今年の「どくんご」受け入れは、実行委員会が宮崎市で出来るかどいうかにかかっているので、委員会の設立について、山崎にはっぱをかけてきている。委員会の条件として、チケット販売枚数を委員一人が7枚くらいにして、とにかく無理せずに企画を実現できれば、まずはそれでいいとしてと、彼とも何度も話し込んだ。
だれもが横並びの快楽以外を発見しようという意欲が消えてしまっているように思う。快楽というのは、麻薬による心身の消耗を代償にすることでなくて、栄養を補給し、心身の充実をもたらしている活力を自覚させるものである。金のかからぬもので、読むことと、しゃべることがあった。だが、読まず、しゃべらずで、孤立感は深まっているのではないか。ほんと、しゃべる相手はまったくといっていいほどまわりから消えていっている。
みんな自由な時間を奪われて、サービス残業、残業の毎日でそれを解決しようもない。ぼくの優秀な実行委員たちも、ここ10年あまり一人、また一人と会社や官庁やの過激な職務に呑み込まれていった。また話をしようにもかってのかれらたちとも、その忙しさであえる時間がすりあわせられないのだ。こうして10年ちかく経つと、彼、彼女にしても、もはや快楽に意識を積極的に向けることがなくなっていく。ぼくらがその後企画したイベントの券も、もう買うこともなくなってくる。おそらく本人は、忙しさのため仕方がないという意識であろうが、実は意識できないが、快楽への欲求が消えてきているのだ。
一日が終わって、もう快楽をみつけるエネルギーは残っていない。そこで、もはや見つけるのでなく日の終わりに与えられるのだ。ブロイラー的給餌の快楽ともいえる快楽に身をゆだねるのだ。食っている快楽は、殺されるために食わされているという自覚はブロイラーの動物たちは予測も反省も不可能であろうが、人もたいして違わない状況になっていっているのではないか。
自分で能動的に行為して快楽をみつける必要を排除するかのように、快楽は給餌塔から供給されるよに身の回りを埋めてくる。書店に行けば平積みの本や店長おすすめの本、店長おすすめは、あらゆる商店に掲げられている。クリスマスの電飾、フラワーショー、えれっこちゃ宮崎総踊り、そして国際音楽祭、映画祭、演劇祭、県や市の美術展などなどと、自分で動く必要のない快楽の電車が、ことしも軌道を走っていくだろう。
しかし、疲労した心身に食い込んでくるのは、なんといってもテレビによる快楽であろうか。僕はテレビの視聴をかなりするほうだが、それでも紅白歌合戦は、もう30年以上見たことはない。一年の終わりの貴重な時間をこんな番組に費やすのがあまりに惜しいからである。ところが、テレビを視聴しはじめると、きまって女性のアナウンサーが画面いっぱい現れて、満面の微笑て「BS!大好き!」と執拗に繰り返してくる。この主語のないアナウンスをは、いいようのない不快感を立ち上らせてくる。それでもここを消せない、すぐにニュース番組がつづくからである。ぼくのテレビは半分壊れているので、画面を消すのがなかなか手間がかかるのである。
よく考えてみようではないか。ここで、主語があって、アナウンサーが「私はBS!大好き!」といえば、それはそれで彼女に素朴さを可愛く感じるかもしれない。しかし、それはそうじゃなくて、「私たちは、BS!大好き!」のつもりか、そうでもなくて、もっとぼくにむかって「みんな、BS!大好き!」と宣言しているのであり、あなたも大好きであるはずと、何様のつもりか告げているのである。もし、これをマクドナルドが「マック大好き」と、またユニクロが「ユニクロ大好き」イオンが「イオン大好き」と、臆面もなくテレビの画面でアナウンサーが満面の笑顔をで言ったら、てめえふざけるなと、多くの視聴者は激怒するはずである。なぜNHKなら「BS!大好き!と宣言できるのか、それはとんでもない傲慢さであり対象をなめた行為であろう。こんなナンセンスな言葉を飽きずに繰り返すアナウンサをみるたびに、人間とうよりロボットがしゃべっていると、思えてしまうのである。
そう、ロボットだ、われわれも快楽享受用にロボット化されるのだ。大好き、大好きといっているのは、実は自分自身であるが、本質はもうなくなっている。その意識あるいは自我、ここにはもう自分の言語はなくなっているからである。自分がいて、その自分が、自分なりの快楽を出現させるということはもはやなくなってきつつあるのではないか。そう甘い世の中ではないというのが、モノではなくて、意識の低下、困難のことを指すことになりそうだ。そうであるから、実行委員会は人間への道になるこもしれない。
だれもが横並びの快楽以外を発見しようという意欲が消えてしまっているように思う。快楽というのは、麻薬による心身の消耗を代償にすることでなくて、栄養を補給し、心身の充実をもたらしている活力を自覚させるものである。金のかからぬもので、読むことと、しゃべることがあった。だが、読まず、しゃべらずで、孤立感は深まっているのではないか。ほんと、しゃべる相手はまったくといっていいほどまわりから消えていっている。
みんな自由な時間を奪われて、サービス残業、残業の毎日でそれを解決しようもない。ぼくの優秀な実行委員たちも、ここ10年あまり一人、また一人と会社や官庁やの過激な職務に呑み込まれていった。また話をしようにもかってのかれらたちとも、その忙しさであえる時間がすりあわせられないのだ。こうして10年ちかく経つと、彼、彼女にしても、もはや快楽に意識を積極的に向けることがなくなっていく。ぼくらがその後企画したイベントの券も、もう買うこともなくなってくる。おそらく本人は、忙しさのため仕方がないという意識であろうが、実は意識できないが、快楽への欲求が消えてきているのだ。
一日が終わって、もう快楽をみつけるエネルギーは残っていない。そこで、もはや見つけるのでなく日の終わりに与えられるのだ。ブロイラー的給餌の快楽ともいえる快楽に身をゆだねるのだ。食っている快楽は、殺されるために食わされているという自覚はブロイラーの動物たちは予測も反省も不可能であろうが、人もたいして違わない状況になっていっているのではないか。
自分で能動的に行為して快楽をみつける必要を排除するかのように、快楽は給餌塔から供給されるよに身の回りを埋めてくる。書店に行けば平積みの本や店長おすすめの本、店長おすすめは、あらゆる商店に掲げられている。クリスマスの電飾、フラワーショー、えれっこちゃ宮崎総踊り、そして国際音楽祭、映画祭、演劇祭、県や市の美術展などなどと、自分で動く必要のない快楽の電車が、ことしも軌道を走っていくだろう。
しかし、疲労した心身に食い込んでくるのは、なんといってもテレビによる快楽であろうか。僕はテレビの視聴をかなりするほうだが、それでも紅白歌合戦は、もう30年以上見たことはない。一年の終わりの貴重な時間をこんな番組に費やすのがあまりに惜しいからである。ところが、テレビを視聴しはじめると、きまって女性のアナウンサーが画面いっぱい現れて、満面の微笑て「BS!大好き!」と執拗に繰り返してくる。この主語のないアナウンスをは、いいようのない不快感を立ち上らせてくる。それでもここを消せない、すぐにニュース番組がつづくからである。ぼくのテレビは半分壊れているので、画面を消すのがなかなか手間がかかるのである。
よく考えてみようではないか。ここで、主語があって、アナウンサーが「私はBS!大好き!」といえば、それはそれで彼女に素朴さを可愛く感じるかもしれない。しかし、それはそうじゃなくて、「私たちは、BS!大好き!」のつもりか、そうでもなくて、もっとぼくにむかって「みんな、BS!大好き!」と宣言しているのであり、あなたも大好きであるはずと、何様のつもりか告げているのである。もし、これをマクドナルドが「マック大好き」と、またユニクロが「ユニクロ大好き」イオンが「イオン大好き」と、臆面もなくテレビの画面でアナウンサーが満面の笑顔をで言ったら、てめえふざけるなと、多くの視聴者は激怒するはずである。なぜNHKなら「BS!大好き!と宣言できるのか、それはとんでもない傲慢さであり対象をなめた行為であろう。こんなナンセンスな言葉を飽きずに繰り返すアナウンサをみるたびに、人間とうよりロボットがしゃべっていると、思えてしまうのである。
そう、ロボットだ、われわれも快楽享受用にロボット化されるのだ。大好き、大好きといっているのは、実は自分自身であるが、本質はもうなくなっている。その意識あるいは自我、ここにはもう自分の言語はなくなっているからである。自分がいて、その自分が、自分なりの快楽を出現させるということはもはやなくなってきつつあるのではないか。そう甘い世の中ではないというのが、モノではなくて、意識の低下、困難のことを指すことになりそうだ。そうであるから、実行委員会は人間への道になるこもしれない。