南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

シュガーケイン濃すぎ

2006-10-31 02:31:28 | シンガポール
この写真はシンガポールではおなじみのシュガーケイン(砂糖
きび)のジュースです。それがあまりに甘みが強かったので、
私の妻は、ケインこすぎにかけて、シュガーケイン濃すぎ
などと言っておりました。

この写真とは全く関連がないのですが、今日はまた、久々に
好評の(え、ぜんぜん好評ではない?)、対談シリーズいって
みましょう。ネタが思いつかないときは、すぐに対談になって
しまいます。今回は、次長課長ではなく、社長と
会長の対談です。

社長「(小泉元首相の口調で)いやー、日本の教育界は大変な
ことになってるねえ。いじめの問題も多いし、必修逃れの問題
もある。これはなかなか一朝一夕には片付かない問題ですね」
会長「(日本ハムのヒルマン監督の口調で)シンジラレナーイ!
ニッポンの教育はおかしいで~す」
社長「あれ、会長って外国人だったのですか?」
会長「そうで~す。バレンタイン君もそうだし、日産のカルロ
ス君もそう、サッカーのジーコ君も、オシム君もそうでしょ?
強いリーダーシップでチームを改造するには、外国人であるほ
うが都合のよいことが多いで~す」
社長「なんか説得力があるような、ないような」
会長「さて、日本の教育界を改造する為の秘策を教えま~す」
社長「教育改造のための秘策、是非教えていただきましょう」
会長「それは、すべての学校の校長を外国人にすることで~す」
社長「外国人の校長?そんなの無理ですよ」
会長「ナゼアナタスグ無理ユウアルか。無理の根拠はWhat?」
社長「会長は、中国人?」
会長「そんな細かいとこは問題にしな~い。本筋を見るべし。
校長を外国人にしたら、しかも、あえて言葉も通じない外国人
校長を起用して、ばりばり改革をやらせたら、必修逃れという
ようなうやむやなことはしないし、またいじめの問題もなくな
ると思うのでありま~す」
社長「そんなうまく行くんかなあ」
会長「それならあなた、今のままでトンネルの出口が見えると
思うですか!何もしないで問題解決でけまっか?」
社長「ひょっとして関西系外人?」
会長「だからそんな重箱のコーナーをつつくような事、言わん
といてくれまっか。外人の校長がおったら、生徒もいじめどこ
ろではなくなると思うよ。必修逃れみたいなことようわからん
から、やることはきっちりおせえるよ」
社長「たしかに、外国人の校長だったら、そういう効果もある
かもしれませんね。でもまあ外国人の質にもよります。北朝鮮
のキムジョンイルみたいな人が校長になったら困ります」
会長「心の中にしっかり核のある人間を作りま~す」
社長「そんな核はいりませ~ん!しかしですよ。外国人の校長
だって必修教科の問題は解決できませんでしょ?」
会長「日本史、世界史、物理、生物、化学などの教科を
長い時間をかけずに一瞬にして履修させたことにできる劇薬を
北朝鮮に依頼して開発してもらうのじゃ。核なんか開発する
よりも、この薬を作れば、日本に高価な値段で輸出できる。
日本の校長たちも助かるし、生徒も喜ぶ、また北朝鮮も世界に
貢献することで豊かになる。こういう発想ができるのも外国人
なのだよ」
社長「そんな薬できるんですか?できたにしても副作用が
怖いですよ」
会長「そういう細かいことを考えないのが北朝鮮流解決法なの
だよ」
社長「なんだかいいのか悪いのかわからなくなりました。と
いうことで、落ちがないままに、今日のところは終わります」
会長「シンジラレナーイ」
社長「もういいっすよ。めちゃくちゃな対談、失礼しました」

喫茶店で勉強する青少年

2006-10-29 21:46:36 | シンガポール
日本では、まず見る事ができないことですが、シンガポールで
は、喫茶店や、ファーストフード店、フードコートなどで、
中学生くらいの年齢の子供達がグループで勉強している光景を
よく見ます。この上の写真は、チャンギ空港の第二ターミナル
にあるコーヒー・ビーン。ケーキを食べながら、一生懸命勉強
しているグループがいます。今日の午後、空港に行ったら、こ
こだけでなく、スターバックスでも、マクドナルドでも、パシ
フィック・コーヒーでも、勉強しているグループがいました。

空港のお店は、けっこう奇麗だし、何となく落ち着けるので、
私も用事もないのにたまに来てしまうのですが、勉強のために
空港を利用する若者たちはかなりいると思われます。日本だと、
用もないのにわざわざ空港まで勉強しにでかけるということは
ないと思うのですが、シンガポールでは地下鉄(MRT)駅も
繋がっているので、わりと気軽に来ることができます。

勉強している若者たちは、空港だけでなく、いろんな場所で見
ることができます。日本では考えられない牛丼の吉野家(シン
ガポールの吉野家はずっと牛丼が食べられていました)でも、
若者たちがテーブルを占拠して勉強しているのを見ることがで
きます。フードコートのテーブルも例外ではありません。

彼らの大半は、HDBという公団住宅に家族と一緒に住んでいる
ので、家の中では集中して勉強できないのでしょうか、それと
も仲間と一緒に勉強したほうが勉強しやすいのでしょうか?
仲間で一緒のテーブルを囲んで、とくに話し合っているという
わけではなく、かなり集中して勉強しているようなのです。

日本では、人前に勉強する姿をさらすということはあまり考え
られません。図書館とか、そういう場所は例外ですけど、喫茶
店とか、ファミレスで、一生懸命勉強している学生は見た記憶
がありません。

私が学生だった頃もそうでしたが、勉強している姿を人前にさ
らすことは日本ではあまり格好のいいことではないという雰囲
気がありました。学校ですら、授業時間以外に教科書を開くと
いうことはありませんでした。一生懸命勉強すると、「ガリ勉」
として蔑まれ、勉強しないことのほうが好意的な目で見られる
というへんな風潮がありました。

日本では、学習塾が発達しているので、そういう場所で集中し
て勉強するのでしょうが、それ以外の場所で勉強していたら、
それこそ「いじめ」に会ってしまうかもしれません。日本は、
つくづく勉強するのには環境がよくないんだなあと思います。

総理の安倍晋三さんは1954年生まれなので、私と一つしか違
ないのですが、育ってきた時代背景がかなり共通しているので、
共感できる部分もかなりあります。安倍内閣は教育改革という
ことを一つの大きな柱としています。文春新書の「美しい国へ」
(安倍晋三著)を読んだのですが、この最終章の第七章が
「教育の再生」というテーマでした。

この中で安倍さんは、ゆとり教育の問題点について指摘し、
学力の向上が急務であると述べています。私が高校の頃から、
ゆとりのための課外活動が教科に組み入れられました。これは
これで意味のあることだったのかもしれませんが、全体的な
雰囲気としては、がむしゃらに勉強することは、全く勉強をし
ないことよりも悪いことであるという風潮が蔓延していました。

「学校以外の勉強時間はどのくらいか」という調査のことが、
安倍さんの本の中で紹介されています。日本の高校生の45%が
「ほとんどしない」と答えているそうです。アメリカは15%し
かないのに、日本の勉強嫌いの比率はダントツです。日本は、
勉強ができるようになることよりも、クラスのみんなに好かれ
ることを最優先しているそうです。こうなると国際的な学力
低下は必然です。

「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力は、授業時間の増加
でとりもどさなければんらない。内容の乏しいマンガのような
教科書も改めたい。そのためには、学習指導要領を見直して、
とくに国語、算数、理科の基礎学力を徹底させる必要がある」
と安倍さんは、語ります。しかしながら、単に授業時間を増や
すということだけでなく、勉強することが決して悪いことでは
ないのだというムードを作っていくことが重要だと思います。

しかし、政治が教育の重要性をとりあげることはよいことだと
思います。これまで教育はメインの課題ではありませんでした
ね。「ダメ教師には辞めていただく」と安倍さんは、言ってい
ます。ここで日本の教育が少しでもよい方向に変わることがで
きれば、それは非常によいことです。

なんてことをシンガポールの若者を見ながら思うのでした。

修学旅行で訪れるシンガポール

2006-10-28 21:04:34 | シンガポール
私がまだ高校生だった頃、修学旅行で海外に行くということは
全く考えられませんでした。高校まで私は愛知県の田舎の学校
に行ってましたが、修学旅行と言えば、小学校で京都/奈良、
中学校で東京/箱根/鎌倉、そして高校は京都/岡山/広島/
萩でした。その頃は日本の歴史には、それほど興味はなかった
のですが、今になって、その時、日本の歴史の中で重要な場所
を訪れたことを感謝しています。

最近、シンガポールに来る修学旅行が非常に増えています。
私はシンガポールで仕事をしているので、空港とか街中とかで
日本からの修学旅行の団体に遭遇すると、懐かしいやら、恥ず
かしいやら、何だか複雑な気持になります。制服の団体は、
仏教僧の団体とか、巡礼に行くイスラム教徒の集団とか、いろ
いろいるのですが、修学旅行の団体は人数でいくとかなり巨大
な団体なので、非常に目立ってしまうのです。

日本から海外に出る修学旅行の中で、シンガポールがどのくら
いの比率なのかはわかりませんが、かなり多いのではないかと
推測します。シンガポールは、安全だし、英語が通じるし、
距離的にもそれほど遠くはありません。旅行を管理する立場と
したら、非常に便利なデスティネーションです。

修学旅行中に心配なのは、生徒が盗難や犯罪に巻き込まれる事。
シンガポールの場合は、そのリスクが他の国に比べてかなり低
いと言えるでしょう。また中国などによくある反日デモなどに
遭遇する危険もありません。手軽に、安全に、外国旅行体験が
できる場所としてシンガポールの優位性は圧倒的です。

これからはグローバル社会ですから、高校生のうちから海外を
体験するということは教育上それなりの意義はあると思います。
私が高校生のときに、修学旅行で海外に行けるということに
なっていたら、驚喜して喜んだでしょう。

しかし、考えて見れば、例えば広島の原爆資料館などは、修学
旅行がなければ、まず訪れるチャンスがありませんでした。
高校生の時に、そこを訪れていたことは、今から思えば非常に
有意義でした。核の恐ろしさというものをあれほど強烈に示し
ている場所は他にありません。今の私の日本人としての歴史
認識は、修学旅行の時に実際に訪れた場所がかなり貢献してい
るような気がします。

そういうこともあるので、日本人として知っておくべき事を
スキップして、いきなり海外に行くのもどうかという気持も
あります。しかしながら、また同時に、若いうちから海外を
経験しておくことも、グローバル感覚を養うこともまた意義
のあることもまた重要です。教育的に見て、どちらがいいの
かということは、なかなか断言できません。そのバランスが
大切なのですね。

シンガポールに来てただ漫然と遊んで帰るだけの生徒も多い
のかもしれませんが、いろいろ勉強になることも多いので、
是非いろいろと吸収していってもらうといいのかなと思いま
す。いろんな人種や宗教や文化が調和して共存しているとい
うことだとか、英語を話しているのが欧米人だけではないと
いう事実だとか、機能的な交通システムだとか、あるいは
日本の製品がこんなに海外に浸透しているという事だとか、
はたまた、日本ではあまり見られないブランドがこんなにも
いろいろあるということだとか、そんな部分を若い感性で
感じ取ってもらえれば、修学旅行としての意味も十分果たせ
られるんだろうなと思います。

なんだかえらそうな事を言ってしまいました。
高校生の皆さんがもしこれを読んでいたら、「余計なおせっ
かいだよ」と思うかもしれませんね。でも私たちの時代には
できなかった夢の体験だけに、その経験を無駄にしてほしく
ないというのが私の気持です。

ところで、私の妻が最近、飛行機でシンガポールから
日本に行ったときの話しです。たまたま修学旅行の
高校生の団体といっしょの飛行機だったそうです。
シンガポールでの修学旅行を終えて、飛行機に乗り込んで
来た生徒の皆さんは、座席を移ったりして、ざわざわしてい
ました。座席を替わったりするのもまた楽しいですよね。
そのとき、生徒たちがなかなか静かにしなかったものだから、
引率の先生が大きな声で生徒達を叱ったのだそうです。
「お~い!みんな自分の席に戻れ~!
飛行機が落ちたとき、席の番号が違ってたら、
死体の確認がちゃんとできんじゃろ~が!」


この飛行機に乗っていたのは、修学旅行の生徒だけではなく
て、当然、他の乗客もいっぱいいました。この教師の言い方
は、かなりの不快感を与えたようです。生徒たちは、その教
師の指示に素直に従ったということですが、他の乗客の心情
はどうだったのでしょう。

もしも飛行機事故の遺族の方などがこの飛行機に乗り合わせ
ていて、この教師のデリカシーのない発言を聞いたとしたら
この教師につかみかかって殴り倒していたかもしれません。
「教師だったらもうちょっとうまく言ってほしかった」と
私の妻も嘆いておりました。

教師の立場からすると、ざわついた状態を即座に沈静化した
かったのでしょうが、不用意に余計なこと言っちゃいました
ね。生徒が飛行機内でうるさくするのも迷惑ですが、こうい
う教師がいるということは社会的にはもっと迷惑です。教育
的には有害です。教師は誰からも怒られることはないので、
こういうのも一生気付かないのでしょうが、こういう教師から
教わる日本の生徒たちはかなり不幸といえるでしょう。

よく言われることですが、家に帰るまでが修学旅行です。
帰りの飛行機での教師の発言も、教育にとってはおろそかに
できない重要な部分です。教育に携わる人には、それを十分
自覚してほしいと思います。そういう教師は、世界の恥にな
るので、修学旅行では海外に出ないでほしいと思います。

たまたまこの飛行機に乗っていた学校の生徒のみなさ~ん、
こういう先生は「反面教師」です。こういう人には絶対に
ならないようにしてくださいね~。このような発言を海外
ですると、国際問題に発展しかねないので気をつけましょ
うね

まあ生徒以外にも、我々もいろいろと勉強になる修学旅行
です。

セントーサ&VivoCity

2006-10-24 12:22:47 | シンガポール
この写真は、セントーサからの帰りのケーブルカーから見た
ハーバーフロントのショッピング・センター、VivoCityです。
この写真では、そんなに大きな建物のようには見えないので
すが、建物の中はすごく大きくてびっくりします。

今月の7日にオープンしたのですが、正式なオープニングは
12月。工事中のお店はまだ多いとはいえ、すでに数多くの店
がオープンしていて、その店の多さにびっくりしてしまいま
す。地下2階、地上3階のその巨大ショッピングセンターは
シンガポール最大規模です。

ここには21日の土曜日の午後に行きました。シティのほうか
ら、車でウォーターフロントに向かおうとしたら、VivoCity
の駐車場に向かうと思われる車が長蛇の行列になっています。
ここで我々は、すでにVivoCityをあきらめて、通り過ぎて、
ずっと先をユーターンして戻ることにしました。そうしたら
VivoCityと隣接しているクルーズセンターのほうに入れそう
です。ラッキー。そちらの駐車場はそんなに混んでいません。
しかも、前からあるハーバーフロントのショッピングセンター
とは中でVivoCityとつながっているのです。これは便利。

急がば回れということなんですね。
これはたまたま運がよかっただけなのですが、ほんのちょっ
とフレキシブルな発想をするだけで、次善の策が見つかると
いうことであります。一つの解決法のみに拘っていると、
なかなか先が見えなくて困るということはあるものです。

このショッピング・センターには、地下鉄(MRT)でも行けて、
ハーバーフロント駅がすぐそばなので、とても便利。お店も
いっぱい。その日はちょっと寄っただけなので、ほんの一部
しか見ませんでしたが、一番感動的だったのは、フードコー
ト。昔の街並が映画のセットのように再現された店舗が見事
です。もう、見ているだけでもテーマパークのようで、楽し
くなります。観光で来た人を招待すると、喜ぶんだろうなと
思いました。ここはかなりおすすめです。

ここで私達は、揚げ物屋の店で、バタフライという名前の揚
げパンを買って食べました。これは美味。揚げたてがとても
いデリシャス!丁度、バタフライを揚げているところだった
ので、それを注文したのですが、私も妻の下町娘も、それ
が、バター・フライ(Butter Fry)だと信じきっていました。でも
後でシンガポールの観光ガイドを見たら、それはバタフライ
というスナックで、チョウチョの形になっているのですね。
外に胡麻がついていて、パン生地を油で揚げただけのシンプ
ルなものですが、これはおすすめです。

このフードコートは、最上階の一角にあるのですが、他に
いろんな店舗が入っていて、ここだけでも観光コースとして
はかなり見所です。ただ込み合っていて、席は取りにくいし、
どのお店も行列ができてしまうというところが欠点ですが。

そこから外に出ると広々とした広場が広がっています。屋上
なのに、木が生えていたり、ビーチのような雰囲気があった
りで、ショッピングセンターの屋上とは思えない雰囲気です。
夜は、プールの水が輝いて、ちょっとロマンチックな雰囲気
になるみたいです。

詳しくは、VivoCityのウェブサイトをごらんください。
http://www.vivicity.com.sgです。

この巨大ショッピングセンター、じつは設計したのは日本人
建築家の伊藤豊雄(いとうとよお)という人
なのですね。私は知らなかったのですが、いろいろ国際的な
賞を受賞している有名な建築家の方なのです。このVivoCity
のデザインコンセプトは、「流動性」。建物は直線がほとん
どなく、波のような風のようなカーブが多用されています。
現代建築としても、見る価値のある作品なのですね。こうい
うところでも、日本人が活躍しているというのはすごいです。


********

さて、話しは変わって、そのVivoCityの対岸のセントーサ。
今まで、妻の下町娘は一度もセントーサに行った
ことがありませんでした。彼女は、友達から「セントーサは
つまらないので、別に行かなくてもいい」と聞かされていた
のです。しかし「まま一度は行ってみるのもいいか」という
ことで行く事になったのです。

さて、その印象はいかに。「セントーサって結構面白い」と
いうコメント。最近、リニューアルして、アトラクションも
増え、ホテルやお店も増えています。さらに来年、一月には
VivoCityとセントーサが電車(LRT)で直結するので、さらに
発展が予想されているとのこと。今後も楽しみです。

このセントーサのアトラクションの中で、イメージ・オブ・
シンガポールという展示館があります。ここは15年以上前に
来たときに見て以来、何度か見ています。去年、日本からの
お客さんを連れてきたときは改装工事中で見られませんでし
た。この展示は、シンガポールの歴史を、蝋人形で展示して
あるものですが、以前は、戦争関係の展示が大半を占めてい
ました。侵略者としての日本が悪者になっているという雰囲
気で、日本人としてそれを見ると、良心の呵責に苛まれるよ
うな雰囲気でした。

今回、リニューアルされたイメージ・オブ・シンガポールを
見て、その戦争部分がすっかり一掃されていました。過去に
拘って、被害者意識で、侵略者を恨んでいるだけでは、未来
の発展がないということなのでしょうか。あるいは、ここを
訪れる多くの日本人観光客から、日本人を徹底的に悪者にす
る歴史観に対する不満が指摘されたのでしょうか。またある
いは、軍事力を強化しないといけないシンガポールにとって
いたずらに厭戦気分を高揚することはメリットがないと悟っ
たのでしょうか。

いずれにしても、イメージ・オブ・シンガポールは、戦争を
切り捨てて、建設的なシンガポールのイメージ作りを始めた
のかなという気がします。

イメージ・オブ・シンガポールに入るとすぐに、ミニシアター
で5分くらいの説明があるのですが、これもまあよくできて
いました。いろんな民俗が、偶然この南の島に集まり、運命
共同体となったという話しですが、考えてみれば私達二人を
結びつけたのもシンガポールという奇跡なのですね。

下町娘は、このイメージ・オブ・シンガポールを
とても気に入っていました。こんなのつまらない、と言われ
たらどうしようと心配していたので、よかったです。

あと、新しくできたアトラクションのシネマニアというのは、
スリルのあるバーチャル体験なのですが、これがまた馬鹿に
できないほどの臨場感、ジェットコースター恐怖症の私です
が、ジェットコースター以上にすごかったです。こんなんが
シンガポールにあったなんて、とびっくりです。

この日、セントーサには世界各国から来た観光客がひしめき
あっていましたが、インドから来た観光客がすごく目につき
ました。ケーブルカーに相乗りしたのは、インドのプネーか
ら来た夫婦でした。経済発展するインドからシンガポールを
訪れるインドの富裕層。インドの人にとって、ケーブルカー
だって初めての体験で、我々以上に感動が大きいんだろうな
と思いました。

いろいろありましたが、セントーサの点数をつけるとしたら
百点満点で75点。これは決して悪い点数じゃないですよ。

ディパバリとハリラヤ

2006-10-22 16:03:58 | シンガポール
シンガポールは、10月21日の土曜は、ヒンズー教のお祭りの
ディパバリの祝日でした。上の写真は、インド人街の飾りつけ
です。今年のテーマはクジャクで、クジャクの羽根のイルミ
ネーションが開いたり、閉じたり見えるところが見事です。
ちなみにこの写真撮影は、妻の下町娘です。

今年は、ディパバリと、イスラムのお祭りのハリラヤがほぼ
重なりました。ハリラヤの祝日は来週の24日の火曜日です。
月曜日は平日なのですが、うちの会社はお休みにしました。
月曜日を休みにするかどうかは、それぞれの会社判断なので
すが、休みのところもあるし、やっているところもあります。

今年は、10月の前半まで、中秋節(ランタンフェスティバル、
あるいはムーンケーキフェスティバル)もやっていました。
チャイナタウンでは、このための飾り付けがきらびやかでし
た。今年は、めずらしく、3つのお祭りが重なったので、同
じ、時期に、3つの違った種類の飾り付けを見ることができ
ました。中秋節とディパバリは、毎年ほぼ一定ですが、ハリ
ラヤは、毎年どんどん早まっていきます。一年の周期が短い
のでそうなるのですが、再びハリラヤとディパバリが重なる
のは何十年か先のことになるみたいです。

インド人のお祭り、といってもインドには、イスラム教徒も
10%以上いるので(1億人以上)、人種ではくくれません。
またパキスタンや、バングラデシュもイスラムが大半なんで
すね。また、イスラムと言っても、日本で想像するようなア
ラブ系ではなく、シンガポールのイスラムは、マレー系の人
が大半で、インドネシア系、アラブ系、バングラデシュ、
パキスタンなどいろいろです。

ディパバリは、本家インドでは、ディワリと呼ばれています。
うちの会社はインドとの仕事も多いので、取引先の人から
"Happy Diwali"のメッセージが送られてきていました。お祝
いのメッセージというのは、宗教や、国を超えて、心温まる
ものです。

シンガポールのように、小さな国で、いろんな人種や宗教が
混在していると、お互いの文化を尊重していて、非難しあう
ということはあまりないように思えます。お互いに、何か変
なことやっているんだろうなと思うこともあるでしょうが、
だからと言って、それは許せないとか、喧嘩になるようなこ
とはまずありません。と言って、宗教や文化が融合するとい
うようなことはなく、それぞれがそれぞれの伝統を守り続け
ています。

パレスチナや、その他いろんな紛争地域で、宗教の違いから
諍い会っているのが多いですが、シンガポールの場合は、
宗教の違いを超えて見事にバランスがとれているという珍し
い事例です。

宗教というのは、神がどうのこうのというけれど、それは
しょせん、人間が作り出したこと。などと言うと、いやそれ
は違う、神が作ったのが人間である、とお叱りを受けるかも
しれないのですが、そもそも宗教というのは、人間の世界を、
人間の心の中を平和にするために生まれてきたもの、その
宗教のために争い合うというのは本末転倒のことなのだと
思います。

夫婦の関係というものも、人間なので、全く同じ価値観とい
うわけにはいきません。生い立ちも違えば、生活習慣も異な
り、考え方も違います。相手に自分の価値観を押しつけ、自
分の思い通りになるように期待するというのは、不完全な
人間がすること。とテレビで美輪明宏さんが言っていたと、
下町娘がそう言いながら、「私は不完全な人間」
と反省をしておりました。

まあ、人間は誰でも、不完全であり、完全な人間などという
ものはいないのです。誰もが自分と異なって当然という前提
で、お互いを尊重しあうことが大切なのだということを、私
たちは、ディパバリやハリラヤのお祭りを見ながら学んだの
でありました。

初めて教壇に立った日

2006-10-20 01:51:26 | Weblog
私は今、学校で教えているわけではないのですが、教壇に立っ
たことはあります。教育実習で、母校の高校で二週間ほど授業
をしました。本当は、大学を卒業したら高校の教師になる予定
でしたが、いろいろ事情があり、教師にはならなかったのです。
愛知県の教員採用試験に通り、赴任校も決まる寸前でした。
もし、そのまま、教員になっていたら、今とは、全く違った
人生になっていたのでしょうね、きっと。

教室の前のほうの扉から中に入っていきます。学園ドラマの
ように、扉を開けようとすると黒板消しが落ちてくるというよ
うな古典的ないたずらはありませんでした。また、私が受けを
狙って、教壇にたどり着く前にこけるといいうギャグをするこ
ともありませんでした。あたり前のように私は教壇にたって
いました。見渡せば、40人くらいの高校生の目が私を見つめて
います。男女、半々くらいです。わー、緊張するなあ。

名簿を見ながら、点呼をとります。途中でふと気づくと、生徒
の中に、自分の実の弟がいるではあ~りませんか。母校だから
弟がいてもよいのですが、生徒の中に身内がいるというのは、
何ともやりにくいものであります。生徒達は、私達が兄弟だと
いうのは知っています。それでいて、他人のようなふりをして、
~君とか言って指名をすると、生徒の間から笑いが出てしまい
ます。と言ってわざと無視するわけにはいきません。冷や汗の
連続でしたが、何とかその授業は無事に終わりました。

弟のいるクラスは2度くらいしか担当しませんでしたが、いろ
いろなクラスで教えました。教えているうちに、教えることは
面白いなと思うようになっていました。金八先生のように、
人生に影響を与えるような教え方はとてもできませんでしたが、
教える立場にたってみると、自分の言うことに従ってくれると
いうことだけでも感動でした。「これから試験をします」と言
えば、「え~!」とか言いながらも、一応は試験に従います。
何か自分の思い通りにできるのですね。これは教えるほうの
快感があるんだなあと思いました。

自分は、大学時代に演劇をやっていたので、発声練習などは
よくやっていたので、教え方の重要な技術のいくつかに関して
は慣れていました。私の授業を見ていた校長先生は、そういう
部分をすごくほめてくれたので、ちょっと嬉しかったです。

二週間の教育実習はあっという間に過ぎていきました。二週間
はそれなりに、楽しくすごせたのですが、もし学校の先生にな
って、そのまま何年も、何十年もたった場合、その単調な繰り
返しにどのように打ち勝っていけるのだろうか、とふと不安に
なりました。最初は青春ドラマの教師のように、情熱を持って
いられるのでしょうが、それがどれだけ永続するものかを考え
ると、自分は教師にならなくてよかったのかなと思えます。

でも、今の年になってみると、高校とか、中学とかで教えてみ
たいなと思うことがあります。NHKで「ようこそ先輩」という
番組がありますが、ああいう勝手な授業をやって、若い生徒た
ちの未来に影響を与えたいなと思うこともあります。今だった
ら、画一的でないいろんな教え方ができるし、含蓄のある脱線
もできるのかなとも思います。

教育実習で初めて教壇にたった頃、私は22~3才でした。その
頃、まだ会ったこともない私の妻の下町娘はまだ
小学生。これってちょっと何か犯罪のように聞こえてしまいま
すね。失礼しましたー。

外国人と英語で初めて話したのは、いつ?

2006-10-19 02:30:19 | Weblog
今の時代の皆さんは、外国人と話しをするというのがそんなに
珍しいことではなくなっていますが、私が中学校で英語を学び
始めたころ、外国人と話しをするどころか、田舎の町では外国
人を見ること自体がめったにないことでした。

今でこそ、私の故郷の愛知県の田原市は、豊橋が国際的な港と
して発展したので、外国人の姿があたり前のように見られるの
ですが、私が高校を卒業して東京に出るまで、町で外国人の姿
を見るということはありませんでした。

そんな町で、英語を勉強し始めた私にとって、せっかく勉強し
た英語が本当に使えるものなのかどうか、試したくてしょうがあ
りませんでした。本当に、日本人の先生から教わった英語で世
界の人と話しができるんだろうか。という興味がどんどん高
まっていくのでした。

中学の3年のとき、一番仲のよかった友達は、近所の時計屋の
息子のマー君でした。彼は、名古屋の私立高校に行き、過激派
の思想にとりつかれ、若くして亡くなってしまいました。クラ
シック音楽も好きで、私の家に遊びに来たときは、カラヤンの
指揮の真似をして、マーラーは最高にいいというようなことを
熱く語っていました。私はクラシックは全く興味なかったので
すが、彼の話しを、静かに聞いてあげていました。

中学3年の時、彼とは同じクラスでした。東京方面への修学旅
行を目前に控えたある日、マー君とぼくは、二人で修学旅行の
大きな目標をたてました。
「外国人と英語で話してみよう!」
そしてどちらがより沢山の外国人と話せるか競争しようという
ものでした。

と言っても、中学の3年くらいの教科書だけでは、外国人と
会話をするような例文がありません。まさか「あなたはペンを
持っていますか?」みたいな不自然なことを聞くわけにはいき
ません。修学旅行先で遭遇する外国人は、おそらく観光で日本
に来ている人なのだろうから、それなりの内容の会話ができな
いといけない。ということで、ぼくらは英会話のテキストから
使えそうな文章をメモ帳に書き出して、暗記したのでした。

いよいよ修学旅行になりました。ぼくらはまず、富士山の白糸の
滝を見て、箱根の大湧谷に行きました。富士山を見ることも初
めてだったのですが、どこかに英会話を試す適当なターゲット
はいないかということばかり考えていました。ガールハントな
らぬ、外人ハントです。

大湧谷の煙がもやもやとしている小道を歩いていくと、前方に
ターゲット発見。ぼくの心臓が高鳴る音が周囲の谷間にこだま
すかのようでした。まるで神風特攻隊のように、前方を一人で
歩いている西洋人の男性に突進していったのです。
「すいません、ちょっと話してよいですか?
ど、ど、ど、どこから、来ましたか?」のように英語で尋ね
ました。後は、気が高ぶっていて細かくは覚えていません。
しかし、その男性が、イタリアのミラノから来た人であり、
名前がルイジ・バルツィということは今でもはっきりと覚え
ています。

初戦は勝利でした。何をもって勝ったというのか不明ですが、
とにかく外国人と英語で話しが通じたということで、ぼくは
興奮状態でした。さて、次のチャンスが訪れます。その場所は
鎌倉の長谷の大仏の前でした。ぼくらがそこに到着したとき、
たまたま白人の団体が到着していました。またまたぼくらの
鼓動が高鳴ります。獲物がうじゃうじゃいます。ビッグチャ
ンス!

ぼくは、大仏の前にいた白人のカップルに近づいて、話しか
ました。二人とも目が水色で、髪の毛はブロンド。見るからに
見た事もない典型的な白人でした。初めてみる水色の瞳を見て
いると、何だか魔法にかかったように硬直している自分がいま
した。そのうちにクラスメートたち、というか他のクラスの
生徒たちも、もの珍しそうに、ぼくらの周りを取り巻き初め
ました。ぼくはいきなり日本代表として、外国人使節と話しを
する人みたいになって、話しをしないといけなくなりました。

まわりの好奇の目が、ぼくにプレッシャーを与えてきます。
「ど、ど、ど、どこから来ましたか?」
ととりあえず聞いてみました。すると相手は、典型的なアメリ
カ英語でしゃべってきます。ちょっと待ってよ、こっちが用意
していた文章は伝えることができるけど、そっちが言ってる
ことが何だかわからないよ~。自分の言いたいことは暗記して
いたのですが、ヒアリングは全くダメです。
「ウィスコンシン」という言葉が聞こえました。これはアメリ
カの中西部カナダよりの州の名前ですが、この人たちは自分ら
がウィスコンシン出身だと言っているのだなということまでわ
かりました。

ぼくは、いかにもわかったように、頷きながら、日本の印象な
どを尋ねてみました。でも何を答えたのか全くわかりませんで
した。幸いに周囲を取り巻いているクラスメートたちのほうも
さっぱりわかっていなかったので、何とか会話をしているとい
う雰囲気には見えたのかもしれません。この時は瞬間的にぼく
はヒーローでした。「あの人たちはアメリカのウィスコンシン
から来たと言っていたよ」と言ったら、みんなが「すご~い!」
という尊敬のまなざしでぼくを見ていたのでした。

マー君も同じようにがんばっているようでしたが、集客力(?)
という点ではぼくのほうが勝ったように記憶しています。

あれからうん十年、今、私はシンガポールの会社で、英語を
使って仕事をしています。英語を使って仕事をすることが夢
だったので、夢が実現したということになります。しかも今、
この国での私の立場は「外国人」です。まさか自分が外国人に
なってしまうとは、想像もできませんでした。

英語が何となく道具として使えるようになったのは、仕事で
使うようになってからですね。実際に使ってみて初めて身に
つくのが語学なのだなあと思います。また言葉だけでなく、
何かを本当に伝えたいという気持のほうも重要だなあと思う
今日この頃です。

でも英語よりも、日本語で、妻の下町娘に自分の気持を
うまく伝えるのがもっと大変だと思いますけどね。

マグロが翔んだ日

2006-10-17 02:04:31 | Weblog
渡辺真知子さんのヒット曲に『かもめが翔んだ日』という曲が
あります。南マグロの漁獲量制限のニュースを聞きながら、
マグロのことを考えていたら、こんなタイトルになってしまい
ました。本当にマグロが空を飛んだのかと早合点された方、
申し訳ない、そういう奇想天外な話しではありませんのであし
からず。

渡辺真知子さんのことが出たついでに、思い出したのですが、
私が今の会社にアルバイトに来る際に面接がありまして (こ
れは今から20数年前の話しですけど)、その時に面接した人
が、「芸能人で好きなタレントは?」という質問をしてきま
した。その時たまたま気に入っていたのが渡辺真知子さんだっ
たので、とっさに「わ、わたなべまちこ、です」と答えたの
を記憶しています。その時の面接官は、え、何でそんなのが
いいの、みたいなきょとんとした反応をしていたような気が
します。

1977年に『迷い道』でデビューした彼女の二枚目が、『かもめ
が翔んだ日』で、その次が『ブルー』でした。この人、1956年
生まれということですから、私とほとんど年代が同じなのです
ね。ということは50を超えたということ?まだがんばっておら
れるのでしょうか?

ニュースを見ていたら、南マグロの日本の漁獲量割当が半分に
減らさるとか言っていたので、こりゃ大変だと思ったのですが、
南マグロというのは、日本で消費されているマグロの数%なの
で、日本のマグロ全体が半減するということではないのですね。
でも、まあマグロの値段が上がったりとか、いろんな影響が出
そうな感じで心配なことであります。

私はシンガポールに住んでいるので、日本にいる人は、「そち
らは南マグロの海域に近いので、南マグロが思う存分食べられる」
と誤解している皆さん、こっちの寿司屋とかに来る刺身、トロは、
日本の築地経由で来るんですから、残念!(ところであのギター
侍は最近どうしてるのかなあ名前も忘れてしまったが、
切腹!)

日本の皆さん、誤解しているかもしれないのですが、シンガ
ポールは360度海に囲まれているので、さぞ水産物に恵まれて
いると思うかもしれません。でも水産物は、ほぼすべて輸入
です。だいたいシンガポールには漁師さんという職業や、
お百姓さんという職業はほとんどいません。マグロ漁船がシン
ガポールの港を経由することはあるみたいですが、築地のよう
な魚市場はありません。

刺身に使うような高級魚は、日本から冷凍で運ばれてきます。
それも飛行機で。だから、マグロが空を飛ぶというのは、なま
じ嘘じゃありませんですね。

シンガポールにも回転寿司屋がいっぱいありますが、シンガポー
ルでの人気ネタは、サーモンです。サーモンは漁獲量制限の心配
がないのでよいですが、マグロの未来はどうなることでしょう。
ああ、またトロが食べたい。

水玉模様のオーチャード

2006-10-16 02:20:28 | シンガポール
オーチャードの並木が先月から赤と白の水玉模様になっていま
す。これは今シンガポールで行われている現代アートの祭典の
シンガポール・ビエンナーレ2006のパフォーマンスの一つで、
れっきとした芸術作品なのです。しかもこの作者は、日本人の
前衛アーティストの草間彌生さんなのです。

草間彌生(くさまやよい)さんは1929年生まれのアーティスト
で、彫刻家、画家、小説家でもあります。私は全然知らなかっ
たのですが、日本だけでなく世界でもいろんな賞を受賞してい
るすごい人なんですね。写真家荒木経惟とのフォト・コラボ
レーションや、作家村上龍原作監督の映画「トパーズ」へも
出演、ミュージシャンピーター・ガブリエル、ファッション・
デザイナー三宅一生とのコラボレーションなど、美術以外でも
多彩に活躍しているとのこと。すご~い。

10歳の頃から、水玉と網模様をモチーフに絵を描き始め、水彩、
パステル、油彩などを使った幻想的な絵画を制作とのことで
この水玉模様は、草間さんの人生のテーマなのですね。

草間さんは、水玉模様に関して次のように語っています。
「クサマ・ハプニング」のトレード・マークの水玉模様。
赤や緑や黄の水玉模様は地球のマルでも太陽の
マルでも月のマルでもいい。形式や意味づけは
どうでもいいのである。人体に水玉模様をえがく
ことによって、その人は自己を消滅し、宇宙の
自然にかえるのだ。

これは彼女の自伝の中の言葉です。

オーチャードの木々は、木としての存在を消滅し、宇宙の
自然へとかえるということなのですね。たしかに、このオー
チャードの景色は、おとぎ話の世界というか、何だか不思議
な宇宙空間になっています。

これって、説明を聞かないとわかりませんね。何も知らない
で、たまたまこれを見る日本人の旅行者のみなさんは、シン
ガポールのオーチャードっていつもこんな水玉と思ってしま
うかもしれないのですが、これは特別なことなのですよ。

日本人でこんなすごいことができる人がいるのは、同じ日本
人としてはちょっと誇りです。今、シンガポールのビエンナー
レでは、草間さん以外に、原高史さん、松影博之さん、
などの日本人アーティストも参加しているようです。ちなみ
今、シンガポールのシティーホールの建物の窓がピンクに
なっていますが、これは原高史さんのアートなのです。

いろんな人がいろんなところで活躍しているのですね。

カヤトーストのグローバリゼーション

2006-10-15 14:56:00 | シンガポール
シンガポール初のブランドが国境を超えて海外に広まっていく
というのは、そんなに有名なのはありませんが、実はちょこ
ちょこあるのですね。歴史的には、ブランドではありませんが、
シンガポール・スリングというカクテルはシンガポール初で
世界中に浸透した最初の例といえるんじゃないでしょうか。
ビールではタイガービール。これはシンガポールを代表する
ビールなんですが、アジア諸国で最近よく見るようになりまし
た。健康器具ではオシム。マッサージチェアから始まって、今
や様々な器具がアジア中に広まっています。MP3やIT周辺機器
のクリエイティブ・テクノロジーもシンガポールのブランドで
す。またテレビ局のChannel NewsAsiaはシンガポール初の国際
チャンネルということで、周辺諸国へも放映をしています。
シンガポールの銀行のDBSなども国際展開を初めていますし、
シンガポールの工業団地設備なども海外展開しています。

食べ物では、シンガポールではおなじみのブレッドトーク
というパン屋さんは、シンガポールのあちこちに店舗があり、
アジア各国にも店舗展開を広げています。この前、マニラに
行ったときも街角で見かけた気がします。そして、今回のタイ
トルになっているヤクンのカヤトースト
これもシンガポールで生まれたブランドですが、アジア各国
に店舗展開をしていて、最近、日本の豊洲のららぽーとに日本
での一号店ができましたね。

このヤクン(Yakun Kaya Toast)の日本進出の件は、東京にいる
下町娘(=My Wife)から以前聞いていました。
豊洲は江東区にあり、彼女も江東区民ですので、自転車でらら
ぽーとまで行って、ヤクンの店を見て来たら、行列ができてい
たので入らなかったと言っておりました。江東区といえば、私
の本籍地も、今年の8月から江東区になっておりました。
シンガポール在住なので、日本での住民票はありませんけど。

豊洲のららぽーとのヤクン・カヤトーストの店の入り口に
ラウパサ(Lau Pasat)と書いてあるのが不思議だったと下町
が言っておりました。ラウパサというのは
シンガポールのビジネス街のど真ん中にあるフードコートです。
調べてみたら、このヤクン・カヤトーストを始めたロイ・アク
ーンおじさんは、最初は別の場所で商売をやっていたらしいの
ですが、ラウパサに店を移してから有名になったとか。だから
ヤクンにとって、ラウパサってのは大事な場所なのですね。

さて、上の写真は、シンガポールに25店舗以上あるうちの一つ
で、パソコンショップがいっぱい入っているフーナン・センター
(Funan Centre)の一階のお店です。先月、ラッフルズ・シティー
の地下にも一店舗オープンしました。

トーストというとどうしても朝食というイメージが強いですが、
私はカヤトーストは朝食では食べたことがありません。おやつ
です。昼食後のデザート感覚、あるいは3時のおやつ感覚で食べ
ます。まあ、ひとそれぞれなので、ランチとして食べる人もいる
でしょうし、夕食として食べる人もいるのかもしれません。
こっちの人は結構頻繁に何か食べている感じなので、カヤトー
ストの店はいつも混んでいる感じです。

ヤクンのカヤトーストは、日本語のホームページもあります。
http://www.yakun.com.sg/jpn/
この中にメニューも出ていますが、私がいつも頼むのは2トー
ストとコピーです。カヤトーストの基本オーダーは2枚からと
なっていて、それを切り分けるので、最終的にお皿に乗って出
てくるのは何枚かになっています。

セットには半熟卵もついてきます。シンガポールでは、卵を生
で食べるとよくないとかよく聞いているのですが、こういう店
で出てくる卵はほとんど生の感じ。みんな結構食べているので
別に心配ないのかな?私は白いご飯に生卵をかけて食べるのが
好きなのですが、卵は明治屋で買ってきています。

私はシンガポールには数年間住んでいるのですが、ヤクンの
カヤトーストを食べたのは3、4年前でした。感動でした。
このお店のカヤトーストは、料理とは言えないほどのチープな
食べ物です。日本で言えば、屋台のタイ焼きとか、タコ焼き
くらいのチープさではないかと思います。

トーストを火でやいて、焦げるほどになります。その焦げた
部分を魚を3枚におろすように、切って焦げていない部分だけ
を残します。その時点で、トーストの厚さはちょっと薄くなり
ます。焼いて水分がなくなっているので、パン自体はどちらか
というと「ラスク」の感じに近くなっています。そのクリスプ
な感じが、ヤクンカヤトーストの命です。これがふにゃふにゃ
した感じだとよくありません。

カヤジャムを塗った2枚のパンをサンドするのですが、この間
に薄切りバターを一切れはさみこみます。これもまたポイント。
カヤジャムだけでは、甘くて、くどいのですが、塩味のバター
が、カヤジャムの甘さを見事に中和するのです。

カヤジャムとは、卵の黄身とか、ココナッツとか、パンダン
リーフとかから作ったジャムですが、緑っぽい色で、甘いジャ
ムです。このジャムだけだとそんなに感動はしないのですが、
このトーストと、ジャムとバターの味と食感のハーモニーが
絶妙で、しかもそれがチープであるという事実がブレンドして
感動を盛り上げるのです。

さらにこれを脇役として支えるのが、コンデンスミルク入り
の濃厚なコーヒー。これ自体もとても甘い。私は甘いものが
好きなので(実家は駄菓子屋です)、全然大丈夫なのですが、
甘いものが苦手な人にはこれは拷問となるかもしれません。

シンガポールではヤクンがカヤトーストの老舗ですが、実は
もう一つの老舗があります。キリニー・コピティアム
(Killiney Kopitiam)という店です。サマセットの外れに店
がありますが、チャンギ空港ゲート内にある店でカヤトース
トを食べたことがあります。その時の印象では、ヤクンの
レシピとだいぶ違うなと思いました。パンがヤクンのように
さくさくした感じではない。私はすでにヤクンの味に染まっ
てしまっていたので、キリニーの味にはなじめない気がしま
した。

これ以外にもシンガポールではカヤトーストを出す店はあり
ます。以前、チャイナタウンポイントの裏に喫茶店ができて
いて、カヤトーストと書いてあったので、食べました。それ
はヤクンの味に近い感じでした。かなりコピーしているのか
もしれません。

さて、豊洲のららぽーとのヤクン・カヤトースト。レシピー
は忠実に再現しているようなのですが、シンガポールにある
ようなチープな雰囲気はなかなか輸出できないのかなと心配
しています。値段は、シンガポールに比べると、何倍か高い
ですし、その点、気楽さが失われてしまいます。

市場環境が変われば、同じブランドでも変容を受けるという
のはよく聞きます。たとえば日本では、安い早いの吉野屋は
こちらではテーブル席が多く、中高生や家族連れの憩いの場
となっています。シンガポールの吉野屋では、ずっと牛丼が
食べられたので、日本で食べられない吉野屋の牛丼を時々
食べていました。

まあ、そんなふうに国が変われば、同じ店舗でも違った雰囲
気で適合していくのは、グローバルブランドによくあること
です。日本のららぽーとのヤクン・カヤトーストの発展を祈
りたいと思います。

ヤクン・カヤトーストを始めたロイ・アクーンさんは、中国
の海南島の出身で、1926年に15歳のとき単身でシンガポール
に渡ってきたそうです。15歳のアクーン少年は、まさか自分
の店が将来、異国の日本などに店舗展開することになろうと
は全く想像もできなかったでしょうね。


13日の金曜日

2006-10-14 18:25:42 | シンガポール
昨日は13日の金曜日でした。そのせいというわけではないので
しょうが、ずいぶんいろんなことがあり、なんだかすごく長い
一日だったように思います。

この上の写真は、金曜日の夜、シンガポールのロバートソン・
キー (Robertson Quay)にあるRiverineというバーでの音楽
演奏です。これはたまたま、うちの会社のお客さんが、バンド
でドラムスとボーカルをやっているので、おつきあいで見に
行ったのです。年齢層がかなり高く、音楽もレトロな曲ばかり
でした。なんだかこんな音楽を聞くのも久しぶりでした。

お客さんは、このバンドのメンバーの個人的な知り合い関係が
多く、ローカルのシンガポール人がほとんどで、日本人は私
だけでした。うちの会社の女性営業マネージャーが一緒だった
のですが、シンガポールのビジネスは飲んで仲良くなるという
のが重要なんだとあらためて思いました。

話しは遡りますが、金曜日の午前中は、会社でいろんなアポが
入っていました。

まず、「取り立て屋」の人と打ち合わせしました。一つのクラ
イアントが支払い期限を過ぎても、支払いが滞り、回収の見込
みがたたないので、「取り立て屋」に頼むことにしました。
こういう会社があることを知りませんでしたが、別の広告会社
からの紹介で、とりあえず話しだけでもと思ったのです。

この会社は、依頼主に代わり、相手先からお金の回収を行いま
す。回収金額の一部をその会社が受け取るというものですが、
回収金額の20%をその会社が手数料として受け取るというもの
でした。うちの場合は、15%くらいにしてもらいましたが、
これだと全額回収できても仕事としては赤字です。この仕事は
もともと利益率も高くないので、15%も抜かれればかなりの
マイナスになるのですが、全く回収できない場合に比べれば
まだ損失が許容範囲です。とはいうものの相手が自己破産をし
てしまえば、取り立て屋もお手上げになってしまいます。

以前、香港の知り合い(日本人)が、取り立て屋に執拗な嫌
がらせを受けた話しを聞いたことがあります。アパートのドア
に火をつけられたりしたので、警察に一年間守ってもらったと
言ってました。シンガポールの取り立て屋は、そのような暴力
を使うことはできず、あくまでも合法的な手段で、相手に支払
いを要求していくということでした。まあこういう催促業務を
代わりにプロとしてやってくれるところがあるというのは助か
ります。

これと同時に、そのクライアントに対しては、訴訟も行うこと
にしました。金曜日の午後2時半に、弁護士事務所に行き、
訴訟のための準備をしました。まあ訴訟なんて日本では経験し
たこともなく、弁護士にも会ったことはありませんでしたが、
シンガポールに来てから、何度か弁護士に仕事を依頼してます。
弁護士とか登場してくるのは映画かドラマのようですね。

金曜日の出来事はまだまだあります。この週は月曜から会社の
決算の監査が入っていました。会計会社から二人の女性スタッ
フが来て、会議室に終日缶詰になり、一年分のあらゆる伝票や
ら、契約書やらをチェックするのです。何から何まで経営状態
を丸裸にされるような感じで、経営者側の人間としては針のム
シロです。

「あの書類はどこにあるんですか?」「これの契約書類はどこ
にあるんですか?」「社員の昇給の場合の契約書ないしはレター
はないのですか?ないとしたら社員はどのようにしてそれを
認識するのですか?」「有給休暇の期末時点での未消化分の
日数の一覧はありますか」などなど、次から次へと質問がきま
す。去年まで別の会社で監査をやってもらっていたのですが、
今年は別の会社に変えました。去年もいろいろ質問が来たの
ですが、今年は、同じような質問もあれば、また新しい質問も
あります。決算というのは会社の健康診断みたいなもんだと
言われますが、徹底的にチェックされます。きちんと整理でき
ていない部分も多いので、毎回焦ります。

去年は、会計監査では、いろいろ問題があり、法的な期限の
6ヶ月をオーバーしてしまい、さらに延長の3ヶ月も間に合
いませんでした。そのため、シンガポールの当局から罰金を
課せられるという事態になってしまいました。

今年はそういう反省もあって、早めに作業をしています。
私は日本にいる頃、経理関係とか全くタッチしたこともない
し、勉強したこともないので、今この国で、こういう仕事を
しているのは信じられないことです。いろんな修羅場をくぐ
り抜けていると、いろいろ勉強になります。

13日の金曜日の出来事はまだまだありました。インドの雑誌
社の人との打ち合わせがありました。うちの会社ではインド
向けの広告の仕事をかなりしているので、今年になって何社
もインドの新聞社とか雑誌社の人間がうちの会社を訪問して
きています。

また、夕方の6時半から、オーチャードのタングリング・ク
ラブというところで、インドクラブと、日本商工会議所との
交流会があり、それに出席しました。シンガポールで仕事を
しているインド人がいっぱいいました。インド人の人はこう
いう場では、どんどん話しかけてきます。インド人は、立ち
話をすることは文化なので、彼らの得意なことですが、我々
日本人にはなかなかなじめない部分はあります。

インドの銀行の人がプレゼンテーションを行っていましたが、
プレゼンテーションはあまり上手じゃなかったですね。

ロバートソン・キーに行ったのは、このインドクラブのイベ
ントが終わってからでした。そしてロバートソン・キーを後
にしたのは夜の12時を過ぎていました。

その頃、東京にいる下町娘から電話が。今日はこれから
ジョナサンに行ってくるので遅くなるとのこと。
何だかいろんなことがあった13日の金曜日でしたが、一日の
最後に聞く「ジョナサン」という言葉、なんか妙に癒される
なあ、と思いながら過ぎて行った長い一日でした。

むかしむかしシンガポールは

2006-10-12 00:54:56 | シンガポール
今日の昼休み、ちょっとラッフルズホテルの3階のミュージ
アムまで行ってきました。昨日ブログに書いた、サマセット
モームがシンガポールに来たのがいつなのか手がかりはない
か探そうと思ったのです。彼の写真もあり、最初に来たのは
1921年、その次は1926年だというのがわかったのですが、
それよりも私が興味を持ったのは、そのミュージアムに飾ら
れていた昔のシンガポールの地図だったのです。

そういえば私は地図を見るのが好きでした。最近はあまり見
ていませんが、小学校の頃からしょっちゅう地図を見ていま
した。国土地理院発行の5万分の1の地図から、日本地図、
世界地図まで、地図ならなんでもよかったのです。地図を見
ると楽しくてしょうがありませんでした。

そんな私なので、このミュージアムで見かけた古いシンガ
ポールの地図に釘付けになってしまいました。自分が今いる
街、シンガポール。昔から変わらない部分もあれば、まるっ
きり変わってしまった部分もあります。主要な通りは、今も
大体同じ感じです。ノースブリッジ・ロード、ビクトリア・
ロード、スタンフォード・ロードなど変わっていません。
教会なんかも今も同じ場所にあります。

しかし一番びっくりする衝撃の事実は、ラッフルズ・
ホテルがオーシャンビューであり、ビーチロードが
本当にビーチ沿いの道であったという事実。この地図を見る
とビーチロードは、ワイキキのカラカウア通りのように海沿
いを走っています。そしてラッフルズホテルが、ワイキキの
ハイアットリージェンシーか、モアナサーフライダーのよう
にビーチの真正面。その昔、ラッフルズホテルの前のビーチ
はどれくらい奇麗だったのかわかりませんが、この地図を見
ると、このあたりはかなりクリーンで、奇麗だったのではな
いかと想像されます。

今はラッフルズ・ホテルはかなり内陸にあり、ビーチとは全
く縁がないような立地になっていますが、この地図を見ると、
マリーナスクエアとかサンテックの一帯は全く存在していな
いのですね。このあたりがすべて後の時代の埋めたてにより
増えた土地だというのがわかります。

今は高層ビルやホテルが立ち並ぶ一帯が昔は海だったという
のは想像がつきません。これはちょっとびっくりです。でも
ラッフルズ・ホテルの立場にたってこの埋め立てを眺めると
海岸線がどんどん遠のいていくのは、かなり悲しい現実だっ
のだろうなと思うのです。

去年、ハワイのモアナ・サーフライダーに泊まったのですが、
もし、あのホテルの海側が埋め立てられていったら、こりゃ
そのホテルにとってはとんでもない問題になるんだろうなと
思いました。今でこそ我々は、ラッフルズ・ホテルはそうい
う場所にあるホテルだと納得しているのですが、その昔は道
の向こうに広い海が広がっていたんですね。それを失うのは
とても辛いことだったんじゃないかと思います。

この地図の右上のほうに私が青の線で囲った一角があります
が、ここは今はパルコ、インターコンチネンタル・ホテル、
西友などがあるあたりです。ここは以前のブログにも書いた
とおり、昔、日本の花街があったあたりです。この近くの
ミドルロードあたりは日本人街であったようです。

また、昔の文献によく出てくるチャイナタウンは、今の場所
ではなくて、このあたりにあったようですね。道路は変わら
なくても、シンガポールの街はかなり変化していたのですね。

この地図を見ていると、昔のシンガポールが見えてくるよう
な気がしてきます。ちょっときりがなくなるので、今日は
このへんで。

ラッフルズのシンガポール・スリング

2006-10-11 00:50:49 | シンガポール

ラッフルズ・ホテルのシンガポール・スリング。このホテルの
ロングバーというバーで生まれたカクテルは、世界に行き渡り、
今やカクテルの定番となっています。

ロングバーのバーテンダーが初めてこのカクテルを作ったのは
1915年ということですから、今から90年以上も前のことになり
ます。この1915年という年は、新撰組二番隊組長だった永倉新
八が死去した年でもあります。永倉新八は、一昨年の大河ドラ
マ『新撰組』で山口智充(ぐっさん)が好演していましたが、
この人はこの時代まで生きのびていたのですね。板橋に近藤勇
と土方歳三の墓を作り、その後、亡くなるまで、北海道の小樽
にいたようです。享年76歳だったとか。新撰組隊士としては、
異常に長生きをしました。

この年は大正4年にあたるのですが、芥川龍之介が『羅生門』
を書いた年でもあり、全国中等学校優勝野球大会(現在の全国
高等学校や旧選手権大会)が始まった年でもありました。

タイタニックが北大西洋に沈没するのが、1912年の4月14日の
ことですので(ジャックローズ)何となく時代の
雰囲気もわかるような気がしますね。欧州では1914年の7月に、
サラエボ事件を発端として第一次世界大戦が勃発。
戦局はどんどん拡大して世界中を巻き込んでいきます。

こんな頃、南洋の港町シンガポールのラッフルズ・ホテルでこ
のシンガポール・スリングという伝説のカクテルが誕生するの
です。もともとのレシピは、ドライジン、チェリーブランデー、
レモンジュース、砂糖をシェイクし、タンブラーに注いだ後、
ソーダ水を満たすというもの。しかし、ご本家のラッフルズ・
ホテルのほうは勝手に進化をとげ、トロピカルカクテルになっ
てしまっているということなのです。

ラッフルズの現在のレシピは、ドライジン、チェリーブランデー、
パイナップルジュース、ライムジュース、クアントロー、ベネ
ディクティン、グレナデン・シロップ、アンゴスチュラ・ビター
ズをまとめてシェイクして、グラスに注ぎ、パイナップルや
オレンジ、チェリーなどを飾るというもの。オリジナルのレシ
ピに比べて、素材もだいぶ変わっています。ラッフルズのもの
はもはや観光用の名物になっていて、女性好みのちょっと甘い
感じのカクテルになってしまっているようです。

これを進化というべきか、堕落というべきかは、まあどっちで
もいい問題なのですが、ラッフルズのレシピは個人的には好き
ですが、一杯飲めば十分という感じです。ラッフルズの場合は
上の写真の右に写っていますが、殻付きのピーナッツをつまみ
ながらシンガポール・スリングを飲み、殻はテーブルや床の上
に巻き散らかすというのがここのバーのスタイルです。平日の
午後のまだ明るい時間が、客も少なめで落ち着けます。

さて、このホテルにかつて宿泊していた作家のサマセット・
モームがシンガポール・スリングを飲んだのかどうかはよく
わかりませんが、時代的には、モームがシンガポール・スリン
グを飲んでもおかしくないですね。

このカクテルが誕生した1915年、モームは大作『人間の絆』を
発表しています。それは彼が41歳の年ですが、その翌年、彼は
結核の療養のため、アメリカ、ハワイを経て、タヒチに旅行に
行くのですね。タヒチと言えば画家のポール・ゴーギャン。彼
はこの旅行で『月と六ペンス』のヒントを得たと言われます。
その後、シンガポールを訪問していたとしたら、その時には
彼が宿泊したラッフルズにはすでにシンガポール・スリングが
あったはずです。彼がそれを好んで飲んだのかどうかはわかり
ませんが。

サマセット・モームは英国の作家として有名ですが、実は、彼
がシンガポールなどに来ていたのは、秘密諜報活動の一環だっ
たと言われています。フランス生まれで語学に堪能だった彼は
英国情報部で諜報活動を行っていました。バンコクのオリエン
タルホテルや、シンガポールのラッフルズ・ホテルに宿泊して
いた目的は、小説を書くためではなく、実は、諜報活動だった
のだとか。

当時は、第一次世界大戦が進行していて、日本の海外進出に対
する欧米ABCD包囲網みたいな作戦もあったし、ロシアではロシ
ア革命が起ころうとしていたし、そのため、モームは世界のい
ろんな場所に潜入していたもようです。

これって何か007みたいと思うかもしれませんが、実はイアン・
フレミングが『007』シリーズを書いたとき、モデルにしたの
が実は、サマセット・モームだとか。たしかにロシアに行った
り、いろんな国に行ってますからね。でも本当はモームはゲイ
だったので、ボンドガールみたいなのはいなかったみたいです
けど。そのかわりボンドボーイがいたのかな?

ところで、サマセット・モームの作品って、まともに読んだの
は『月と六ペンス』くらいです。今日、本屋で『人間の絆』と
かを買おうかなと思ったのですが、文字が細かすぎて、やめて
しまいました。

大学受験の英語の参考書によく、サマセット・モームの例文が
出ていたのを覚えています。『要約すると』(Thumbing Up)と
いうエッセイ集は、文章が格調高いので、英文解釈の教材とし
てかなり使われていたみたいです。文章構造が複雑で、かなり
ややこしい文章を書く人だなという印象でした。

という私は大学のとき英文学を専攻しておりました。モームに
関してはほとんど触れる機会はありませんでした。卒論はジョ
ナサン・スウィフト、ほら、あの『ガリバー旅行記』の作者で
すが、そのスウィフトをテーマにしました。

サマセット・モームの文学評論の中で、彼はスウィフトの文章
を非常に高く評価していました。一説によれば、モームはスウ
ィフトの文章を一字一句暗記していたといいます。なんか自分
との接点が少しでもあって嬉しくなります。

ところで、このラッフルズ・ホテルは、太平洋戦争でシンガポー
ルが日本の占領下にあった時、「昭南旅館」という名前になっ
ていました。この期間、シンガポール・スリングはどうなって
いたんでしょうか。まさか焼酎ベースにしていたりして。
ネーミングは昭南サワーとかかな?

さて、今日は中日がリーグ優勝した模様。愛知県人として
は嬉しいかぎりです。でもこれはまた別のお話。

ラッフルズのバーでドライマティーニを

2006-10-10 00:16:44 | シンガポール
シンガポールのラッフルズホテルといえば、シンガポールスリン
グがあまりにも有名ですが、実はラッフルズホテルはマティーニ
でも有名なのです。その昔、『月と6ペンス』などで有名な作家
サマセット・モームが作品執筆のためにこのラッフルズホテルに
宿泊していたのは有名な話。「サマセット・モーム・スイート」
という名前の部屋もあります。

マティーニ好きだったサマセット・モームをしのんで、
このホテルのバー&ビリヤードルーム(有名なロングバーではな
くもっとひっそりとした一角にあるバー)には、すごい種類の
マティーニがあります。メニューを見ているだけでも楽しくなる
くらいです。サー・ウィンストン・チャーチルとか、007と
かその名前もドラマ性のあるものが多いです。この写真はかなり
前にマティー二のイベントが行われたときに撮影したものです。
観光名所のラッフルズホテルに来て、定番のシンガポールスリン
グでなく、マティーニを飲むというのが通ではないかと個人的に
思っております。

こんな話しを書いているうちに、北朝鮮が核実験?
今度、ラッフルズホテルに「キムジョンイル」という名前か、
「安全性が徹底的に保証された地下核実験」という名前のマ
ティーニをおいてほしいと思う今日この頃。ベースはドリアン
の絞り汁に、たっぷりのキムチ、なんて言っていると
北朝鮮関係の方からクレームが来てしまうかもしれませんので、
この話題はこのへんにしておきましょう。

ところで、昨日ちょっとふれた『功名が辻』の話です。ブログ
はテーマを絞って書くのがよいのだと思いますが、私のは逆に
あえてテーマを絞らないという考えをもっていますので、悪し
からず。人間の心も人生もそんなに単純ではないということを
表現するため、私のブログは敢えていろんな異質な要素をカク
テルのようにミックスしています。

その『功名が辻』の話の中で、山内一豊は、豊臣方につくのか、
それとも徳川方につくのかで大いに迷うという場面があります。
最終的には、徳川方についたということで結果オーライになっ
たのですが、一つ間違えば三成方について、関ヶ原で負けて、
山内家は滅びさっていたかもしれません。それほどまでに、
このときの決断は微妙でした。

このことを考えたとき、じつは自分の最近の過去にも似たよう
な決断ポイントがあったのに思い当たりました。これまでこの
話はちょっとタブーな雰囲気があり、どこにも書いたことがな
いのですが、もはや時効であると勝手に判断して書いてみるこ
とにします。

数年前の話です。東京の本社はお家騒動で揺れていました。
まあよくある話といえばそうなんですけど、自分の身近なとこ
ろでそういうのが起こるのは初めてでした。うちの東京の会社
は何十年か前に創業したオーナー社長が経営を行っており、
役員会は、時代物の話によくあるように、いわゆる年寄りが
牛耳っていました。

高度経済成長の頃は無策のままでもどんどん伸びていった業績
がバブル崩壊の後、売り上げは伸び悩みを続けていました。
このままではいかんと思ったミドルたちが叛旗を翻しました。
反会社派の領袖は、関ヶ原を控えた徳川家康のような雰囲気で、
若手を自分の仲間につぎつぎと取り入れていきました。その中
には、たしかに加藤清政みたいなやつや、福島正則みたいな
血気盛んな若手がいました。夜毎、会社の近くの居酒屋でクー
デターのための会議が開かれていました。

いつしか私もその仲間になっていました。ちょうどその頃、
司馬遼太郎の「関ヶ原」や、「織田信長」を読んでいて、また
DVDで「坂本龍馬」を見てたりしていたので、改革派のほうに
正義を感じていたのです。そのときの会社は、戦国時代で言え
ば、滅び行く豊臣家であり、幕末で言えば、腐った徳川幕府の
ようなものでした。改革派が会社の経営権をとり、旧会社派の
年寄り連には一斉に退いていただく、というのが改革派の野望
でした。会社側はどんどん追い込まれていきます。

何日も、何日も、改革派の地下活動は続き、会社での暗い会議
が続きました。そんなある日、そんな騒動の余波で、会社の先
輩が辞めることになり、その送別会に行きました。本当は、
その日は夜にもかかわらず会社で会議がある予定でした。私は、
その深刻な会議よりも、送別会を優先しました。その送別会の
帰り、まだ続いているはずの会議に出る予定にしていたのです
が、私はそれをすっぽかして、見晴らしのいい公園の土手の上
で風に吹かれていました。

こんな面倒なことに巻き込まれるのは、本当に自分のやりたい
ことと違う、こんなんだったらあの先輩みたいに会社を辞め
ちゃったほうがすっきりする。改革派のやりかたは、ちょっと
強引すぎるし、こうやって結果的に誰かを不幸に陥れるのは
自分のやり方じゃない。何でこんなことやってんだろう。こん
なことが自分の人生にとってよいことなんだろうか。夜風に吹
かれながらそんなふうに思っていました。今から思うとドラマ
の一場面のようです。そう思いながら、その日の会議はすっぽ
かしました。それ以降、改革派とも距離を置きました。

しばらくたって、行き過ぎた改革派の人たちが、会社から懲戒
免職されるという事件が起こりました。社長が勇気を振り絞り
改革派を一掃したのです。その衝撃は会社の内外を揺るがせま
した。改革派の人たちと仲のよかった、お客さんは、会社を
糾弾し、出入り禁止状態にしました。改革派の人たちは、会社
から仕事を奪っていきました。その後遺症から回復できるまで
何年かかかりました。私たちは苦しい時代を耐え忍び、やっと
何とかがんばれる状況になった感じです。

今から考えると、もしも自分が改革派側の人間だったとしたら、
自分もクビになっていたのでしょうか。そのときの私には、
どちらに行くことも可能でした。そのとき右に行くか、左に
行くかは、インスピレーションが決めることでした。あるいは
運命が決めることと言ってよかったのかもしれません。

そんなこんなで、私は今の会社に残っています。どちらが正し
くて、どちらが間違っていたのかは、本当のところよくわかり
ません。徳川家康が言うように、「正しき事が、正しき事とは
限らぬのが人の世」ということなんでしょうか。運のよい(と
自分で思っていて、妻の下町娘もよくそのように
言う)私は、結果的に正しい決断をしたのでありましょう。
正しいか、正しくないかは、その後の結果が決めるこという
ことができるではないでしょうか。

ちょっと深みがあってほろ苦いカクテルのようなお話でした。

ミルキーオレンジの太陽

2006-10-09 00:42:23 | シンガポール
日曜日のシンガポールのヘイズは安心レベルまで下がりました。
しかしながら、まだ空は霞んでいて、夕方の太陽もこの写真の
ようにフィルターがかかったような感じでした。太陽の光が弱
いので、このように写真にも撮れてしまいます。

今日は、ひとつドジをしてしまいました。午後、イーストコー
ストパークで、ビールを飲みながら、ステーキを食べ
ておりました。それから買い物して家に帰ったのですが。何と
鍵がない

あせりました。どこになくしてしまったのだろう
郵便受けのところにロックスミス(合鍵屋)の番号がシールで
ついていたので、電話をして開けてもらおうかとも思いました。
しかし、よく考えると、落としそうなところは、あのステーキ
を食べたあの店の可能性が高いと思い、一応、そこの店に行っ
てみました。

5時半くらいの時間でしたが、その頃、イーストコーストパー
クではランニングをしている人とか、ローラーブレードをして
いる人たちがずいぶんいました。暑い昼間を避けて、涼しくな
る夕方に人が出て来るんだなと思いながら、その店に行きまし
た。

その店は、レストランではなく、バーがメインで、食事もでき
るといった感じの店です。ビーチリゾートっぽく吹き抜けの店
で、プールテーブルもあります。夕方の時間は、昼間とは雰囲
気が変わって、バーの時間が始まっていました。

昼間いた店員がいたので「鍵を見なかったか」と尋ねました。
その彼は全然知らなさそう。ありゃ、こりゃダメかとがっかり
しかかりました。彼は別のインド系の女子店員に聞きました。
何か心当たりがありそう。バーカウンターの中を探して、何と
出てきました

カウンターでビールを飲んでいた酔っぱらいの白人男が、
「ちょっと待った、キーナンバーを言ってみな」と冗談まじり
にからんできました。その中に名詞が一枚入っているので、
自分の名前を言うと、それが自分のものだと信じてくれたよう
です。あまりにうれしかったので、ビールをその男におごって
あげるのも考えたのですが、節約を優先しました。愛知県人は
こういう場面でもできるだけ浪費を慎もうとするのかもしれま
せん。

まさか鍵が見つかるとは思わなかったのですが、すんなり見つ
かったので、自分は何と運がよいのだろうと思ったのでした。
もし見つからなかったら、ロックスミスに鍵を開けてもらわな
ければならず、さらにそのキーホルダーには、会社の鍵や、
メールボックスの鍵も入っていたので、ちょっと面倒だなと
思っておりました。

この数年の間に、いくつものものをなくしましたが、大半の物
が戻ってきました。タクシーに忘れた携帯電話、電車に忘れた
パソコンと鞄、飛行機に忘れたパスポートケースと労働ビザの
カード、同じく飛行機に忘れたデジカメなどみな戻ってきまし
た。以前、インドのデリーで、ホテルのハイヤーに携帯電話を
忘れたのも奇跡的に出てきました。一度、車の鍵をなくした時
は出てきませんでしたが、その時は車をレッカー移動してもら
い、合鍵を作ってもらったという過去があります。

でも、それ以外はだいたい出てきているので、わりと運がよい
ほうなのかなと思っております。でももうちょっと注意して
物を忘れないようにしないといけませんね。

今日の「功名が辻」を見ていたら、これからいよいよ関ヶ原に
突入していくのですね。石田三成が、ほぼ一人で豊臣家を守る
責務を負い、まわりは大部分が徳川家康派になっていきます。
このあたりは、司馬遼太郎先生の『功名が辻』でも『関ヶ原』
でも以前読んだことがありますが、時代の趨勢の読みと、群雄
たちの駆け引きが見所です。

今日の第40回『三成暗殺』の中で、私が選んだ見所は、三成が
家康のところに逃げ込んだ際、三成と家康が対面して話しをす
るところであります。二人が静かに話しているだけの短い場面
ですが、これは関ヶ原の合戦の前哨戦みたいな感じですね。
言葉のやりとりに、敵対の火花がめらめらと燃えているの
が見えるかのようです。

「正しきことは人に痛いものでございまするな」と三成。
それに答えて家康は「正しきことが、正しきこととは限らぬの
が人の世のとも申します」との意味深長な言葉。この関ヶ原の
場合、一見、三成側に正義があると見えながらも、時代は家康
の方向に動いていく、これは大変なことですね。

その日、家康は、三成はまだまだ泳がせてビッグになってもら
わないと、自分が天下を制圧するためのお膳立てができないと
いうようなことを言います。ということは、関ヶ原とかは家康
の自作自演の大舞台だったのかということも言えます。最後の
勝利を確信しながら、三成をどんどん追い込んでいく。

実際の関ヶ原は、家康が絶対的に勝つという保証はなかったと
も言われていますが、いろんな根回しと、何よりも勝利に向け
てのビジョンの強さにおいては、家康のほうが勝っていたので
しょう。

これから一豊が家康につくことになるのですが、千代が、一豊
にどっちにつくのかと迫るところは、ちょとおせっかいかなと
いう気もしました。たぶん千代は、家康が天下をとる予感を得
ているのだと思いますが、一豊は迷っています。こういう状況
で自分が一豊だったら、どう決断するのかはなかなか難しい所
ですよね。でもまわりがどんどん家康の方向に向かうのです。

堀尾吉晴が家康派につく。高台院(寧々)が家康を強くサポー
トするようになっていく。豊臣家と言っても、結局は、三成と
淀の二人がキーなのですね。そうなると、千代はもともと、
淀はあまり好きではないので、選択肢は家康しかなくなってい
きます。

状況が微妙な時の決断ってほんと大変ですよね。こういうとき
の決めてとなるのが情報収集力なのですが、六平太がワンポ
イントの登場なのに、あまり的確な情報提供ができていない。
「堀尾が家康についたぞ」程度の情報はいずれ判明する事実。
もうちょっとすごい世の中の動きを六平太には持ってきてもら
いたかったですね。でもなんでわざわざあんな雨の日にくるの?
まあ、それも彼らしいですけれど。

ところで明日は日本は祝日なのですね。体育の日?

若いひとたちは知らないでしょうが、それは東京オリンピック
が行われた1964年の10月10日の開会式を記念した祝日なのです
ね。日本は休みが多くてうらやましいです。