・オックスフォード大学の名誉博士号、フランスの国家勲章、パリ市の最高名誉市民の栄誉を受けた。

 さらにアメリカから再び認められ、追放から20年後に渡米。ハリウッドへの多大な貢献がたたえられ、アカデミー特別賞が贈られた。88歳の生涯で手がけた映画は80本以上。亡くなる2年前の75年には、英国王室からナイトの爵位が授けられている。 

映画「モダン・タイムス」の一場面。機械化による大量生産のために、人間性が脅かされることをコミカルに描いた©Hulton Archive/Getty Images
映画「モダン・タイムス」の一場面。機械化による大量生産のために、人間性が脅かされることをコミカルに描いた©Hulton Archive/Getty Images
<チャップリンを語る池田先生>
百千万億劫の功徳を、ともどもに
大輪の花と光り輝かせていくための、
今世の信心の闘争だ。だからこそ
何があっても、かの喜劇王のごとく
「明朗王」として進むのだ。

 池田先生も若き日から喜劇王に魅せられ、「青年時代に見た傑作の数々が忘れられない」と述べたことがある。そして折々にチャップリンの人生を通し、同志に励ましの言葉を語り、つづってきた。

1989年5月、ロンドン郊外のタプロー・コート総合文化センターで、メンバーに手品を披露する池田先生。滞在中には、チャップリンのものまねを行い、イギリス広布に駆ける同志を励ます一幕もあった
1989年5月、ロンドン郊外のタプロー・コート総合文化センターで、メンバーに手品を披露する池田先生。滞在中には、チャップリンのものまねを行い、イギリス広布に駆ける同志を励ます一幕もあった

 また彼の令孫で、俳優のキエラ・チャップリンさんとも交流がある。かつて届いた手紙には、こう記されていた。

 「私は、イギリスSGIの友人から、会長が最愛の祖父の言葉を通して、多くの人々を激励されていることを何度も伺いました。祖父の言葉を、会長のような方に語り継いでいただき、私にとって、これほど、喜ばしいことはありません」「祖父が知れば、とても誇りに思うと確信します」

 先生が特にチャップリンについてスピーチしたのは、1990年の年末から91年の年頭である。

 90年の暮れ、学会破壊を企てた第2次宗門事件が勃発。先生はチャップリンのものまねをして会場を沸かせ、宗門の独裁者を笑い飛ばした。

 91年1月6日の第37回本部幹部会では、次のように訴えている。

 「チャップリンはつねに語っていた。『生きることはすばらしい!』。そして『笑うことはすばらしい!』と。『笑うこと、人生におけるもっとも厳しい事態をも笑い、死すらも笑うことのなかには、健康なものがある。笑いは強壮剤であり、気晴らし、苦痛の放棄である。それは、この世でもっとも健康的なものである』――。

 何があろうと、笑いとばす強さ、朗らかさ、心のゆとり。そこに『生命の健康』がある、と。真剣と深刻とは違う。勇敢と悲壮とは違う。大勇の人は、明るい。確信の人は、冷静である。知性の人には笑顔の余裕がある。(中略)

 まさしく闊達な『笑い』こそは、不屈なる“心の勝者”の証である」

 さらに1月23日の第15回全国婦人部幹部会では、名作「街の灯」でチャップリン演じる放浪者が、同じ人間として、悩める大富豪を激励する場面を紹介しつつ、こう呼びかけている。

 「悩める人間がそこにいる。――チャップリンは、声をかけずにいられない。これこそ、『人間』である。そして、まさにわが学会の世界であり、仏法の世界である。(中略)

 また、大聖人が繰り返し強調しておられるように、御本尊の前には皆、平等である。いかなる差別もないし、あってはならない。ありのままの『人間』同士の、平等な、仏法の民主の世界なのである。

 だからこそ、チャップリンと同じく、世界の人々が学会に共感した。共感があったから、正法がこれほどまでに広がった。学会の前進が正しいがゆえに、仏法を信奉する人々が世界中に急増したのである」

 90年12月9日、池田先生は後継の青年部に万感の期待を語った。

 「信仰だけは、『強き信心』に生きぬけと申し上げたい。

 結局、最後に幸せになった人が得である。また、勝利した人が得である。途中のよしあしや楽しさに幻惑され、それと最終章の厳しき勝負とをはきちがえてはならない。このことを教えるのが真実の仏法である。百千万億劫の功徳を、ともどもに大輪の花と光り輝かせていくための、今世の信心の闘争なのである。ともあれ、いかに悲しく、また苦しいことがあっても、かの喜劇王チャップリンのごとく、『明朗王』として生きぬいていかれんことを」(第3回男子青年部幹部会・創価班、牙城会総会でのスピーチ)と。

 「青年・凱歌の年」へ、新たな広布の劇が始まった。その主人公は私たち一人一人である。

【引用・参考】G・サドゥール著『チャップリン』鈴木力衛・清水馨訳(岩波書店)、パム・ブラウン著『伝記 世界を変えた人々12 チャップリン』橘高弓枝訳(偕成社)、ラジ・サクラニー著『チャップリン』上田まさ子訳(佑学社)、大野裕之著『チャップリン再入門』(日本放送出版協会)、映画「ライムライト」チャールズ・チャップリン監督、映画「独裁者」同、ほか
【引用・参考】G・サドゥール著『チャップリン』鈴木力衛・清水馨訳(岩波書店)、パム・ブラウン著『伝記 世界を変えた人々12 チャップリン』橘高弓枝訳(偕成社)、ラジ・サクラニー著『チャップリン』上田まさ子訳(佑学社)、大野裕之著『チャップリン再入門』(日本放送出版協会)、映画「ライムライト」チャールズ・チャップリン監督、映画「独裁者」同、ほか

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 【ファクス】03-5360-9613

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第11回本部幹部会〉 原田会長のあいさつ(要旨)2022年11月19日

  • 友が増えれば、世界も未来も広がる

 一、「青年・飛躍の年」を見事に勝ち飾っての「第11回本部幹部会」の開催、誠におめでとうございます(拍手)。
 
 折伏・弘教、聖教新聞の購読推進、そして教学部任用試験と、この下半期も全てに勝利し、「11・18」を迎えることができました。全同志の皆さまに心より御礼申し上げます(拍手)。
 
 また、広布部員の申し込みにつきましては、コロナ禍の中、とりわけ地区部長・地区女性部長の皆さまに、多大なご尽力を賜りました。あらゆる戦いに陣頭指揮を執っていただきながらの推進に、深く深く感謝申し上げます。
 
 今月下旬からは、振り込みが開始されます。広布部員の皆さまには、どうか一切無事故で、福徳あふれる、すがすがしい財務となりますよう、よろしくお願い申し上げます。
 
 一、さて、明2023年は、テーマを「青年・凱歌の年」とすることが発表されました。
 
 明年で10周年となる広宣流布大誓堂の完成に当たり、池田先生は「師と弟子が 大誓願の 凱歌城」と詠まれました。わが地域に、勝利の歌声が響き渡る人材城を築きゆくことこそ、師弟共戦の証しにほかなりません。
 
 そこで明年は、「青年・凱歌の年」とのテーマのもと、青年を先頭に、一人一人が青年の心で、5・3「創価学会の日」を立正安国の凱歌、11・18「創価学会創立記念日」を広布拡大の凱歌をもって飾ってまいりたい。
 
 「青年」とは、「新たな出会いを求める人」の異名ともいえます。池田先生は、こう指導されています。
 
 「何歳になっても、新しい出会いを求め、友人をつくっていくことだ。友が増えれば、世界が広がる。未来が広がる」と。
 
 新たな友を増やし、世界を広げ、未来を広げるところに、自身の境涯が広がり、「年はわこうなり、福はかさなり候べし」(新1543・全1135)という生涯青春の大道が開けるのであります。
 
 コロナ禍によって、全世代を通じて他者とのコミュニケーションが激減し、孤独感がまん延する今こそ、「古き友人を大切にし、新しい友人をつくろう」を合言葉に、はつらつと新たな友情を求め、結んでいきたい。
 
 また、2023年は、池田先生による小説『人間革命』の完結、そして小説『新・人間革命』の起稿から30周年でもあります。
 
 先生は綴ってくださいました。
 
 「『人間革命』『新・人間革命』は、わが全宝友と分かち合う黄金の日記文書なり、との思いで、私は綴ってきた。ゆえにそれは、連載の完結をもって終わるものでは決してない。我らは、これからも、未来永遠に、師弟共戦の『誓願』という主題を貫徹しながら、自他共の生命に栄光凱歌の日記文書を厳然と刻みゆくのだ! 『人間革命 光あれ』と」
 
 師弟共戦の誓願とは、すなわち広宣流布であります。一人一人が折伏・弘教の実践を通して、「広宣流布」即「人間革命」の「わが栄光凱歌の日記文書」を、悔いなく綴っていきたい。

わが地域に師弟の凱歌城を

 一、本日は皆さまに、うれしいご報告があります。「常勝関西」の新たな拠点となる「関西池田記念大講堂」の基本構想がまとまりましたので、ここで発表させていただきます。
 
 はじめに建設地は、大阪城を間近に望み、交通の便もよく、古くから桜の名所として知られる、大関西の中心拠点にふさわしい、素晴らしい場所です。
 
 この関西池田記念大講堂は「関西方面本部」としての機能を備えた一大拠点となります。約5000人を収容できる大講堂を備え、「大法興隆所願成就」の関西本部常住御本尊が御安置されます。
 
 外観は、「常勝不敗の錦州城」にふさわしい質実剛健なデザインとしつつ、周辺の景観を踏まえて検討しました。
 
 敷地内には、大正時代から保存されてきた歴史的建造物と庭園があり、これらについては、その文化的価値を踏まえ、保存・再整備することとし、引き続き、地域・社会と共有できるよう、活用方法の検討を進めていきます。
 
 この関西池田記念大講堂の建設は、創立100周年への記念事業として進められ、「大阪の戦い」から70周年の節目となる2026年の秋に完成する予定です。
 
 関西の皆さん、大変におめでとうございます(拍手)。
 
 大講堂建設構想が発表された1995年7月3日、池田先生は詠まれました。「常勝の その名も名高き 関西は 世界一なる 凱歌の城かな」
 
 先生が関西の同志と共に「凱歌の城」を築かれたように、私たちもまた、「世界一」と誇れる師弟の凱歌城を、先生と共に、それぞれ、わが地域に築いていこうではありませんか(拍手)。

11・18「創価学会創立記念日」を祝賀する第11回本部幹部会。「広宣流布大誓堂」完成10周年となる明年へ、新たな飛躍を誓い合った(12日、巣鴨の東京戸田記念講堂で)
11・18「創価学会創立記念日」を祝賀する第11回本部幹部会。「広宣流布大誓堂」完成10周年となる明年へ、新たな飛躍を誓い合った(12日、巣鴨の東京戸田記念講堂で)

 一、今、弘教・拡大や任用試験、「SOKAユースフェスタ」などを通して、新たな人材が陸続と広布の本舞台に躍り出ています。この時に当たって確認し合いたいのは、会合は「手段」であり、会員一人一人の成長と幸福こそ「目的」である、という点であります。
 
 例えば現在、オンライン会合が普及した地域では、これまで仕事や育児などで会合に参加できなかった若いメンバーが、創価家族の輪の中で、広布の人材として生き生きと成長してきております。そうした方々は、多忙な中、オンラインだからこそ参加できているのであり、それを旧来の固定観念のまま、一律に大きな会合で集めようとしても、それは本末転倒、手段が目的となってしまいます。
 
 池田先生は、このようにご指導くださっています。「会合は手段です。それが会合をこなすだけの組織になっては本末転倒です。苦しんでいる人がいないか、行き詰まっているところはないか、サーチライトを当てて、探し出すのです。問題は必ずある。そこへただちに飛んでいって指導し、『励まし』を贈ることです」と。
 
 もちろん、重要な戦いの節目では大きな会合も必要です。しかし、どこまでも人材育成の基本は「一対一」。この一点を銘記し、全幹部が一人一人の激励へ歩きに歩いていきたい。
 
 さあ、明年の完全勝利へ向けて、青年の息吹で、草の根の友好拡大に、勢いよく飛び出していこうではありませんか(拍手)。

 
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〈栄光の共戦譜〉第11回

2022年11月15日 | 妙法

〈栄光の共戦譜〉第11回 1970年(昭和45年)「革新の年」2022年11月15日

師弟の誓いを断じて果たす  

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第11回は、「革新の年」と銘打たれた1970年(昭和45年)を掲載する。

「5・3」750万世帯達成の本部総会
300万世帯達成が発表された本部幹部会で登壇する池田先生(1962年11月、東京体育館で)。この8年後に750万世帯を突破する
300万世帯達成が発表された本部幹部会で登壇する池田先生(1962年11月、東京体育館で)。この8年後に750万世帯を突破する

 池田先生の第3代会長就任10周年を刻む1970年(昭和45年)の1月28日、学会本部で開催された総務会で、会員750万世帯の達成が報告された。
 66年11月末、学会は600万世帯を成就し、69年5月3日、先生は翌年の5月3日までの指標として750万世帯を掲げた。
 70年に入り、「言論問題」によって、学会に対する理不尽な非難中傷の嵐が吹き荒れた。創価の師弟は逆境をはね返し、目標よりも3カ月以上も早く“拡大の金字塔”を打ち立てたのである。
 75万世帯の弘教という目標が発表されたのは、51年5月3日、戸田先生の第2代会長就任式だった。若き池田先生が広布の大波を起こす中、57年12月、師弟の誓願は成就する。
 60年5月3日、第3代会長に就任した池田先生は、恩師の遺言である300万世帯を誓いに立て、わずか2年後の62年に達成。
 750万世帯は、戸田先生が宿願とした75万世帯の10倍の勢力であり、日本一の大教団へと発展した学会の、「宗教界の王者」の証しにほかならなかった。
 70年4月2日、戸田先生の十三回忌大法要が営まれ、池田先生は亡き恩師に報告した――「先生! 広宣流布の流れは、遂に渓流より大河の流れとなりました」
 学会は「創業の時代」「建設の時代」から、いよいよ「完成期」に入ろうとしていた。5月3日の本部総会で、先生は同志に新たな広布観を示した。
 「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」
 さらに、広布の基盤が盤石に整ったことから、「ブロック」組織への移行が発表された。紹介者と新入会者というつながりである従来の「タテ線」を基調にした組織から、現在につながる、地域を基盤とした「ヨコ線」へと活動の舞台が移ったのである。
 先生は、学会員が中心になって、地域社会に、人間と人間の、強い連帯のネットワークをつくり上げなければならないと考えていた。それこそが、現代の社会が抱える、人間の孤立化という課題を乗り越え、社会が人間の温もりを取り戻す要諦だと、先生は学会のみならず、社会全体の未来を見据えていた。
 創価の同志は、そうした師匠の思いに呼応し、使命の地域で平和と友情のネットワークを広げてきた。地域を照らす対話運動の社会的意義について、多くの識者も共感の声を寄せる時代となった。
 コロナ禍によって、社会的孤立の深刻化が懸念されている。人間と人間の“心の絆”を強めゆく創価の同志の実践は、輝きを増している。

「6・27」未来会を結成

 「学会がどうなるか、二十一世紀を見てください。社会に大きく貢献する人材が必ず陸続と育つでしょう。その時が、私の勝負です!」
 1970年(昭和45年)5月、学会を揶揄するような、意地の悪い質問も飛び交う記者会見の場で、池田先生は毅然と語った。「言論問題」の渦中だった。
 この障魔の嵐の中にあって先生は、“自分の手で、本物の人材を育てよう”と、6月27日に神奈川・箱根の研修所(当時)で、未来を担い立つ高・中等部、少年・少女部の代表と共に、野外での研修会を行った。
 集まった鳳雛たちに対し、先生は「民衆を守り、幸福にするために、みんな、しっかり勉強してほしい」と訴えた。さらに、将来、次代を担う文学者、科学者などが誕生しゆくことを望んだ。
 そして、学会の未来を託す後継者として、参加者によって「未来会」が発足。以後、全国各地で同会が結成されていった。師匠の手作りによって、広布のリーダーや、各分野で活躍する社会の第一人者が巣立っていったのである。

1979年1月、東北各地で未来会が結成され、青森の結成式は青森文化会館(当時)で行われた
1979年1月、東北各地で未来会が結成され、青森の結成式は青森文化会館(当時)で行われた

 師の未来部に対する期待に応え、“未来の宝”の成長を図るための取り組みとして、この年、小・中学生文化新聞(当時)主催で、第1回となる作文コンクールが行われた。
 11月29日、聖教新聞社で開催された授賞式の終了後、社内を見学する未来っ子たちのもとへ、先生が激励に訪れた。
 「あっ、池田先生だ!」
 皆の瞳が輝いた。先生は抱きかかえるように励ましを送り、作文コンクールの歴史に心温まるドラマが刻まれた。
 作文コンクール以降、読書感想文や絵画展もスタート。E―1グランプリも含め、各種コンクールは未来部の伝統となっている。
 先生は、未来部育成における地域の同志の使命を強調している。
 「『未来』を担い立つ子どもたち、青年たちのために、深き慈愛をもって道を創りゆく、創価家族の献身こそ、『仏の御心』を体現した姿にほかならない」
 創価家族の真心からの励ましこそ、“後継の宝”を育む、かけがえのない陽光である。

第4回の絵画展を池田先生ご夫妻が丹念に鑑賞。少年少女たちの力作をたたえた(1990年1月、横浜市の戸田平和記念館で)
第4回の絵画展を池田先生ご夫妻が丹念に鑑賞。少年少女たちの力作をたたえた(1990年1月、横浜市の戸田平和記念館で)
◆年表◆
1970年

 〈1月1日〉
 聖教新聞に詩「革新の響」を発表
  
 〈1月28日〉
 学会本部で総務会を開催
 学会世帯数750万世帯の達成を発表
  
 〈2月9日〉
 小説「人間革命」第6巻の聖教新聞連載を開始。体調が優れないため、口述をテープレコーダーに吹き込み、連載を続ける
  
 〈4月2日〉
 戸田先生の十三回忌大法要(静岡)
  
 〈5月3日〉
 第33回本部総会(東京)
 「広宣流布は流れの到達点ではなく流れそれ自体」であり、また「“妙法の大地に展開する大文化運動”である」と定義づける。
 言論の自由を守り抜くことを総意として確認し、創価学会と公明党の関係について、学会は支持団体であり、組織的には双方を明確に分離すると表明。
 さらに21世紀を展望し、人間が科学技術の奴隷となるのではなく、科学技術を使いこなしていく「人間の世紀」としなければならないと強調。創価学会は人間生命の開拓による新しい文化の母体として社会に貢献していきたいと方向性を述べた。
 また、従来の紹介者と新入会者とのつながりを基調とした組織(「タテ線」)から、地域を基盤としたブロック組織(「ヨコ線」)への移行等を発表。組織が整備され、「支部―地区―班―組」から「総ブロック―大ブロック―ブロック」などとなる
  
 〈6月27日〉
 高・中等部、少年部の野外研修で東京未来会第1期を結成
 民衆を守り、幸福にするために、しっかり勉強してほしいと語る(神奈川)
  
 〈8月31日〉
 関西指導(~9月3日。大阪、京都)
  
 〈9月13日〉
 富士合唱団の第1回定期演奏会(東京)
  
 〈10月8日〉
 ’70東京文化祭(東京)
  
 〈10月18日〉
 九州指導(~20日。福岡)
  
 〈11月2日〉
 創価学園の第1回鳳友祭(東京)
  
 〈11月3日〉
 第1回学術部総会に詩「熱原の三烈士」を贈る
  
 〈11月12日〉
 関西指導(~14日。大阪)
 ’70関西文化祭(12日)
  
 〈11月29日〉
 小学生文化新聞および中学生文化新聞主催の第1回作文コンクール授賞式の出席者を激励(東京)
  
 〈12月6日〉
 第19回男子部総会に詩「青年の譜」を贈る
  
 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載

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第11回本部幹部会への池田先生のメッセー

2022年11月13日 | 妙法

第11回本部幹部会への池田先生のメッセージ2022年11月13日

  • 偉大なる「創価の大城」築き仰がむ 満々たる生命力で三世の凱歌へ共々に
リーダーが前進すれば、皆が前進! 21世紀の「人材革命の波」を――スピーチする池田先生(1997年7月、八王子市の東京牧口記念会館で)
リーダーが前進すれば、皆が前進! 21世紀の「人材革命の波」を――スピーチする池田先生(1997年7月、八王子市の東京牧口記念会館で)

 一、激動のこの一年も威風堂々と飛躍を遂げ、創立の月を全世界の善友と飾ることができました。

 御本仏・日蓮大聖人が、一切を御照覧でありましょう。

 熱原の法難の渦中、打ち続く試練の人生にも負けないで、不退の信心に娘と励んでいた一人の母への御聖訓を、そのまま女性部をはじめ、全創価家族への御賞讃として拝したい。 

 すなわち、「大風が草をなびかし、雷が人を驚かすような世の中にあって、今まで信仰を貫き通してこられたことは、なんと不思議なことでしょうか」「あなたの信心の根が深く、あなたの心に潔い玉があるからでしょう。尊いことです。尊いことです」(新1973・全1479、通解)と。

 皆、本当にご苦労さま! 皆、本当にありがとう!(大拍手)

 一、私たちが朝な夕な読誦している法華経寿量品の「自我偈」には、「我此土安穏。天人常充満。園林諸堂閣。種種宝荘厳。宝樹多華菓。衆生所遊楽。諸天撃天鼓。常作衆妓楽」(表記は『新版 法華経 方便品・自我偈講義』に合わせた)とあります。

 この経文を、戸田先生はユーモアたっぷりに講義し、病苦や生活苦を抱えつつ大法弘通に走る健気な同志を励ましてくださいました。

 ――たとえ小さな四畳半の家であっても、妙法を受持すれば、仲良く明るく笑顔を充満できる。ささやかでも花を飾れば、園林となり、わが城を心の財で荘厳し、妙なる音楽も奏でられる。

 そして、「生きていること自体が楽しい」という歓喜と安穏と文化の世界を、足元の家庭から地域へ社会へ広げていくのが、慈折広宣流布なのである、と。

師と共に、永遠に勝ち栄えゆく錦州城を! 「関西池田記念大講堂」基本構想の発表の喜びにあふれる関西の同志たち(東京戸田記念講堂で)
師と共に、永遠に勝ち栄えゆく錦州城を! 「関西池田記念大講堂」基本構想の発表の喜びにあふれる関西の同志たち(東京戸田記念講堂で)

 一、一人一人が人間革命に挑み、境涯を高めながら、一家和楽へ、さらに立正安国へ、行動を積み重ねていく民衆仏法の展開に、最大の信頼と期待を寄せてくださったのが、かの大歴史学者・トインビー博士であります。

 50年前、博士と私は、新たな文明を創造する「世界宗教」の要件として、人類の生存を脅かす諸悪と対決して、その脅威を一人一人の心の変革によって取り除くことであると展望しました。

 博士は、人類の宿命転換、さらに地球環境、ひいては宇宙全体への慈悲の貢献という壮大な次元から、大乗仏教、なかんずく日蓮仏法に深く強く共鳴を示されたのであります。

 この半世紀、私たちは、異体を同心とする民衆の祈りと献身と団結で、平和の城、文化の城、教育の城を、一つ、また一つ創り上げてきました。トインビー博士をはじめ、世界の知性の友人方も、きっと喜び見つめてくださっていることでしょう。

 いやまして、人類の生存への困難な脅威が立ちはだかる今こそ、生命の尊厳と人間を尊敬する対話の力で、「太陽の仏法」の智慧と勇気と慈悲の大光を赫々と放っていきたいと思うのであります。

 一、法華経の「園林諸堂閣」の経文さながらに、関西の新たな大講堂の建設も、いよいよ進められます。

 思えば、戸田先生はよく「私は城聖、君は大作だ。一緒に、偉大な『創価の大城』をつくろうではないか!」と言われました。

 この先生のお心を偲びつつ書き留めておいた二つの書を、全同志への感謝と祝賀を込めて、今日ここに披露させていただきます。

池田先生が揮毫した「錦州城」の書
池田先生が揮毫した「錦州城」の書

 まず、「錦州城」です。

 関西の宝友と折伏行で築いた「錦州城」を、恩師は何よりもうれしく仰ぎ見てくださいました。関西はもとより日本全国、全世界のいずこにあっても、この「永遠に崩れぬ」正義の常勝城を、断固として勝ち栄えさせ、民衆を苦しめ不幸に陥れる、いかなる「魔軍」も抑え切っていくのが、地涌の師弟の使命であり、本懐なのであります。

池田先生が揮毫した「福運城」の書
池田先生が揮毫した「福運城」の書

 一、次に、「福運城」です。

 大聖人は、「大海のしおの満つるがごとく、月の満ずるがごとく、福きたり、命ながく、後生は霊山とおぼしめせ」(新1274・全950)と仰せであります。

 我ら学会家族は一人ももれなく「福運の博士」です。新たな一年も、満々たる上げ潮の生命力で、広布と人生の大願を一つ一つ、満月のごとく成就しながら、ますます健康長寿で、三世永遠にわたる生命の凱歌を共々に轟かせていこうではありませんか!(大拍手)

 御書に「城の主剛ければ、守る者も強し」(新1320・全979)とある通り、師弟城の若き城主たる誉れの青年部の諸君、万事、よろしく頼みます。青年の「飛躍」から「凱歌」へ、「ユースフェスタ」の大成功も祈っています。

 一、わが地域は、まぎれもなく御本仏から「その国の仏法」を任された宿縁の国土です。誓願の天地で縁を結ぶ全ての人々を大きく福運に包みながら、さらには地球民族へ、幸と平和の波動を起こしゆくことを朗らかに決意し合って、私のメッセージとします(大拍手)。

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学び続ける人生は負けない 

2022年11月06日 | 妙法

学び続ける人生は負けない 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2022年11月6日

 【写真説明】命が燃えている。緑の葉が赤や黄に染まりゆく秋。地球の全ての生命の営みが、愛おしく神々しく思えてならない。1998年(平成10年)11月、池田大作先生は、晩秋の京都にカメラを向けた。
 この訪問の折、先生は関西創価学園生との記念撮影会へ。「本を読まずして偉くなった人間はいない」と、向学の青春を訴えた。「心に読書と思索の暇をつくれ」とは、第2代会長・戸田城聖先生の弁。その指針の通り、池田先生は寸暇を割いて書を精神の血肉とし、友と感動を分かち合ってきた。きょうは教学部任用試験(仏法入門)。最高峰の哲学を学ぶ喜びを胸に、「学は光」と命を輝かせゆこう。
 

池田先生の言葉

 学ぶことは楽しい。
 “知”の発見は
 人生の喜びである。
 そして喜びが
 才能の芽を伸ばす。
 人との比較ではなく、
 自分なりに
 向上していくことである。
  
 学び続ける人、
 行動し続ける人は
 永遠に若い。
 向上しゆく生命は、
 たゆみなく流れる
 水のように
 常に新しく、
 清らかさがある。
  
 活字を読むことによって、
 頭脳が、精神が、
 創造力が
 どんどん鍛えられていく。
 なかんずく
 人類の遺産である
 良書によって、
 生命そのものを
 磨き深めることができる。
  
 読書は、
 生命と生命の打ち合いだ。
 その積み重ねの中でこそ、
 どんな時代の激流にも
 動じない生命力をもった、
 大いなる自己を
 鍛え上げることができる。
  
 仕事の場でも家庭でも、
 日常の瑣事の中からでも、
 得がたい勉強を
 していくことができる。
 5分の間に新聞を読む、
 本をひもとく、
 ニュースに耳を傾ける、
 人との出会いからも必ず
 何かをつかみとっていく。
 忙しそうに見えても、
 その人は、
 「多忙」そのものを
 「学び」に変えていける。
  
 学べば「世界」は広がる。
 「学ぶ」こと自体が
 「喜び」であり
 「幸福」である。
 「学ぼうとする決意」は
 即「希望の光」であり、
 「学び抜こうとする執念」は
 即「勝利の光」である。
  
 学び続ける人生は、
 決して負けない。
 学び抜く生命には、
 偉大な前進があり、
 価値創造がある。

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輝きの瞬間

2022年11月02日 | 妙法

輝きの瞬間〉 11月2022年11月2日

 連載「輝きの瞬間」では、師弟の黄金の歴史を紹介する。今回は11月の広布史を掲載する。

1995年11月2日
国立トリブバン大学での記念講演

 池田先生を乗せた飛行機が、アジアの空を飛んでいた。1995年10月末、アジア平和旅へ出発した先生は、初めてネパールを訪れた。
 11月2日、先生はネパール随一の最高学府・国立トリブバン大学の卒業生への学位授与式に主賓として出席。「人間主義の最高峰を仰ぎて――現代に生きる釈尊」と題して記念講演に立った。社会へ羽ばたく卒業生一人一人に直接語りかけるように、講演を始めた。
 先生は、“人類の教師”釈尊が残した精神遺産を「智慧の大光」「慈悲の大海」の二つの角度から考察。「智慧の大光」が照らし出すメッセージについて、①生命の宝塔を輝かせよ②民の心に聴く③“智慧”よく“知識”を活かす、と論及した。「慈悲の大海」に関しては、①人類の宇宙的使命は慈悲にある②ヒマラヤのごとく悠然と③自他ともの幸福を目指せ、であると強調した。
 最後に、ネパールの次代を担う卒業生に、「平和と生命尊厳の21世紀」へ飛翔してほしいと訴え、講演を結んだ。
 大学の副総長は、「素晴らしい講演でした。釈尊を語る人はいても、釈尊を実践する人はいません」とたたえた。翌3日には、同大学から「名誉文学博士」の称号が授与された。
 授与式の終了後、先生は、首都カトマンズ郊外の丘に向かった。雲がほんのりと茜色に染まり始めていた。かなたには、ヒマラヤの秀峰が浮かんでいる。カメラを向ける先生のもとに、近所の村の子どもたちが駆け寄ってきた。先生は心から励ましを送った。
 「ここは仏陀(釈尊)が生まれた国です。仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです。堂々とそびえる勝利の人へと自分をつくり上げたんです。皆さんも同じです。すごい所に住んでいるのです。必ず、偉い人になれるんです」
 「釈尊生誕の国」で、心と心が通い合う、一幅の名画のような出会いが刻まれた。

ヒマラヤを望むネパールの首都カトマンズ郊外で、子どもたちを励ます池田先生(1995年11月)。宝石のように輝く子どもたちの瞳を見つめ、温かく声をかけた
ヒマラヤを望むネパールの首都カトマンズ郊外で、子どもたちを励ます池田先生(1995年11月)。宝石のように輝く子どもたちの瞳を見つめ、温かく声をかけた
1983年11月3日
東京富士美術館の開館

 東京・八王子の地に“美の殿堂”東京富士美術館がオープンしたのは、1983年11月3日のこと。開館を飾ったのは、「近世フランス絵画展」である。
 世界的な美術史家ルネ・ユイグ氏の協力のもと、ルーブル美術館をはじめ、名だたる美術館の傑作が出展された。同展は美術研究者らを唸らせた。
 第3代会長に就任以降、池田先生は“芸術を民衆の手に取り戻そう”と、美術館創立のため、あらゆる手を打ち続けてきた。海外を訪れた際には、各国の美術館・博物館などを視察。また、一流の文化人や芸術家と語り合い、友情を深めてきた。
 81年に設立準備委員会が設置され、本格的に準備が開始。ゼロからのスタートに、スタッフは悪戦苦闘の日々であった。
 先生は、激務の合間を縫って、スタッフと懇談。「世界を語るような美術館になっていくんだ」と励ました。また、“世界との文化交流のために日本一、世界一のコレクションを”との先生の期待を受け、美術品収集にも力を入れてきた。現在、重要文化財を含め、コレクションは約3万点に及ぶ。なかでも西洋絵画の数々は「日本屈指」と評される。
 先生が贈った「世界を語る美術館」を指針として、これまで世界各国の美術館等と交流を重ね、「コロンビア大黄金展」「大ナポレオン展」など、48回に上る展覧会を開催してきた。海外での所蔵品展も20カ国・地域で46回以上にわたる。90年、その功績をたたえ、東京富士美術館に「外務大臣表彰」が贈られた。
 現在、同美術館の所蔵品は、千葉や富山など、各地の美術館で展示され、好評を博している。
 先生はつづっている。
 「芸術は『理解の力』である。芸術は『友情の力』である。ゆえに、芸術は『平和の推進力』なのである」
 昨年、来館者が900万人を突破。創立者の心をわが心とし、芸術の力で人類を結びゆく東京富士美術館の挑戦は続く。

開館22周年を記念する海外文化交流特別展「栄光の大ナポレオン展」を鑑賞する池田先生と香峯子夫人(2005年11月、東京富士美術館で)
開館22周年を記念する海外文化交流特別展「栄光の大ナポレオン展」を鑑賞する池田先生と香峯子夫人(2005年11月、東京富士美術館で)
1973年11月
6日 栃木の日
11日 愛媛の日
13日 徳島の日

 各県で、地域の特色を生かし、自主的な広布拡大の運動を展開していった1973年。その年の11月、栃木、愛媛、徳島の3県は、「県の日」の淵源となる広布史の一ページを刻んだ。
 池田先生は6日、栃木県体育館(当時)で行われた県幹部総会に出席。この会合に、尋常小学校時代の担任である檜山浩平先生夫妻を招待した。“お世話になった方の恩には、生涯をかけて報いたい”との思いからである。
 幹部総会の席上、先生は栃木の歴史や地理的な魅力を語り、“伝統の長所を失うことなく、新時代を切り開こう”と呼びかけた。そして、「万事、唱題中心で『なにかあったら題目』という心意気で」と指針を示した。
 10日、先生は四国に到着。7年7カ月ぶりとなる愛媛訪問を果たした。この日を拡大の実証で飾ろうと、愛媛の配達員らは、聖教新聞の購読推進という、当時としては先駆的な取り組みに挑戦した。
 未来を開く新しい発想に対し、先生は、「本当にすごい戦いをしてくださった」「これは、将来の広宣流布運動の基調になるでしょう」とたたえた。
 11日の松山市内で開催された愛媛県幹部総会では、地涌の菩薩としての深き使命を自覚し、堂々と“師子の信心”を貫いてほしい、と訴えた。
 徳島の県幹部総会は13日に開催された。参加者は“参加できないメンバーも一緒に”との思いで、皆の署名を持参して集った。会場の徳島市内の体育館には、1週間ほど前から草むしりや清掃に励む青年たちの姿があった。“全員参加”の一大行事となった。
 登壇した先生は、「『人間性』と『希望』『生命力』こそが現代の財」であると強調。さらに、最高の仏法哲学を持ち、広布にまい進する一人一人が“時代の財”であり、“社会の宝石”ともいうべき存在である、と徳島の友に希望を送った。
 不滅の原点を刻む11月――3県の友は、新たな歴史を築く勝利の誓いに燃えている。

「万歳!」――喜びがあふれた第1回栃木県幹部総会。新たな栃木の建設へ、皆の決意が燃え上がった(1973年11月6日、宇都宮市の栃木県体育館〈当時〉で)
「万歳!」――喜びがあふれた第1回栃木県幹部総会。新たな栃木の建設へ、皆の決意が燃え上がった(1973年11月6日、宇都宮市の栃木県体育館〈当時〉で)
1987年11月10日
秋晴れの東京ディズニーランドへ

 三井不動産の会長などを歴任した江戸英雄氏は、東京ディズニーランドの建設に尽力した人物である。各界のリーダーと交流を重ねてきた池田先生は、氏とも親交を結んだ。
 1983年、ディズニーランドがオープン。氏は「ぜひお越しいただきたい」と、先生の訪問を熱望した。その声に応え、87年11月10日、先生はディズニーランドに足を運んだ。
 先生は江戸氏らと語らい、パーク内で働く社員と握手を交わし、励ましを送った。
 パレードも観賞し、カメラに収めた。出演者の中に、学会員がいたことを聞くと、「最初から最後まで皆さんの演技を見せていただきました」「力強い演技でした」と伝言を託し、熱演をたたえた。
 短時間の滞在だったが、先生はディズニーランドから受けた所感を署名簿に記した。
 「全世界の少年少女の/夢とロマン/“平和”の“金の城”の/永遠の栄光を祈りつつ」
 翌日には礼状を送った。
 「貴園の素晴らしい環境はもとより、多くの若い職員の方々が礼儀正しく潑剌と働いておられる姿、また謙虚な中にも自らの仕事に誇りと責任を持っておられる姿に、たいへんさわやかな印象を強く受けました」
 礼状は、ディズニーランドの運営会社・オリエンタルランドの社内報に全文が掲載された。
 パーク内、そして帰路に撮影した写真は、社会部のメンバーや地元・千葉の同志に贈られた。皆の歓喜と決意の原点となった。
 江戸氏は翌月、聖教新聞社を訪問。「学会は活気にあふれていますね。素晴らしい大発展ですね」と語った。91年1月にも、東京の創価国際友好会館(当時)を訪れ、先生と対談している。
 先生はかつて、正月に帰国できない創価大学の留学生を、ディズニーランドに招待した。それを知った氏は、ポケットマネーで入場券を用意。その真心は、各国で活躍する留学生たちの忘れ得ぬ思い出となった。

爽やかな秋晴れの東京ディズニーランドで、池田先生がシャッターを切った(1987年11月10日、千葉・浦安市で)
爽やかな秋晴れの東京ディズニーランドで、池田先生がシャッターを切った(1987年11月10日、千葉・浦安市で)
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