訳あって、ハーバーマスの「公共性の構造転換」に再度目を通している。
この本は、なかなか手ごわくて、どうも内容がすっと頭に入ってこない。
うんと乱暴に言えば、17世紀から18世紀にかけてのイギリス、フランス、ドイツにおいて、富裕な市民層(ブルジョワジー)が順次成立し、彼らの間に、それまでの教会や王室貴族などの権威(これを「代表具現の公共性」という)に依存しない、公開の議論による市民的公共圏が成立したことで、現代にまでつながる「市民社会」が成立したのだ、ということになるだろう。
ここで、ポイントとなるのは、「議論する」ということが成立するための条件が何か、ということである。
「議論」が成立するためには、その人物が、私的所有によって相応の財産(とその処分権)を手に入れたブルジョワであることが必要だった、ということが、この本では当然のことのように主張されている。
だが、実は、そのことが、現代の我々の感覚からするとわかりにくいのだと思う。
我々は、あまりに、自分たちが「市民である」(と考える)ことに慣れ親しんでしまっていて、当時、誰でもが自分自身の意見を持つことができるわけではなかった、ということになかなか思いが至らない。
議論する公衆が集まったのが、イギリスにおけるコーヒーハウス、フランスにおけるサロンなどであり、まずは、読書による「文芸的公共圏」が成立する。さらに、そこに集まっていた人たちの中には、世界各地との間でさまざまな商品の交易に携わる者たちが多くいて、折からの郵便の発達によって交通や各地の情勢に関する情報が定期的に届けられるようになり、やがて、新聞が生まれ、経済や政治の話題が活発に交わされる「政治的公共圏」が成立する。
文化政策に関わる業界の人々の間では、この本のことが話題になると、つねに市民社会の公共性の淵源は議論する公衆の出現にあるということが強調され、それに単純化されて(というか、私がそのように単純化して理解してきたということなのだが)、それ以上、何が言われているのかについては実はあまり意識していなかった。
題名の「公共性の構造転換」とは何のことかと言うと、近代国家というものが、市民が国家から相対的に自律して公共的な秩序を形作る自由権的法治国家として成立したのに対し、その後、その政治体制では、社会の平等と正義が空洞化させられる事態に至ってしまったことから、今後の社会は福祉国家的な政治体制(つまり、ある種の社会的分配に重きがおかれるような)に必然的に移行するはずだ、ということを示しているようだ。
このことが、しかし、いろいろな条件づけのもとで、さまざまな概念や事例を確認しながら、ハーバーマスに独特の用語をふんだんに使って倦まずに繰り返し説明されるので、読んでいてすぐに端的な理解に至ることがない。同じ文章を、幾度か遡って読み返さないと正確な意図がつかめないところが多い。
だが、逆に言えば、一旦気がついてしまえば、ある種ストレートな物言いがされているとも言えるわけである。
そう言えば、この本をベースにして書かれた花田達朗「公共圏という名の社会空間」という本をずっと以前に先行して読んでいたことを思い出した。
同書においては、公共圏というのが、公共性という語で示される抽象概念というよりは、空間的な概念であることが強調されていたのが大いに参考になった。
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この本は、なかなか手ごわくて、どうも内容がすっと頭に入ってこない。
うんと乱暴に言えば、17世紀から18世紀にかけてのイギリス、フランス、ドイツにおいて、富裕な市民層(ブルジョワジー)が順次成立し、彼らの間に、それまでの教会や王室貴族などの権威(これを「代表具現の公共性」という)に依存しない、公開の議論による市民的公共圏が成立したことで、現代にまでつながる「市民社会」が成立したのだ、ということになるだろう。
ここで、ポイントとなるのは、「議論する」ということが成立するための条件が何か、ということである。
「議論」が成立するためには、その人物が、私的所有によって相応の財産(とその処分権)を手に入れたブルジョワであることが必要だった、ということが、この本では当然のことのように主張されている。
だが、実は、そのことが、現代の我々の感覚からするとわかりにくいのだと思う。
我々は、あまりに、自分たちが「市民である」(と考える)ことに慣れ親しんでしまっていて、当時、誰でもが自分自身の意見を持つことができるわけではなかった、ということになかなか思いが至らない。
議論する公衆が集まったのが、イギリスにおけるコーヒーハウス、フランスにおけるサロンなどであり、まずは、読書による「文芸的公共圏」が成立する。さらに、そこに集まっていた人たちの中には、世界各地との間でさまざまな商品の交易に携わる者たちが多くいて、折からの郵便の発達によって交通や各地の情勢に関する情報が定期的に届けられるようになり、やがて、新聞が生まれ、経済や政治の話題が活発に交わされる「政治的公共圏」が成立する。
文化政策に関わる業界の人々の間では、この本のことが話題になると、つねに市民社会の公共性の淵源は議論する公衆の出現にあるということが強調され、それに単純化されて(というか、私がそのように単純化して理解してきたということなのだが)、それ以上、何が言われているのかについては実はあまり意識していなかった。
題名の「公共性の構造転換」とは何のことかと言うと、近代国家というものが、市民が国家から相対的に自律して公共的な秩序を形作る自由権的法治国家として成立したのに対し、その後、その政治体制では、社会の平等と正義が空洞化させられる事態に至ってしまったことから、今後の社会は福祉国家的な政治体制(つまり、ある種の社会的分配に重きがおかれるような)に必然的に移行するはずだ、ということを示しているようだ。
このことが、しかし、いろいろな条件づけのもとで、さまざまな概念や事例を確認しながら、ハーバーマスに独特の用語をふんだんに使って倦まずに繰り返し説明されるので、読んでいてすぐに端的な理解に至ることがない。同じ文章を、幾度か遡って読み返さないと正確な意図がつかめないところが多い。
だが、逆に言えば、一旦気がついてしまえば、ある種ストレートな物言いがされているとも言えるわけである。
そう言えば、この本をベースにして書かれた花田達朗「公共圏という名の社会空間」という本をずっと以前に先行して読んでいたことを思い出した。
同書においては、公共圏というのが、公共性という語で示される抽象概念というよりは、空間的な概念であることが強調されていたのが大いに参考になった。
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