コミュニティ税というのを先日退任した津村市長は残したが、コミュニティが存在してない宮崎市内住宅街を、かれは認識できなかったのか、昔風なノスタルジーで縁側でおちゃを飲み交わす情景を幻想したのだろうか。どうもこの人は、ほかにも都市幻想を抱いてきたように思う。シンガポール幻想などが、今あらためて想起される。シンガポールのようのきれいな市街に宮崎市をなんとかして開発し、市街活性化を図るとしたが、結果は逆だったと思われる。幻想だけが事実として残った。
いや人は、津村さんにかぎらず、それぞれの幻想をもって現実に対処しているのは間違いないし、まさに普通のことであろう。そうそう、日曜の自転車ぶらぶら散歩で、コミュニティ不在に変わるものをと、痛切に思ったのはあの奇妙なデザインの住宅が、場のなかに孤立して建っていた風景の虚しさばかりでなく、その前にもうひとつ不安な建物を見ていたからだ。
その建物は、老人ホームであった。宮崎市近隣の町の住宅街や、街道にそって老人を対象とした、ケアホームや、福祉機能を備えた病院やがあちこちと建設されている。数ヶ月前に見たのは「ひだまり2号館」という老人ホームであった。まだ昔の林が残る道筋に静かに建てられていた。家内はいい名前だわと言うのだが、ぼくには淋しすぎる命名であった。そのホームを探して道を辿ったのだが、分からなかった。道筋を間違ったのだろう。ところが、分かったが、その1階は、7メートルは高さのあるガラス壁面となっていた。その内側は、食堂になっていた。そしてここは老人ホームであった。隣接して、ロビーになり椅子に座っている老人の姿も何人か見えた。
その天井までとどくガラスを通して、見えるのは、畑であり、雑木で視界は区切られ、荒地となって廃材の捨て場に貸した広場もあった。目にするのは風景とうよりは、無用になった土地という感じのものであった。その土地を見ても楽しさはない。寂しさという詩情もない。ただ土地があるだけという広がりだった。
あの豪華ともいえるホームの球面ガラスの内側の食堂やロビーで、この外部の土地を風景としてみるという境遇に、ぼくがなった場合を想像せざるをえなかったのだ。この球面ガラスの中は、外部の土地以上に淋しいのではないのだろうかと。もう、一人では、外に出てもいけないし、出たとしてもなにもないのだ。自動車はもちろん、自転車さへ乗り回せる身体的能力はなくなっている老人にとって、ここは、いっそうの隔離感を募らせる構造ではないのか。そして、その構造が、精一杯の善意でしつらえられているのだ。この断絶が不安であったのだ。ここもまた場とは、微塵も関係ない、設立者自身の企業目的のために建設された老人住宅ではないかと、思うのだった。
おそらく、このような老人ホームでの生活を送らねばならぬ日々が、ぼくには10年くらいで来る可能性を考えておかねばならないと思う。だが、ぼくは、老人ホームがあるなら、宮崎市の中心市街地のどまんなかのマンションスタイルのホームに老いたる姿態を収めたい。ロビーの外には街の賑わいやさざめきや灯火が見える場所を感じていたい。喫茶店や書店やレストランや専門店、ショッピングセンターへのシャトルバス乗り場、駅という都市性がある。感じるばかりではなく、外へ身体を使って出歩きたい。ぼくは朝から晩まで外で遊びまくるのだ。体が動く限りである。そして、ついに体が動かなくなったら、そのときこそ、どこでもいいから放り込んでもらえばいいという、人生の末路を終わらせたいのだ。
そのとき、ベッドの空間にコミュニティが現れてくる。隣近所といっても、何十年もお互いの家の中に招待しあうというような付き合いはないのが、いまの近隣であろう。付き合うのは、もっと遠い存在であろう。その遠きにあるのは、想像界の存在、たとえば、遠隔地ばかりでなく、インタネットでつながっているとか、そうした電子的つながりのコミュニティも存在しうるのである。ベットでは、その近隣たちが遊び相手になるというわけだ。その精神力はなんとか保持できるだろうか、つまりぼけなければ・・。
いや、話がそれたが、ぼくがそのベッドに閉じられる前の段階のコミュニティとはなんなのか。これを今年はかんがえなければと、思うのである。これはまだかけなかった。
いや人は、津村さんにかぎらず、それぞれの幻想をもって現実に対処しているのは間違いないし、まさに普通のことであろう。そうそう、日曜の自転車ぶらぶら散歩で、コミュニティ不在に変わるものをと、痛切に思ったのはあの奇妙なデザインの住宅が、場のなかに孤立して建っていた風景の虚しさばかりでなく、その前にもうひとつ不安な建物を見ていたからだ。
その建物は、老人ホームであった。宮崎市近隣の町の住宅街や、街道にそって老人を対象とした、ケアホームや、福祉機能を備えた病院やがあちこちと建設されている。数ヶ月前に見たのは「ひだまり2号館」という老人ホームであった。まだ昔の林が残る道筋に静かに建てられていた。家内はいい名前だわと言うのだが、ぼくには淋しすぎる命名であった。そのホームを探して道を辿ったのだが、分からなかった。道筋を間違ったのだろう。ところが、分かったが、その1階は、7メートルは高さのあるガラス壁面となっていた。その内側は、食堂になっていた。そしてここは老人ホームであった。隣接して、ロビーになり椅子に座っている老人の姿も何人か見えた。
その天井までとどくガラスを通して、見えるのは、畑であり、雑木で視界は区切られ、荒地となって廃材の捨て場に貸した広場もあった。目にするのは風景とうよりは、無用になった土地という感じのものであった。その土地を見ても楽しさはない。寂しさという詩情もない。ただ土地があるだけという広がりだった。
あの豪華ともいえるホームの球面ガラスの内側の食堂やロビーで、この外部の土地を風景としてみるという境遇に、ぼくがなった場合を想像せざるをえなかったのだ。この球面ガラスの中は、外部の土地以上に淋しいのではないのだろうかと。もう、一人では、外に出てもいけないし、出たとしてもなにもないのだ。自動車はもちろん、自転車さへ乗り回せる身体的能力はなくなっている老人にとって、ここは、いっそうの隔離感を募らせる構造ではないのか。そして、その構造が、精一杯の善意でしつらえられているのだ。この断絶が不安であったのだ。ここもまた場とは、微塵も関係ない、設立者自身の企業目的のために建設された老人住宅ではないかと、思うのだった。
おそらく、このような老人ホームでの生活を送らねばならぬ日々が、ぼくには10年くらいで来る可能性を考えておかねばならないと思う。だが、ぼくは、老人ホームがあるなら、宮崎市の中心市街地のどまんなかのマンションスタイルのホームに老いたる姿態を収めたい。ロビーの外には街の賑わいやさざめきや灯火が見える場所を感じていたい。喫茶店や書店やレストランや専門店、ショッピングセンターへのシャトルバス乗り場、駅という都市性がある。感じるばかりではなく、外へ身体を使って出歩きたい。ぼくは朝から晩まで外で遊びまくるのだ。体が動く限りである。そして、ついに体が動かなくなったら、そのときこそ、どこでもいいから放り込んでもらえばいいという、人生の末路を終わらせたいのだ。
そのとき、ベッドの空間にコミュニティが現れてくる。隣近所といっても、何十年もお互いの家の中に招待しあうというような付き合いはないのが、いまの近隣であろう。付き合うのは、もっと遠い存在であろう。その遠きにあるのは、想像界の存在、たとえば、遠隔地ばかりでなく、インタネットでつながっているとか、そうした電子的つながりのコミュニティも存在しうるのである。ベットでは、その近隣たちが遊び相手になるというわけだ。その精神力はなんとか保持できるだろうか、つまりぼけなければ・・。
いや、話がそれたが、ぼくがそのベッドに閉じられる前の段階のコミュニティとはなんなのか。これを今年はかんがえなければと、思うのである。これはまだかけなかった。