小田博志研究室

研究情報とブログを掲載

5年前のあの日、東京で

2016-03-11 | 日記

 5年前のあの日、僕は東京にいた。

 上野で博物館を見学し終わって、不忍池のあたりを歩いているとき、前に立っていた人が言った。

 「すごく揺れていない?」

 立ち止まると、たしかに地面がゆさゆさ揺れ、電柱も左右に大きく揺れている。池から鳥たちがけたたましく飛び立った。

 これから羽田空港に行って飛行機に乗らないといけない。上野駅に行くと、改札は閉じられて、プラットフォームに上がることもできなかった。それから荷物を預けている御茶ノ水のホテルにまで歩いていった。

 ホテルのロビーではテレビニュースが流されていた。東北地方で大地震が発生し、津波が押し寄せているとの報道。画面には火災を起こしている港が映されていた。ロビーの天井のシャンデリアが、時折やってくる余震で揺れ動いていた。

 スーツケースを転がしながら路上に出た。歩道には人があふれている。鉄道はストップ。バス停には長蛇の列。タクシーはまったくつかまらない。こうなったら歩くしかない。御茶ノ水から線路沿いに羽田空港の方向へただただ歩き続けることになった。

 携帯は不通。いったいどうなっているのか、飛行機は飛ぶのか、状況がまったくわからない。品川を越えた。すでに日は暮れている。人びとが川の流れのように歩き続けている。その流れの一滴のようになって僕はただ歩いた。

 都心を離れたらどこかのビジネスホテルで空きがあるだろうと思ったが、その当ては外れた。どこも満室。夜の11時を過ぎた。もう6時間以上歩き遠しだ。力尽きてきた。野宿をすることになるのか。でもそれはきつい。この日は寒かった。そのとき思いついたのは、「こういうときは”避難所”というのが設営されているんじゃないか」ということだった。

 大森海岸駅横のホテルの入口には、手書きの「満室です」の紙が貼りつけられていた。それでも僕は入っていって、「助けてください。この近くで避難所はないでしょうか」と尋ねた。フロントの男性が警察に電話をしてくださり、「この近くだと美原高校が避難所になっているようです」と教えてくれた。

 美原高校の教職員の方々は、深夜にもかかわらず避難民のために働いてくださっていた。毛布一枚と乾パン、ペットボトルの水を受取って、その夜、僕は高校の教室の床の上で寝た。明朝の5時に起きて、最寄りの駅に行くと、すさまじいラッシュだった。それに詰め込まれて羽田空港に到着。昼前の飛行機に何とか乗って北海道に帰ることができた。

 あの日、都市がいかに頼りなく、もろいものかを僕は身をもって知った。いったん、災害に襲われると、交通も電気も通信もストップする。食糧も入って来なくなる。お金があっても役に立たない。頼りになるのは自分の足と直接のコミュニケーションだけだった。

 都市は自分で何かを生み出すことができない。外から入ってくるものに依存して、ようやく都市生活は成り立っている。そのひとつが福島原発から送られる電気だった。その「便利さ」は、はかないものでしかない。その豊かさは、乏しさと裏表だ。コンクリートとアスファルトの地面は何も育まない。都市は自給自足することができない。

 一方で、「何もない」と言われる田舎には、生み出す自然がある。どちらが豊かなのだろう。

 自然の豊かさを改めて認識すること。自然とつながった生活をよみがえらせること。3.11の教訓はこれだったのだ、と僕は思っている。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿