市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ふたたび「市街・野」を思う

2011-02-26 | 日常
 今朝はいきなり春爛漫の4月の陽気となった。うららかである。これも真冬2月の現実なのである。ここから4車線道路を隔てた真向かいにセブン・イレブンが開店した。(2011年2月25日)春の陽光を浴びて自家用車がずらりと駐車して、風船なんかをもらった親子づれやアベックが店から広い駐車場を過っていく。

 7年前、このまわりは、郊外型の書店や電気店、スーパーにまじって、建設関係事務所や居酒屋屋、うどん店がぽつりぽつりとあり、一面の畑地が広がっていた。それで、大都市の郊外かというと、そうでもなかった。自転車で10分足らず、宮崎駅に行け、その付近の3デパートが向き合っている中心市街に2,3分で行けた。およそ、自動車で向かう郊外という感じはない。といって住宅地でも市街でもなく、その市街地の端は、500メートル先に海岸のようにひたひたと迫っているからである。あれからまる7年が経った。イオンショッピング・モールがすぐ北に開園し、カフェができ、ドコモやAuが開店し、レストランやマクドナルド、飲食チェーン店や美容院や雑貨店と並びだしてきた。住宅地もあちこちに開発されて売り出しをしている。大型店を数店舗募集中の駐車場つきの土地が、この新開店セブン・イレブンに隣接して整備された。

 宮崎市街は、明治22年頃から、宮崎県の中心都市として街区を広げてきたのだが、とくに昭和40年代からの急速な拡大をしたのだが、この広がり方というのは、いつも中心市街に一本だけ南北にとおっていた約一キロのメインストリートとたかだか数百メートルを隔てて、野原に道路を開削して、ここを商店街にしていった歴史的経過を辿っている。そういう過程のため、いわゆる郊外型の発展とは違っていた。三浦展のいうあの耐えられない存在の軽薄なファスト風土の様相でもない。また、消費資本主義のコンビニ経済を説いた経済学者松原隆一郎の不快と憎悪感をなげつける「失われた景観」の醜さとも違う発展?を遂げてきているのだ。この特異な市街地の拡大は、この点で、不景気のどん底に押しやられてきている宮崎市街の誇るべき唯一の資産だとぼくは誇っているのである。

 このファスト風土化、景観低落の地帯を、ぼくは、ぼくなりに「市街・野」となづけてきている。もちろん、あの愚かなる開発「シガイヤ」の残骸オーシャンドームとは、なんの関連もないのだが、宮崎市在住の知人たちは、シガイヤを連想するわけであるが、覚え安い分ましかと、思うわけだ。とにかく、このネーミング「市街・野」は、ここは市街でもなければ、野原でもないということで、名づけた。しかし、現在は、市街でもあり、野原でもありというようにいえるようになった。つまり、前歯の欠けたおかしなこっけいな中心市街地に行くよりも、ここらのほうがレストランにしても、カフェにしても、専門店にしても市街に相応しいということになった。それとどうじにまだまだ空間は、たっぷりある。野はさんさんと輝き、椰子の植えられた中央分離帯の上には真っ青な空と雲がある。いや、その景観がヨーロッパのように幾何学的に人工化されてはいずに貧乏ゆえに自然のままに放置されている。そして県民の消極性と、行政の都市計画や経済発展無策のおかげで、ひろい人工海岸のあるヨットハーバーにトイレットだけが設けられているという信じられない光景を楽しめるのだ。

 ただ、この市街・野をうまく楽しめるには、中心市街地をぶらぶら歩くようなわけにはいかない。店舗と店舗のあいだが空き過ぎているからだ。自動車は、点と点を結ぶだけで、野の部分を堪能できない。一番いいのは、自転車であろう。しかし、だれもかれもが自転車で、ここらに押しかけてきて、ごったがえさない現在の状態が、一番いいのかもしれない。なんでもそうだが、全体で楽しめることは、すでに手遅れなのである。自分だけで楽しめることをいかに発見し、創作するかが、バーチャルリアリティの現実に対応するベターな方法であろうか。歯抜けの中心市街地を楽しむか、市街・野を楽しむか、むろんどちらを選択されようと、あなたの自由だ。

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