この「国民の犬」とは、女子フィギュアスケートのキム・ヨナが韓国で国民の妹と呼ばれていると、テレビで聴いたことがあると思う。妹のように可愛いというわけ、つまり国民的アイドルだろう。ところが、はたしてそれだけですむことなのか。モモちゃんがおもしろがって「ただちに犬」で聴いた台詞を繰り返しているのを、ぼくらもやってみよう。国民のデイト、国民の数学、国民の宿題・・・とつづけていく。さて、国民の父、国民の母、国民の兄とだんだん広げていく。国民のスーパー、国民のテレビ、国民の買い物、国民の電車、国民の歯ブラシ、国民の電話、国民の洗濯機、国民の通勤・・・などと、家族、友人、暮らし、仕事などと拡大していくと、もはや国民的アイドルなどという可愛い姿などは消し飛んでしまう。「国民の○○○・・」となるだけで、こっけいになってしまうのである。観客はそのシーンで爆笑していた。なぜわらえるのか、国民の父といわれたとき、なぜ吹き出すのか、それは父という存在が虚ろになった実態をさらけだされてしまうからだ。そう、すべてが実態を失って、虚ろになる。私という自分までが、国民というものにかりとられて胡散無償して消滅し、国民という全体があたり一面にひろがりだす。まさにそれは北朝鮮国家の大砲砲撃である。それに対応するNHKテレビやその他の報道の画一さである。このあまりにわれわれの日常の実は正体をきづかされて、笑うしかなくなってくるのだ。モモちゃんにとっては、港小の校長先生、港小のPTA会、港小のクラスメイト、港小の便所、港小の卒業式などなど続けて唱えると、そういうことになりそうだ。もちろん、彼女にこんな発想は無縁かも、今の年齢では。
舞台のやや汚れてくたびれてしまったキャンバス製の犬の縫いぐるみをひっくり返して、その後ろ肢の股の付け根から指で背中へ向けてなぞりながら、国境線があるという、四肢の先にはそれぞれの日本や海外のリゾートがあるとする。それは、世界が犬の縫いぐるみに縮小されてしまったおかしさである。ここでは、個人が夢幻の広がりをしながら主体となっている。ドンキホーテの自己幻想が、われわれを笑わせる。まさに国民の○○○での自己の無化と対象している。一方では無、他方では無限大、どちらにしても自己存在は消滅し、笑いだけが煌々と、テント内を満たしていく。どくんご劇の中心主題は、ここにあるとぼくは思う。
おそらく、この台詞、つまり表現をしたのは、かれらのテント演劇活動によって意識された世界観であったと思えるのだ。それは頭や理論や、演劇的教養などでえられたアイデアではなくて、かれらの生き方が、どうしようもなく自覚を促す世界と自分の関係であったといえよう。だから、説得力があるのだ。つまりモモちゃんという純粋なこどもの心を動かす真実感があったのだ。
このエッセイの初回にのべたようにぼくのどくんごテント劇のプロデュースは1995年の「トカワピークエンダワピー」であったが、実際に積極的に関わったのは、もっと早く1990年宮崎市の隣町旧佐土原町の一ツ瀬病院(精神科)で公演された同劇団の「パブリックな怪物 夢が役に立たないと、そうわかったので安心して眠った」であった。この劇では冒頭精神病院のシーンで病院長が登場、さんさん経営でわるいことをやると演じられ、観客の笑いを誘った。144名の観客のうち59名が一ツ瀬病院の患者であり、かれらの爆笑がすばらしかった。このころ、ぼくは1974年から宮崎市に来援していた黒テント(1968/71黒色テント)の上演を見てきており、1979年の「西遊記」「ヴォイ/チェック」「タイタニック沈没す」などと2004年の「ど」まで実行委員長を引き受けてきた。この黒テントも宮崎神宮神苑などで上演していた。外に「リダン」(実は漢字名)と今は名称さへ記録の無い「紫テント」が、新しいテント劇団として、市民をおどろかす公演をやっていた。このような劇団を比べてどくんごは、同じテント劇ながら、かなり違っていた。どこが違うのか、一言で言えば、どこかのほほんとしたエンターテイメント性をかんじられたのだ。とくに黒テントが、天皇制国家を問題とし、安保条約反対闘争の失敗などを扱い、昭和の時代の革命を模索するような反対制的内容を演じる思想性などはもはや無かった。またどこか学生っぽい若さがあって親しみやすかった。たしかにアングラ演劇とよばれた内容の激しさはうけついでいた。とくにリダンや紫テントはステージで火を燃やし、水をぶちまけ、裸、暴力といういわゆるアングラ的表現に力点が置かれて、もはやその衝撃を排してしてきている黒色テントの過去を想起させる激しさで興奮を誘った。それらに比べてどくんごは、なんとなく、思想性も衝撃性にも力点を置かずどこかのほほんとしたものがあったのだ。
その後、アングラ演劇は小劇場運動としてさまざまの劇団・劇表現を生んでいった。そんな80年代となり、テント内でどのような表現を実現するかが、課題となり、挙句にテント劇は休息に消えていった。そんな時代の変化のなかで、ほとんど唯一といっていいくらいのテント劇団として「どくんご」が生き延びている。主催の伊能は、絶滅危惧種と笑っていたが、ここ数年、ふたたびテント劇での順延は、黒テントなどでも模索されている。時代はふたたびテントに注意を向けてきたのだが、実現している劇団はまだ皆無である。こんな流れのなかで、どくんごのテント劇だけがなぜ生き延びているのはそれだけの理由、つまり「なまけもの」が密林のなかで「生存競争」を勝ち抜いているのと似た生存可能性の理由があるのであろうとは、推測できるのである。
そのひとつの理由として、ぼくは初期に感じた、街頭劇やテント劇ののほほんとした肩の力を抜いた特性があったのだろうと思う。思想性も革命も、教養もガンバリズムも経済も消費も関係なく、ただ好きなように生きているというだけの面白さ、その喜劇性が、すでに当時のアングラ劇を越えて新しさを持っていたのだといえるのである。テント内でふたたび表現を模索しながら、テントを捨てるしかなかったもろもろの劇団とくらべて、どくんご劇団のテントはすでにそのとき、かれらの甲羅になっていたのだ。中身はすでにおさまっていたのだと解釈することができるのである。この世界からまさに宙ぶらりんの生き方そのもの新しさが、80年代に確立されていたというのは、注目したい。
さて、2010年11月の「ただちに犬 Bitter 」で、このエンターテイメントの笑いの要素がどれだけ有効であったかを、ぼくだけでなく観客の反応から検証していく必要があるのではないだろうか。どくんごの表現は2005年「ベビーフードの日々」から縫いぐるみの人や犬を登場させるようになって、笑いが複雑さと、他方単調さをもつようになってきた。ただ、2004年には映画「笑いの大学」ガ封切られ、2005年優勝賞金1000万円の漫才グランプリが開催され、笑いは表現として時流になってきている。この時流をつかめる時代をむかえているのだ。それが可能かどうか、どくんご劇団のふんばりどころであろう。その提言のいろいろかんがえるのであるが、ここでは、最後にもう一度モモちゃんに登場してもらって、ぼくの意に替えて提言してみたい。モモちゃんは、どくんごのシーンでつぎの台詞を記憶していた。しかも、毎晩のように今も風呂上り、自分のベッドの上で、この台詞で一人芝居を演じているというのだ。
暗闇健太のモノローグを彼女はこのように記憶・再現して、これをノートに書いてぼくにあたえてくれた。
「ある日、ばあさんが「ウイッ」とのんでしもうたのよ~~~。
あのあのトカゲの目のように赤く血のように、どろどろにえきたいを~~~!
ビールのむ、くすりのまない、ビールのむくすりのむ、どくのまない、のんでしまったのよへへへ!そんで「クイッ」とのんでしまったのよ~~~!それは人間のほかのものにするくすりだったのよ~~~!わしは、チョコレートになったのよ~~~!
かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、ここがかゆい。
いやもっと上、いやもっと、もっと上や~!!
あ~~~~~~
わしは、ちぢんで、ちぢんで、ちぢんで、ちちんで、こんなに小さなチョコレートになった。ばあさんは、チョコレートの箱になってもんくも言えない。ビールのむ、くすりのむ、どくのまない。ビールのむ、くすりのむ、どくのまないや~~~~~~!」
(以上の台詞の行変え、その強調のための各種記号はモモちゃんの原文のまま)
ぼくは、この台詞のおもしろさに仰天してしまった。それと台詞に加えられた強調のための感嘆譜の位置はモモちゃんが挿入したのだから、演出台帳としても、理に適っている。この表現のおもしろさを小学3年生の彼女が演出するかのように独自の視点で捉えていたのだ。
そして、ぼくは、たぶんに多くの耳の遠くなってきた高齢者たちは、聞き取れなかったのではないか。そして、このおもしろさが爆発するまでには、至らなかったのではないのだろうか。絶叫の単調さが、誇張のひとりよがりが、観客を無視した印象もあったがひとりの少女にはこれほど心にとどくシーンでもあったのだ。
かって、伊能はぼくらの演劇もまた「宝塚歌劇」と同じ構造ですよと言ったことがあったが、ぼくは、現在もこの構造に深く興味をもっているのだ。
舞台のやや汚れてくたびれてしまったキャンバス製の犬の縫いぐるみをひっくり返して、その後ろ肢の股の付け根から指で背中へ向けてなぞりながら、国境線があるという、四肢の先にはそれぞれの日本や海外のリゾートがあるとする。それは、世界が犬の縫いぐるみに縮小されてしまったおかしさである。ここでは、個人が夢幻の広がりをしながら主体となっている。ドンキホーテの自己幻想が、われわれを笑わせる。まさに国民の○○○での自己の無化と対象している。一方では無、他方では無限大、どちらにしても自己存在は消滅し、笑いだけが煌々と、テント内を満たしていく。どくんご劇の中心主題は、ここにあるとぼくは思う。
おそらく、この台詞、つまり表現をしたのは、かれらのテント演劇活動によって意識された世界観であったと思えるのだ。それは頭や理論や、演劇的教養などでえられたアイデアではなくて、かれらの生き方が、どうしようもなく自覚を促す世界と自分の関係であったといえよう。だから、説得力があるのだ。つまりモモちゃんという純粋なこどもの心を動かす真実感があったのだ。
このエッセイの初回にのべたようにぼくのどくんごテント劇のプロデュースは1995年の「トカワピークエンダワピー」であったが、実際に積極的に関わったのは、もっと早く1990年宮崎市の隣町旧佐土原町の一ツ瀬病院(精神科)で公演された同劇団の「パブリックな怪物 夢が役に立たないと、そうわかったので安心して眠った」であった。この劇では冒頭精神病院のシーンで病院長が登場、さんさん経営でわるいことをやると演じられ、観客の笑いを誘った。144名の観客のうち59名が一ツ瀬病院の患者であり、かれらの爆笑がすばらしかった。このころ、ぼくは1974年から宮崎市に来援していた黒テント(1968/71黒色テント)の上演を見てきており、1979年の「西遊記」「ヴォイ/チェック」「タイタニック沈没す」などと2004年の「ど」まで実行委員長を引き受けてきた。この黒テントも宮崎神宮神苑などで上演していた。外に「リダン」(実は漢字名)と今は名称さへ記録の無い「紫テント」が、新しいテント劇団として、市民をおどろかす公演をやっていた。このような劇団を比べてどくんごは、同じテント劇ながら、かなり違っていた。どこが違うのか、一言で言えば、どこかのほほんとしたエンターテイメント性をかんじられたのだ。とくに黒テントが、天皇制国家を問題とし、安保条約反対闘争の失敗などを扱い、昭和の時代の革命を模索するような反対制的内容を演じる思想性などはもはや無かった。またどこか学生っぽい若さがあって親しみやすかった。たしかにアングラ演劇とよばれた内容の激しさはうけついでいた。とくにリダンや紫テントはステージで火を燃やし、水をぶちまけ、裸、暴力といういわゆるアングラ的表現に力点が置かれて、もはやその衝撃を排してしてきている黒色テントの過去を想起させる激しさで興奮を誘った。それらに比べてどくんごは、なんとなく、思想性も衝撃性にも力点を置かずどこかのほほんとしたものがあったのだ。
その後、アングラ演劇は小劇場運動としてさまざまの劇団・劇表現を生んでいった。そんな80年代となり、テント内でどのような表現を実現するかが、課題となり、挙句にテント劇は休息に消えていった。そんな時代の変化のなかで、ほとんど唯一といっていいくらいのテント劇団として「どくんご」が生き延びている。主催の伊能は、絶滅危惧種と笑っていたが、ここ数年、ふたたびテント劇での順延は、黒テントなどでも模索されている。時代はふたたびテントに注意を向けてきたのだが、実現している劇団はまだ皆無である。こんな流れのなかで、どくんごのテント劇だけがなぜ生き延びているのはそれだけの理由、つまり「なまけもの」が密林のなかで「生存競争」を勝ち抜いているのと似た生存可能性の理由があるのであろうとは、推測できるのである。
そのひとつの理由として、ぼくは初期に感じた、街頭劇やテント劇ののほほんとした肩の力を抜いた特性があったのだろうと思う。思想性も革命も、教養もガンバリズムも経済も消費も関係なく、ただ好きなように生きているというだけの面白さ、その喜劇性が、すでに当時のアングラ劇を越えて新しさを持っていたのだといえるのである。テント内でふたたび表現を模索しながら、テントを捨てるしかなかったもろもろの劇団とくらべて、どくんご劇団のテントはすでにそのとき、かれらの甲羅になっていたのだ。中身はすでにおさまっていたのだと解釈することができるのである。この世界からまさに宙ぶらりんの生き方そのもの新しさが、80年代に確立されていたというのは、注目したい。
さて、2010年11月の「ただちに犬 Bitter 」で、このエンターテイメントの笑いの要素がどれだけ有効であったかを、ぼくだけでなく観客の反応から検証していく必要があるのではないだろうか。どくんごの表現は2005年「ベビーフードの日々」から縫いぐるみの人や犬を登場させるようになって、笑いが複雑さと、他方単調さをもつようになってきた。ただ、2004年には映画「笑いの大学」ガ封切られ、2005年優勝賞金1000万円の漫才グランプリが開催され、笑いは表現として時流になってきている。この時流をつかめる時代をむかえているのだ。それが可能かどうか、どくんご劇団のふんばりどころであろう。その提言のいろいろかんがえるのであるが、ここでは、最後にもう一度モモちゃんに登場してもらって、ぼくの意に替えて提言してみたい。モモちゃんは、どくんごのシーンでつぎの台詞を記憶していた。しかも、毎晩のように今も風呂上り、自分のベッドの上で、この台詞で一人芝居を演じているというのだ。
暗闇健太のモノローグを彼女はこのように記憶・再現して、これをノートに書いてぼくにあたえてくれた。
「ある日、ばあさんが「ウイッ」とのんでしもうたのよ~~~。
あのあのトカゲの目のように赤く血のように、どろどろにえきたいを~~~!
ビールのむ、くすりのまない、ビールのむくすりのむ、どくのまない、のんでしまったのよへへへ!そんで「クイッ」とのんでしまったのよ~~~!それは人間のほかのものにするくすりだったのよ~~~!わしは、チョコレートになったのよ~~~!
かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、ここがかゆい。
いやもっと上、いやもっと、もっと上や~!!
あ~~~~~~
わしは、ちぢんで、ちぢんで、ちぢんで、ちちんで、こんなに小さなチョコレートになった。ばあさんは、チョコレートの箱になってもんくも言えない。ビールのむ、くすりのむ、どくのまない。ビールのむ、くすりのむ、どくのまないや~~~~~~!」
(以上の台詞の行変え、その強調のための各種記号はモモちゃんの原文のまま)
ぼくは、この台詞のおもしろさに仰天してしまった。それと台詞に加えられた強調のための感嘆譜の位置はモモちゃんが挿入したのだから、演出台帳としても、理に適っている。この表現のおもしろさを小学3年生の彼女が演出するかのように独自の視点で捉えていたのだ。
そして、ぼくは、たぶんに多くの耳の遠くなってきた高齢者たちは、聞き取れなかったのではないか。そして、このおもしろさが爆発するまでには、至らなかったのではないのだろうか。絶叫の単調さが、誇張のひとりよがりが、観客を無視した印象もあったがひとりの少女にはこれほど心にとどくシーンでもあったのだ。
かって、伊能はぼくらの演劇もまた「宝塚歌劇」と同じ構造ですよと言ったことがあったが、ぼくは、現在もこの構造に深く興味をもっているのだ。