市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

国民の妹 テント劇「ただちに犬 Bitter」を終わる

2010-11-20 | 演劇
 宮崎市も朝は手袋がいるようになってきた。そう、今年も年末へとまっさかさまにころげこむための季節になってきた。これから、年末にかけて大衆行動に駆り立てられる。文化の日、電飾の市街、お歳暮、クリスマス、年賀状、紅白歌合戦と波が襲う。この波をどう斜めにつっきるか、こんな日々がくる。大衆行動は快感か、あるいは恐怖か、ぼくにとっては浮遊感である。高野綾の絵画「Noshi & Meg, On Earth, Year 2036」の少女のように裸で「洋服の青山」の電光看板の目立つビルを取り囲む中心市街の空中に漂っている気分を共感できるのである。

 11月13日土曜夜、青島を見下ろせる丘に立つガラスのドームのカフェレストラン
「天空ジール」に設営されたテントントで「ただちに犬 Bitter」を観た。去年のただちに犬 Deluxe 」の続編というのであった。続編といっても、どこが続きなのかつかまえにくい、いやとらえどころのない漠然たる、これまにない絶叫劇が・・目の前を流れつづけていった。今までに無い全体像を要約しきれないままに。前回は、犬を殺した犯人さがしの堂々巡りという形式をもっていたが、それが乱れていた。前半と後半では、「犯人はお前だー」と指摘する仕方と指されたものの絶叫的反応は、後半では静かな口調で「犯人はお前だ」という口調となり、指されたものは、なにごともなかったかのように、ふたたび静かに、つぎに犯人を告げる、あるいは語るということになっていた。これは、前半との対象形なのだ。だが、なぜ対象にすべき必然があったのか、はっきりしなかった。そして全体のテーマ犯人探しは、劇の核とはなっていないということになったのであった。ならば、この劇はなんなのか・

 ここで一人の少女(小学3年生)に登場してもらう。知人の一人娘で、去年初めて
たたちに犬を観たあと、この劇というか、どくんご劇団そのものにはまり込んでしまった。ママが「モモが将来役者になりたい」と将来の希望を書いたと言って、笑いながらも不安げにいうのだった。「これあなたの責任だわよ」と脅しながらだ。なにしろクラスの発表会では、舞台装置を製作、役者をクラスメイトに指示し、童話を脚本にして上演したという。こんなことは前代未門のクラスイベントであったというのだ。その後も自宅の学習机の上にはどくんごの舞台写真の絵葉書が何枚も貼られ、ときどき人形を並べて芝居をさせているという。そのモモちゃんは今年もどくんごが来ると、店にはられたポスターでいち早く気付いて、指を折って上演日をまっているのだと、おどろくべき話を聴かされたのだ。また絵葉書を買いたい、そして、ぼくにお願いして欲しいのは、役者さんたちと写真を撮らしてもらいたいというのであった。上演の前後、伊能、五月、暗闇健太、みほなどにこの話をすると「ヤバイよ、それえ」とうれしそうに仰天していた。写真も全員がツーショットとなって、彼女を歓迎するのであった。五月さんが、あの子、絵葉書を何枚も買ってくれたのよとよろこびを通り越して驚いていた。モモちゃんは、5歳からモダンダンスを5年間習っていて、ステージでの体験も重ねてきているから、どくんごの舞台に対する反応も普通ではないのかもよと、ぼくはかれらと話すのであった。

 
 今週火曜日、店に行ってカウンターのマスターにモモちゃんの反応をさっそく確かめてみた。

 「それそれ、一番おもしろかったのは、劇のなかであった長いモノローグ「国民の妹」「国民とデイト」とはてしなくつづく国民のナニ、国民のナニ、国民とナニをべらべらとまねし出して、そこが一番おもしろかったらしいですよ。それともう一つは、犬の縫いぐるみが、去年より小さくなっていたと言います。それから犬の後ろ肢の間から背中の縫い目を、ここが国境といったり、肢の先がリゾートや、宮崎の都井岬だと話をするところも面白かったといい、今では犬のぬいぐるみをもってきて、両足の間から指を這わせながら、ここが国境などと一人でやっています。それと、-秘密を打ち明けてくれなくって結構ーという台詞を劇で言わなかったと言うのです。あ、この台詞は、ちらしの漫画の噴出しに小さく載っています・・」

 と、モモちゃんの観劇後のおどろくべき反応を語ってくれた。あのちらしにある漫画の役者の吹き出しにある「秘密を打ち明けてくれなくって結構」などの台詞など、気付いてもいなかったし、読んでも気にもしなかったことだろう。思うと、この言葉は、少女の人生にとっては、きわめて大切の日常感情を秘めているといえよう。ただちに犬は、彼女の人生と確実の交わっていたのだという驚きがある。つぎに驚かされたのは、「国民の妹」「国民とのデイト」と、国民のと果てなくつづく台詞のシーンを、犬の人形を自分を取り巻く世界・社会・故郷になぞらえて指でなぞりながら、つっこみをうけのお笑いをくりかえすシーンは、今回ではまさにここしかないほどの中心的主題であったと、ぼくにはおもえていたのだ。これは、ぼくの感性が少女並なのか、モモちゃんが大人並なのか、いや、大人にもこどもにも
「ただちに犬」が、見事に中心主題を伝えられる構造を宿していると、みなすことが可能であるといえるのに、驚かされるのだ。とくに「国民の何々」これは凄い。
このリフレインは何を表し始めるのか、自分で台詞をリフレインしていると、なにかかが、たちあわれてくるのである。モモちゃんとぼくにナニが・・・・?

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