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日々の積み重ねが、大事な歴史……

逆境を勝ち越えた英雄たち

2023年03月21日 | 妙法

HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第29回 魯迅2023年3月21日

道とは何か。それは道のなかった所に
踏み作られたものだ。荊棘ばかりの
所に開拓してできたものだ。
魯迅の子息である周海嬰氏(左端)との再会を喜ぶ池田先生(2004年3月10日、東京・信濃町の旧聖教新聞本社で)。この日、先生に「上海魯迅文化発展センター」の「終身顧問証」が授与。さらに、幼い周氏を抱く魯迅の写真が贈られた
魯迅の子息である周海嬰氏(左端)との再会を喜ぶ池田先生(2004年3月10日、東京・信濃町の旧聖教新聞本社で)。この日、先生に「上海魯迅文化発展センター」の「終身顧問証」が授与。さらに、幼い周氏を抱く魯迅の写真が贈られた

 池田大作先生は第3代会長に就任する前、日記に次の言葉を書き留めた。
 「道とは何か。それは、道のなかったところに踏み作られたものだ。荊棘ばかりのところに開拓してできたものだ」
 中国の革命作家・魯迅が記した「生命の道」の一節である。
 辛亥革命と清朝崩壊後の激動期を生き抜き、祖国の未来のために戦った言論の闘士――今年は「魯迅」のペンネームが世に出てから105周年に当たる。
 魯迅(本名・周樹人)が文学の道を志すようになったのは20代の頃。日本で医学を学んでいたある日、授業後に日露戦争(1904~05年)の勝利を伝える幻灯(スライド)が上映された。
 その中で、スパイ容疑をかけられた中国人が、日本軍に処刑される場面を目にした。その周りを中国人の群衆が取り囲んで見つめている。そんな同胞たちの無神経な姿に魯迅は憤激した。
 「われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった」
 本当に変わるべきは「国家」や「制度」よりもまず「人間」である、と魯迅は考えたのである。
 虐げられることに慣れてしまった心を変革し、民衆が尊厳と幸福を勝ち取る時代を! 彼はペンの力で立ち上がり、新中国の建設に身をささげていくことになる。
 1909年に帰国すると、「十年一剣を磨く」鍛錬の日々を積み重ね、18年5月、雑誌「新青年」に『狂人日記』を発表。被害妄想を患う主人公の日記を通じ、中国の旧社会の悪弊を容赦なく暴いた同著は、難解な文語を捨て、話し言葉を用いた中国現代文学で最初の口語体小説として、青年たちに広く浸透していった。
 続く『阿Q正伝』では、身分支配のもとで、人々が“諦め”という心の鉄格子に閉じ込められた状態を、主人公・阿Qの存在を通して痛烈に指摘したのである。
 時を同じくして、世界では抑圧された民衆が蜂起し始めていた。インドにおけるガンジーの非暴力・不服従運動や、中国における反帝国主義の「五・四運動」などである。人権闘争の潮流が巻き起こる中、魯迅は新たな時代の到来を願い、つづった。
 「最後の勝利は、喜ぶ人々の数にあるのではなく、どこまでも進撃する人々の数にある」と――

〈HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第29回 魯迅(1面から続く)2023年3月21日

 
第1次訪中で、魯迅が最後に暮らした上海の「魯迅故居」を訪れた池田先生(1974年6月10日)。生前に使った机や筆などが残る部屋には、「もし、私が生きていることができるならば、もちろん、私は学び続けていく」との言葉が掲げられていた
第1次訪中で、魯迅が最後に暮らした上海の「魯迅故居」を訪れた池田先生(1974年6月10日)。生前に使った机や筆などが残る部屋には、「もし、私が生きていることができるならば、もちろん、私は学び続けていく」との言葉が掲げられていた
【魯迅を語る池田先生】
自分の「人間革命」また民衆の「精神の革命」は一朝一夕にできるものではない。
ゆえにたゆまず努力せよ。
ねばり強く進め。絶えず刻むのだ。
【魯迅】
最後の勝利は、
喜ぶ人々の数にあるのではなく、
どこまでも進撃する人々の数にある。

 魯迅は1881年、浙江省の紹興で生まれた。祖父が政府高官を務める名家だったが、ある事件で投獄。父も病に倒れ、質屋と薬屋を往復する生活を過ごした。
 20歳で留学し、初代会長・牧口常三郎先生も教壇に立った弘文学院を経て、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に入学。ここで人生の師となる藤野厳九郎先生と出会う。
 民族や国籍を問わず、自分を大切にしてくれた恩師への感謝を、魯迅は終生、忘れなかった。そして、使命の舞台を医学から文学へと移し、帰国後は教育者として青年育成に心血を注ぐようになる。
 「まず第一に、人間を確立することが大切である。人間が確立して後、始めてあらゆる事がその緒に就く」。北京大学をはじめ複数の学校で『三国志演義』『水滸伝』などを講義。鋭い歴史観や社会批判を論じ、祖国を担う若者に自らの知識を惜しみなく与えた。
 1920年代、北京女子師範大学で、軍閥政府を後ろ盾に封建的教育の復活を画策する学長と、それに反対する学生との抗争が起きる。講師だった魯迅は学生側を支持。政府と真っ向から対峙した。
 これを機に、政治権力やマスコミからの弾圧が激化するが、彼が屈服することはなかった。
 ある雑誌が“魯迅が陰で学生を扇動している”“賄賂を受け取っている”という虚偽を流した。だが、真実は全く逆だった。その雑誌の人間こそが、デマで社会をあおり立て、政府から資金援助を得ていたのである。
 魯迅は徹底的に噓をたたいた。「謡言というやつは、たしかに張本人が心底から願っている事実だから、我々はそこから、一部の人間の思想と行為を見てとれる」
 迫害は激しさを増した。各地を転々としながら、ペンで戦い続ける中、魯迅の体は弱り、食事も満足に取れなくなっていく。
 30年、中国自由運動大同盟などが結成され、発起人の一人となると、政府は「堕落文人」のレッテルを貼り、逮捕状を出す。彼の文章は厳しい検閲の対象となり、書物は発刊禁止に。理不尽な抑圧をかいくぐるように、魯迅は100以上ともいわれるペンネームを使い、変幻自在に言論闘争を続けた。
 「生きているかぎり、わたしはいつでも筆をとってかれらの拳銃に立ちむかう」
 この信念で、革命の炎を燃やし抜いた英雄が世を去ったのは55歳の時(36年10月)。弔問に訪れた市民は死去から数日間で1万人を超えたという。

 池田先生は魯迅文学を「人間革命」の文学として敬愛し、不屈の精神を宣揚してきた。その功績と日中友好への先駆的貢献を「魯迅の民衆覚醒の魂を受け継ぐ人」とたたえ、北京・上海・紹興の“三大魯迅記念館”の全てから「名誉顧問」の称号が贈られている。
 また、魯迅の子息である故・周海嬰氏とも友誼の絆を結んできた。
 2005年3月には、創価教育に学ぶ学生・生徒からの要請に応え、第2回特別文化講座「革命作家・魯迅先生を語る」を本紙で発表。魯迅の「人間」と「哲学」と「言論」を縦横につづった――。
 ◇ 
 自分の「人間革命」また民衆の「精神の革命」、それは一朝一夕にできるものではない。ゆえに魯迅先生は言う。“たゆまず努力せよ。ねばり強く進め”と。
 一時は勝ったように見えても、古い反動の勢力は、必ず息を吹き返してくる。ゆえに、先生は戒めていた。「この国の麻痺状態を直すには、ただ一つの方法しかない。それは『ねばり』であり、あるいは『絶えず刻む』ことです」と。
 ◇ 
 君たちの前途には、暗夜の日もあろう。茨の道もあろう。
 しかし、断じて退いてはならない。苦しい時こそ、一歩を踏み出せ。その一歩が勝利の道を開くからである。希望とは、自分でつくるものだ。希望とは、茨の道を切り開きながら、あとに続く人々に贈りゆくものだ。ここに、魯迅先生がわが身をもって示した「希望の哲学」がある。
 ◇ 
 「『革命が成就した』というのは、とりあえずのことを指しているのであって、ほんとうは『革命はまだ成就していない』のである。革命には果てがなく、もしもこの世に『これが最高』などということがほんとうにあるとすれば、この世はたちどころに動かぬものとなってしまう」
 立ち止まってしまえば、革命は、そこで終わりである。「永遠に変革し続けてこそ革命」である。ゆえに、後継の青年が大事なのだ。
 革命とは――
 永遠の向上である。
 永遠の成長である。
 永遠の闘争である。
 「永続革命」こそ、魯迅先生の生き方そのものであった。
 (2005年3月16・19・24日付)
 
 ――民衆凱歌の大道を開くのは「忍耐」「希望」「前進」だ。
 「光明はかならずや訪れる。あたかも夜明けをさえぎることはできないように」とは、講座の結びに先生が紹介した魯迅の確信である。

 【引用・参考】『魯迅全集』全20巻・伊藤虎丸ほか訳(学習研究社)、『魯迅選集』全13巻・竹内好ほか訳(岩波書店)、顧明遠著『魯迅――その教育思想と実践』横山宏訳(同時代社)、石一歌著『魯迅の生涯』金子二郎・大原信一訳(東方書店)ほか

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長編詩「青は藍よりも青し」

2023年03月16日 | 妙法

3・16特別企画〉 長編詩「青は藍よりも青し」朗読動画2023年3月16日

 1958年3月16日の“広宣流布の記念式典”から30年となる88年3月、池田先生は若き友に、長編詩「青は藍よりも青し」を贈った。
 
 3・16から65周年の佳節に際し、特別企画として長編詩の朗読動画を作成。また、ここでは、長編詩の抜粋を紹介する。(全文は『池田大作全集第42巻』所収「春秋抄」を参照)
 
 

4:09

 新しき朝は 青年のものである
 朝霜 鮮やかに 青き麦畑にも似て
 
 
 弥生・三月とはいえ
 暁の富士の寒気は厳しい
 稲妻の閃光の如き
 突然の知らせに
 勇み馳せ参じたる
 若き地涌の同志六千
 
 
 吐く息は白く
 いまだ 目醒めぬ
 大地を踏みしめる足音が
 未明の森に谺す
 
 
 頰を紅潮させた乙女がいた
 学生服のいとけなき少年もいた
 防寒具もなく
 しかし凜然と胸張る青年がいた
 
 
 その瞳は
 暗き冷気の中で
 夜明けとともに
 大いなる“時”を迎えんとする
 確かな鼓動に
 煌きを増していた
 ああ
 青年の純一なる生命の発露が
 清らかに力強く
 新しき燦たる太陽の上昇を告げる
 
 
 おお 不滅となれり
 三・一六
 
 
 それは
 恩師のもとに
 広宣流布の大図式を描いた日――
 そして
 未来永劫に変わらざる
 師弟共戦の誓いの日なり
 
 
 故に この日に甚深の意義を留めて
 「広宣流布記念の日」と名付く
 

 ◆◇◆ 
 
 幾度も激しき戦の指揮を
 敢然と執り終えし先生は
 今やその身を病床に横たえ
 ある時は
 「今 何の本を読んでいるか」と
 学べ また学べとの
 厳愛の叱咤なり
 また ある時は
 「メキシコへ行った夢を見た」
 と温かき慈眼
 「君よ 世界を頼むよ」と
 
 
 我は その師の心を心として
 世界広布への飛翔を誓った
 大鵬の空をぞ かける姿して との
 言葉のままに
 
 
 そして逝去四日前
 厳格に かつ 凜冽に放たれた
 「追撃の手をゆるめるな!」
 との師子吼は
 門下の怒濤の前進の支柱となった
 
 
 ああ 忘れ得ぬ 四月二日
 万朶の桜に送られて
 霊山に向かわれた恩師
 そして遺された分身の生命は
 広布達成へ
 毅然たる追撃の生涯を開始せり
 
 
 時の日記に私は記した
 「一人の 戸田門下の青年は進む
 一人 凜然と 北風に向かって」
 

 
 あれから三十星霜
 一人烈風に身をさらしつつ
 一人烈日に身を焦がしつつ
 愛する我が同志を守りぬかんと
 一切の障魔との対決に
 一歩も退かぬ一日 また一日
 
 
 所詮 仏法は勝負なるを
 知悉したが故に
 怒り狂う波間にあって
 一瞬の停滞も逡巡もなかった
 真の丈夫の姿をば
 阿修羅の如く示し残さんと
 
 
 栄光の「三・一六」に集った
 あの懐かしの兄弟も
 また
 敢然と また健気にも
 歩みつづけた
 不退の長征に
 見事なる栄冠の戦譜を
 私と共に刻んだ
 
 
 三類の嵐は
 幾度となく
 我らの前途に立ちはだかった
 
 
 卑劣な怒濤の日もあった
 邪知の小才子の裏切りもあった
 
 
 しかし 私たちは
 晴れ晴れとして 完勝した
 希望の翼をもって
 幾多の風雪を乗り越え
 若き乙女たちは今
 幸の金風に包まれた女王として
 青年は偉大なる人間の
 尊き平和の砦の柱として
 堂々と 揺るぎなき基盤を築いた
 久遠に結んだ不思議なる同志の
 異体を同心とする団結の力
 御聖訓の理想に殉ぜんとする
 峻厳なる絆をば
 金剛不壊の中心軸として
 万年への広布の基盤は できあがった
 

 
 限りなく続く青年の意気が
 碧き水平線の彼方
 今日も明日も 白雲の如く湧き起こり
 再び新世紀の天空を駆ける時
 障魔の黒き雲はない
 凜々しき仏子の青年の顔輝き
 一陣の薫風に花びらが舞う
 
 
 青年は無限の財宝
 いかなる労苦も
 はたまた 勝利も敗北もすべて
 すばらしき躍動の飛躍台となる
 君よ 君たちよ
 新たなる第二の「七つの鐘」を頼む
 
 
 法理のままの東漸
 日本に仏教伝来し 七百年にして
 太陽の如く 大聖哲出ず
 それより七百年して不思議なる会生まれる
 正法の広宣の波は今ここに西漸
 アジアの そして世界の海辺を洗い始む
 今まさに 妙法という
 生命至上の大いなる光明は
 青き地球を包みゆかんとするか
 
 
 その広布の大河の流れが
 歴史の必然であるか否かを
 君よ問うなかれ
 
 
 汝自身の胸中に
 自らの汗と労苦により
 広布を必然たらしめんとする
 熱情のありや無しやを 常に問え
 
 
 広布とは――
 大聖人の御遺命のままに
 尊極なる仏の生命の座を
 人類の魂に打ち据えて
 爛漫たる生命ルネサンスの華を
 この地球の大地に永遠に
 開花させゆくことだ
 

 
 天台云く「従藍而青
 青は藍より出でて藍より青し
 
 
 君もまた 宇宙の森羅万象を貫く
 根本の法をもち
 生命の内奥より
 無限の光彩を放ちつつ
 民衆凱歌の壮大な歴史の軌跡を
 思う存分描いてくれることを
 私はひたすら祈る
 
 
 いかなる約束なるか
 青年世紀の開幕に
 陸続と躍り出でたる
 使命の勇者あり
 ああ
 新たなる三十年の
 大遠征が 今始まる
 
 
 君たちが
 また あなたたちが
 未聞の険難の尾根を堂々と踏破し
 決意新たに 世紀の暁鐘を
 晴れがましく乱打することを
 私は信じている
 
 
 時は巡り来り
 ここに迎えた広宣流布記念の日
 この日こそ我が愛する門下の
 新たな空気を吸いゆく
 希望の朝だ
 
 
 青年よ あくまでも前へ
 今こそ
 一歩も後退しては
 ならぬ時だ
 
 
 青年よ
 あくまでも 日々の研鑽の労苦に
 敢然と挑みながら
 朗らかにして 逞しき
 青春の詩を
 高らかに 高らかに謳いたまえ
 
 
 そして生涯崩れぬ黄金のスクラムで
 ただひたすらに
 人類史の新しき朝を開きゆく
 この聖業を完遂してくれたまえ

 
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会う勇気が歴史を変える

2023年02月19日 | 妙法

会う勇気が歴史を変える 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2023年2月19日

 【写真説明】世界最長を誇る南米のアンデス山脈。白雪を冠した標高6000メートル級の高峰がどこまでも続く。1993年(平成5年)2月、池田大作先生が機中から撮影した。
 この平和旅で4度目のブラジル訪問を果たした先生は、コロンビア、アルゼンチン、パラグアイ、チリの4カ国を初訪問。今月で30周年を刻む。南米歴訪の折、先生は「人間としての振る舞いの中に、仏法は脈動し、信仰の実証が表れる」と語り、使命の地で信頼の輪を広げゆくよう友に呼びかけた。
 さあ、伝統の2月を走り抜き、広布後継の3月へ――。青空のような清々しい誓願をわが胸に、確信の語らいを広げよう。
 

池田先生の言葉

 人間は本来、等しく
 平和を希求している。
 その心を紡ぎ出すのは、
 美辞麗句や
 虚飾の言ではない。
 胸襟を開いた、
 誠実な人間性の
 発露としての、
 率直な対話である。
  
 友の幸福を祈り、
 社会の繁栄を願い、
 世界の平和に
 尽くしゆかんとする
 我らの心は、
 必ず相手の生命に伝わる。
 その祈りと
 真心からの対話こそが
 友の命を変え、
 真の友情と理解を生む。
  
 座していたのでは、
 事態は開けない。
 行動である。
 会って語り合う
 勇気こそが、
 歴史を変えていくのだ。
  
 大きく動けば、
 自分の境涯も大きくなる。
 友情も大きく広がる。
 大変な中で
 精魂を注いで
 戦った分だけ、
 大きな福徳が
 我が身を包む。
  
 正義を語るのに、
 遠慮など必要ない。
 スッキリと語る。
 ハッキリと訴える。
 相手がよくわかるように、
 心に入るように
 言葉を尽くすのだ。
  
 同じ言葉でも、
 発する人間の誠意で
 重みは変わる。
 いわんや友の幸福を
 願い続けた心が
 届かないはずはない。
  
 大きな大きな心で
 友情を育みゆくことだ。
 一つ一つの
 出会いを大切に、
 確信の対話を
 勇気凜々と
 広げゆくことだ。
 その全てが
 仏縁となって光る。
 ここに
 平和創造の道があり、
 幸福勝利の道がある。

 
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アウストレジェジロ・デ・アタイデ

2023年02月12日 | 妙法

【ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】第28回 アウストレジェジロ・デ・アタイデ2023年2月12日

池田先生のブラジル文学アカデミー「在外会員」就任式。アタイデ氏㊥は“池田氏を迎えることは全会員、全国民の意思です”と(1993年2月12日、リオデジャネイロの同アカデミーで)
池田先生のブラジル文学アカデミー「在外会員」就任式。アタイデ氏㊥は“池田氏を迎えることは全会員、全国民の意思です”と(1993年2月12日、リオデジャネイロの同アカデミーで)
 
 
〈アウストレジェジロ・デ・アタイデ〉
未来は、ひとりでに、やってこない。
人間自身が切り開くものだ。
私たちは言葉を最大の武器として戦うのです。

 
 1993年2月12日、池田大作先生はブラジル文学アカデミーの「在外会員」に就任した。
 
 1897年に創立された同アカデミーは、ブラジル現代文法の研究や文学の発展に重要な役割を果たしてきた“南米最高峰の知性の殿堂”である。
 
 40人の国内会員と20人の在外会員は、いずれも終身制。「会員に選ばれるよりも大統領に当選する方が容易」と言われるほど、そのメンバーは厳選されている。
 
 現会員の推薦によって選考される在外会員には、レフ・トルストイ、エミール・ゾラなど、そうそうたる顔ぶれが名を連ねてきた。
 
 先生を東洋人初の在外会員に推したのは、同アカデミー総裁のアウストレジェジロ・デ・アタイデ氏。ジャーナリストとして正義のペンを振るい、幾多の苦難を乗り越えてきた“言論の獅子”だ。
 
 1948年に国連で採択された「世界人権宣言」。その起草にブラジル代表として尽力した後、59年に総裁に就いた。同宣言の起草者であるフランスのルネ・カサン博士は、ノーベル平和賞を受賞した際、“この名誉をアタイデ氏と分かち合いたい”と述べている。
 
 そのカサン博士を通じて、氏は先生の存在を知る。トインビー対談などの著作を読み込み、平和・教育思想に深く共感。先生のことを新聞のコラムにもつづった。
 

「世界人権宣言」が採択された第3回国連総会(48年12月10日、AFP=時事)。アタイデ氏はブラジル代表として宣言の起草に尽力した。今年は採択75年の節を刻む
「世界人権宣言」が採択された第3回国連総会(48年12月10日、AFP=時事)。アタイデ氏はブラジル代表として宣言の起草に尽力した。今年は採択75年の節を刻む

 
 先生と出会う前年の92年には、リオデジャネイロで開かれたブラジルSGI(創価学会インタナショナル)の文化祭に来賓として出席。先生の哲学が観念ではなく、事実として青年の中に脈打っていることを実感した氏は、“池田氏に会ってみたい”との思いを一段と強くする。そして、自身が総裁になって以来、初めて在外会員の推薦を出したのである。
 
 在外会員の就任式で氏は、先生をアカデミーの一員に迎える喜びを次のように表現した。
 
 「未来は、ひとりでに、やってくるものではありません。人間自身が切り開くものです。その人間の一人が、池田大作氏です」
 
 「当アカデミーは、これまで常に『人間の尊厳』について追求してきました。池田氏の人格の偉大さは、その歩みにふさわしい」
 
 「私たちの時代の『美しきもの』とは、人間に対する『信頼』『信仰』によって培われるものです。そして、未来は、私たちの手によって築かれるものなのです」
 
 就任式に先立つ会見では、先生にこう呼びかけている。
 
 「共通の『未来』へ、ともに手を携えて進もうではありませんか」「崇高なる『言葉』を最大の武器として、戦いましょう」と。
 
 “地球の反対側”で実現した式典から、きょうはちょうど30年である。
 

〈アウストレジェジロ・デ・アタイデ〉
どうすれば皆が自由に人間らしく
暮らせるかを考え、努力する――
そうした人々の連帯が平和を築く。

 
 アタイデ氏は1898年9月、ブラジル北東部のペルナンブコ州に生まれた。
 
 聖職者の道を志し、10歳で神学校に入学。以降8年間、寄宿生活を送った。成績は常に最優秀で、多くの言語や、あらゆる学問を学び、豊富な知識を身に付けた。
 
 弁論の才能にも優れていた。ある時、学校で自由主義をたたえるスピーチを行うと、演壇から降ろされ、校長である司祭に「神父は政治活動をしないものだ」と叱責された。“自分の意見を言うことが、なぜ悪いのか”――聖職者という進路に疑問を強めた氏は、最終的に神学校の退学を決断する。
 
 校長に別れを告げに行くと、思いもかけない言葉をかけられた。“君はジャーナリストに生まれついており、演説者としての天賦の才能をもっている”。これが氏の人生を決定づける指針となった。
 
 その後、法科大学(現在のリオデジャネイロ連邦大学)へ進み、1921年に学位を取得。“国の発展のために尽くしたい”という夢を抱き、新聞記者としての歩みを開始する。
 
 だがそれは、いばらの道だった。30、40年代、自国の独裁政権を真っ向から批判し、3度の投獄、3年間の国外追放。それでも「民衆運動を破壊する勢力に抵抗するもっとも有効な手段は、“言論”である」との信念を貫き通し、正義の論陣を張り続けた。
 
 第2次世界大戦後は「世界人権宣言」の草案作成に尽力。文化的・民族的背景の異なる各国の意見がぶつかり合う中、氏は永遠に人々の人権を保障する宣言となるよう最後まで議論を尽くした。そして48年、第3回国連総会での採択を実現させたのである。
 
 同宣言の精神を現実化していくために必要な努力は何か。
 
 かつて氏は、本紙のインタビューで、こう答えている。「平和というものは、一人の人間の力によってつくられるものではありません。一人一人がそれぞれの立場で、どうすれば人々が自由を享受し人間らしく平和に暮らしていくことができるかを考え、実現のための努力を払っていく――そうした人々のネットワークのなかに確たる平和が築かれると思います」と。
 

〈アタイデ氏を語る池田先生〉
いかなる世界であれ、最後まで
戦い続けた人が勝つ。その原動力は
不屈の「決意」「責任感」である。
「私は世界一、幸福だ」と誇れる
勝利の人生であっていただきたい。

 
 生涯で書いたコラムは5万本。テレビに20年、ラジオには30年にわたって毎週出演するなど、90歳を過ぎても休まず働き続けた氏。
 
 「大事なのは、自分の決意の深さである。自分が決めた仕事を最後まで果たすことである」。そう述べた氏の“戦う精神”を伝えつつ、池田先生は創価の友に訴えた。
 
 「いかなる世界であれ、最後まで戦い続けた人が『最後の勝利』を手にする。その原動力は、不屈の『決意』『責任感』であると、氏は結論されている。皆さまもまた、最後の最後に『私は世界一、幸福だ』『わが家は世界一、幸福だ』と誇れる勝利の人生であっていただきたい」(1991年12月14日、第20回婦人部幹部会、江戸川・葛飾・足立文化音楽祭でのスピーチ)
 

リオデジャネイロに到着した池田先生を、熱烈に歓迎するアタイデ氏㊧(1993年2月9日、ガレオン国際空港〈当時〉で)。この日の感動を氏は「人類の運命の行方を決める一人、池田大作氏を迎えることができた」と、現地の新聞につづった
リオデジャネイロに到着した池田先生を、熱烈に歓迎するアタイデ氏㊧(1993年2月9日、ガレオン国際空港〈当時〉で)。この日の感動を氏は「人類の運命の行方を決める一人、池田大作氏を迎えることができた」と、現地の新聞につづった

 
 1993年2月9日、アタイデ氏はリオデジャネイロの空港にいた。ブラジル文学アカデミーの在外会員就任式などに出席する池田先生を出迎えるためである。
 
 氏は先生が着く2時間も前から貴賓室で待機していた。
 
 当時、94歳。体調を気遣う周囲の声もあったが、氏は「私は、94年間も池田会長を待っていたのです。1時間や2時間は何でもありません」と。やがて先生を乗せた旅客機が到着し、待望の瞬間が訪れる。
 
 「池田会長は、この世紀を決定づけた人です。戦いましょう! 力を合わせて、人類の歴史を変えましょう!」と呼びかける氏に、「総裁は同志です。友人です。総裁こそ、世界の“宝”の方です」と応じる先生。
 
 氏は恩師・戸田城聖先生とほぼ同年代である。喜びの出会いの直後、池田先生は「戸田先生が迎えてくださったような気がした」と感慨を込めて語った。
 

リオデジャネイロの中心街に立つブラジル文学アカデミー。1897年に創立され、ブラジルの文学や芸術の発展に寄与してきた。旧館には会員・在外会員の著作が保管されている
リオデジャネイロの中心街に立つブラジル文学アカデミー。1897年に創立され、ブラジルの文学や芸術の発展に寄与してきた。旧館には会員・在外会員の著作が保管されている

 
 2日後の2月11日、氏の母校・リオデジャネイロ連邦大学から先生に「名誉博士号」が贈られた。
 
 この日は、恩師の生誕93周年。小説『人間革命』全12巻の新聞連載が完結し、先生は「あとがき」を記した。
 
 先生との出会いから7カ月後、氏は94年の生涯を閉じる。亡くなる直前まで書簡やインタビューを通じて先生との対談集の作成に取り組み、2人の語らいは『21世紀の人権を語る』として結実した。発刊は95年2月11日。戸田先生の生誕95周年であった。
 
 対談集の「はじめに」に池田先生はつづった。
 
 「仏法者には、仏法の哲理を根本とした、社会への実践を通して、精神性に裏打ちされた『未来社会』を招来する使命と責務があると言ってよい。ゆえに、私は一人の仏教者として、人類の幸福のために生涯を捧げた、戸田会長の弟子としての使命の道を、アタイデ総裁とともに歩んでいきたい」
 
 希望の「未来社会」を勝ち開く――永遠に変わらぬ、我ら創価が進むべき使命の道である。
 

【引用・参考】『21世紀の人権を語る』(潮出版社、『池田大作全集』第104巻所収)、池田大作著『私の世界交友録』(読売新聞社、同全集第122巻所収)、同著『大道を歩む 私の人生記録Ⅲ』(毎日新聞社、同全集第127巻所収)ほか
 

書籍「ヒーローズ」が好評発売中

 連載の一部をまとめた書籍『ヒーローズ』が好評発売中。ネルソン・マンデラ、ローザ・パークス、諸葛孔明、高杉晋作など12人を収録している。潮出版社刊。1540円(税込み)。全国の書店で購入・注文できます。聖教ブックストアのウェブサイトでも受け付け中。コンビニ通販サイト「セブンネットショッピング」「HMV&BOOKS online」での注文、受け取りも可能です。
 

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【小説「人間革命」連載完結30周年】世界の青年を照らす希望の光源

2023年02月11日 | 妙法

【小説「人間革命」連載完結30周年】世界の青年を照らす希望の光源2023年2月11日

ブラジルの名門リオデジャネイロ連邦大学から、池田先生への名誉博士号授与式。マクラン総長(左から2人目)から学位記が手渡された(1993年2月11日、同大学で)
ブラジルの名門リオデジャネイロ連邦大学から、池田先生への名誉博士号授与式。マクラン総長(左から2人目)から学位記が手渡された(1993年2月11日、同大学で)
〈ブラジルSGI リビア・エンドウ女子部長〉
励まし広げ、人類融合の大海原を

 小説『人間革命』の連載が完結した1993年(平成5年)2月11日、リオデジャネイロ連邦大学から池田先生に対して「名誉博士号」が贈られました。
 池田先生は謝辞の中で、戸田先生の「地球民族主義」に言及。リオは「『大いなる普遍性』への『希望の港』」と語りました。さらに、「皆さまとともに、人類融合の大海原へ、船出しゆく決心であります」と呼びかけてくださいました。
 ブラジルの地に、永遠不滅の師弟の魂魄がとどめられてから30年――平和と友情に彩られた“人類融合の大海原”を広げようと、ブラジル青年部は、小説『人間革命』『新・人間革命』を心に刻みながら、対話・拡大に取り組んでいます。
 女子部では、教学などを研さんする「法華経の華」大学校を活発化。毎月、全土で開催される大学校の小単位の集いで、『新・人間革命』を学び合っています。
 『人間革命』『新・人間革命』を糧に、信仰の原点をつかんだ体験は、枚挙にいとまがありません。
 当初、活動に消極的だった、ブラジル北東部に住むあるメンバーは、「法華経の華」大学校で『新・人間革命』に触れて発心し、自主的に研さんに励むようになりました。「教学にも挑戦し、引っ込み思案を乗り越えたい」と、さらなる決意を燃やしています。
 最愛の祖父を亡くした、ブラジル南部の鼓笛隊員は、『新・人間革命』第14巻「使命」の章が心の支えに。そこには、祖母との別離の苦しみを克服する鼓笛隊員のドラマが描かれています。同章をひもとき、彼女は、鼓笛隊の誇りで再起することができました。
 『人間革命』第1巻「終戦前後」の章には、戸田先生が戦後の混乱期にあって、広布の時を待つのか、時を創るのか、自問自答する場面があります。
 その際、「一人の新たなる真の同志をつくる。それから一人、また一人とつくっていく。これが取りも直さず、時を創ることになる」と決心されます。
 危機の時代に直面し、ブラジルだけでなく、世界は混沌としています。『人間革命』『新・人間革命』にちりばめられた知恵を現実化し、一人に励ましを送る実践に、広布の未来を開く大道があります。
 「2・11」から「3・16」65周年へ、ブラジル女子部は、師匠の心をわが心とし、一対一の語らいを広げながら、幸福・勝利の花を咲かせてまいります。

〈梁島英明男子部長〉
広布を誓う「新時代の山本伸一」に
昨年10月、巣鴨の東京戸田記念講堂で行われた全国男子部幹部会。池田先生は「新時代の山本伸一よ、不二の力で勝ちまくれ!」とメッセージを寄せた。席上、20歳当時の先生が入信1年目の思いをつづった言葉が紹介された
昨年10月、巣鴨の東京戸田記念講堂で行われた全国男子部幹部会。池田先生は「新時代の山本伸一よ、不二の力で勝ちまくれ!」とメッセージを寄せた。席上、20歳当時の先生が入信1年目の思いをつづった言葉が紹介された

 私にとって小説『人間革命』は、「人生の師匠」を定めるきっかけとなった原点の書です。
 18歳の時、“人生をいかに生きるべきか。師匠とはいかなる存在なのか”と考えていた中で、『人間革命』を読みました。
 第2巻「地涌」の章で、山本伸一は、恩師・戸田城聖先生と出会います。小説を開いたことで、私は「山本伸一」と出会うことができました。戦後社会の混乱の中で、師匠を求め続けていく、自分と同世代の伸一の姿に、胸を熱くしました。
 出会いには「対面の出会い」もあれば、書物などを通した「胸中の出会い」もあることを実感しました。
 『新・人間革命』には、「師弟とは、形式ではない。常に心に師があってこそ、本当の師弟である。心に師がいてこそ、人間としての『自律』があり、また、真の『自立』があるのだ」(第22巻「新世紀」の章)とあります。
 「心の師」への日々の誓いこそ、広布に生きる青年の原動力です。
 「我、新時代の山本伸一なり!」との男子部スローガンは、“不二の弟子”であろうとする誓いそのものです。
 中部男子部では、昨年12月から『人間革命』を毎月1巻ずつ研さんしています。広宣流布大誓堂完成10周年の11月に、全12巻が終了する予定です。
 小説を学ぶ中で、“自分が山本伸一だ!”との自覚に立ち上がったメンバーは、「広宣流布が“自分事”になった」と真の主体者に成長しています。
 戸田先生が宣言したように、創価学会は「宗教界の王者」です。そして今、池田先生の闘争によって、学会は日本最大の民衆組織となり、社会の柱として、厳然とそびえ立っています。
 広布が進めば障魔も激しくなります。男子部が先頭に立ち、破邪顕正の言論を力強く展開していきます。
 社会や世界が危機に直面する今だからこそ、希望のビジョンを描き、導く、新しい価値を生み出すことが創価の青年の使命です。
 『人間革命』『新・人間革命』で示された師の指針は、「不変」かつ「普遍」です。そこには、汲めども尽きぬ知恵の源泉があります。それを引き出す根幹こそ、「山本伸一」としての自覚です。
 “出でよ、幾万、幾十万の山本伸一よ!”との師の呼びかけに呼応し、私たち男子部は、総立ちになっていきます。

〈映画・劇画化〉
映画「続・人間革命」の撮影現場を訪問し、出演者・スタッフをねぎらう池田先生(1975年10月、東京・世田谷区で)
映画「続・人間革命」の撮影現場を訪問し、出演者・スタッフをねぎらう池田先生(1975年10月、東京・世田谷区で)

 50年前の1973年(昭和48年)9月、東宝映像とシナノ企画の共同製作で、小説を原作とした映画「人間革命」がロードショー公開された。
 脚本は、「七人の侍」などを手掛けた橋本忍氏が担当。初代会長・牧口先生と第2代会長・戸田先生の出会いや、獄中の悟達、戦後の創価学会の再建などが描かれた。観客動員は500万人を数え、日本映画の興行収入の記録を塗りかえる大ヒットとなった。
 76年(同51年)6月に公開された映画「続・人間革命」(製作=シナノ企画、東宝映像)では、戸田先生と山本伸一の出会いや、戸田先生の第2代会長就任などが映像化された。
 前作を超える爆発的なヒットとなり、この年、日本映画で第1位の興行収入を記録している。
 製作に際し、池田先生は、多忙な合間を縫って、撮影現場に足を運び、出演者やスタッフをねぎらった。映画「続・人間革命」で、山本伸一役を演じた俳優・歌手のあおい輝彦さんは、先生の激励によって、「映画に対する闘志が湧いてきた」と振り返っている。
 また、劇画『人間革命』(劇画・石井いさみ、脚本・渡あきら)は、88年(同63年)7月から本紙で掲載がスタート。2002年(平成14年)12月まで、14年5カ月にわたる長期連載となった。
 20年(令和2年)4月、小説第2版に基づいて再編集された劇画『人間革命』第2版が、聖教電子版で配信を開始。現在、毎週水曜日に配信されている。

〈小説の章名と掲載年月〉

※第11巻は、1980年(昭和55年)11月20日まで掲載された後、1991年(平成3年)5月3日、同巻の「大阪」の章から再開された

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