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日々の積み重ねが、大事な歴史……

心豊かに「幸福の交響曲」を

2022年12月04日 | 妙法

心豊かに「幸福の交響曲」を 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2022年12月4日

 【写真説明】“美の共演”ともいうべきか。彩り豊かなバラやユリ、オンシジウム、カスミソウ……。それぞれが個性を輝かせながら、凜と咲き誇る。2007年(平成19年)12月、池田大作先生が都内でシャッターを切った。
 いよいよ、総仕上げの師走。この一年の広宣流布の前進に、陰の労苦に徹する友がいたことを忘れまい。御書に「かくれての信あれば、あらわれての徳あるなり」(新1850・全1527)と。
 家庭で地域で職場で、お世話になったあの人、この人に感謝の“心の花束”を届けたい。その誠実が自他共の喜びを広げ、希望と幸福の大輪を咲かせゆく。
 

池田先生の言葉

 感謝は、
 心の豊かさを意味する。
 感謝のある人には
 喜びがあり、
 幸せがある。
  
 恩を知る人は、
 謙虚である。
 まじめである。
 真剣である。
 恩を知る人は、
 成長がある。
 向上がある。
 勇気がある。
 恩を知る人は、
 人を敬うことができる。
  
 心豊かな人は
 人を大切にし、
 人を育てる。
 人も自分も
 幸福にしていく。
 心貧しき人は
 グチや悪口で
 人生を暗くする。
 人も自分も
 不幸にしてしまう。
 私たちは心豊かに、
 心美しく、
 「幸福の交響曲」で
 友をつつんでまいりたい。
  
 恩を知る人は、
 もっとも偉い人である。
 これが、
 仏法の骨髄である。
 人間の骨髄なのである。
 師匠の恩、
 衆生の恩に報いることが、
 人間の道であり、
 仏法の道である。
  
 「報恩」こそ、
 人間の証しである。
 報恩は、
 自分が受けた恩恵を、
 次の世代に
 贈ることによって
 完結する。
 要するに、
 後継の青年を
 大切にし、
 励まし、
 育てていくことである。
  
 この一年の
 広宣流布の大前進、
 本当にありがとう!
 わが使命の天地に、
 希望の旭日を昇らせ、
 喜びの花を咲き薫らせた、
 一人一人の尊き奮闘を、
 私は心から讃嘆し、
 感謝申し上げたい。

 
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輝きの瞬間〉 12月=完2022年12月2日

2022年12月02日 | 妙法

輝きの瞬間〉 12月=完2022年12月2日

 連載「輝きの瞬間」では、師弟の黄金の歴史を紹介する。最終回となる今回は12月の広布史を掲載する。

12月2日 「人間革命」の起稿と文芸部の日

 「冒頭をいかにするかには、心を砕いた」――池田先生は『私の履歴書』に、小説『人間革命』の書き出しに熟慮を重ねたことを記している。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた……」
 1964年12月2日、『人間革命』は、この一節から書き出された。「最も苦しんだ沖縄こそ、最も幸福になり、最も平和になる権利がある」――この思いから、池田先生は、太平洋戦争で凄惨な地上戦の舞台となった沖縄の地で、執筆を開始した。
 22日、本紙1面に「新年号からの新連載小説」との予告記事が掲載された。その中で、先生は物語の主題を記した。
 「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」
 翌65年の元日付から、連載が開始。当時の「声」欄には、「書き出しからぐんぐん引き込まれていく」(7日付)など、続々と読者からの反響が掲載された。
 小説の執筆は、激務の合間を縫っての“闘争”だった。池田先生は、海外訪問や地方指導の折にも、小説の構想を練り、原稿用紙に向かった。
 連載回数は、2018年に完結した『新・人間革命』と合わせ、通算7978回。日本の新聞小説史上、最多である。
 『人間革命』の起稿の日である12月2日は後に、「文芸部の日」に制定された。19年に発刊された文芸部の指導集に、先生は「発刊に寄せて」を記した。その中で、『人間革命』の執筆について、こうつづっている。
 「『最初の文芸部員』との自覚で踏み出す未知の登攀であった。わが愛弟子たちが必ず二陣三陣と創価の言論戦の陣列に加わり、立ち上がってくれることを信じて!」
 師と共に“ペンの闘争”に挑む文芸部の友。メンバーは現在、小説や詩歌、児童文学など、多彩な分野で活躍している。

ペンを走らせる池田先生(1999年3月、東京・八王子で)。先生はつづっている。「私は生涯、書き続ける。友のために。広宣流布という、全人類救済の大義のために」と
ペンを走らせる池田先生(1999年3月、東京・八王子で)。先生はつづっている。「私は生涯、書き続ける。友のために。広宣流布という、全人類救済の大義のために」と
1969年12月21日 烈風の和歌山指導

 “和歌山は戦うぞ!”――12月を迎えると、和歌山の同志の「烈風魂」は熱く燃え上がる。
 1969年、池田先生は全国を駆け巡り、友の激励に全精魂を注いだ。移動の車中も、同志からの手紙に目を通した。連日、多くの書籍などに揮毫をした。
 過密なスケジュールによる疲労は激しく、12月半ば、先生は体調を崩してしまう。それでも、「私は行く」と、12月20日、関西指導へと出発した。
 この日、先生は東大阪市で開催された関西幹部会へ。渾身の励ましを送り、「嗚呼黎明は近づけり」の指揮を執った。
 先生の体調は最悪の状態のままだった。夜、医師が体温を測ると、40度を超えていた。急性気管支肺炎だった。
 同行の幹部は、和歌山行きを中止し、静養することを懇願した。だが、翌21日、体調が小康状態を保つようになると、先生は同志が待つ和歌山へと向かった。
 午後5時15分、和歌山県幹部会の会場の県立体育館に到着。幹部会が開会すると、先生が悠然と壇上に姿を現した。会場は大歓声に包まれた。
 先生は、和歌山の友と16回のシュプレヒコールを行うと、24分にわたって指導。さらに、参加者から「学会歌の指揮を執ってください!」との声が上がった。
 激しい咳に襲われたものの、先生は毅然と立ち上がり、「皆さんが喜んでくださるんでしたら、なんでもやります。私は、皆さんの会長だもの」と語ると、「武田節」を舞った。
 幹部会の終了後、先生は和歌を詠んだ。「和歌山の 友に 魂とどめむと 熱き生命の 舞の歴史は」。筆を執ることができないため、香峯子夫人が口述筆記した。
 何としても和歌山へ――高熱を押しての師の激励は、和歌山広布の一大転機となった。この時以降、和歌山の同志は、連戦連勝の立正安国の歴史を刻んできた。
 あの日、体育館に轟いた16回の師弟の熱き叫びは、今も友の胸中に誇り高く響いている。

高熱と咳に苦しむ中で出席した和歌山県幹部会で、池田先生は同志の要望に応えて、「武田節」を舞った(1969年12月21日、県立体育館で)
高熱と咳に苦しむ中で出席した和歌山県幹部会で、池田先生は同志の要望に応えて、「武田節」を舞った(1969年12月21日、県立体育館で)
2000年12月14日 20世紀最後の本部幹部会

 2000年12月14日、関西戸田記念講堂で開催された20世紀最後の本部幹部会。池田先生はスピーチで、二つのことに言及した。
 1点目は、21世紀は「女性の世紀」となるということ。
 前月の11月22日から、先生はシンガポール、マレーシア、香港を訪問。いずれの地でも、女性の活躍が、社会のみずみずしい活力の源泉となっていた。
 先生は、シンガポールで行われたシドニー大学の名誉文学博士号の授与式を振り返り、同大学の総長が著名な女性教育者であることを紹介。マレーシア国立プトラ大学の名誉学位特別授与式では、女性の教育学部長が「推挙の辞」を読み上げたことを語った。
 これらの事例を通して、先生は「今、時代は、音をたてて変わっている。社会でも、団体でも、これからは、女性を尊重し、女性を大切にしたところが栄えていく」と強調した。
 2点目は、第2の「七つの鐘」である。
 「鐘は愛すべき人達を集めて/和合させ、親密に団結させるのだ。/そしてこれが鐘の今後の使命だ」(木村謹治訳)
 ドイツの詩人・シラーが詠んだ「鐘の歌」と題する詩を、先生は引用し、訴えた。
 「世界は今、新しい世紀、新しい千年の夜明けを告げゆく、高らかな『平和の暁鐘』を待ち望んでいる」「汝自身の中に眠る、尊極なる生命に皆を目覚めさせていく、鮮烈な『哲学の鐘』が必要なのである」
 「七つの鐘」は、学会創立の1930年を起点として、7年ごとに前進を期す広布の指標である。先生は79年までの第1の「七つの鐘」に続いて、2001年から50年に向けて、第2の「七つの鐘」がスタートすることに言及した。
 本年5月3日から、第2の「七つの鐘」の4番目が打ち鳴らされた。気候変動や感染症の流行など、世界は「協調」と「分断」の分岐点に立つ。生命覚醒の希望の暁鐘を打ち鳴らす私たちの使命は、ますます大きい。

2000年12月14日、関西戸田記念講堂で行われた本部幹部会。池田先生は「形式ではない。心こそ大切なのである。すべては、指導者の知恵で決まる」と強調した
2000年12月14日、関西戸田記念講堂で行われた本部幹部会。池田先生は「形式ではない。心こそ大切なのである。すべては、指導者の知恵で決まる」と強調した
1978年12月25日 ウィルソン博士との対談

 イギリス・オックスフォード大学の名誉教授であり、宗教社会学の世界的権威でもあるブライアン・ウィルソン博士。
 1978年12月、創価大学などの招へいによって来日し、池田先生との対談が実現した。計4時間にわたった対談は、教育論にはじまり、組織論など、多彩なテーマについて意見が交わされた。
 その後も、先生と博士はヨーロッパや日本で出会いを重ねた。往復書簡での対談も続けた。
 仏教団体の指導者である池田先生と、キリスト教社会で生まれ育ち、研究者として宗教全般を探究するウィルソン博士。両者が、宗教に関して幅広く論じ合った。
 その語らいは、対談集『社会と宗教』として結実。84年に英語版が出版され、翌85年に日本語版が発刊された。
 対談集の序文は、先生と博士の連名である。そこには、こう記されている。「私たちの異なる観点が、真実の意見交換に見られるあの知的興奮を生み出しうることを、私たちは願っている」
 博士の研究に対する基本姿勢は、対象となる宗教に共感しつつ一定の距離を保つ、というもの。先生との対談が、その博士に知的興奮と感動をもたらしたことを、序文は物語っていよう。
 対談集の発刊後も、二人の交流は続いた。89年5月、池田先生はオックスフォード大学を訪問。同大学のボドリーアン図書館の「終身名誉館友」の顕彰を受けた。この折、同大学オール・ソウルズ・カレッジも訪れ、学長や博士と懇談している。
 92年、博士は第2次宗門事件について「大白蓮華」に寄稿。「創価学会の国際社会・文化に対する広い理解と貢献に対して、宗門は閉じられた宗教的カースト性に内在する醜い偏狭さをもって反応した」と指摘した。
 97年秋の2カ月間、創価大学の客員教授に。「学生たち自身が、池田会長の造詣の深い信条の中に見られる哲学、諸目的の生きた証拠なのです」――創大での日々を通した、博士の実感である。

創価大学の客員教授として赴任した、宗教社会学者のウィルソン博士と会談する池田先生(1997年11月10日、東京・八王子で)
創価大学の客員教授として赴任した、宗教社会学者のウィルソン博士と会談する池田先生(1997年11月10日、東京・八王子で)
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賢者を育む創価教育

2022年11月28日 | 妙法

随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 賢者を育む創価教育2022年11月28日

  • わが地域から世界市民の英知の連帯を
金色のイチョウの葉が喜びに揺れるよう(池田先生撮影。今月、都内で)
金色のイチョウの葉が喜びに揺れるよう(池田先生撮影。今月、都内で)

 命には、命を生み、養い、成就させ、勝ち栄えさせゆく「生養成栄」という本然の“教育力”がある。
 御本仏・日蓮大聖人は、森羅万象に脈打つ、この慈悲の力用へ、深く温かな眼差しを注いでおられた。
 「総勘文抄」には、「秋になって月光の縁にあえば、草木は皆ことごとく実が熟して、一切の有情を養育し、その寿命を延ばして長く養い、ついに成仏の徳用を顕す」(新729・全574、通解)と仰せである。
 「無心の草木」ですら、そうである。いわんや人間は「善知識の縁」を大切にして自他共に仏性を顕していこうではないかと、呼び掛けておられるのだ。

金色のイチョウ

 晩秋を迎え、東京・信濃町の総本部から程近い外苑のイチョウも美しく色づき、金色に輝いている。
 私も、折々にそんな黄金の景色をカメラに収め、ゆかりの友に贈ってきた。
 イチョウは、日本から帰国したドイツ人の医師・ケンペルが紹介して、欧州に知れ渡った。生命の讃歌の詩人・ゲーテも、イチョウを庭に植えて詠っている。
 「東洋からはるばると わたしの庭にうつされたこのいちょうの葉は 賢い者のこころをよろこばせる ふかい意味をもっているようです」
 春に生き生きと芽吹き、夏には鮮やかな緑の葉が茂り、秋は目映い金色に光って実りをもたらし、次世代へ命をつなぐ。そして冬の深まりとともに、葉は自らの滋養を枝に留めつつ舞い散り、巡り来る春に蘇生の新芽が再び輝き出すのだ。
 “永遠の生命”を求めてやまなかったゲーテにとって、その春夏秋冬のドラマは賢者の心を照らす光彩となったに違いない。
 真の賢者とは、誰か――。それは、大宇宙を貫く普遍の「生命の法則」を真摯に追求する人であろう。
 生命の真理を説き明かした妙法を信受して、行学の実践に励む人は誰もが「世界第一の賢者」となる。
 今回、「教学部任用試験(仏法入門)」に挑戦された皆様は、この誇りに胸を張っていただきたい。
 任用試験でも学んだ御聖訓に、「夏と秋と、冬と春とのさかい(境)には、必ず相違することあり。凡夫の仏になる、またかくのごとし。必ず三障四魔と申す障りい(出)できたれば、賢者はよろこび愚者は退く、これなり」(新1488・全1091)と仰せである。
 我らは試練の時こそ人間革命の好機と、旧友とも新たな友とも朗らかに語らいながら、“賢者の並木道”を喜び勇んで闊歩するのだ。

若き生命よ幸福に

 学会は、一九三〇年(昭和五年)の十一月十八日、「創価教育学会」として産声を上げた。何より教育から出発したことは、我らの永遠の誉れといってよい。
 「全ての子どもたちが幸福な人生を歩めるように」――この牧口常三郎先生と戸田城聖先生の願いと信念が、「創価教育学」に凝縮されている。世界恐慌に揺れ動く渦中に、最も苦しむ子どもたちに光を当て、その幸福こそを一切の原点、最第一とされたのだ。
 激動の時代ゆえに、常に新鮮な知識を身に付ける努力は当然として、どんな困難にも怯まず乗り越えていく生命力と知恵を培うことが、ますます大切な幸福の要件となろう。ここに、創価教育の主眼もある。
 「現代人の大きな錯覚のひとつは、知識と知恵を混同していることだ」とは、戸田先生の卓見であった。
 知識や情報を「何のため」に、「誰のため」に使うのか。いかに生かして価値を創造していくのか。
 現代にあって、両先生の悲願を継承する創価の人材群の貢献は、教育はもとより地域社会で、ケアや福祉活動等々、いやまして多角的な広がりを見せている。
 苦しんでいる人、虐げられている人、社会に居場所を見出せない人へ手を差し伸べ、励まし守っていく。自分だけではなく、他者の幸せ、すなわち自他共の幸福に尽くしていく――こうした「共生の社会」「平和の地球」を築きゆく知恵を磨き上げている人こそが、「真の幸福博士」なのだ。
 アメリカの教育哲学者デューイも、「知識偏重の教育」ではなく、「知恵の開発」を重視した。
 その上で彼は、「宗教的なもの」の重要性を訴えた。それは、人をよき目的に向かわせ、理想と現実を結ぶ働きともいえる。時には、「行動を導き、感情に熱を与え、知性に光を加え」、さらに知識等を求める万般の営みに具わる価値を開花させ、創造するのだ。
 この点を、私もハーバード大学での二回目の講演の折に言及した。
 よき宗教も、よき教育も、人間を「より強く、より善く、より賢く」するためにある。だからこそ、「宗教のための人間」ではなくして「人間のための宗教」を、そして「社会のための教育」ではなくして「教育のための社会」を、私たちは志向していくのである。

「英知をみがくは 何のため」――創価学園の卒業式で、愛する生徒たちと校歌を共に(2004年3月)
「英知をみがくは 何のため」――創価学園の卒業式で、愛する生徒たちと校歌を共に(2004年3月)
従藍而青と光る

 私は、創価学園の創立記念日を、一九六七年(昭和四十二年)十一月十八日と定めた。以来五十五年となる。
 それは、私が欧州統合の父・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と対談し、世界の良識との対話を本格的に始めた秋であった。この三年後、わが学園で、伯爵が記念講演をしてくださったことも懐かしい。
 本年が開校五十年目となる関西創価学園の誕生も、私がイギリスの大歴史学者トインビー博士と、二十一世紀を展望する対談を進めていた時である。
 “道は私が開く。諸君は思う存分、学べ! 徹底して学べ! そして世界の未来を、地球の平和を頼む!”――対話を重ねる私の胸には、創価の平和・文化・教育の後事を託す学園生たちの顔が浮かんでいた。
 創価の学舎は今、日本の東西創価学園、札幌の幼稚園、創価大学・創価女子短期大学、そしてアメリカ創価大学と、世界に広がった。香港、シンガポール、マレーシア、韓国に幼稚園、ブラジルには創価学園が光る。
 また“姉妹校”のインドの創価池田女子大学も多彩な人材を送り出されている。
 いよいよ明年には、マレーシアに中高一貫の創価インターナショナルスクールも開校される予定だ。
 「世界中の子どもたちの幸福」を願われた牧口先生と戸田先生の喜びは、いかばかりであろうか。
 牧口先生は、「従藍而青」の前進を、創価教育の特色とされていた。
 その意味で、『創価教育学体系』が発刊された十一月十八日を、創価学園が「英知の日」と定め、学園生が「藍より青く」成長の節を刻んでいることが頼もしい。今年も記念の行事が、東西の学園、札幌の幼稚園で朗らかに開催された。
 “英知を磨くは何のため”と常に問い続け、挑戦し続ける負けじ魂ありてこそ、創価教育の真価は、未来永劫に輝きを増すのだ。

日常生活の中で

 この創価教育の精神を、使命の現場で体現しているのが、教育本部の先生方だ。今秋、各地で伝統の実践報告大会が行われた。岡山での全国大会では、子どもの幸福に尽くす教育実践に、来賓の方々から賞讃の声が寄せられ、感謝に堪えない。
 先生方は地域でも、「家庭教育懇談会」を行い、未来部担当者の方々と一緒に、子育て世代に安心と共感を広げて、子と親が共に育つ“共育の知恵”を分かち合われている。地域と社会の“教育力”向上に貢献する、地道にして偉大な取り組みと、労い讃えたい。
 先月、創価大学で行われた第一回「世界市民教育シンポジウム」で、デューイ研究の大家ジム・ガリソン博士は語られた。
 「世界市民の育成は、日常生活の中で行われるべきです。私たちは、家庭や地域社会で善良な市民であることを学ぶことによって、善良な世界市民としての習慣を身に付けることができるのです」
 “よき市民たらん”との信念を胸に、日々の生活の中で地域へ社会へ飛び込んでいく創価の連帯にこそ、時代が求める「世界市民教育」の力が横溢している。その確信と自負を忘れまい。

伝統ある米デューイ協会のガリソン会長から、池田先生に「終身名誉会員証」が(2008年8月、長野研修道場で)
伝統ある米デューイ協会のガリソン会長から、池田先生に「終身名誉会員証」が(2008年8月、長野研修道場で)
普賢菩薩の実践

 来月には、若き世界市民たる男女学生部が全国大会を開催する。私も大成功を祈り見守っている。
 法華経の最終章で、釈尊が普賢菩薩に語った最後の一言は、「当起遠迎、当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし)」であった。
 大聖人は「御義口伝」で、この経文を「最上第一の相伝」と明言された(新1086・全781)。法華経の生命尊厳・人間尊敬の精神を体し、民衆を侮蔑し軽賤する増上慢とは対峙し、妙法の実践者を厳護する――真に“普く賢い”英知の発露が、ここにあろう。
 大聖人は佐渡流罪の大難の中、悠然と仰せられた。
 「生涯、本より思い切り了わんぬ。今に翻反ること無く、その上また遺恨無し。諸の悪人はまた善知識なり」(新1292・全962)
 この御聖訓通り、我らは邪宗門の忘恩非道をも世界宗教の飛翔の力に転じ、太陽の民衆仏法の大光を、地球民族へ贈り続けてきた。
 この「魂の独立」の気概を、若き創価の普賢菩薩は、尊き父母たちから厳然と受け継いでいくのだ。

三代の師弟の夢

 全ての生命に具わる「幸福の価値を創造する力」を引き出し、成就させること――この大理想を実現するために、創価教育はある。
 創価三代の師弟を貫く夢を、「わが夢」「わが誓い」として共に進む全ての不二の同志へ深謝は尽きない。
 教育こそ、人間を幸福にする知恵の源泉である。
 教育こそ、社会を繁栄させる創造の広場である。
 教育こそ、世界を平和に結ぶ共生の大海原である。
 ゆえに、偉大なる創価の教育力を限りなく! そう先師・恩師に誓いを捧げる「創立の月」である。
  
(随時、掲載いたします)

  
 <引用・参考文献>ゲーテの詩は『世界の詩集1 ゲーテ詩集』所収「銀杏の葉」手塚富雄訳(角川書店)。デューイについては魚津郁夫編『世界の思想家20 デューイ』(平凡社)。

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創価学会は校舎なき総合大学 

2022年11月27日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第26回 創価学会は校舎なき総合大学 座談会編〈上〉2022年11月27日

 
ダンテやガリレオなど、数々の歴史的人物を輩出したイタリア・ボローニャ大学。1994年6月、池田先生は、400年ほどの歴史を有する同大学の大講堂で記念講演。大学首脳や教職員など、約1000人が集まった
ダンテやガリレオなど、数々の歴史的人物を輩出したイタリア・ボローニャ大学。1994年6月、池田先生は、400年ほどの歴史を有する同大学の大講堂で記念講演。大学首脳や教職員など、約1000人が集まった

 中世初期のヨーロッパには、主に3種類の「スコラ」と呼ばれる学校があった。①宮廷の貴族を教育する学校②有能な僧侶を育てる学校③修道院の付属学校、である。
 そこで学ぶのは、文法、修辞学、論理学、算術、天文、幾何、音楽の7科目。これらは、聖書を読むことや王権を維持するために必要とされた。
 しかし、学校に通う人の中には、新しい知識を求める青年もいた。この若者たちは最初、橋の上に集まったという。さまざまな人と出会う可能性があるからだ。そうして出会った若き探究者たちは、橋の上や広場で議論を交わした。
 やがて、ヨーロッパの各地で、教師と学生、両者を支える事務を担当する人々の「組合」が形成されるようになった。新たな学問の集積所の誕生である。それは「ウニベルシタス」と呼ばれ、「大学」を意味する英語の「ユニバーシティー」の語源となった。
 大学は、その起源をたどれば、制度から出発したのではない。建物があったわけでもない。教師と学生のほとばしる学問への情熱、人間的な結び付きが、大学という“知の水脈”を開いた。
 イタリアのボローニャ大学は、1088年の創立といわれ、“世界最古の総合大学”と称される。君主や教会が設立したのではなく、学生たちが優れた教師を探して誕生した“民衆立の大学”である。
 この歴史と伝統を誇る英知の学府で、池田大作先生は1994年6月、「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」と題して、記念講演を行っている。
 
 「創価学会は、校舎なき総合大学」とは、第2代会長・戸田城聖先生の言葉である。
 創価学会の創立記念日は、11月18日。初代会長・牧口常三郎先生が戸田先生と共に、『創価教育学体系』第1巻を発刊したことを淵源としている。
 ある冬の夜、牧口先生と戸田先生は深夜まで語らいを続けていた。牧口先生は、自身の教育学説を残したいという意向を、戸田先生に明かした。
 しかし、一小学校の校長の学説が売れる見込みはなく、出版社が引き受けてくれることも困難に思われた。
 慎重になる先師に、戸田先生は「私がやります!」と決意を述べ、「私には、たくさんの財産はありませんが、1万9000円はあります。それを、全部、投げ出しましょう」と語った。
 小学校教員の初任給が、まだ50円前後の時代。牧口先生の教育学説を後世に残すため、戸田先生は一切を捧げる覚悟を、瞬時に定めた。
 「先生の教育学は、何が目的ですか」との戸田先生の問いに、牧口先生は「価値を創造することだ」と応じた。先師の答えを聞くと、戸田先生は提案した。
 「創造の『創』と、価値の『価』をとって、『創価教育学』としたらどうでしょうか」
 大学が教師と学生の語らいから始まったように、「創価」の二文字も「師弟の対話」から生まれた。
 この経緯を通して、池田先生は述べている。
 「価値を創造する。美と利と善を創り出す。深い深い哲学と人格のある名前です。お二人の人格が反映した名前です」 

 

 

ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第26回 創価学会は校舎なき総合大学 座談会編〈上〉(1面から続く)2022年11月27日

 
池田先生ご夫妻が国際宗教社会学会のカール・ドブラーレ元会長(右端)と夫人のリリアン・ボワイエ博士と対談(1996年1月9日、八王子市の東京牧口記念会館で)。語らいは「セクトの概念」「宗教と国家・政党との関係」などを中心に、2時間余にわたって行われた
池田先生ご夫妻が国際宗教社会学会のカール・ドブラーレ元会長(右端)と夫人のリリアン・ボワイエ博士と対談(1996年1月9日、八王子市の東京牧口記念会館で)。語らいは「セクトの概念」「宗教と国家・政党との関係」などを中心に、2時間余にわたって行われた

 2007年、日本や中国、韓国、オーストラリアなどの首脳が集まって、東アジア首脳会議(EAS)が開催された。この場で、一つの計画が討議された。ナーランダ大学の設立である。
 同大学は、ナーランダー僧院の再興を企図して構想された。EAS加盟国の協力のもと、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン博士が指揮を執って設立され、14年に最初の授業が始まった。この年、セン博士はアメリカ創価大学の卒業式で記念講演を行っている。
 ナーランダー僧院は、5世紀から12世紀末までの間、インドの東部に存在した。最盛時には、1万人の学僧と千人の教授がいたという。
 僧院には、アジア各地から学僧が訪れた。仏教徒だけでなく、すべての人々に門戸が開かれ、東洋全域における精神の淵源地となった。1979年2月、池田先生はナーランダーの仏教遺跡を訪れ、往時を偲んでいる。
 僧院では最初、個室が与えられたという。しかし、研さんが進むにつれ、寝具や机などは、共同での使用になった。仏教の最先端の知識の習得にとどまらず、生活の中での他者との交流を通して、人格の錬磨がなされた。
 創価学会もその創立以来、人間と人間が触れ合い、語り合う「座談会」を重視してきた。
 牧口先生を投獄に至らせた起訴状には、41年5月から43年6月の2年余の間で、東京の一つの会場だけでも「二百四十余回に亘り」「座談会を開催し」たと記録されている。
 ある時、牧口先生は一人の青年からの“座談会よりも講演会形式にした方がいいのでは”との質問に対して、こう答えた。
 「いや、それは違う。人生に対する問題は対話でなくては相手に通じない。講演だけでは、聞く方は他人事にしか感じないものだ」
 だからこそ、牧口先生は座談会を大切にした。41年3月、治安維持法が改正され、言論弾圧は激しさを増した。その中で、先生は仏法の人間主義の哲理を、座談会で語った。
 香峯子夫人の母である白木静子さんは当時を振り返り、こう述べている。
 「戦時中の座談会は、警官立ち会いでありました。神札の話がでると『中止』と警官がいうので、ほかの話にきりかえて話をつづけられます」
 「お話が終わるまで何回か『中止』の声がかかり、その圧力の中で、先生は堂々と折伏を続けられました」
 43年7月、牧口先生と戸田先生の師弟は、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕・投獄される。翌44年11月18日、牧口先生は牢獄で殉教した。
 45年7月3日、生きて牢を出た戸田先生は、翌46年に「創価教育学会」の名称を、「創価学会」に改称する。学会の再建に立ち上がった戸田先生が、法華経の講義とともに力を注いだのが、座談会である。
 この年の11月17日、牧口先生の三回忌法要が営まれた。戸田先生は追悼の辞で、先師への深甚の感謝を語った。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れて行ってくださいました」「その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたる幸せでございましょうか」
 法要の後、戦後初となる創価学会の第1回本部総会が行われた。この総会直後から、戸田先生の法華経と御書の講義の受講者が急増。各地の座談会も活発に開かれるようになった。
 戸田先生は鶴見や小岩、蒲田、目白、中野など、寸暇を惜しんで座談会に出席した。年齢や職業の垣根なく、老若男女が集い、一切の形式抜きで、人生について赤裸々に語り合う――座談会は、市井に生きる庶民の「生命触発の場」であった。 

 1983年から91年まで、国際宗教社会学会会長を務めたカール・ドブラーレ博士。欧米を代表する宗教社会学者である。博士は、21世紀の宗教の条件を六つ、示している。
 ①共同体に基盤を置き、それを再活性化させ、人間同士の結合を成し遂げられる宗教かどうか。
 ②生きる活力を与え、躍動の力を生み出すものであるかどうか。
 ③単に個人の次元にとどまらず、社会への働きかけを強く行うかどうか。
 ④(利己的な)個人主義を規制し、社会的な責任感を強調するかどうか。
 ⑤寛容の立場に立つ宗教かどうか。
 ⑥自分たちの社会の発展だけを願うのではなく、地球的規模での世界共同体を目指す宗教かどうか。
 その上で博士は、創価学会はこの六つの条件を全て満たしている、と論じている。
 伝統宗教について研究してきた博士は、アメリカやアフリカなどの宗教にも関心を持つようになり、創価学会の研究も進めるようになった。
 84年の師走、都内の座談会に出席。体験発表やリーダーの話を克明に書き留め、終了後には「入会動機は何ですか」「具体的に何を祈るのですか」など、参加者に次々と質問した。
 自分の目で、創価学会の実像を見た博士は、座談会を高く評価した。
 「宗教には、人々に『安らぎを与える』『挑戦する意欲を与える』という二つの役割があります」
 「自分の人生の責任はすべて自分にあると教えることによってのみ、宗教が信徒に『挑戦する意欲を与える』ことが可能です。そのためには、リーダーの啓発的な指導と仲間のサポートが必要になります。その意味で座談会が重要なのです」
 96年1月9日、博士は池田先生と対談。この日は、夫人のリリアン・ボワイエ博士の誕生日だった。
 池田先生ご夫妻は、ケーキと花束を用意して、二人を迎えた。ドブラーレ博士は後に、こう振り返っている。
 「ご夫妻の心遣いに感動した妻は、花束を大切にベルギーまで持ち帰りました」「温かなお人柄は、素晴らしい思い出として私たち夫婦の心にいつまでも残っています」
 その時の語らいに、誠心誠意を尽くす――先生の姿は、各地で出席した座談会でも変わらなかった。
 (以下、次号に続く)

国際宗教社会学会元会長 ドブラーレ博士
21世紀の宗教の条件

 ①共同体に基盤を置き、それを再活性化させ、人間同士の結合を成し遂げられる
 ②生きる活力を与え、躍動の力を生み出す
 ③単に個人の次元にとどまらず、社会への働きかけを強く行う
 ④(利己的な)個人主義を規制し、社会的な責任感を強調する
 ⑤寛容の立場に立つ
 ⑥自分たちの社会の発展だけを願うのではなく、地球的規模の世界共同体を目指す

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一人の本物の弟子がいれば広布はできる

2022年11月25日 | 妙法

第23回 「水滸会・華陽会〈下〉」 一人の本物の弟子がいれば広布はできる2022年11月25日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【「若き日の日記」1959年(昭和34年)11月27日から】
この一生、妙法流布に捧げゆく命、
微少の風に紛動されて何かせん。
法力・仏力、われは信力・行力。
「水滸会」の第1回野外研修から30周年を刻む1984年の5月、池田先生が出席して記念集会が行われた(東京・奥多摩で)
「水滸会」の第1回野外研修から30周年を刻む1984年の5月、池田先生が出席して記念集会が行われた(東京・奥多摩で)
大事なのは裏方だよ

 「たまには自然の懐にいだかれて、浩然の気を養う伸び伸びした会合を行ってはどうか」。戸田先生の提案を受け、男子部の人材育成グループ「水滸会」の第1回野外研修が行われた。1954年(昭和29年)9月のことである。
 幾つかの候補地が挙がった。戸田先生は「最後の決定は、皆の希望に任せるから」と青年たちに委ねた。最終的に、東京・氷川のキャンプ場が選ばれた。
 4日午後3時、研修の参加者を乗せた2台のバスが学会本部を出発した。甲州街道を走り、八王子、拝島、青梅と通過して、氷川に到着したのは夕刻だった。午後7時、キャンプファイアがたかれた。食事を終えると、恩師と青年たちとの語らいが始まった。
 一人の青年が、「先生は、青年時代、どんなふうに勉強なさったか、それを教えてください」と質問した。戸田先生は自身の人生を振り返りながら、いかに勉強してきたかを述べ、「人生は勝負だよ。まず自分に勝てばよいのだ。諸君は、諸君の身についた方法で、勝てばよいのです」と語った。
 “父親と意見が合わない”と言うメンバーや、「理性」と「感情」について聞く友もいた。大切な水滸会員の質問に、恩師は明快に答え、こう呼びかけた。
 「今日から10年後に、みんなそろって、またここへ集まろうではないか。私はその時、諸君に頼むことがある」
 この恩師の一言について、池田先生は述べている。「私には明白だった。先生は、新たな社会建設のために、本格的な政治改革、教育改革の大構想をば、私をはじめとする青年に託そうとされていたのである」
 キャンプファイアが終わり、夜の帳が降りると、池田先生は一つ一つのテントを激励に回り始めた。野外研修の折、池田先生は青年たちに語っている。「大事なのは裏方だよ。陰で黙々と戦う青年が大事なんだ」
 一つの行事を無事故で終えるため、あらゆる点に心を配る。その責任を担い立つことに、青年の鍛えがある。先生は自ら先頭に立ち、その模範の姿を示したのである。

1961年11月5日に開催された第10回男子部総会の終了後、「水滸会」のメンバーに贈られたバッジ。「創価班」「牙城会」のバッジの源流ともいえる
1961年11月5日に開催された第10回男子部総会の終了後、「水滸会」のメンバーに贈られたバッジ。「創価班」「牙城会」のバッジの源流ともいえる
学会の指揮を執る日

 1955年(昭和30年)6月10日、華陽会が野外研修を開催。戸田先生と共に神奈川の三浦半島を訪れた。
 翌11日から1泊2日で、水滸会の第2回野外研修が行われた。山梨県の河口湖・山中湖で開かれたこの研修が、恩師が出席する最後の野外研修となった。
 58年(同33年)4月2日、戸田先生の不惜身命の生涯は幕を閉じた。この日、池田先生は日記にしたためた。
 「妙法の大英雄、広布の偉人たる先生の人生は、これで幕となる。しかし、先生の残せる、分身の生命は、第二部の、王仏冥合実現の決戦の幕を、いよいよ開くのだ。われは立つ」
 池田先生は悲嘆を払い、恩師の広布の構想を実現するため、立ち上がった。10日、男子部の幹部会に出席した池田先生は、烈々と訴えた。
 ――戸田先生が逝去して、世間ではさまざまに批判しているが、我々は“戸田先生が残された青年部の姿を見よ! これだけ立派に前進している姿を見よ!”との気概で前進していこうではないか!
 「5・3」を目前にした4月29日、池田先生は日記に記した。
 「実質的――学会の指揮を執る日となるか。胸苦し、荷重し。『第五の鐘』の乱打。戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」
 この誓いで迎えた5月3日、先生は本部総会で「七つの鐘」の指標を発表し、同志の胸中に希望の灯をともした。
 恩師亡き後、一部のマスコミは学会への猛烈な批判を開始した。学会の「空中分解」を予測する評論家までいた。
 だが先生は、そうした中傷を歯牙にもかけなかった。ただただ、戸田先生が示した300万世帯の実現へ向けて、一瀉千里に突き進んだ。同年6月、創価学会の総務に就いた池田先生は、青年の育成に総力を挙げた。水滸会の野外研修を提案し、7月に行われることになった。
 この第3回の研修も、恩師との思い出が刻まれた河口湖・山中湖で開催された。ただ、参加者には物見遊山の雰囲気が漂っていた。
 その空気を一変させたのが、池田先生だった。先生は繰り返し、師弟に生き抜く中に広布と人生の勝利があると訴えた。
 「水滸会……戸田先生を、追憶しながら、百名の同志と一泊。広布の人材にと誓い合う」「会員の顔、決意を秘めて喜々」(『若き日の日記』、1958年7月26日)
 翌59年(同34年)7月には、東京・氷川で、第4回の野外研修が開かれた。この時、池田先生は自らの誓いを語った。
 「これから私は、戸田先生の遺訓を実践していきます」

長野・霧ケ峰高原から見える富士山(1991年7月、池田先生撮影)。霧ケ峰高原は、1961年7月に「水滸会」「華陽会」の野外研修が行われた地。この時、先生は、水滸会に「自分を磨き、それぞれの分野で一流の人材に」と指導。華陽会には「幸福とは、外にあるのではない。私たちの心のなかにある。それを教えているのが仏法」と語った
長野・霧ケ峰高原から見える富士山(1991年7月、池田先生撮影)。霧ケ峰高原は、1961年7月に「水滸会」「華陽会」の野外研修が行われた地。この時、先生は、水滸会に「自分を磨き、それぞれの分野で一流の人材に」と指導。華陽会には「幸福とは、外にあるのではない。私たちの心のなかにある。それを教えているのが仏法」と語った
ありのままの姿で

 59年9月、「関西華陽会」が誕生。発足式に出席した池田先生は、「一切法は皆これ仏法なり」(新714・全564)との御聖訓を拝し、「仏法に通達する人は、世間法でも勝たなければならない」と訴えた。
 その後、先生は関西訪問の折に、関西華陽会の集いに出席した。ある時には、『三国志』の「桃園の義」を通して、メンバーに語った。
 「華陽会員は、ありのままの姿で、お互いを尊敬しあっていきなさい。いかなることがあっても、同志を裏切らず、会員の模範として頑張りなさい」
 また、先生が関西華陽会のメンバーに、「リーダーと部員はどこが違うか、分かるかい?」と尋ねた後、次のように語った。
 「会合も、折伏も、教学も、部員もリーダーも、やることは変わらない。ただ一つだけ違うところがある。それは、リーダーは人を育てなければならないという点です。リーダーは人をどれだけ育てられるかが勝負です」
 池田先生は第3代会長に就任後も、水滸会の野外研修(千葉・犬吠埼〈60年〉、長野・霧ケ峰〈61年〉など)と、華陽会の野外研修(千葉・富津〈60年〉、長野・霧ケ峰〈61年〉など)を続けながら、青年への薫陶を重ねた。青年を育みながら、青年が青年と連帯し、広布の裾野を広げていく流れを開いていった。
 62年(同37年)11月、学会は300万世帯を突破した。池田先生は、先師・恩師の悲願だった“創価教育の城”の設立準備や、東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)の発足などに尽力し、人間文化の新たな潮流を広げながら、戸田先生の七回忌である64年(同39年)を迎えた。
 この年は、戸田先生が水滸会のメンバーに「10年後に、みんなそろって、またここへ集まろう」と語ってから10年後に当たっていた。
 同年7月18日、水滸会のメンバーは東京・氷川のキャンプ場に、華陽会の友は東京・梅沢のキャンプ場に集い、野外研修が開かれた。先生は両方の研修に出席し、後継の青年に励ましを送った。
 獄中でも青年の気概で学び続けた牧口先生は、青年をこよなく愛した。戸田先生もまた、青年を信じ、青年に広布の一切を託した。
 先師・恩師の心を深く知る池田先生もまた、青年の育成に身命を賭してきた。先生は、四半世紀にわたって執筆を続けた小説『新・人間革命』全30巻の締めくくりの場面で、水滸会での恩師の言葉をつづっている。
 「中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる」
 そして、こう続けた――。「さあ、共に出発しよう! 命ある限り戦おう! 第二の『七つの鐘』を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ」
 私たちは、本年スタートした第2の「七つの鐘」の「第四の鐘」(2029年まで)を進む。創価の青年の“対話の鐘”“希望の鐘”が鳴り響いている。

「華陽会」の野外研修で励ましを送る池田先生(1964年7月、東京・梅沢キャンプ場で)
「華陽会」の野外研修で励ましを送る池田先生(1964年7月、東京・梅沢キャンプ場で)
【池田華陽会への指導】
白蓮華のように気高き誓願を胸に、正義の前進を!
昇りゆく太陽とともに、悔いなき青春勝利の日々を!
(『華陽の誓い』まえがきから)
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