今週の日曜は、もう1月が終ったかと思った重たい曇り日だった。霧雨のように雨も通り過ぎたりする朝であった。風邪も抜けたし、無風だし、サイクリングに出た。この日ばかりは、あても無くさまようがごとく、野に出た。風景は煙リ、夕暮れのようにぼんやりしていた。
で、存分にぶらぶらして午後3時ごろに、国道10号線に沿って町並みがつづく佐土原町の街に入った。ここはまだ小さな商店が、地衣類のように国道脇にしぶとく1キロもつづいている。さすがに食堂系が大部分ではあるが、喫茶店などが3店舗も生息しているという点でも、まだ生きている街という感じがするのである。
10号線の街路の北端から東へ横切って、住宅街に入っていった。その入り口に、蓮光寺というお寺があった。その石垣のうえに堂々たる撞木堂がまさにあたりを圧するようにあった。こんな大きな鐘をみるのぼひさしぶりであった。ここからまわりに広がっている住宅地であるから、この寺院を中心にまとまっていのだろう。まるで、教会のあるヨーロッパの集落ではないかと、地方の集落の共同社会を思うのであった。ここから、自動車が2台すれ違うのは無理な道路を南へ辿って行った。
曇り空で、冬の夕方が近くなって、あたりはうすぐらくなり、森閑とした住宅街は、思いがけないほど広さを感じるのであった。そのうちに、この住宅街は、ここ40年ほどの間に、住宅が建てられてきたことがわかる。セメント瓦の家屋から、プレハブ、ツーバイフォの家屋、本瓦、ウダツのある城に似せた和風建築と、新旧入り乱れて建てこんでいる。まとまりの在る集落という印象は、寺のまわりだけであった。増殖していった住宅街がおどろくほどの長さでつづいていくのであった。
そして、ぼくは意表を突かれた住宅に出会ったのだ。最初のものは、どこから見ても、湯布院か、霧島山麓などにある中型のペンションにしか見えない住宅が、道路から小高く敷地を設けて建っていた。ペンションではなく、まさに個人住宅なのであった。つぎに樫か楡がわからないが、径が10センチほどの枝、幹かもを30センチほどに切ったものが、高さ1mくらいに積み上げられ、それがビニールで覆われたものが、敷地の周りの塀にそって、まさに塀のように積み上げられている。薪の塀である。しかし、そこは、窯元とも思えないし、これも普通の住宅で、ここも瀟洒な造作である。
なんだろうあの住宅はと、思いつつ行っていると、目の前に全体が、屋根までも覆って、薄紫に塗装された大きな2階家が見え出した。折からの薄暗がりのなかで、その薄紫は蛍光を発しているように、シュールな塗装であった。近づいてみるとゲームセンターと壁に薄く描かれていたが、日曜というのに戸がしまり、人影は無かった。だれかここでゲームをするのか、したのだろうか、どんなゲームなのか。
それからまた常識的としかいえない住宅がつづき、川が近くなったのかその支流の縁に、こんどはメカニックというか、機能的というか、現代風な、どこか金属的な感じのする2階家が支流を見下ろすように建てられていた。さらにおどろくのは、この家屋の入り口、門はないのだが、若い女性の等身大のセミヌード彫像が2像建てられていた。川を見下ろすところにも像があり、軒の上の屋根にも座って足を垂らしている。たぶん、これはこの家の住人が制作したものであろうかと思われた。このメカニックな建物の2階は制作アトリエのようだ。表札がないので、だれかわからないが、奥の玄関には表札があるようだったが、そこまで踏み込んでいく勇気はもう消えていた。
ここに隣接した屋敷の入り口には、ここより私道と札が立てられて、スペイン風の大きな住宅であり、どこからどうみてもそれはスペイン風であったのだ。
このショッキングな住宅たちは、デザインのショックでなくて、建物が建てられている土地、つまり場所とは、微塵も関係がないという絶縁状態の在り方ではなかったかと思う。場所をまちがえたというか、もしデザインが場となんらかの交流のようなものを発するとするなら、そんな相互関係がなんら発生しないということである。誰も見ないし、関心もないし、ただそこにあるだけの話しである。ということは、建築主にとっても、その場になにか自己を主張するのでもなく、なにかを与えようとしたり、なにかを期待したりするのでなく、場とは関係なく、ただこういうものを造りたいから造るという意図だけがあるとかんじられたのであった。
つまりそれはどういうことなのだろうか。それはコミュニティという関係性がまったく無いという日常を表しているのだ。もちろん、それは建築主がまわりと対立しているわけではない。近所付き合いはあるだろう。しかし、お互い行き来する仲ではない。住宅は集落、大きな集落は40年かかって形成していったのだが、隣近所の親密なコミュニティは形成されなかったし、その必要さへなかったし、これからも期待できないということを、これらのデザインは示していると思えるのであった。
もちろん、コミュニティが形成されなかったことを、否定するつもりはない。コミュニティは、なくても結構いいのではないかと思えるのでもあったのだ。自転車で空漠としてふらふらするのもコミュニティからのエスケープなのかもしれないのだから。しかしその虚しさが染みてはくるのだった。ただ、コミュニティに替われるものがあること、それは、予感することはできる。それは、もう近隣とか、住宅地とかの関係性とは異質のものであるようだ。それはなんなのか・・・
で、存分にぶらぶらして午後3時ごろに、国道10号線に沿って町並みがつづく佐土原町の街に入った。ここはまだ小さな商店が、地衣類のように国道脇にしぶとく1キロもつづいている。さすがに食堂系が大部分ではあるが、喫茶店などが3店舗も生息しているという点でも、まだ生きている街という感じがするのである。
10号線の街路の北端から東へ横切って、住宅街に入っていった。その入り口に、蓮光寺というお寺があった。その石垣のうえに堂々たる撞木堂がまさにあたりを圧するようにあった。こんな大きな鐘をみるのぼひさしぶりであった。ここからまわりに広がっている住宅地であるから、この寺院を中心にまとまっていのだろう。まるで、教会のあるヨーロッパの集落ではないかと、地方の集落の共同社会を思うのであった。ここから、自動車が2台すれ違うのは無理な道路を南へ辿って行った。
曇り空で、冬の夕方が近くなって、あたりはうすぐらくなり、森閑とした住宅街は、思いがけないほど広さを感じるのであった。そのうちに、この住宅街は、ここ40年ほどの間に、住宅が建てられてきたことがわかる。セメント瓦の家屋から、プレハブ、ツーバイフォの家屋、本瓦、ウダツのある城に似せた和風建築と、新旧入り乱れて建てこんでいる。まとまりの在る集落という印象は、寺のまわりだけであった。増殖していった住宅街がおどろくほどの長さでつづいていくのであった。
そして、ぼくは意表を突かれた住宅に出会ったのだ。最初のものは、どこから見ても、湯布院か、霧島山麓などにある中型のペンションにしか見えない住宅が、道路から小高く敷地を設けて建っていた。ペンションではなく、まさに個人住宅なのであった。つぎに樫か楡がわからないが、径が10センチほどの枝、幹かもを30センチほどに切ったものが、高さ1mくらいに積み上げられ、それがビニールで覆われたものが、敷地の周りの塀にそって、まさに塀のように積み上げられている。薪の塀である。しかし、そこは、窯元とも思えないし、これも普通の住宅で、ここも瀟洒な造作である。
なんだろうあの住宅はと、思いつつ行っていると、目の前に全体が、屋根までも覆って、薄紫に塗装された大きな2階家が見え出した。折からの薄暗がりのなかで、その薄紫は蛍光を発しているように、シュールな塗装であった。近づいてみるとゲームセンターと壁に薄く描かれていたが、日曜というのに戸がしまり、人影は無かった。だれかここでゲームをするのか、したのだろうか、どんなゲームなのか。
それからまた常識的としかいえない住宅がつづき、川が近くなったのかその支流の縁に、こんどはメカニックというか、機能的というか、現代風な、どこか金属的な感じのする2階家が支流を見下ろすように建てられていた。さらにおどろくのは、この家屋の入り口、門はないのだが、若い女性の等身大のセミヌード彫像が2像建てられていた。川を見下ろすところにも像があり、軒の上の屋根にも座って足を垂らしている。たぶん、これはこの家の住人が制作したものであろうかと思われた。このメカニックな建物の2階は制作アトリエのようだ。表札がないので、だれかわからないが、奥の玄関には表札があるようだったが、そこまで踏み込んでいく勇気はもう消えていた。
ここに隣接した屋敷の入り口には、ここより私道と札が立てられて、スペイン風の大きな住宅であり、どこからどうみてもそれはスペイン風であったのだ。
このショッキングな住宅たちは、デザインのショックでなくて、建物が建てられている土地、つまり場所とは、微塵も関係がないという絶縁状態の在り方ではなかったかと思う。場所をまちがえたというか、もしデザインが場となんらかの交流のようなものを発するとするなら、そんな相互関係がなんら発生しないということである。誰も見ないし、関心もないし、ただそこにあるだけの話しである。ということは、建築主にとっても、その場になにか自己を主張するのでもなく、なにかを与えようとしたり、なにかを期待したりするのでなく、場とは関係なく、ただこういうものを造りたいから造るという意図だけがあるとかんじられたのであった。
つまりそれはどういうことなのだろうか。それはコミュニティという関係性がまったく無いという日常を表しているのだ。もちろん、それは建築主がまわりと対立しているわけではない。近所付き合いはあるだろう。しかし、お互い行き来する仲ではない。住宅は集落、大きな集落は40年かかって形成していったのだが、隣近所の親密なコミュニティは形成されなかったし、その必要さへなかったし、これからも期待できないということを、これらのデザインは示していると思えるのであった。
もちろん、コミュニティが形成されなかったことを、否定するつもりはない。コミュニティは、なくても結構いいのではないかと思えるのでもあったのだ。自転車で空漠としてふらふらするのもコミュニティからのエスケープなのかもしれないのだから。しかしその虚しさが染みてはくるのだった。ただ、コミュニティに替われるものがあること、それは、予感することはできる。それは、もう近隣とか、住宅地とかの関係性とは異質のものであるようだ。それはなんなのか・・・