ここ2年ほどぼくの飼い犬チップについて書いてない。ベンガル生まれの血統書つきのシーズ犬で、申し分ない容姿をしていたのだが、アトピー性の皮膚炎を秘めていた。そこで、かれのアトピーをどう抑制するか、したかでたびたび当ブログに書いてきた。マッサージを思いついて、その治療効果も報告した。ここ数年皮膚炎も沈静していたので、書くこともなかったわけである。ただ、今でも、いつも犬の生き方をみるにつけて、犬こそは、尊敬できる存在ではあるのだ。
だが、かれはあっという間に12歳を迎えようとしている。歩行も弱まりつつある。ふたたび首の下、腹、四肢の体毛の薄い部分に皮膚の炎症が現れ、赤黒く変色している。マッサージも効果がなく、ついに動物病院に家内が連れていったのだが、なにを思ったのか、体毛をつるつるに剃ってもらっていたのだ。ここ一週間、春のように暖かく、膿がでたり、潰瘍ができたりする体を清潔に保たたせようとしたのだろう。この処置はチップを困惑に陥れ、朝夕は寒さで震えるようになってきた。朝の散歩を四肢を踏ん張って外にでたがらぬようになった。出てもつねに止まり、歩くのを拒むのが、以前にまして激しくなったのである。そこで、急遽、セーターを着せることにした。というよりかれに着てもらいたくなったのだ。
以前、衣服を着せて歩く飼い主のペットをみるたびに、ありがた迷惑なかわいがりだと飼い主を笑っていたのだが、今はこうするしか思いつかなくなったのだ。純毛の体毛ならダウンなみの保温力しかも、雨にも耐えられる防寒性を持ち、おまけに体温41度で、厳冬などなんのことはなかった野性の力があったのだが、体毛なしで老骨、アトピー炎、体力低下では、この冬空に人の着せるセーターがなくてはならなくなったと、ぼくは思うしかなかった。
ナフコのペット用品売り場で、調べるとあまり種類はなく、保温性のあるものもなく、半額とあるので、一点を選びカウンターに行くと、2千2百円の正常価格だというので、それならペット専用店でもっといいのを見つけようと、買わなかった。専門店にはチップも連れて行ってその場で、体長、首、胴周りを計測してもらい、毛糸性のセーターと内側に保温の綿をつけたチャンチャンコのようなものを選ぶと、2点なら1500円だと言われて安いと、驚いたのだ。そこで、リード綱をつける胴輪を選ぶと、こんどは3200円というのだ、こんなチャチナなものがどうしてジーパンよりも高い値段なのかと、納得できない、いや簡単な首輪さへことごとく2000円以上もするので、たまげてしまった。こんな程度の縫い品だったら、100円ショップにあるにちがいないと、こちらは購入しなかった。
案の定、100円ショップには、リード綱、首輪、胴輪などがずらりと下がっていた。その中の胴に装着するリード綱に目を奪われた。ああ、これこれ、ぼくが欲しがったのはこれではないかと歓喜したのだ。つまりこれは、輪投げのロープのようになっていた。両前肢を通し、背中で管になっている金属管をグーっと押し下げると、ぴたりと装着できるようになっている。簡単明瞭、はずすときは管を上にずれせば、ぱらりと足元にリード綱は落ちるのである。なぜこれがありがたいのか、今している胴輪は、部品が内側つまり皮膚側から鉄の鋲で留められていて、その鋲の不細工な突起が、皮膚に喰い込んでしまう。それで散歩の後や寝るときには、たびたび、七面倒な胴輪をはずす作業をしていた。そこで、鋲のないもを探していたのだが、高級品以外はみんな荒々しい鋲止めであったのだ。構造を変えれば一本の紐で可能だったわけである。その綱をみつけた。たったの100円である。先週土曜日の話であった。
夕べだったが、真夜中に節子がなにか作業をしだしたので、聞くと、チップが起きてきてセーターを着せろと吠えたというのだ。夜寒くなったようだと話てくれた。そうか、望んで着用されたかと、安心して眠りに落ち込んでいったのだ。
大量販売店だからなんでも安いとは限らない。専門店だからなんでも高いとは限らない。常識はたちまちひっくり返るのであった。だいたい常識をひっくりかえす行動をしているので、うまくこれが活用できた。そして、商品の本質的機能と価格はなんの関係もないというとことを思い知ったのである。価格をどうみるかは、こっちの切り開く欲望との勝負であろうか。そこで思うのだ、芸術家の出演料や作品の価格である。故アイザックスターンの出演料は、宮崎市国際音楽祭では5000万円であった。ぼくが関わった、無名のアーティストは、5万円が高いほうであった。かれらと比べてアイザックスターンの芸術的感動が1000倍と計測できようか。
商品の価値と価格とは、関係ないということだけを言えるだけではないかと思うのであるが。まあ、買いたい人は、だれに遠慮なく買えばいいし、これが消費を活性化しよう。だが行政として税金を当てての買い物ならば、他を当たる行動はなかったのかといえるのではなかろうか。いや、いまごろそんなことを言っても遅すぎる、床屋清談にすぎない。あほらしい話でしかないだろう。そこで思う、ほんとに人より犬は、ぼくには納得がいくのだ。よけいな教養も芸術も必要としないし、それで自分を生きているし、だからより文化的ではないかと・。
だが、かれはあっという間に12歳を迎えようとしている。歩行も弱まりつつある。ふたたび首の下、腹、四肢の体毛の薄い部分に皮膚の炎症が現れ、赤黒く変色している。マッサージも効果がなく、ついに動物病院に家内が連れていったのだが、なにを思ったのか、体毛をつるつるに剃ってもらっていたのだ。ここ一週間、春のように暖かく、膿がでたり、潰瘍ができたりする体を清潔に保たたせようとしたのだろう。この処置はチップを困惑に陥れ、朝夕は寒さで震えるようになってきた。朝の散歩を四肢を踏ん張って外にでたがらぬようになった。出てもつねに止まり、歩くのを拒むのが、以前にまして激しくなったのである。そこで、急遽、セーターを着せることにした。というよりかれに着てもらいたくなったのだ。
以前、衣服を着せて歩く飼い主のペットをみるたびに、ありがた迷惑なかわいがりだと飼い主を笑っていたのだが、今はこうするしか思いつかなくなったのだ。純毛の体毛ならダウンなみの保温力しかも、雨にも耐えられる防寒性を持ち、おまけに体温41度で、厳冬などなんのことはなかった野性の力があったのだが、体毛なしで老骨、アトピー炎、体力低下では、この冬空に人の着せるセーターがなくてはならなくなったと、ぼくは思うしかなかった。
ナフコのペット用品売り場で、調べるとあまり種類はなく、保温性のあるものもなく、半額とあるので、一点を選びカウンターに行くと、2千2百円の正常価格だというので、それならペット専用店でもっといいのを見つけようと、買わなかった。専門店にはチップも連れて行ってその場で、体長、首、胴周りを計測してもらい、毛糸性のセーターと内側に保温の綿をつけたチャンチャンコのようなものを選ぶと、2点なら1500円だと言われて安いと、驚いたのだ。そこで、リード綱をつける胴輪を選ぶと、こんどは3200円というのだ、こんなチャチナなものがどうしてジーパンよりも高い値段なのかと、納得できない、いや簡単な首輪さへことごとく2000円以上もするので、たまげてしまった。こんな程度の縫い品だったら、100円ショップにあるにちがいないと、こちらは購入しなかった。
案の定、100円ショップには、リード綱、首輪、胴輪などがずらりと下がっていた。その中の胴に装着するリード綱に目を奪われた。ああ、これこれ、ぼくが欲しがったのはこれではないかと歓喜したのだ。つまりこれは、輪投げのロープのようになっていた。両前肢を通し、背中で管になっている金属管をグーっと押し下げると、ぴたりと装着できるようになっている。簡単明瞭、はずすときは管を上にずれせば、ぱらりと足元にリード綱は落ちるのである。なぜこれがありがたいのか、今している胴輪は、部品が内側つまり皮膚側から鉄の鋲で留められていて、その鋲の不細工な突起が、皮膚に喰い込んでしまう。それで散歩の後や寝るときには、たびたび、七面倒な胴輪をはずす作業をしていた。そこで、鋲のないもを探していたのだが、高級品以外はみんな荒々しい鋲止めであったのだ。構造を変えれば一本の紐で可能だったわけである。その綱をみつけた。たったの100円である。先週土曜日の話であった。
夕べだったが、真夜中に節子がなにか作業をしだしたので、聞くと、チップが起きてきてセーターを着せろと吠えたというのだ。夜寒くなったようだと話てくれた。そうか、望んで着用されたかと、安心して眠りに落ち込んでいったのだ。
大量販売店だからなんでも安いとは限らない。専門店だからなんでも高いとは限らない。常識はたちまちひっくり返るのであった。だいたい常識をひっくりかえす行動をしているので、うまくこれが活用できた。そして、商品の本質的機能と価格はなんの関係もないというとことを思い知ったのである。価格をどうみるかは、こっちの切り開く欲望との勝負であろうか。そこで思うのだ、芸術家の出演料や作品の価格である。故アイザックスターンの出演料は、宮崎市国際音楽祭では5000万円であった。ぼくが関わった、無名のアーティストは、5万円が高いほうであった。かれらと比べてアイザックスターンの芸術的感動が1000倍と計測できようか。
商品の価値と価格とは、関係ないということだけを言えるだけではないかと思うのであるが。まあ、買いたい人は、だれに遠慮なく買えばいいし、これが消費を活性化しよう。だが行政として税金を当てての買い物ならば、他を当たる行動はなかったのかといえるのではなかろうか。いや、いまごろそんなことを言っても遅すぎる、床屋清談にすぎない。あほらしい話でしかないだろう。そこで思う、ほんとに人より犬は、ぼくには納得がいくのだ。よけいな教養も芸術も必要としないし、それで自分を生きているし、だからより文化的ではないかと・。