日本時間の今日未明に、2016年のオリンピック開催地がリオデジャネイロに決まった。南米初の開催というのが決め手になったようだ。
日経新聞の記事によると、ブラジル大統領は演説の中で、これまでのオリンピックの開催回数はヨーロッパが30回、アメリカ8回を含む北米が12回、アジアが5回(あとは覚えていないが、オセアニアが2回?)という数字を挙げ、南米初の開催の実現を訴えたという。
アジアが5回というのは、東京、札幌、ソウル、長野、北京の5回のはずだ。
また、現在の世界の経済規模トップ10の国のうち、オリンピックを開いたことがないのはブラジルだけだ、という点も主張されたとのこと。
なるほど、これらの主張を聞けば、世界の均衡ある発展(あるいは繁栄)に寄与するという見地から、リオが選ばれる理由は納得できるように思う。
今回、東京は、環境面への配慮を前面に押し出した戦略を取って敗れたわけだが、環境への配慮(あるいは貢献)と言っても、世界に向けて高い理念を提示するというよりは、テクニカルな面での優位性を打ち出したに過ぎなかったような気もする。
こう述べたからと言って、私は、環境技術の先進性を過小評価しようというのではない。技術の素晴らしさそのものは誇るべき事柄ではある。だが、オリンピックの招致という競争の場での大義名分としてはやや説得力に欠けるところがあったのかも知れない。
やはり日経の記事によれば、招致組織のトップである石原慎太郎東京都知事が投票直前に「技術的な面を冷静に判断してもらえば勝てる」、という趣旨の発言をしていたというが、そのことは、逆に言えば、そうでなければ勝てない、という空気であったということを問わず語りに示していたともいえるだろう。
一年前(だったか)の予備審査結果(?)では東京が一位だったということもあり、東京の目もあるかなと思っていたので、残念といえば残念である。
さて、2008年の北京、2012年のロンドン、2016年のリオデジャネイロと開催都市を並べてみて、オリンピック未開催の文明圏の都市での開催には文明史的意義が認められやすいから断然有利であるという法則があるのではないかという推測が成り立つ。
それとともに、IOC委員の常識として、2大会に1回はヨーロッパで開催するのが妥当(あるいは現実的)、という感覚もあるような気がする。これが、言わば、オリンピックのこれまでの歴史の歩みが示すリアリティの感覚を形作っている。
ことはスポーツの世界に限るわけではないが、ヨーロッパ中心主義とそれに対抗する文化相対主義の拮抗とバランス、というのが、開催地決定の要因となっていそうに感じるのである。
というより、もっとうがった見方をすれば、未開催の地域での開催の実現によって、ヨーロッパ中心主義の根幹はゆるがないまま、その影響力の範囲がさらに拡大する、という意味で、これまでよりもより一層ヨーロッパ中心主義の世界観が強化されることになる、という見方もできる。(その方が現実に近いのかも知れない。)これまで、アラブ=イスラム圏での開催が一度もないことも、この見方を補強するひとつの材料である。
とすると、もう長いこと先進国のグループに入って(一面では、ということではあるが)先進国の一員として認められてきた東京は、ヨーロッパの順番(次は2020年)のときに、先進国グループの中で突出した開催意義を示して賛同を得るという戦略を取るしかないのかも知れない。
しかし、それで勝てるのだろうか。
今考えると常識的にはそれは無理だろうという予想になるが、10年後のことは誰もわからないのだから、期待の持ちようはある、と考えるとよいのかも知れない。
日経新聞の記事によると、ブラジル大統領は演説の中で、これまでのオリンピックの開催回数はヨーロッパが30回、アメリカ8回を含む北米が12回、アジアが5回(あとは覚えていないが、オセアニアが2回?)という数字を挙げ、南米初の開催の実現を訴えたという。
アジアが5回というのは、東京、札幌、ソウル、長野、北京の5回のはずだ。
また、現在の世界の経済規模トップ10の国のうち、オリンピックを開いたことがないのはブラジルだけだ、という点も主張されたとのこと。
なるほど、これらの主張を聞けば、世界の均衡ある発展(あるいは繁栄)に寄与するという見地から、リオが選ばれる理由は納得できるように思う。
今回、東京は、環境面への配慮を前面に押し出した戦略を取って敗れたわけだが、環境への配慮(あるいは貢献)と言っても、世界に向けて高い理念を提示するというよりは、テクニカルな面での優位性を打ち出したに過ぎなかったような気もする。
こう述べたからと言って、私は、環境技術の先進性を過小評価しようというのではない。技術の素晴らしさそのものは誇るべき事柄ではある。だが、オリンピックの招致という競争の場での大義名分としてはやや説得力に欠けるところがあったのかも知れない。
やはり日経の記事によれば、招致組織のトップである石原慎太郎東京都知事が投票直前に「技術的な面を冷静に判断してもらえば勝てる」、という趣旨の発言をしていたというが、そのことは、逆に言えば、そうでなければ勝てない、という空気であったということを問わず語りに示していたともいえるだろう。
一年前(だったか)の予備審査結果(?)では東京が一位だったということもあり、東京の目もあるかなと思っていたので、残念といえば残念である。
さて、2008年の北京、2012年のロンドン、2016年のリオデジャネイロと開催都市を並べてみて、オリンピック未開催の文明圏の都市での開催には文明史的意義が認められやすいから断然有利であるという法則があるのではないかという推測が成り立つ。
それとともに、IOC委員の常識として、2大会に1回はヨーロッパで開催するのが妥当(あるいは現実的)、という感覚もあるような気がする。これが、言わば、オリンピックのこれまでの歴史の歩みが示すリアリティの感覚を形作っている。
ことはスポーツの世界に限るわけではないが、ヨーロッパ中心主義とそれに対抗する文化相対主義の拮抗とバランス、というのが、開催地決定の要因となっていそうに感じるのである。
というより、もっとうがった見方をすれば、未開催の地域での開催の実現によって、ヨーロッパ中心主義の根幹はゆるがないまま、その影響力の範囲がさらに拡大する、という意味で、これまでよりもより一層ヨーロッパ中心主義の世界観が強化されることになる、という見方もできる。(その方が現実に近いのかも知れない。)これまで、アラブ=イスラム圏での開催が一度もないことも、この見方を補強するひとつの材料である。
とすると、もう長いこと先進国のグループに入って(一面では、ということではあるが)先進国の一員として認められてきた東京は、ヨーロッパの順番(次は2020年)のときに、先進国グループの中で突出した開催意義を示して賛同を得るという戦略を取るしかないのかも知れない。
しかし、それで勝てるのだろうか。
今考えると常識的にはそれは無理だろうという予想になるが、10年後のことは誰もわからないのだから、期待の持ちようはある、と考えるとよいのかも知れない。
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