今年のテント劇上演は、ぼくは実行委員に参加せず、それゆえ、新しい実行委員会設立の希望をかけての上演となっている。シノブちゃん、梅崎さん、三木ちゃん、山崎さん4人が上演と新実行委員会の実現を図るべく、活動を進めてきた。観客数も50名くらいで納得してもらえるようにどくんごに頼み、快く了承してもらえた。場所は青島の丘の上のカフェレストラン「天空ジール」の前庭にテントを建てての上演である。昨日11月11日木曜日に劇団は到着、山崎、梅崎が劇団と接触、案内した。電話で一年ぶりに伊能さんと接触できたが、「いいところです、すばらしい・・」の一言にほっとした。
1987年、宮崎市に来て、別府町の児童公園で、暗黒健太と山田零か、時折旬かと青空投げ銭の上演であった。そのとき、現在の女優まほさんが、中学生ではっぴ姿でちんどんの太鼓を叩いていた。なんで中学生が参加しているのかと仰天した。あれから数年後、ついにプロデュースを引き受けることを決意、1994年、折から改修拡張工事に入っていた宮崎駅前の広場を借りてテントをはり3日間の公演をした。このときの「トカワピークエンダワピー」(どこから来てどこへ行く)は連日満員であった。上演後、観客が数名実行委員会となってもらえた。引き続いて、幽霊船の話「ノン・ノット・ポケットゴーゴー」(1998年)をタバコ専売所の跡地で上演できた。この初日は台風の夜の突撃上演であった。二日目は観客が押し寄せ満席となった。ついで丘のうえにある東宮花の森団地の中央広場、西に霧島連峰、東に太平洋が望める場所にテントを立てて「踊ろうぜ」(2001年)を上演。3日間の上演、ついで同じ場所で2005年「ベビーフードの日々」を3日か雨天の最終日であった。最終日に団地の住人の通報によって警察が事情を聞きに立ち寄った。もちろん、何も問題はなかった。このときは、すでに団地は住宅が立ち並び、霧島も海も見えなくなっていた。そして2009年宮崎臨海公園で「ただちに犬 deluxe」上演であった。
このように上演記録を並べてみたが、数年置きの公演は、劇団の全国上演は、毎年は不可能であったのだ。一回順延すれば数百万円の借金を背負うことになり、これを払うのに数年かかり、その後での順延となったからだ。しかし、劇団も根拠地を鹿児島県出水市郊外に移し、経営の合理化を図って、赤字を克服できるようになって、今年は去年から毎年上演ができるようになったと思われる。しかし、宮崎市は、2000年代に入って知らぬ間に演劇状況は変わってしまっていた。なにより上演実行委員に加わる人がほとんど無くなっていった。宮崎市での演劇上演活動も毎年減っていっている。理由ははっきりしている。不景気で時間を遊びに割ける余裕がなくなってきたのだ。この景気の停滞が10年以上とつづいているのだ。将来の暗さが、意識を縛っている。冒険も好奇心も薄れ、それが個人としての生きるエネルギーを低下させているように思う。疲労感があり、これが自覚できない。だから生活がせいいっぱいで、余計な無駄はしたくない。消費できない。そんな状況を感じざるをえない。まさに萎縮の時代であろうかと思う。
ところが、他方では、一見、大衆の活動力が爆発する。つまり集団行動に駆り立てられるのだ。先週の土曜日に臨海公演で開催された今井美紀と、泉しげるのライブには一万八千名とか二万名とかの大聴衆が、宮崎はもちろん全国からも押し寄せたというのだ。しかし、ぼくには、これは音楽活動の盛況とは思えない。文化活動と思えるのは、個人の自由意志がなにより基本であるべきなのだが、ここには群集心理しか感じられない。いや、それはぼくの偏見にすぎず、こうした音楽活動こそエネルギーのある現代的状況として存在しているのかもしれない。まさに「どくんご」上演とは異次元の世界であると言っていいのかもしれない。
しかし、問題は、この異次元だけの世界だけがあり、他は存在しない、ように思えることだ。テレビも各社新聞も一面にこの公演を大きく報道している。もっとも宮崎県の口蹄疫災禍からの復興支援という名目があったせいであろうといわれるが、ではどくんご上演もまた口蹄疫支援足りうるのだ。しかし、この無名の小断片は無視される。大きなものだけが存在価値を認められる。大通りだけがあれば、つまり街は官庁街(おおむねここは大通りである)だけあれば、それで十分なのか、他は不要なのか。そんな大衆の行動を思わせる。路地も横町も裏通りも存在できない市街、やほやも銭湯も、個人食堂も、小さなものは、存在できない市街が広がる。大規模郊外店だけの街、こんな都市に生活しておもしろいのか。市民は、もはや小さな満たされた生き方はできなくなる。公務員や大企業からもれたものは、プアになる。まさに格差社会にあった都市が出現する。しかし、それが不満ともおかしいとも自覚できなくなっている大衆行動がわれわれをつつんでいく。
アートを考えるかぎり、小さなものを視野におさめざるをえない。この小さなものの存在の可能性をどう意識してもらえるのか、今回の上演には、このことを切実に思うのだ。これが2010年の宮崎市0年代末の文化状況である。
1987年、宮崎市に来て、別府町の児童公園で、暗黒健太と山田零か、時折旬かと青空投げ銭の上演であった。そのとき、現在の女優まほさんが、中学生ではっぴ姿でちんどんの太鼓を叩いていた。なんで中学生が参加しているのかと仰天した。あれから数年後、ついにプロデュースを引き受けることを決意、1994年、折から改修拡張工事に入っていた宮崎駅前の広場を借りてテントをはり3日間の公演をした。このときの「トカワピークエンダワピー」(どこから来てどこへ行く)は連日満員であった。上演後、観客が数名実行委員会となってもらえた。引き続いて、幽霊船の話「ノン・ノット・ポケットゴーゴー」(1998年)をタバコ専売所の跡地で上演できた。この初日は台風の夜の突撃上演であった。二日目は観客が押し寄せ満席となった。ついで丘のうえにある東宮花の森団地の中央広場、西に霧島連峰、東に太平洋が望める場所にテントを立てて「踊ろうぜ」(2001年)を上演。3日間の上演、ついで同じ場所で2005年「ベビーフードの日々」を3日か雨天の最終日であった。最終日に団地の住人の通報によって警察が事情を聞きに立ち寄った。もちろん、何も問題はなかった。このときは、すでに団地は住宅が立ち並び、霧島も海も見えなくなっていた。そして2009年宮崎臨海公園で「ただちに犬 deluxe」上演であった。
このように上演記録を並べてみたが、数年置きの公演は、劇団の全国上演は、毎年は不可能であったのだ。一回順延すれば数百万円の借金を背負うことになり、これを払うのに数年かかり、その後での順延となったからだ。しかし、劇団も根拠地を鹿児島県出水市郊外に移し、経営の合理化を図って、赤字を克服できるようになって、今年は去年から毎年上演ができるようになったと思われる。しかし、宮崎市は、2000年代に入って知らぬ間に演劇状況は変わってしまっていた。なにより上演実行委員に加わる人がほとんど無くなっていった。宮崎市での演劇上演活動も毎年減っていっている。理由ははっきりしている。不景気で時間を遊びに割ける余裕がなくなってきたのだ。この景気の停滞が10年以上とつづいているのだ。将来の暗さが、意識を縛っている。冒険も好奇心も薄れ、それが個人としての生きるエネルギーを低下させているように思う。疲労感があり、これが自覚できない。だから生活がせいいっぱいで、余計な無駄はしたくない。消費できない。そんな状況を感じざるをえない。まさに萎縮の時代であろうかと思う。
ところが、他方では、一見、大衆の活動力が爆発する。つまり集団行動に駆り立てられるのだ。先週の土曜日に臨海公演で開催された今井美紀と、泉しげるのライブには一万八千名とか二万名とかの大聴衆が、宮崎はもちろん全国からも押し寄せたというのだ。しかし、ぼくには、これは音楽活動の盛況とは思えない。文化活動と思えるのは、個人の自由意志がなにより基本であるべきなのだが、ここには群集心理しか感じられない。いや、それはぼくの偏見にすぎず、こうした音楽活動こそエネルギーのある現代的状況として存在しているのかもしれない。まさに「どくんご」上演とは異次元の世界であると言っていいのかもしれない。
しかし、問題は、この異次元だけの世界だけがあり、他は存在しない、ように思えることだ。テレビも各社新聞も一面にこの公演を大きく報道している。もっとも宮崎県の口蹄疫災禍からの復興支援という名目があったせいであろうといわれるが、ではどくんご上演もまた口蹄疫支援足りうるのだ。しかし、この無名の小断片は無視される。大きなものだけが存在価値を認められる。大通りだけがあれば、つまり街は官庁街(おおむねここは大通りである)だけあれば、それで十分なのか、他は不要なのか。そんな大衆の行動を思わせる。路地も横町も裏通りも存在できない市街、やほやも銭湯も、個人食堂も、小さなものは、存在できない市街が広がる。大規模郊外店だけの街、こんな都市に生活しておもしろいのか。市民は、もはや小さな満たされた生き方はできなくなる。公務員や大企業からもれたものは、プアになる。まさに格差社会にあった都市が出現する。しかし、それが不満ともおかしいとも自覚できなくなっている大衆行動がわれわれをつつんでいく。
アートを考えるかぎり、小さなものを視野におさめざるをえない。この小さなものの存在の可能性をどう意識してもらえるのか、今回の上演には、このことを切実に思うのだ。これが2010年の宮崎市0年代末の文化状況である。
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