南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

2006-03-26 14:31:46 | シンガポール
駐車場の片隅にひっそりと咲いている花があった。殺伐とした気持ちを和らげ
てくれるようなそんな花だった。出かけるときは、一日の無事を祈り、帰って
くるときは、一日が無事だったことを祝福してくれるようなそんな花だった。

今、このブログを書き出したところで、社員から携帯電話にショートメッセー
ジが入った。おじいさんがなくなったという知らせ。自分の母が亡くなったこ
とで、人の悲しみが今になってよくわかる。さっそくお悔やみのメッセージを
入れておいた。

何だか最近いろんな出来事がある。テレビドラマのように出来事が重なる。
忌引きは何日とれるのかと質問が入った。たまたま別のスタッフの契約書を
持っていたので、わかったが、こういうときに手元に何も資料がないと答え
られない。社長業は、こういうこともあるので大変だ。

今日の午前中NHKで、「世界ふれあい街歩き」のシンガポール編
やっていた。テレビカメラを通してみるシンガポールの町並みの何と美しい
ことか。リトルインディアでの花売り屋台のインド人の老人が最後のシーン
だった。ヒンズー教では、いろんなお祈りで花を使うという。彼はインド
生まれだが、自分がシンガポール人であることに誇りを持っていた。
「シンガポールは大好きだ」とその老人は言っていた。

このブログはさっき一度書いてアップしようとしたら、間違えて消えてし
まった。同じことは書けない。忘れてしまって書く事ができない。

ふるさとの渥美半島は、花が有名だ。一年中、温室栽培で菊の花を出荷して
いる。「電照菊」といい、渥美半島が日本有数の菊の産地になっている。

母がなくなった3月の初旬は、黄色い菜の花が一斉に咲いていた。菜の花が
田原市の市の花だということは後で知った。火葬場の駐車場には水仙の花が
咲いていた。もうあのへんの山は今頃は桜が満開なのだろう。母が亡くなる
二日前に、弟と一緒に田原市の滝頭の公園に行った。道ばたは桜の木が並ん
でいて、道路も駐車場も奇麗になっていた。

春になって、桜も咲いてきたし、いろんな花が咲いてきたので、母は喜んで
いるのかもしれない。「私は一番いいときに死んだだねえ」と言っている
母の声が聞こえるような気がする。

それでも会社は動いてる

2006-03-25 02:48:14 | ビジネス
去年の後半にコーヒーカップはスターバックスの黄緑色のに変えた。
それまではブルーのマイクロソフトのロゴのついたマグカップだった。
シンガポールのチャンギ空港のスターバックスで、この黄緑色のカップを見つ
けたとき、これだと思った。色が気に入った。さりげないけれど、これみよが
しのロゴがいいと思った。このカップで飲めば、どんなコーヒーでもおいしく
なるようなそんな気がして、すぐに買った。朝はコーヒー、午後はミルク
ティーにしている。

母が亡くなって、三週間が経過する。その間、母の死を悲しんでいる間にも、
仕事は怒濤のごとく押し寄せてくる。決算、所得税の申告、社員の納税書類の
準備、会社の保険の更新、社員の給与の準備、売り上げの管理などを行いなが
ら、仕事の企画を片付けていく。この時期にいろんな仕事が重なってしまった。

そんななかで、現地社員たちの様々な問題。何でこんなときに限っていろんな
問題が出てくるんだろう。一人の女性社員が、ボーイフレンドとの問題が
あって、両親と一緒に会社にやってきた。公共の場所なので詳細はあえて
書かないが、聞いていると可哀想な話だった。当面は危険なので、彼女を家
から外に出せないという話だった。両親は厳格なクリスチャンのようだった。
何度も"God"とか"Jesus"という言葉が出てきた。父親は娘のために、しばらく
はボディーガードとして娘を守ると言っていた。親は必死に彼女を守ろうと
している。なんかうらやましいなと思った。

別の女性スタッフは、出産を間近に控えている。今週病院で見てもらったら、
胎児が順調に生育していないということらしい。医者は彼女に二週間は仕事を
しないで療養するように指示を出した。今日会社に引き継ぎにきて、帰って
行った。不安は続く。出産は帝王切開になるらしい。
あかちゃんが元気に生まれてきますように。

別の女性スタッフは、ゲップがとまらないへんてこりんな病気にかかっている。
ときどきゲップの発作がある。今年のはじめからときどきその症状が出て、
たびたび病院に行ってみてもらっている。普段は元気でがんばりやの彼女なの
だが、今日も午後4時から病院に行くと行って帰っていった。

もう一人の女性スタッフは、(というとこの会社は女性ばかりなのかと思わ
れるかもしれないが、男性もいるので御心配なく)、数年前、乳癌の手術を
してから仕事を遠ざかっていた。去年の暮れから、うちの会社で仕事を初めて
いる。月に一度は病院に検査に行っているが、普段は一生懸命仕事をしている
マレー系のおかあさんだ。

他の社員は大丈夫なのだが、ときどきは風邪をひいたり、腹を壊して休んだり
する。それにひきかえ私はほとんど病欠をしない。風邪で熱を出して休んだの
は、この8年間で一日くらいだ。もうみんな身体がよわすぎるぞって叫びたい。

そういえば私は小学生のとき六年間一日も休まなかったので、卒業式のときに
表彰された。表彰されたのは、5人くらいいたが男子は私一人だけだった。
けれど、私は頼りなかったので、一人の女子が代表で賞状をもらった。

中学のときは遅刻はめちゃくちゃ多かったが、欠席は一日だけだった。高校の
時も欠席は一日くらいだ。会社に入ってからも病欠はほとんどしなかった。
それほど身体がたくましいというわけではないのだが、幸いにして大きな病気
はしないですんだ。

母はよく入院をした。だいたいが過労だった。私が病気にならなかったのは、
母がその分病気になってくれていたからなのかもしれない。
などと思うと、母には感謝しなければならない。

反省

2006-03-24 01:22:53 | シンガポール
3月2日の朝、成田空港に着いた。リムジンバスに乗る。
「お預けの荷物はこちらですか?壊れ物は入っていませんか?」
係員が訊ねる。私は、携帯電話で話をしたまま、面倒くさそうに頷く。
(飛行機にチェックインした荷物なんだから大丈夫に決まってるだろ。
それともリムジンバスのほうが飛行機よりも危険だというのか。いや、
絶対に責任を取りたくないという根性だろう)そんなことを思って、
憮然としてしまう。

バスに乗って、窓から外を見ると、さっきの係員が寒そうに立っている。
きっとアルバイトなんだろう。たぶん彼も好きでやっているわけじゃない。
会社から、必ず荷物の壊れ物を確認するように言われているので、ただそれに
従っているだけなのだ。私みたいな失礼な態度で対応されたら、彼もやりきれ
ないだろう。よく見ると、どことなく弟に似ている。申し訳ないことしてし
まったと後悔する。窓の外の彼に向かって、悪かった、ごめんなさい、
とつぶやく。

我々は日常生活のなかで、こんなふうに知らず知らずのうちにお互いどうしで
傷つけ合っていることも多いのだろう。バスの中で、自分はなんて駄目な人間
なのだろうと反省をしていた。

自分の発言で知らず知らずのうちに人を傷つけていることもある。ブログや
メールは、微妙なところで、誤解を生み、誰かを傷つけている可能性がある。
私の不用意な発言によって傷ついてしまったひとたち、ごめんなさい。

鞄とかを肩からかけていると、その鞄が人にあたってしまっても、本人には
わからない。ぶつけられたほうは頭にくるが、ぶつけたほうはぶつかったと
いう意識すらない場合が多い。鞄を含めて自分の物理的領域だと把握する
能力の問題なのだが、鞄に関しては、みんなついつい自分の一部ではないと
認識してしまう。そんなことで知らず知らずのうちに他人に迷惑をかけて
いることがある。

今回の葬儀の段取りは、弟にほとんどまかせてしまった。母の看病などで
疲れているうえに、いきなりの葬儀の手配だ。親戚の人や、町内の人たちが
助けてくれたが、わからないことばかりなので、大変だ。私も葬儀に関しては
まったく何がどうなっているのかよくわからなかった。長男なのになんて
頼りないやつだと思われたに違いない。皆さんいろいろ不行き届きをお許し
ください。

実は、何年も前に、葬儀に関する本を購入していた。それはずっと本棚に
あったが、一度もページを開いていなかった。いざというときにそれを
大急ぎで読もうと思っていた。

3月の1日の夜の飛行機で日本に帰ったとき、その本は持っていかなかった。
まさかこういうことになろうとは思ってもみなかった。しかし無意識のうち
に黒の礼服はスーツケースに入れていた。それを本当に使うことになろうとは
思わずに。

葬儀の準備をしているときに、以前祖母が亡くなったときの葬儀の手配
記録を父が書き記していたものを弟が見つけてきた。祖母の臨終の様子から
そこに立ち会っていた人の名前が書いてある。そしてその時点から行った
様々な手配がきめ細かく記録されている。

誰に連絡を入れたのか、役場へ死亡届を出しに行ったのは誰かということ、
通夜に立ち会ったのは誰で、朝までいたのは誰かということも出ていた。
葬儀の際の僧侶の数なども出ていた。父はどうしてここまで細かく記録して
いたのか知らないが、これがあったおかげでかなり参考になった。
親戚方の誰に連絡すればよいのかよくわからなかったが、父の記録で、親戚
関係で祖母の葬儀に来てくれた人の名前がわかったので、助かった。

父には、告別式の当日、施設に連れにいってもらって、葬儀場に来てもらった。
そこで初めて、母がなくなったことを知り、棺のなかの母と対面をした。
認知症であっても、母が亡くなったことはすぐにわかり、呆然として母の
棺を眺めていた。「びっくりしたねえ」と父は後で言っていた。

葬儀の夜、家の仏壇に置かれた母の遺骨の前で、父はお経をあげ続けていた
らしい。今、父はどんな気持ちでいるのだろうか。

未来へ

2006-03-23 03:17:45 | シンガポール
ほら あしもとをみてごらん 
これが あなたのあゆむみち
ほら まえをみてごらん 
あれが あなたのみらい

Kiroroの玉城千春さんが、この歌を作ったのは、彼女のお母さんが風邪をひいて
寝込んでしまったとき、お母さんが死んでしまうと早とちりして、最後のプレ
ゼントにしようと思ったからだとか。おかあさんはその後、元気になったそう
だが、これがKiroroが作った最初の曲になった。今、このブログを書きながら、
この「未来へ」をリピートで流している。何度聞いてもいい曲だ。

このCDがどっかにあったなと探していたら、すぐに出てきた。まるで、この時
を待っていたかのように、CDが入れてある戸棚の一番前に置いてあった。別に
最近聞いたわけでもないのに、すぐ見つかるところにあったのは不思議だ。

母がいなくなった今、あらためてこの曲を聴くと、いろいろな思い出が蘇って
くる。「これがあなたの歩む道」というふうに母ははっきりと示してくれたわけ
ではなかったが、幼い私にいろんなことを話してくれた。

太平洋戦争の時、母がまだ12、3才の頃、畑にいると、アメリカの艦載機が飛ん
できて、急に低空飛行してきた。母たちは、必死に走って逃げて、畑のそばに
あった小さな木の陰に隠れようとしたが、全然隠れきれず、生きたここちがし
なかった、というような戦時中の話をいっぱいしてくれた。

豊橋が空襲になって夜の空が夕焼けのように真っ赤にそまっていた時の話、
蒲郡に進駐軍が来たときの話、終戦の日の前日だかに、渥美線がアメリカの
艦載機の機銃掃射を受け、電車に乗っていた何人かが死んだという話もしていた。
その話の一つ一つがとても面白く、まるで私がその時代に生きていたかのように
その状況がありありと私の記憶の中に残っている。

寒い日には、長袖の下着や、ズボン下を出して、「暖かくしていきんよ」と
言ってくれたが、そういうのはみんなに笑われるからいやだと寒さを我慢するの
を選んだ。渥美半島の冬は風が強く、木造の中学校の教室はすきま風が寒かった。

夜中にラジオの深夜放送を聞きながら、勉強していると、「まだ起きとるのかん。
早くお寝りんよ」と言ってくれた。勉強しろと言われたことはない。むしろ、
無理して勉強するなとばかり言っていた。それに逆らって夜遅くまで勉強した。

そのやさしさを ときにはいやがり 

はなれたははへ すなおになれず

下町娘と電話で話していたら、この上の二行のところでいつも泣いてしまうと
言っていた。Kiroroの「未来へ」の曲には、いい言葉がいっぱいある。

ははがくれたたくさんのやさしさ...

ゆめはいつもそらたかくあるから...

ふあんになると てをにぎり いっしょにあゆんできた...

そうだ、亡くなる前日の夕方、なんども母の手を握って話をした。母の手を
握ったのは、幼い子供の頃以来だった。手がむくんではれぼったくなっていた。
母の手を強く握って、私がそばにいることを伝えようと思った。
母の目から涙がこぼれた。タオルでふいてあげた。

母が亡くなった直後、母のベッドのまわりには、弟のくんちゃんと、母の妹の
さっちゃんと、私と下町娘がいた。私は、風邪気味だったのでマスクをしていた。
おかげで泣いていてもカモフラージュできた。私は無言で、下町娘の手をとった。
死というのがこんなにもあっけなくやってくるのが信じられなかった。

ほら まえをみてごらん あれがあなたのみらい

そうなんだ、わたしは目の前の未来に向かって歩んでいかなければいけない。
立ち止まってばかりいてはいけないのだ。それはわかっているのだが、
なかなか歩み始められないでいる。

私の前には、一本の道がまっすぐ未来に向かってのびている。
そろそろ前に進もうか。ゆっくりとではあるが。

ブーゲンビリア

2006-03-22 02:36:11 | シンガポール
「おかあさん、この花は何だか知っとる?」
いつの間にか母が私のそばで花を眺めている。
「わからん。こんな奇麗な花は見たことないねえ」
「これはブーゲンビリアっていう花だよ」
「ぶうげんびりあ?」
「そうブーゲンビリア。伊良湖岬のフラワーセンターとか
行った事があるだら?あそこにはあったかもしれんけどね。
日本でも沖縄とか南のほうに行くと咲いとるね」

母は花が好きだった。家の軒下にプランターや植木鉢を並べて、いろんな
花を育てていた。ひまわりが咲いていたこともあった。夏にはあさがおが
咲いていた。最近は身体の具合も悪くなってしまったので、花も枯れた
ままになってしまっていた。

「このブーゲンビリアの花はねえ、この赤いところが花だと思うだらあ。
それが違うだよ。赤いところは、ほうと言ってね、葉っぱの一部なんだね。
そいで花は真ん中にある小さな白っぽいところ、これが本当の花なんだね」
と私はついさっきインターネットから得たばかりの知識をひけらかす。
「よう知っとるだねえ。あそこにあるのは、ピンクじゃなくて、赤だったり
白だったりするけど、いろいろな色のがあるだねえ。みんな同じ花かん」
私はそこまでは調べがついていなかったので、ちょっと戸惑った。
「まあ、いろいろあるだねえ。人生いろいろ、ブーゲンビリアもいろいろ」
と言ってしまったが、ちょっと軽薄ではなかったかと後悔が残った。

「シンガポールは奇麗な花がいっぱいあっていいねえ。見た事もない珍しい
花がいっぱいある」母は嬉しそうに花を眺めている。
「そいでも桜とか、あじさいとか、あさがおとか、あやめとか、藤の花とか
ないのが残念だよね」
と言いながら、渥美病院がまだ今の場所に移転する前、庭に小さな藤棚が
あったのを思い出した。お見舞いにいった私に、藤の花が奇麗にさいてお
るで、見て行きんよと母が言っていた。

「菜の花もシンガポールにはないね。田原が市になって、市の花が菜の花
になっておったの知っとるかん」と私は母に訊ねた。
「それはしらなんだね。菜の花かん」
「3月にぼくが病院に行ったとき、病院の周りの畑は菜の花が奇麗に咲いて
おったよ」
「ふーん、私は目がよう見えんし、窓のところにも行けなんだで、
わからなんだね」
「天気がよくてねえ。黄色い菜の花がとても奇麗で...」

私は母の葬儀のとき、棺の中に横たわっていた母に、みんなで花を添えて
あげた。母の身体がまるで花園のように奇麗に覆われていく。「よかったねえ。
大好きな花をいっぱい入れてもらえて」と母に言おうと思ったら涙でつまって
声にならなかった。棺の中の母は穏やかに横たわり、なんだかとても喜んで
いるんじゃないかとさえ思えた。

さっきまで、ブーゲンビリアの花に触ろうとしていた母が見当たらない。
「おかあさん。おーい、おかあさん。どこ行った?あれ、おらんの?」
周りをみまわしても、母の姿は見あたらなかった。
いろんな花が咲いているので、あっちこっち勝手に見てまわっているの
かもしれない。

まあいいや、またどこかで会える。そう思って、私は家に帰った。

母とマーライオン

2006-03-20 23:13:15 | シンガポール
「おかあさん、これがあの有名なマーライオンだよ」
私は母を連れて、マーライオンを見に来ていた。
「まあらいおん?なんだんこりゃあ、ライオンかん。シャチホコみたいだけど
そり方が違うねえ」
「上半身はライオンで、下は魚だね」
「なんだかようわからんけど、めずらしい生き物だね」
母は珍しそうに、マーライオンを眺めていた。

「以前はあの橋の向こう側にあったんだよ。前、くんちゃんと勝美君
(私の二人の弟)がシンガポール来たときは向こう側だったけど、今は
こっちに移ってきた」
「なんだん、歩けるのかん」とちょっとびっくりした顔になる母。
「いや、歩けるわけじゃないんだけど、工事で移転してきたんだ」

マーライオンが作られたのは1972年。というと、大阪万博で太陽の塔が作
られたのが1970年だから、このマーライオンは太陽の塔のニ学年下になる。
できた当初は、シンガポールリバーの河口から、梅を眺めてたっていた。
それが、いつの間にか、マーライオンの目のまえに橋ができ、景色は最悪に
なった。この時期にマーライオンを見に来た人はかなり幻滅したと思う。
環境がよくないと造形物はぜんぜんさえなくなってしまうということを、この
マーライオンは教えていた。

2002年9月、マーライオンは今のマーライオンパークに移転した。工事中の
様子を見ていたが、こんなことしても無駄なのになあと思っていた。しかし、
今の姿は結構いい。周りはひろびろとしたマーライオンパーク。正面からも
眺められるように桟橋のようになっている場所もある。背景は高層ビル。
アンティークな雰囲気のフラトンホテルも背景としてはいい。また別の方角に
は、ドリアンのような外観のエスプラネード(コンサートホール)が見えて
いる。写真を撮るには最高だ。

この場所はいつも観光客が写真を撮っている姿を目撃できる。桟橋のほうに
行ってマーライオンを見ていると、日本人と思われる若者が一眼レフカメラを
持って、私のほうに近寄ってきた。ちょっと照れ笑いしながら、英語で、
"Excuse me, can you take a photograph of me? Just press this button."と
言う。私は日本人と思われていないのか、と唖然としながらもカメラを構える。

マニュアルフォーカスの一眼レフカメラだ。なんか懐かしい。フォーカスはす
でに彼が立つべき位置あたりに合わせられている。彼をフレームのど真ん中に
入れるのは写真としては構図がよくないので、すこしずらしてあげる。
マーライオンもしっかり入れて。シャッター音が心地いい。デジタルカメラに
はない感触だ。

そばにいた母が寄ってきて「なんだんあの人は外人かん」と言う。
「たぶん日本人だと思う」と私は言う。
「あんたのこと外人だと思っただねえ」
「外人って、ここじゃあ、おかあさんだって外人だよ。シンガポール人以外は
みな外人なんだから」
「なんだかそういう理屈っぽいことはようわからんねえ」
全然理屈っぽくないのになあと思いながら、マーライオンをあらためて眺める。

「水をずっと吐いとるけど、水がもったいないねえ」
「たぶんこれは水道の水じゃなくて、この海の水だから大丈夫だと思うよ」
「そうかん。なんか心配しちゃうやあ。水道代はどうするのかと思ったねえ」
あまり贅沢な暮らしをさせてあげられなかったので、母には倹約精神がしみつ
いている。

「あんたはずいぶん長いことシンガポールにおるだね」
海からの風で少し髪が乱れたのを直しながら、母がつぶやく。
「うんもう8年以上になるだよ」
と言いながら、もうそんなになってしまったのかとあらためて思う。

母は遠い水平線を眺めながら、遠い記憶をたどるようにつぶやく。
「どんどん、どんどん遠くに行っちゃっただね。
田舎を離れて、東京に行ってしまって、
そしたら今度はシンガポールにまで行ってしまった。
私んところからどんどん遠くに行ってしまうんで、寂しかったよ」
「ごめんね」私はちょっと頭を下げる。

「でもあんたは外国に行くの憧れとったでね」
近くを観光用のボートがゆっくり通り過ぎていく。
「そう小学校の頃から外国に憧れていた。今はシンガポールで仕事ができて、
あの頃の夢がかなったんだね。おかあさんには迷惑をかけたねえ」
「迷惑だなんて思っとらんよ。自分の息子が夢をかなえることは、親だっ
たらいちばんうれしいことだでねえ。自慢できることだでねえ」
私は、思わず母の手を両手で握った。
母の手のぬくもりが伝わってきたような気がした。
血管がまだ脈をしっかり打っているような気がした。

「今まで、口に出して一回も言えんかったけど、おかあさん、
ありがとうね」
母は、こんなところで恥ずかしいじゃないかと言わんばかりの表情だった。
「ありがとう、ほんとにどうもありがとう」
そう言いながら、私の目から涙がぼろぼろこぼれた。
「マーライオンの水しぶきで濡れちゃうよね」
と言いながら、私はハンカチで顔をごしごし拭いた。

しばらくして目をあけると、そこに母の姿はなかった。
目の前にはマーライオンが水を吹き出しているのがあるだけだった。
周りでは観光客が楽しそうに写真を撮っていた。

私は、にぎやかな観光客にまぎれて、いつまでも、一人たたずんでいた。






母とドライブ

2006-03-19 22:49:33 | シンガポール
「おかあさん、やっと来れたねえ、シンガポールに」
助手席に座っているはずのない母に私は語りかける。
「あんたが運転する車に乗ったのは初めてだけど、あんまりスピード出さん
ようにせりんよ。私はもう死んでるからいいけど、あんたはまだ生きとるで
ねえ。気をつけりんよ」
そんな声が聞こえたような気がした。

何年か前、両親をシンガポールに観光に招待しようと思った。
二人とも海外には行ったことがない。したがってパスポートも持ってなかった。
母親は糖尿病を患っていたので、病院の先生に英語で証明書を書いてもらった。
パスポートの申請用の書類まで用意したのかどうかわからないが、そのうちに
母親も身体の具合が悪くなり、父親も歩くのが少し困難になった。結局、パス
ポートは申請できず、母は外国旅行を一度も経験できずに、人生を終えた。

亡くなる日の前日、弟が「元気になってみんなでシンガポール行かまい」と母
に言った。母は苦しい息の中で「一人じゃあ行けん」と言った。弟は、「そん
な一人じゃ行かせんよ、みんなが付いていってあげるで、安心せりん」と笑い
ながら言った。シンガポールどころか、立ち上がってベッドの外に出ることす
らできなかったのに。

私の車の助手席にいる母は、見慣れぬシンガポールの景色をきょろきょろ
眺めている。
「ここがシンガポールかん?やっぱり日本とは違うねえ。木が違う」
「よう見えるようになったね。ちょっと前まではあんまり何も見えんかった
もんね」
「身体がなくなったで、今じゃあいろんなもんがよく見える」
どことなく母は嬉しそうである。まるで若い娘が恋人とドライブしている
かのようだ。

「私が死ぬ前はちょっと苦しかったけど、みんなが来てくれて嬉しかったよ。
あんたはシンガポールにおるでねえ、来れんかもしれんと思っとったけど、
来とってっくれて嬉しかったよ。ありがとうね」
「ほんとうはもっと早く行ってあげんといかんと思っとったけどねえ」
「そんなんええよ。あんたにもいろいろ世話になってすまなんだね」
「世話になったのはこっちのほうだよ。子供の頃から、迷惑ばかりかけてね」

そんな会話をしながら、今日の日曜日、車を走らせた。

私の実家

2006-03-18 23:43:59 | 故郷
豊橋鉄道渥美線の終着駅、三河田原。その駅前通りにある栄福堂という駄菓子
屋が私の実家である。今よりもずっと賑わっていた駅前通りは、今ではかなり
店も少なくなり、活気が失われてしまっている。そんななかで、この栄福堂は
この界隈唯一の駄菓子屋で、子供や、学生や、老人の憩いの場となっていた。

愛知県の渥美半島の付け根にある田原は、2003年に町から市に昇格した。私
が高校生だった頃は、人口が2万人ちょっとだったが、今は6万6千人になっ
ている。人口増加の原因は、三河湾埋め立て地にトヨタの巨大工場設備が来た
からだ。向かいの豊橋の港には、フォルクスワーゲンアウディの工場がある。

従ってこの地域は車社会だ。都市計画は車を中心に考えられる。30年以上前
から都市計画が進められてきた。道路を広くまっすぐにして、車が通りやすく
するというものだった。その図面によれば、駅前通りを少し斜めに横切る広い
道路ができ、それが、私の実家の半分以上を削り取る。残った土地は狭すぎて
家が建てられないので、移転せざるをえない。

区画整理の図面を最初に見たときはショックだった。都市として奇麗になるの
かもしれないが、一応この町は伝統ある城下町なのだ。昔ながらの町並みをす
べて取りつぶして、新しい人工的な都市に生まれ変わる。その発想は車を中心
にしていている。歩行者のことはあまり考慮されていない。それは机上の空論
のような気がして、気味が悪かった。

それから30年以上たって、まだその計画は完成していない。20年以上前に
私の実家の栄福堂は改築した。立ち退きになるのはまだかなり先だということ
で、家を新しく建て直した。そろそろ、立ち退きになるのかと思いながら、ま
だ、計画は進展しないでいる。去年、市の係員が測量をしにきたというので、
いよいよその時が迫っているのであろうか。

この間に、近所の家は、いち早く郊外に引っ越していった。家がなくなって
いくのでどんどん駅前が寂れていく。商業の中心地は、郊外のスーパーに移っ
た。小売店も、飲食店も大きな駐車場を完備しているので、アメリカの郊外の
ような風景になってしまった。町としては決して美しくはない。

わが駄菓子屋はこのコミュニティーにかなり貢献したのではないかと思う。
小さなこどもが小銭を持って買い物に来る。「おじちゃんこれいくら」とか
いいながら買い物をすることで教育にも貢献しているものと思う。スーパー
ではそういうことはできない。店を経営するほうとしては、一つの商品を売っ
て利益が1円くらいのものもあるし、高額商品でも100円にみたない。これだ
と商売としてやっていくのはかなり辛く、割があわない。ほとんどボランティ
アだ。

うちの父親と母親でこんなボランティアみたいな仕事をやってきた。生活に
決して余裕があるわけでもないのに、あまり儲からない仕事をやってきた。
父親は認知症で施設に入ったので、もう店にはいない。母親は3月5日に
亡くなってしまったので、もう店に出られない。弟がひとりでやっているが、
区画整理による移転の時期が忍び寄ってきている。

近所の老人が、パンやお菓子を買いにくる。通学の高校生が駅に行く途中で
この店に立ち寄り、牛乳を飲みながらパンをかじる。電車を降りて歩いてき
た旅人が、ペットボトルのお茶を買いながら、道を尋ねる。近所の人が、急
に客が来たということでアイスクリームを買いにくる。孫に何か買ってやろ
うとするおじいちゃんも来る。店で買うべきものがなかなか決まらない子供
もいる。この店は、古きよきコミュニティーの縮図だ。

こういう店こそ、残ってほしいと思うのだが。


母からのプレゼント

2006-03-17 20:24:27 | 故郷
母の葬儀を終えて、3月9日の飛行機であわただしくシンガポール
に戻ってきた。その翌日、会社に出社した。母が亡くなってまだ
一週間たっていない。不在中にたまっていた仕事を片付けていると
マックの専門店から電話があった。2月に注文してあった、新製品
のMacBook Proが入荷したという。2月の中頃入荷する予定だったが
製品の調整などで少し遅れた。インテルの新しいチップが入った
高速スピードのマシーンである。

2月2日の木曜日の夜、それまでメインのマシーンとして使ってい
たPowerBook G4にミネラルウォーターをこぼしてしまい、突然機能
が停止した。このブログにアップするために織田信長の絵を描こう
として、消しゴムをとろうとした際にミネラルウォーターのボトル
が倒れてしまったのだった。ひょっとしてそれは本能寺の恨みか。
私は明智光秀とは何の関係もないのに。

翌日すぐにマックの専門店に走った。プレゼンも控えているし、
パソコンがないことには、メールもブログもできない。これは大変。
同じ製品でいいからすぐに買おうと思っていた。「お客さん、それ
買うんだったら、新しいのがじきに出るんで、そっちのがいいので
は?」と囁く店員。シンガポール人なので日本語ではない。最初、
私を中国人だと思ったみたいで、中国語でなんじゃらかんじゃら説
名していたが、英語で質問すると、すぐに英語になる。そのへんの
切り替えがシンガポール人はすばやい。

結局、私は新しいiMacと新しいMacBook Proの両方とも買ってしまっ
た。どちらもインテルの新しいチップを搭載している。某PCクライ
アントの広告の企画をしていたので、1月に発表されたばかりの
インテルのチップについてはちょっとばかり知っていた。MacBook
Proがすぐに入手できるんだったら、そっちだけでよかった。しかし
早くて2月の中頃になるらしい。その間の中継ぎが必要だ。という
ことでiMacを買った。中継ぎにしてはちょっと贅沢だ。二つ合わせ
ると何十万円にもなる。こんな高額な買い物をしたのは始めてだが、
その時は躊躇せずに決めてしまった。

MacBook Proを待っている間に、母が入院し、やがて母が亡くなり、
葬儀があった。このMacBook Proは母と入れ違いにやってきた。
ひょっとして、これは母が私にプレゼントしてくれたものなのかな
という気もする。金を払ったのは自分なのだが、誰かに背中を押さ
れて、気がついたら買ってしまっていたような気がする。

今まで使っていた古いマシーンは、かなり老朽化していた。DVDの
スロットはついているのだが、ディスクドライブが使えなくなって
いた。バッテリーは10分も持たないようになっていた。キーボード
のJのキーがはがれ落ちてしまっていた。周辺部の塗装がはげ落ちて
見苦しくなっていた。使っている自分がなさけなくなるようなそん
な状況だった。

もし古いマシーンがそのまま壊れなかったら、おそらく私は我慢し
てそれを使い続けていたと思う。しかし、水をこぼしたことが、
買い替えるというきっかけを与えてくれた。それは災難であると
同時にチャンスでもあった。そのことが、母からのプレゼントと
いうふうに思えてならない。大切に使おうと思う。これを使って
いろんな仕事を生み出していきたいと思う。パソコンってなんか
打ち出の小槌みたいだなあ。使い方次第でどんどんいろんな物が
生まれてくる。これはすごいプレゼントだ。

私は母にいろいろ贈った。母の日にカーネーションの花を。カー
ディガンを。上着を。扇子を。マッサージの機械を。万歩計を。
洗濯機を。電子レンジを。湯沸かしポットを。ラジカセを。暖房
ヒーターを。手提げ鞄を。財布を。ほかにもいろいろ買ってあげ
たと思う。

母が私にプレゼントしてくれた物は品物としては思い当たらない。
しかし、私が贈った品物よりももっと大事なものを母からもらった。

まずは、私という生命をもらった。

これは生涯最高のプレゼントだと思う。いくらお金をつんでも
これを買うことは誰にもできない。金があれば何でも買えると
豪語していたホリエモンでもこれは買えない(今の彼は自由も買え
ないでいるが)。

そして、ここまで育ててくれた。病気や危険から守ってくれた。
子供の頃の思いでをくれた。夢見る力を与えてくれた。
言語能力をさずけてくれた。
数えきれないほどのいろんなものをくれた。
自分がいまあるのはそういういろんなものの集合の結果だ。

母が死んで、物理的な存在はなくなった。
しかし、母はまだ私たちの心のなかに生き続けている。
そしてブログを通して、まったく母のことを知らなかった人たち
にも母が生きていたということが伝わっていく。

母はコンピューターなど全然わからないのだが、私のブログを通
して母のネットワークがどんどん広がっていく。これは母にとっ
ては想像もできなかった事態だと思うが、なんかこれは素敵な
ことのように思う。

母の記憶が、通信ネットワークを通じて、星屑のように散らばって
いく。デジタル空間の中に漂う銀河のように、母の存在の断片が
細かくくだけて漂っていく。

これはとても素敵な供養なのかもしれない
と勝手に思ったりしている。

満月を見ました

2006-03-16 01:10:07 | 故郷
今日は満月。晴れ渡った夜空にまんまるの満月が出ていた。そういえば、母が亡
くなる前夜は三日月だった。もうあれから10日が経った。母の霊はまだこの世に
未練を残し、どこかをさまよっているのだろうか。ひょっとしたらこの満月もど
こかで眺めているのだろうか。母は2年くらい前から視力をほとんど失っていた
が、現世の肉体を離れた今ひょっとしたらいろんなものが奇麗に見えているのか
もしれない、そんなことを考えた。

何年か前に「チベット死者の書」をNHKのテレビで見た。臨終を迎えた人の枕元
でラマ僧が読み聞かせる教典である。死者が死後に出会う風景とその対処法が述
べられている。死の世界に旅立つための旅行ガイドのようなものである。それに
よれば、死後数日は、霊がさまよっている。葬儀の様子なども霊には見えている。
そして霊はやがて現世への執着を断ち切り、光の世界に向けて進み、成仏するか、
輪廻転生していく。

この話によれば、死者はまずまばゆい光に遭遇するということだった。ひょっと
して、今日出ている満月は、そのまばゆい光なんだろうか。たぶん目があけてら
れないほどのまぶしい光なんだろうが、月も光には違いない。母の死後、月が
どんどん満ちて大きくなってきたのは、母が光に向かって進んでいるという意味
なんだろうか、などと思う。

そういえば母は、かなり前から自分が死ぬ事を考えていた。自分の身体が弱く
なっていることを自覚しており、寿命がやがてつきることを意識していた。人は
誰もが死ぬ。自分だってそうだ。あなたもそうだ。それは人間である以上、避け
て通れない運命だ。母は、自分の葬儀をどこで執り行うのか、費用は大丈夫かな
ど、去年くらいから言っていた。死の前日も、葬式はどこでやることになったの
かという質問を弟にしていた。

自宅で葬式をやると、いろいろ大変だから、町の葬儀場とかでもできるよ、とか
そんなことを積極的に考えていた。私たちは母に長生きしてほしいので、葬儀の
話などはまともには取り合わなかった。しかし、母にとっては切実な問題だった
のかもしれない。

一番下の弟は、参議院で速記をやっている。「私が死んだら、参議院から電報が
来るかねえ」などということも言ったことがあった。葬儀には、参議院事務総長
から弔電が来た。参議院関係から花も届き、いくつか弔電も届いた。私の会社か
らも、クライアントからも弔電が届いた。母親が喜んでいる顔がまぶたに浮かび、
涙が止まらなくなった。

私の母親は、ワーキングウーマンだった。家事も行っていたが、日中は、炒り
胡麻を製造する小さな工場に勤めていた。夕方家に帰ってくるとまた家事を行っ
た。私が子供の頃、ご飯は木をくべてかまどで炊いていたし、風呂もまきで
くべていた。過労で何度か入院したこともあるが、定年になるまで働き続けた。
父親は駄菓子屋をやっていたが、母のほうが収入が多かったと思う。

最近は働けなくなったが、駄菓子屋の店番はやっていた。働き続けた母だった。
父親が認知症になって、弟などに迷惑をかけることを心配した。自分のことは
さておいて、人のことを心配する母だった。

ごくろうさま。苦労ばかりかけちゃってごめんね。
ゆっくり休んでください。

そのとき何を優先するかということ

2006-03-15 08:58:12 | 故郷
成田空港で新井満さんの「般若心経」の本を買って、飛行機で読んだ。
葬儀のときに聞いた「般若心経」は意味がよくわからなかったけれど、
この本を読んで、そういうことだったのかとわかった。目から鱗が落ち
るというのはこういうことなのかと思った。本文もさることながら、後
書きの「母が遺してくれたもの」という文章に感動した。

この著者はリレハンメルオリンピックの時、イベントのプロデューサー
をやっていて、次の長野のデモンストレーションを担当していた。リレ
ハンメルに出発する日、母親の危篤の知らせが入った。リレハンメルに
いくべきか、母親のもとにいくべきか悩んだ。最終的に母親のところに
行くことを選んだ。これはすごい選択だったろうと察せられる。

母親の臨終には間に合わなかったのだが、彼は、自分を産んでくれた母
親がいなかったら今の自分も仕事もあり得なかったと理解し、仕事より
も母親に優先順位を置いた。彼は、母親の遺品を整理していて、たまた
ま「般若心経」を発見し、それを読み解くことを決意したらしい。

私は、2月に母親が入院したという知らせを弟から聞き、次第に病状も
悪化してきているという情報が逐次入るなか、月末にはなかなか日本に
帰れなかった。22日にインスタントラーメンのパッケージの商品撮影が
入っていて、24日には某記録媒体メーカーの商品撮影140点ほどの仕事が
入っていた。また月末には、社員の給与の支払い手続き、売り上げ帳簿
の整理、支払い手続きなどがぎっしりあった。

なんとかとりあえずの仕事を片付けて、3月1日の夜11時20分シンガポー
ル発東京成田行きの飛行機に乗った。病床の母を2、3日お見舞いして、
東京で雑用でもしようと考えていた。3月の7日の飛行機で帰って来る
予定で飛行機をおさえていた。

今回は危篤の知らせを受けて帰ったのではなかった。しかし、木曜日の
夕方、病室を訪ねたとき見た母はすでにかなり苦しそうであった。弟に
よれば、ここしばらくこんな感じで特別なことではないとのこと。金曜
日、土曜日と、日にちが経つにつれて、これはちょっと苦しそうだなあと
いう気がしていた。テレビドラマとかで見る危篤の人もこれほど苦しそう
ではないのになあなどと思いながら、そんなに早く亡くなるということは
想像もしなかった。

ちゃんと食べれるようになれば、まだ元気になる可能性がある。食べられ
なくなったとしても、点滴で生き延びられる。そんなことを信じていた。
それでもかなり苦しそうだったので、これじゃあエネルギーをかなり使い
はたしちゃうなあと思いながら心配していた。

土曜日の朝、弟と喫茶店でモーニングを食べながら話した。シンガポール
に予定通り帰らないといけないんだけど、そのためには明日の日曜日には
東京に戻らなければならない。一日くらいは延ばせるんだけど、向こうで
仕事がたまっているため、それ以上は無理だなあ。とりあえず、ちょっと
帰ってまたすぐにこっちに戻ってくるようにするよ。とりあえず、支払い
関係とかの段取りは丸一日あればできるので、それを処理してまた来るよ。
というような予定で考えていた。

そこに東京の下町娘から電話が入った。その日にちょっとだけ母親のお見
舞いに来る予定だったのだけれど、日曜日の予定を土曜日にずらせたので
来るのは日曜日にしたということだった。私は携帯を前日の夕方からマナー
モードにしてあったので、電話がつながらなかったのだと言う。日曜に来
るのだったら、その日の電車で一緒に東京に帰れるなと、そんなことを
考えていた。母の臨終が翌日に迫っていることなとつゆ知らず。

土曜日の夕方から夜にかけて、私は母の病室にいて、パソコンをつないで
仕事をしようとしていたが、全然手がつかなかった。仕事のことを考えよ
うとするたびに母が苦しそうに助けを呼ぶ。「看護婦さーん、看護婦さーん」
と母は苦しそうに何度も呼んだ。看護婦が来たときに、どうして呼んだのか
聞かれた母は「最後を見てくれんと困る」みたいなことを言っていた。
この時、母がすでに死を意識していたのかどうかよくわからない。

金曜日も土曜日も何時間も私は母のそばにいた。土曜日の夜に看護婦さんが
「お兄さんは後できますかねえ。ちょっと容態はよくないので」と言った。
実は、私のほうが兄なのだが、あえて訂正しなかった。一応私が長男である。

翌日の日曜日、弟の情報では、朝ご飯のおかゆを少し食べれたという。これ
でちょっと安心していたのだが、その日のうちに母は逝ってしまった。そう
いえば、土曜日の夜、母の病床で私は宮沢賢治の「けふのうちに遠くへ行っ
てしまう妹よ、みぞれが降っておもてはへんに明るいのだ」という詩を思い
出していた。まさか本当に遠くに行ってしまうことになるとも思わずに。

母が亡くなって、通夜、葬儀の段取りを調整している間も、私にはシンガ
ポールの会社のことが頭から離れなかった。日曜日の夜中に、豊橋のインター
ネットカフェに行き、メールでいろいろな段取りをした。東京の本社の総務
に母親が亡くなったことと通夜、葬儀の日程をメールしておいた。月初の
会議のための仕事の報告書を書いて、深夜にメールで発送した。シンガポー
ルの社員全員に、葬儀のため、シンガポールに戻るのが二三日遅れるとの
メールを出した。本来ならば亡き母の枕元にいてあげないといけないのだ
ろうが、こんな仕事の段取りをしている自分がなんだか冷酷な人間に思えた。

葬儀があり、初七日の法要もその日のうちに済ませた翌日に私はシンガポー
ルに戻った。通常は親の葬儀の時には数日の忌引きをとるのだが、会社の
ことが心配だったので、非情にも仕事に戻ってしまった。戻ってわかった
が、その週末までゆっくりして戻ったところでそれほどの致命的なことに
はならなかったかと思った。そう思えば、母のもとにもう少しいてあげた
ほうがよかったのになあと、仕事人間の自分を憎んだ。

3月の12日は、ローカル社員の結婚式に招待されていた。行く予定にして
いたのだが、喪中の人には来てもらっては困るという。従って結婚式には
いかなかったが、その代わり、いろいろと仕事が入ってしまい、週末は
忙しくすぎていった。

仕事も大事だけれど、それよりももっと大切なものがあったんだと今に
なってわかる。仕事に埋没していると、その大切なものが見えない。
そんなことでは人間失格である。

おかあさん、ごめんなさい。そして、ありがとう。






母は私を呼んでいたのだろうか

2006-03-14 00:56:17 | 故郷
3月2日木曜日、東京からこだまで豊橋に、豊橋からローカル線の渥美線に乗り
換える。豊橋はこの地域では一番の都会だが、しばらくすると、窓の外の風景は
次第に農業地帯の風景になっていく。電車は杉山という駅に停車する。駅員はい
ない。40年くらい前はちゃんと駅舎があり、改札もあった。駅の向こうの家は、
駄菓子屋だった。駄菓子屋と言っても、コンペイ糖や、その他数種類のお菓子を
売っているだけの小さな店だった。

この杉山という場所は、母が生まれて育った場所だった。この駅から歩いて数分
でその家に辿り着く。私が子供の頃、よく遊びに行った。母の実家は大きな農家
で、いろんな畑があり、いろんな動物がいた。そんなことを思い出しているうち
に、電車は杉山の駅を後にして、終点の三河田原に向かった。窓の外に夕陽が落
ちていくのが見えていた。

三河田原の駅前通りに私の実家がある。昔は菓子製造販売を行っていた店だが、
今は駄菓子屋である。父は認知症がひどくなったので、2月に海のそばの施設に
入った。母は、2月の7日から病院に入院していた。家には弟が一人いるだけで
ある。普段は弟は近くの料理屋にアルバイトに行っているが、この日は休みなの
で家にいた。

弟と二人で病院に行く。母は酸素マスクをしてベッドに寝ている。点滴が痛々し
い。弟は、仕事が終わった後、夜は病室に泊まっていた。病室の片隅に折りたた
み式の簡易ベッドが置いてあった。母は食欲をなくしているが、きちんと食べら
れるようになればまだ持ち直す可能性はあるとのこと。息は苦しそうだが、私を
まだ認識できた。

金曜日と土曜日の夕方から夜にかけて、私は母の病室にいた。弟は夕方から料理
屋に仕事に出かけていた。深夜から朝までは弟が病室に泊まりにくるので、私は
家に帰った。まさか、そんなに早く逝くことになろうとは思ってもいなかったの
だが、土曜日の夜看護婦さんが、「ちょっとあぶなくなってきたので、もう会う
べき人にはみんな会えましたかね?」と言った。まさか、それって危篤ってこと?
あと数日かもしれないとのこと。どうしよう、シンガポールには会社の支払いな
どが待っているしなあ。

日曜日の朝、弟からの電話で、母が朝食を少し食べれたとのこと。何だ、元気に
なるんじゃないか、そう思った。弟と私はいつものようにモーニングを食べに喫
茶店に行き、ゆっくりと病室に戻った。一番下の弟が前日から豊橋のホテルに家
族で宿泊していたが東京に帰る前に、母親を見舞いにきた。私は、メールやブロ
グが気になっていたので、豊橋のインターネットカフェに弟の車で連れていって
もらった。

豊橋で、下町娘と落ち合った。お見舞いに来てもらった。タクシーで田原の病院
に向かった。病院に到着する。母は、身体を起こして座りたいという。前日もそ
ういうことを言っていた。身体を起こして座らせてあげる。しばらくして母親の
一番末の妹が見舞いに来る。私たちがまだ食事をしていないのなら、ちょっと行っ
てきていいよとのこと。3人で食事に出かける。食堂で食事を待っている間に、
電話が入り、母親の息が止まったとの連絡。すぐに病院に戻る。母はすでに息を
ひきとっていた。医者が来て、死亡鑑定。公式には2時50分が死亡時刻となる。
まさか、そんな、まじ?そんな、あっけない。
嘘でしょ、という感じ。

それからのことは、いろいろなことがあり、通夜、葬儀、告別式、火葬、初七日の
法要、などいろいろな行事がすぎて行った。命あるものが、命がなくなり、形ある
ものが、形がなくなっていくというプロセスを目の前で見ていて、人の命という
もののはかなさを実感。葬式というのは大学生の頃、祖母の葬式に出たのが最後で、
ずっと出ていなかった。何十年ぶりかで出席した葬式が自分の母親の葬式だったな
んて。

母親は、昨年から時々言っていた。「外国にいたら、もしものときにすぐに戻って
来れんねえ」とそればかり心配していた。しかし今回は、偶然にも戻ってきていた。

思えば、今年の2月、いろんな物が壊れた。2月の頭に、車のナンバープレートの
所が壊れた。それを直すとすぐ数日後に、車のバッテリーがおかしくなった。
レッカー移動で、修理してもらった。オルタネーターという部品が壊れていた。
2月中旬、ノートブックパソコンに水をこぼして、機能停止。2月終わり、会社に
あったiMacのヒューズが切れ、機能停止。同じころ、家のプロパンガスのガスが
切れ、洗濯機のところの水道の水漏れを修理した。

今から思えば、あるいは母が私を呼びよせるために出していたシグナルだったのか
と思えてならない。「そんなシンガポールなんかで仕事してないで、すぐに戻って
きて」というシグナルだったのかもしれない。また今回の飛行機は、実は、景品で
もらった切符だった。2月中に発券して、3月中に飛ばなければいけないという
条件の切符だった。とりあえず、この日程で切符をとった。
まさかそんなことになるなんて。

何かこれはちょっと不思議な話です。なんだか超自然的な感じがします。
こんなことってあるんですね。なんか考えれば考えるほど不思議です。

春先の穏やかな日曜日に母は逝く

2006-03-10 04:47:30 | 故郷
一週間のご無沙汰でした。

3月2日の木曜日から日本に帰っていましたが、

いろんなことがありました。

3月5日の日曜日、午後2時50分、母が息をひきとりました。

死因は心不全、享年74歳でした。

3月7日の火曜日の夕方に通夜。

3月8日の水曜日に葬儀・告別式、その後、七日の法要。

3月9日の飛行機でシンガポールに戻ってきました。

ここにアップした写真は、3月3日の午後、母が入院していた病院の前の

菜の花畑です。この日も、亡くなった5日の日も、通夜、葬儀・告別式の日も

穏やかに晴れ渡り、春がすぐそこまで来ている感じでした。

この間の出来事はまた詳しく書きます。皆様にはご心配をおけけし、

申し訳ありませんでした。ではまた。