南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

加熱するバッテリー問題

2006-09-29 23:33:52 | Weblog
パソコンのバッテリー問題が世界規模で加熱しております。他人事
だと思っていたら、自分のパソコンのバッテリーも問題が!この件
に関しては、架空の対談形式で語ってみたいと思います。それでは
よろしくお願いいたします。

聞き手:本日はパソコンのバッテリー問題に関して、世界的な権威
である南の国の会社社長さんをお招きしいろいろお話をうかがって
いきたいと思います。
南の:ちょっと待ってください。「世界的な権威」というのはやめ
てください。だいたい私はバッテリーのバの字も知らないですから。
聞き手:(おおまじめに)そうですか、「バ」という文字はですね、
こうやって、こう書いて...
南の:インタビューの聞き手が、そんなにぼけたら対談が漫才に
なっちゃうでしょ?
聞き手:あれ?これって漫才じゃなかったんですか?
南の:違うでしょ、これは真面目な対談なんだから。でも本当は私
のほうがメインで、あなたはただの聞き手という位置づけだから、
あなたは自分の意見を主張するんじゃなくて、ぼくから面白い話し
を引き出すのが役目でしょ?
聞き手:そうなんですか?勉強になります。
南の:今頃勉強してもらってるんじゃ遅いんだけどなあ。もう、
なかなか話しが進まないじゃない。話しを進めるのは聞き手の役割
でしょ?
聞き手:そうなんですか?それならそういうことで...
南の:なんか不服そうなんだよね。
聞き手:いえ、そんなことはありませんよ。ところでこの上の写真、
これ何ですか?唐突にこんなへんてこな物体の写真が映っているん
で、このブログを見ている皆さんも不思議に思われてるんじゃない
かと思うのですが。
南の:よくぞ聞いてくれました。これは、パソコンを冷やすための
扇風機なんじゃな。この上にパソコンを置いて、USBでパソコンに
接続する。そうするとその穴の空いたところから冷気が上がってき
て、パソコンを下から冷やしてくれるというわけなんじゃよ。
聞き手:いきなり何とか博士のような口調になってますが。
南の:ついつい日頃の癖が出てしまった。
聞き手:?ところで、何で急にこんなものを購入されたのでしょう?
南の:じつは、ここだけの話し、バッテリーのトラブルなんじゃよ
聞き手:バッテリーって、まさか、火を噴いたりとか?
南の:いや、火は噴かなかったけどね。バッテリーがある日急に、
餅のように膨らんでいたんじゃよ。信じらんかもしれんけど。
聞き手:ええ?餅のように?漫才じゃないんだから、へんなギャグ
言わないでくださいよ。
南の:いやいや、誇張じゃないのです。たぶん熱で内部のメカニズ
ムが膨張して、ガワが耐えきれなくなり、ボンっといったのでは
ないかと思われますな。
聞き手:それって、大変な事件じゃないですか。
南の:そうそう、こりゃ大変だと思って、会社に行って、メカに
詳しい社員に見せて、まずバッテリーを取外してもらったんじゃ。
そしてインターネットでパソコンバッテリーのモデルナンバーを
調べてもらったら、無償交換対象になっていたので、すぐに郵送
してもらうように手配した。
聞き手:S社のバッテリーだったんですかね?
南の:バッテリーにはS社の文字は書いてなかったんだけど、最近
パソコンの充電池に全然充電できないなあと思っていたところです。
今、東芝とか富士通がリコールを始めたようですが、その不具合と
いうのが非常に似ている。餅のように膨れてしまったというのは
まだあまり報告されていないようですが。
聞き手:そんなんなったら大変ですよね。
下町娘:本当にそうです。私の大事なダーリンが火事で
怪我をするようなことがなくてよかったです。
南の:おいおい、急にこんなところに...
下町娘:しっつれいしました~。
聞き手:?
南の:で、ローカル社員に聞いたら、まず私のパソコンの使い方が
よくないと言うのですな。パソコンケースを座布団にして使っていた
がそれだと熱がこもってよくない。そこで、その上の写真のファンと
パソコンの下に空間を作るためのアダプターを買ってきてもらったと
いいうわけじゃ。
聞き手:上のほうに見えているのがパソコンの下側ですね?
南の:そうそう。これでパソコンの加熱が抑えられる。
聞き手:パソコンってすごく熱くなりますものね?
南の:お熱いのがお好き?ってか?
聞き手:?
南の:何か反応してよ。ところで話しは全然変わるんですけどね。
さっきNHKの番組を見ていたら、大槻ケンヂさんが出ていて、以前
柳沢きみおの「翔んだカップル」という漫画の主人公の山葉圭ちゃん
というのが好きだったということを言っていたのですが、実は私も
圭ちゃんがすごく好きだったのです。大学の頃でしたが。
聞き手:全く関係のない話しですね。
南の:パソコンのバッテリーのように、私も大槻ケンヂ君も熱く
なったというわけですね。お後がよろしいようで。
聞き手:とんだ対談でした。

人生いろいろ

2006-09-24 21:59:19 | Weblog
昨日、シンガポールの紀伊国屋書店に行ったら野村順一さんの
『色の秘密』(文春文庫PLUS)という本を見つけ、買って
しまいました。大学生のとき、英文学科だったのですが、
「色彩論」に関するレポートを書いたことがありました。本屋
でよく「この本を自分が買わなかったら誰が買うだろうか」と
いう妙な使命感を感じることが多く、このときもそれを感じた
ので買ってしまったのであります。

この野村順一さんという人は、1927年生まれの商学博士で、色
に関する著書が何冊もあります。2004年に亡くなったのですが、
この『色の秘密』が単行本として世に出たのが1994年。文庫本
になったのが2005年7月10日。私が買ったのは2005年11月
25日の第五刷なので、これはかなり売れたのではないかと思わ
れます。

私の好きな色は黄色です。中学の頃に自分の好きな色は黄色
であると自覚しました。どういうきっかけだったのかは忘れま
したが、それ以来、自分の好きな色はずっと黄色です。黄色と
言っても若干オレンジがかったのが好きです。あと黄緑色も好
きです。衣類とかで黄色や黄緑色を身につけることは少ないで
すが、現在のシンガポールのオフィスの壁の色は、黄色と黄緑
色のツートンカラーです。

この本の中に次のような一節があります。「生後二ヶ月ないし
三ヶ月で色彩識別の能力が芽生える。乳児は黄色が一番好きで、
つづいて白、ピンク、赤、橙という順序で好む」と書いてあり
ます。ということは、私は乳児レベル?
何だか乳児から成長が止まってしまっている感じだなあ。

それはまあいいとして、黄色を好む人の基本性格というページ
に、次のようなことが書いてありました。
「精神的に冒険好きで、つねに目新しさを求め自己実現
したがっている。表情に富んでキラキラしているので、
多くの人々に暖かさを与える。優れたビジネス頭脳が
あり、企業経営を成功させる。強烈なユーモア・センス
もある」

う~ん、あたっているとも言えるし、違うとも言える。まあ企業
経営に関しては成功してほしいですけど。

ところで、私の妻の下町娘の好きな色はピンク。という
ことでピンクの基本性格を見てみましょう。
「十分な教育を受け、裕福に生活している。彼らの本音は赤が
好きでたまらないのに、慎重を期するたてまえから赤を
選ぶ勇気がない。ピンクを好む人は、愛情、感情にかけ
ては細やかで、よく気配りをし、それが長所となっている。
感情で友人を排除することはなく、大きな心で受け止めて
くれる。しかし当人は傷つきやすいタイプである。他人に
対しては責任をとる。教育者や保護者的な立場に立つのに
ふさわしく、人を元気づけてくれる。反面、ピンクを好む
人びとは、人から守られたり特別の待遇をしてもらいたが
る。積極的に愛情を求め、[愛されていて何の心配もない]
という実感を非常に好む」

う~む、たしかにそれは言えてる。そうなんだよね。

さて、上の写真のページもちょっと面白い。「男性が自分の好む
色で分かる理想の女性像」と「女性が自分の好む色で分かる
理想の女性像」の一覧が出ています。さっそく男性の黄色を見て
みましょう。
黄色→社交的で、話好きな女性
むむ、たしかに。下町娘もどちらかというと
そのようなタイプでありますが。

ついでに、主な色はこんな感じです。
赤→活発で感じやすい女性
ピンク→母親のようなタイプ、または令嬢タイプ
緑→健康を気遣い、心身を癒してくれるタイプ
青緑→精神的に奮い立たせてくれるパートナー
明るい青→芸術家ないし創作活動のパートナー
濃い青→女性経営者
藤→直感力があり、つねに精神的なパートナーになれる人
紫→感性が豊で、高貴な女性
茶→堅実で、支援し、助けになるパートナー
黒→自力本願が過剰で、パートナーはいらない
白→独立したさびしい女性
灰色→おとなしく服従し、あっさりした女性
銀→ロマンチックで信頼に値する友人
金→自分で目的を達成し、成功した女性
という感じです。黒が好とか言ったら、「パートナーはいら
ない」ということになってこれはこれで問題。

さて、女性のほうはどんな感じでしょう。まずはピンクを見て
みましょう。
ピンク→父親タイプ、または子供じみた恋人
う~ん、下町娘はそういうのが好みか。でも父親
タイプと子供じみた恋人って両極端すぎない?
ついでに、女性の他の色を見てみましょう。
赤→現実的で、地に足のついた男性
橙→動機付ける人、仕事のパートナー
ピーチ→いつも親切に気遣ってくれる優しい男性
黄色→仲のよい友達、信頼のおける相談相手
緑→医療のパートナー、人道主義的な男性
青緑→独立して精神的に激励する男性
明るい青→芸術家、創作活動のパートナー
濃い青→仕事、経営のパートナー
藤→あなたの感性に敏感なタイプの男性
紫→牧師など精神的パートナー
茶→堅実で、あなたを支援し、守ってくれる男性
黒→自力本願だからパートナーはいらない
白→一匹狼だからパートナーはいらない
灰色→あなたを支援し、おとなしく服従する男性
銀色→騎士のような男性
金→銀行家など、裕福な男性
う~ん、白とか黒が好きな女性は孤独癖があるのかなあ。
銀色の「騎士のような男性」って今時いるんかいね。金色の
「銀行家」ってちょっと短絡的すぎない?まあ金色が好きな
女性はゴージャスな女性だから、お金に縁のある男でないと
無理かもしれないですけどね。

さて、自分の適職は何でしょうか?黄色好きの男性の適職は、
営業マン、喜劇俳優、漫才師、
カウンセラー、コンサルタント

そうそう、去年、カナダのモントリオールでプレゼンテーション
をした時に、欧米人の人たちから、私には天性のコメディアンの
センスがあると言われたことがありました。コンサルタントとか
やってみたいですよね~。

ピンク好きの女性はどんな感じでしょう。
教育者、華道、茶道の家元、
舞踏家、琴、三味線の師匠、ファッション
デザイナー、作家

なんかすごい人ばっかりじゃん。これはちょっとレベルが高すぎ。
でもコメントのところに「未知数の魅力で、本能的に男性を男に
する」と意味深のことが書いてあるではありませんか。これって
すごくないですか?下町娘さんよろしくお願いします。

ところで、本日の大河ドラマの『功名が辻』、お拾くん可哀想
でしたね。「ご下命とあらば従いまする。されど、そうでなけ
ればいやでございまする」と泣きそうな拾。
「父の命である」一豊がきっぱりと言う。
「かしこまりました」お拾くん、よく言った。大人だねえ。
お拾くんは青っぽい着物を着ていました。ちなみに青が好きな
人の性格は「深謀遠慮を身につけ、果敢な行動力を発揮する。
強い性的衝動を持つが、理性的に制御する」ということでまあ
ぴったりですね。お拾くん、がんばって生きてね。

ところで、ドラマのずっと前の回の話ですが、織田信長軍の
旗指物が私の好きな黄色だったのがちょっと気になっていまし
た。これは史実?それとも演出の人の好み?下町娘も、以前、
「織田信長って黄色が好きなの?」という疑問を
持っておりました。どなたかご存じの方は教えてください。


はじめての海外出張

2006-09-23 23:55:24 | ビジネス
それはもう25年も前のことです。会社に入ってはじめて海外出張は
ロサンゼルスのハリウッドでした。商品プロモーションビデオの撮
影の仕事でしたが、会社に入ってまだ間もない私にとって、いきな
りの海外、しかもハリウッド。これはすごい緊張でした。

飛行機にも慣れていない。アメリカなど行ったこともない。しかも
とっても怖~いクライアントと二人だけ。この人はやたら厳しいの
で有名でした。もし何かひょんなことで機嫌をそこねたら、とんで
もない事態になるんだろうなと不安満載。

そんな状態でいきなり成田から飛行機に乗る。クライアントの担当
者は、飛行機にはかなり慣れている雰囲気。私の緊張は高まる。
ロスは暑いという情報だったので、私は半袖のシャツに薄手のズボン
という軽装。クライアントの担当者は、ウィンドブレーカーを着て
いる。「飛行機の中は寒いからね」との一言。え、そうなの?

飛行機に乗ると、クライアントは慣れた感じで空席を見つけ、さっさ
と席を移動して横になる。旅慣れている人はすごいなあと感心しなが
ら、その人から旅の極意のようなものを学んだ気がします。
Itinerary(旅程)という単語も成田で飛行機を待っている間に、その
人から教わりました。飛行機の燃料は翼のタンクに貯蔵されていると
いう雑学などもその人が教えてくれました。教わるばかりの私でした。

それは今よりもおおらかな時代でした。ロサンゼルスに着いて、アメ
リカ人のスタッフと打ち合わせを終えたあと、クライアントは週末に
サンフランシスコに遊びに行きたいと突然言うのです。すぐに飛行機
を手配して、ロサンゼルスの小さな飛行場から、サンフランシスコに
飛びました。たしかバーバンクという飛行場でした。

サンフランシスコに到着して、バスで市内まで。そこの案内所でホテ
ルを手配。フィッシャーマンズワーフのホテルにしました。あとは
サンフランシスコの市内観光。フッシャーマンズワーフや、対岸の
サウサリート、バークレーの大学キャンパスにも行きました。私は
内心びくびくしながらも、ツアーコンダクターに徹して、
全然知らない街を案内したのでありました。

サンフランシスコの街は、気候もよく、観光するには最高でした。
私は幸いにも地図を見てナビゲーションするのは好きでした。今から
思うと、全く知らない街でよくあっちこっち行けたものだと感心して
しまいます。フィッシャーマンズワーフからフェリーで対岸
のサウサリートまで渡り、そこからバスで市内まで戻ってきて、バー
クレーまで電車で行きました。かなりの部分はそのクライアントの
無謀な行動力のおかげではありましたが。

その後、ハリウッドでのメインの仕事のほうは何とか無事に片付きまし
た。ドラマ仕立てのプロモーションビデオで、撮影はすべてスタジオの
セットでした。本場の撮影スタッフは、さすがに映画の本場だけあって
いろんなスタッフがかっこよく立ち回っていました。カメラを回す前に
出すカチンコもなんだかかっこよかった記憶があります。

この出張を終えて、とくにクライアントの機嫌をそこねるような事態が
起こらなかったのは、奇跡的なことでした。一つ間違えば、旅先での
トラブルは十分ありえました。海外出張自体がはじめて私は、内心常に
びくびく、おどおどしていたのですが、何とか無事に終了して、ほっと
しました。

それから海外出張は数多く、今ではかなり慣れているのですが、最初の
出張のことは今でもはっきりと覚えています。はじめての海外出張では、
未経験のことをいくつもクリアーしていかないといけないので、これは
大変です。何かのひょうしにパニックになってしまうと、忘れものをし
たり、とんでもない事故に遭遇してしまう危険もあります。こういうの
はやっぱりいくつか経験を踏んで、旅慣れていくというのがよいので
しょう。

そういう私も、実はその後、旅先でスリにあったり、飛行機に物を置き
忘れたりという経験は山ほどあるのですが、そういう経験も重ねながら
旅慣れてきているような気がします。今度、チャンスがあれば、旅先で
の失敗談などもしてみたいと思います。そっちのほうが参考になるかも
しれませんね。

リセット

2006-09-21 23:43:13 | 日本
この写真は静岡県の掛川の新幹線の駅の風景です。掛川城が見え
ます。掛川城といえば、今の大河ドラマ『功名が辻』の山内一豊
ゆかりの城。山内一豊の人生を見てみると、いくつかの人生の岐
路を経て、その都度、精神的なリセットを体験しました。
織田信長から、豊臣秀吉、そして徳川家康へ、主君が変わるたび
に自分の価値観をリセットしなければならなかった。それはまあ
大変なことだったろうと思います。

東京の地下鉄に乗っていたら、雑誌『トラバーユ』の中吊り広告
のキャッチコピーが「人生リセット」というものでした。今回た
またま、東京のマンションを引っ越ししていて、これまで使って
いた家具とか、書籍とか、衣類とかを思い切って処分したのです
が、これはまさにリセットという体験なんだなあと思いました。

書籍とか改めて見ると、捨てられないものがいくつもありました。
でも、「この数年間一度も見る必要のなかったものは、本当に
必要な物ではないんじゃない?」という下町娘の言葉が
あまりにもグサリと真実を突いていたので、思い切って捨てたの
でした。じっくり見ると捨てられなくなるので、あまり見ずに、
どんどん捨てることにしました。もったいないとかそういう気持
を持つ前に心を鬼にして処分することにしました。

シュラ・ラジニンという人がいます。どういう人なのかよく知ら
ないのですが、『生きる知恵の言葉』からの名言が有名です。
曰く、
「唯一、勇気のいることは、過去をきっぱりと捨てることだ。
過去を求めず、過去を積み重ねず、過去にしがみつかないことだ。
誰もが、過去をひきずっている。そして、過去に執着するからこそ、
今を生きることができないのだ」

引っ越しなどをして思うのは、人間というのは、いかに過去を捨て
きれないのかということです。実際に読みもしないのに、過去の本
を捨てずに持ってしまう。実際に着ることはないのに、過去の衣類
を捨てきれずにいる。過去のものを処分するということは本当に
勇気のいることです。

今回捨てた物のなかに、クロスカントリーのスキー板がありました。
10年以上使ってなかったのですが、捨てるのはかなり勇気がいりま
した。でも思い切って処分しました。インターネットのオークション
とかをすれば売れたのでしょうが、早く処分することが課題だった
ので、そんな欲をいだかずに、過去と決別をすることを選びました。

バブルの時代に買ったダブルのスーツもいくつか捨てました。ズボン
はウェストがまったく入らなくなっているので、もう履けません。
そういうのも思い切って捨てました。

最近、ゴミを溜め込んでいる人のところでボヤ騒ぎがありましたけど。
物が捨てられなくなる人の気持もよくわかります。私のオフィスが
そうです。過去の書類はなかなか捨てられません。捨てないでいると
どんどん書類の山が築かれていきます。そして結局、古い書類も新し
い書類も探し出すのがとてもタイへンになってしまうのです。思い
切って捨てるにかぎります。

東京に滞在中

2006-09-18 18:00:33 | 日本
この写真は、東京の門前仲町永代橋の東横インです。今日チェック
インをしました。下町娘が探してくれたのですが、値段も
正規料金でシングルで6800円。朝食付き。しかも、しかもですよ、
何と、まさかのインターネット接続無料まさか日本にも
こういうホテルがあるとはびっくりです。

部屋のすべてにLANケーブルがついていて、何の手続きもなしに
接続できてしまいました。これは感動です。しかも、部屋の設備
もかなりいい。部屋の広さはそんなでもないけど、ベッドも
シングルにしてはかなり大きいし、ユニットバスもそんなに狭苦
しい感じがない。さらに照明器具もお洒落だし、ホテル自体が
新しくて奇麗。これはなかなかの大ヒットです。中途半端の一流
ホテルに泊まるよりも全然いいです。ウェブサイトはこちら。

メンバーになるとさらに特典があるというので、早速メンバーに。
日本のあちこちにチェーン展開しているようなのですが、愛知県の
豊橋にもあれば最高です。また海外では中国の審陽にもあるようで
すが、もっと海外展開してもらいたいものです。

さて、昨日の夕方、愛知県の田原の祭りがこれからクライマックス
の花火大会を迎えようとする頃に、東京へと戻ってきました。
花火大会と言っても、通常の打ち上げ花火や仕掛け花火はもちろん
あるのですが、この地方の名物の手筒花火があります。大きな筒を
縄で巻いてある花火を、人が抱えるように持つものです。火花が上
空数メートルまで上がり、花火を持つ人の上にも火の粉が降り掛か
るもので(何か言葉だけで手筒花火を説明するのはなかなか大変で
す)、東三河地方から遠州地方にかけてよく行われているものです。

天気予報では雨だったのですが、午後遅くなってから天気がよくな
り、花火が予定通り行われたのは、奇跡的でした。本当はこの花火
まで見てから帰りたかったところですが、実は、私には翌日の大事
な予定があったので、早めに戻らざるをえませんでした。それは、
実は、何と、マンションの引っ越しでした。

私はシンガポールに住んでいるのですが、東京の西葛西にあるマン
ションを借りていました。物置代わりにと、1Kのマンションを借り
ていて、東京にいるときはだいたいそこに泊まっていたのです。
しかし、それは非常に無駄な出費なので、早めに片付けようと思っ
ていたのですが、ずるずると時は過ぎてゆきました。

今回、思い切って、9月いっぱいで契約を切り、引っ越しをするこ
とにしました。前からちょっとずつ荷物はまとめてあったのですが、
今日一日で引っ越しを実行することにしたのです。

今朝はどしゃぶりの雨でした。10時過ぎには、雨もあがったので、
下町娘の家のご両親に来てもらって、引っ越し開始。
その後にベッドとかの大物の処分品を、廃品処分業者に頼んで、
来てもらいました。その前に、電化製品回収業者の車が近所を通った
ので、スピーカー、ミニコンポ、ビデオデッキなどを持っていって
もらいました。これ全部無料引き取りかと思ったら、物によっては
お金が必要なんですね。

その後、ベッドとかソファーとかの廃棄を頼んだのですが、何と
11万5000円もかかってしまいました。物を処分するのにこんなに
お金がかかるとはびっくりです。

今日の午後一時前には、部屋のなかは奇麗にからっぽになってし
まいました。何もなくなった部屋は広々としていて(ほんとうは
そんなに広くないのですが)、一抹の寂しさが感じられました。

というわけで、いろんなことがあった今日一日でした。久々に
肉体労働をしたので、身体のあちこちが痛いです。明日は、
東京の本社で仕事をしに行ってきます。
ではまた。

今日から田原祭り

2006-09-17 00:31:52 | 故郷
今、愛知県の田原に帰っています。今日と明日は田原祭りです。
この上の写真は、夜の山車の写真ですが、昼の山車とか神輿とか
天筒花火とかいろいろな出し物があります。

この祭りには、いつもはるばるシンガポールから戻ってきます。
天気予報はあまりよくないようなことを言っていたのですが、
今日の土曜日は最高のお祭り日和の天気でした。

弟がお祭りに出ているので、私は、実家の駄菓子屋で店番をして
おりました。値段が、10円から50円くらいのものが多く、
品数がものすごく多いので、子供がいっぱいの品物を持ってきて
「おじちゃん、これぜんぶでいくら」といわれたときには、
計算ができずに困ってしまいます。

たまにこういう仕事をするのも新鮮ですね。では、今日はこれ
くらいで。ではまた。

シンガポールを後にして

2006-09-14 23:49:36 | シンガポール
シンガポールのチャイナタウンはムーンケーキフェスティバルの
飾り付けがしてありました。これから日本に向かうので、季節物
の月餅を買おうと思って、チャイナタウンに寄りました。この季節
は、レストランでもホテルでも月餅を売り出します。ロータスペー
スト(蓮のあん)に塩漬けの卵の黄身が入っているのが定番ですが、
ヤム芋ペーストのものや、ドリアンペースト、カスタードなどいろ
いろの種類のものがあります。また外側も茶色いのから、生菓子の
生地のものまであり、バラエティーにとんでおります。

そういうムーンケーキフェスティバルをやっているかと思えば、
マレービレッジの近く(パヤレバからユーノスの間)はイスラムの
ハリラヤの飾り付けが出ています。そうかと思えば、インド人街で
はディパバリのお祭りの準備が進んでいます。シンガポールはいろ
んな文化が混ざっているので面白いですね。

今週は、シンガポールはIMFです。サンテックの会議場でやっている
のですが、ニコルハイウェイが警備のために通行止めになっていま
した。今朝は家から車でニコルハイウェイを走ってきたのですが、
途中で迂回しなければならなくなっていました。

今日は朝から夕方まで会社で普通に仕事をして、家に帰り、荷物を
準備して、チャンギ空港にタクシーで向かい、今空港でこのブログ
をアップしています。もうじき飛行機が出るので、今日はこれくらい
で失礼します。では、また日本で。

連日移動的生活

2006-09-14 02:51:40 | アジア
その昔、沢田研二がTOKIOの歌の中で、東京のことを「スーパー
シティー」と歌ったが、上海の風景を見ると、この街こそ本当に
「スーパーシティー」と呼ぶにふさわしいと感じます。この上の
写真は、今日たまたま訪問した会社の50階からの風景です。高層
ビルが地平線までつながっているというこの壮大な景色、これは
もはやSFの世界です。

今、シンガポールでこれを書いていますが、午後4時35分の飛行
機でシンガポールに戻ってきました。明日の木曜日の夜の飛行機
で今度は日本です。こう連日、飛行機に乗っていると、自分が今
どこにいるのか一瞬わからなくなる時があります。毎日、風景が
変わり、空気が変わると、その変化がまた刺激的でよいのですが、
なかなかゆったりと落ち着いた気分にはなれないものです。

その昔、松尾芭蕉は、旅人として、俳句創作の旅を続けましたが、
こう移動が多いと、なんとなく松尾芭蕉の気持もわかるような気も
してきます。が、私は俳句はできません。このような気持は俳句と
いう表現形態にはおさまらない気がします。やはり俳句というのは
日本の風土に根ざした表現形態なのでしょう。

今日、上海で日本人のお客さんと雑談をしていたら、本当は中国で
は外国人は星のない安ホテルには宿泊できないのだとか。外国客に
もしものことがあってはいけないので、外国人にはちゃんとした
星付きのホテル(三ツ星とか四つ星とか)に泊まってもらうように
していると言っていました。従って私が、無錫とか、常熟で泊まった
安ホテルは、本当は外国人は泊まれないのではということでした。

そういえば、ホテルにチェクインするとき、無錫のホテルでは、
一応パスポートはチェックしてましたが、二番目の常熟のホテルで
は、スタッフの中国人はみな身分証明書を提示させられていましたが、
私がパスポートを出そうとしたらフロントの人は興味がなさそうと
いうか、見て見ぬ振りをしていたのか、見ようともしませんでした。
本当は外国人を宿泊させてはいけなかったのかもしれませんね。

今回は、宿泊先を中国のローカルスタッフに手配させたのですが、
もし外国人として国外から予約しようとしていたら予約自体ができ
ないのかもしれません。中国の安ホテル事情はちょっと調べてみる
価値がありそうです。その上海の日本人いわく、やっぱり安全が第一
なので、いくら予算節約ということはあろうとも、仕事でいく場合は
ちゃんとしたホテルに泊まったほうがよいというアドバイスでした。

何かことが起こってからでは手遅れですので、このへんは今後注意
しないといけないと思います。ではまた。

上海の夜は更けて

2006-09-13 03:18:47 | アジア
常熟から上海に到着しました。ホテルは上海のホリデイ・イン・
VISTAというちゃんとしたところになりました。部屋もいきなり
シックです。インターネットも一日100元の有料となりました。

インターネットは接続できるのですが、メール接続が昨日の夜中
からできなくなり、困っています。昨日の夜中まで、受信も発信
もできていたのですが、ちょっと重いメールを送ろうとしている
最中に途中で止まってしまってみたいです。一日たてば大丈夫か
なと思ったら、相変わらず接続ができません。せっかくこれまで
よりもいい環境のホテルなのに残念です。

こちらに来てからというもの小雨が降り続いています。常熟のホ
テルをチェックアウトしたのが午前8時、ホテルに朝食が付いて
いるということで7時半に頼んでいたのですが、来たのはかなり
ボリュームのある麺と肉まんが二つ。こんなに朝から食べられま
せんぞ。麺は通常のラーメンの二束くらいの量のような気がしま
した。時間もなく、味もいまいちだったので、二口くらいで残し
てしまいました。

常熟のホテルの窓から外を見ると、何と目の前が盧山公園という
公園になっていて、ミニ万里の長城のような壁が山の上まで続い
ています。山と言うよりも丘のような感じですが、有名な場所の
ようです。この常熟という街は太公望にもゆかりがあるというこ
となのですが、よくわかりまえんでした。

ここにも巨大な工業団地があって、今日はそこの一つの工場での
撮影を行ってきました。電気部品を作っている工場で、いかにも
製造業という感じの雰囲気でした。日本人の技術者たちが何人も
技術指導のためにいろんな部署に来ていました。あらためて日本
の技術力の底力を感じました。

私は、たまたま撮影のために短期間で訪問しているのですが、
こういうところで日常生活をおくるというのも大変なことなのだ
ろうなあと思ってしまいました。ここで働いている日本人の人たち
は日本の田舎の工場で働いていたのでしょうが、いきなり中国の
田舎で生活しなければならないとは、大変な人生です。

今日はそこの工場で、働いている中国人の従業員の撮影を行ったの
ですが、写真やビデオで一人一人を撮影してみると、実に表情豊か
でいい感じです。カメラを実際に操作をるのは私ではなく、他の
現地スタッフが、「笑って」とか中国語で指示をしながら撮影しま
す。日本人のカメラマンがもし撮影を行った場合は、従業員の人も
緊張してしまい、いい表情が引き出せなかったかもしれないなと
思いました。今回、すべての撮影スタッフに現地の人間を使いまし
たが、そういう意味では成功だったのかもしれません。

今回のプロジェクトで、いろんな国のいろんな都市で同じような
撮影をしていますが、撮影スタッフも工場で働いている人たちも
国は違っても仕事の仕方は共通するものがあるので、国や文化の
違いよりも世界的に共通のものがあるんだなと認識しました。

そんなこともあるので、自分が今どこの国にいるのか、ふと分か
らなくなってしまいます。こういうのが本当のグローバルという
ものなのかもしれません。

明日は上海の市内のオフィスでの撮影後、午後の便でシンガポール
に向かいます。

ここは何処?

2006-09-12 01:05:06 | アジア
今朝、無錫のホテルをチェックアウトして、無錫の新区の工場
での撮影を終えて、常熟という街のホテルに辿りつきました。
Sijimeijia Hotelというふうに聞いていたのですが、漢字では
四季美家と書くようです。英語の名前はFour Seasons Sweet Home
と書いてありました。

で、部屋の中はこの上の写真のこんな感じです。この部屋はこの
ホテルで一番高いスウィートエグセクティブですが、一泊280元で
朝食がついています。昨日泊まった無錫のホテルよりも高いですが、
日本円に換算すると4150円くらいです。

部屋の中はかなり広くて、この写真の右側は麻雀ができるような
四人がけの正方形のテーブルがあります。仕切りのところにテレビ
が置いてあって、テーブルではもちろんインターネット接続が無料
でできますさすが中国です。

しかし、この写真でおわかりのようにベッドがピンクなのです!
これってひょっとしてラブホテル?と思ってしまうのですが、ホ
テルのサブタイトルはきちんとビジネスホテルと書いてあります。
このピンクの雰囲気は、私の妻の下町娘が大好きな色です。
でも、このピンク、ちょっと強烈すぎるんではないのかな?

このホテルに中国人スタッフ数人とチェックインした時に、フロ
ントに奇麗は女性が二人いたのですが、その一人がオーナ-とい
うことでした。きっとそのオーナーの趣味でこういう感じにした
のかと納得。リゾート地のペンションという雰囲気です。

朝食付き(しかもルームサービスのみ)というのがペンションっ
ぽいですよね。朝食は、麺かおかゆかパオ(まんじゅう)で選べ
るようですが、私はミックスにしてもらいました。どんなんが来
るのかな?

ところで今朝は、無錫の駅の近くから、新区の錫梅路(シーメイ
ルー)という通りにある工場を目指したのですが、上海の運転手
の無謀なこと。全然アバウトに進んでいくので、目的地に辿りつ
けるはずがない。新区という道路標識に従っていたつもりなのに、
何だか田舎道に入ってしまう。私は前に3回くらい新区には来て
いるので、これは絶対雰囲気が違うと指摘。運転手が、そのへんの
工場で聞いて、やはり間違いだとわかり、もと来た道を引き返す。

運転手は無謀にも、道行く人や運転手に「シーメイルーはどこ?」
と聞きながらどんどん進んでいくのですが、辿りついたところは
新梅路(シンメイルー)。結局そこからスタッフの一人がタクシー
にのり、上海運転手のバンを誘導していくことに。結局全然見当
違いのところに来ていたようでした。車で10分くらい走ったあたり
で工場の看板を発見。何とか行き着くことができました。

しかしながらこの上海運転手のいいかげんさにはびっくりです。
方向感覚は全くなく、猪突猛進型。こんなんで目的地に辿りつける
わけはないのです。私は事前に地図で確認していないと気がすま
ないのですが、この運転手は地図を信じていないかのような人で
ありました。

常熟(これはチャンシューと発音します)に来るのも大変でした。
反対車線を走っての追い越しが数十回。そのつど警笛をがんがん
ならされているのですが、全然平気です。普通の人のいいおじさん
なんですけど、中国で仕事をするのは疲れますね。

今日は、このピンクのベッドで、どんな夢を見るのやら。明日は
また朝から撮影が入っている。ではおやすみなさい。

無錫旅情

2006-09-10 21:33:43 | アジア
昨日はフィリピンのマニラにいたはずなのに、今は中国の無錫です。
昨日一度、シンガポールに戻ってから、今朝の飛行機で上海に到着。
そこから車で、無錫までたどり着きました。MOTEL168という、無錫
の鉄道駅のすぐそばのホテルに宿泊しています。ホテルのすぐ前に
小さな河が流れていて、その向こうは、駅前の広場が広がっています。

今、中国人スタッフ5人と近くのレストランに食事に行って、帰っ
てきたら窓の外の、駅の向こうに花火があがっていました。部屋か
らばっちり見えましたので、得した気分です。

上の写真がホテルの部屋です。窓の向こうに見えているので駅の建物
です。部屋の面積は、日本のビジネスホテルよりも全然広くて、窓が
大きいために(さらにこの部屋は角部屋です)、とても広々と見えます。

値段が226元(日本円で約3360円)で、名前がモーテル168という名
前なので、どんなにボロいホテルだか心配だったのですが、結構新し
くて、清潔でお洒落な雰囲気なので安心しました。ちなみにこの
モーテル168というのはスタンダードルームが168元(約2500円)と
いう格安の料金設定で上海地区を中心に展開しているホテルチェーン
です。上海市内にも10数店のホテルがあるようです。

ちょっと調べてみたら、このモーテル168のことを書いてあるブログ
を発見しました。こちらです。
へー、サービスは準三ツ星サービスで売っているのか。豪華な設備は
ないけれど、安全で、奇麗で、機能的。しかももちろん、インター
ネットは無料で使い放題。机のところの壁からイーサネットのケーブ
ルが出ています。中国はこういうところが進んでいるというか、気前
よくインターネット接続をさせてもらえるのは感激です。

この部屋は、このホテルの中でも一番高いエグゼクティブルームです。
一番高いと言っても、3360円程度なので、全然安いのですが、なんだ
か、こういう値段のところに泊まると、値段の感覚がおかしくなって
しまいますね。

無錫には、これまで3回くらい来たことがありますが、無錫と言えば
「無錫旅情」ですね。中山大三郎作詞/作曲(昭和61年)、尾形大作
の歌で大ヒットした曲です。「君の知らない 異国の街で 君を想え
ば 泣けてくる」というねちっこい演歌です。以前、無錫の観光地の
太湖のほとりの公園に行ったとき、「無錫旅情」の歌詞が石碑になっ
ていて(中国語と日本語併記)で感動したものです。

中山大三郎さんも、尾形大作さんも、無錫を有名にしたということで、
今では名誉市民になっているとか。この「無錫旅情」の歌は何度かカ
ラオケで歌ったことはあるのですが、作詞作曲の中山大三郎さんって
どういう人だったのか興味がありました。天童よしみの「珍島物語」
も彼の作品だったのですね。「人生いろいろ」もそうだったのですね。
え?斎条史郎の「夜の銀狐」も?中山大三郎さんは、2005年4月に
逝去されたようです。

ところで無錫という都市は、市区人口は200万人を越えているようです
が、無錫市全体の人口は450万人近くになるようですね。工業団地には
日本企業もかなり進出してきています。明日の撮影もじつはこの工業
団地の中の日系企業です。

このあたりは、昔の呉の国があったあたりで、太湖は「呉越同舟」の
発祥地となったところだし、「臥薪嘗胆」、「ひそみにならう」など
の故事のあった場所です。越の国の句践(こうせん)の名参謀だった
范蠡(はんれい)という人に関連する「蠡園」(れいえん)という
庭園が観光地として残っています。絶世の美女、西施(せいし)を
敵国の呉の王様に差し出して、呉の王を骨抜きにするという策略など
を行いました。また孫子の兵法が活躍したのもこのあたりですね。
歴史が溢れているこの地域なので、本当はもっと長くいたいのですが、
明日は常熟という街に移動します。

昨日、「秀吉の枷」をやっと読み終わったのですが、その終わりの
ほうに、自決を前にした前野将右衛門が范蠡のことを語る部分があり
ました。竹中半兵衛も、黒田官兵衛も、前野将右衛門に范蠡の話を
したらしいのです。范蠡は、越王句践に覇をとなえさせるのですが、
その後、すぐに身を引いて商人になってしまいます。官兵衛も、秀吉
に仕えるのも潮時があるということで范蠡の話をしていたようです。
前野将右衛門は、「自分は、ちょっと長く仕えすぎてしまったようだ」
と言いながら、自害していくところが哀れでした。

何だかいろいろと考えさせられる無錫の街です。連日、国境を越えて
の移動が続いていますが、どんなに移動していても、世界の中心には
下町娘がいる、なんちゃって。失礼いたしました。
「功名が辻」の一豊さんも、出張につぐ出張でも、常に千代さんの事
が心の中心にあったのでしょうね。

水の都(?)マニラ

2006-09-09 02:30:23 | アジア
昨日の木曜日からマニラに来ております。上の写真は、金曜日の
夕方の景色です。夕方から降り出した土砂降りのせいで、この一
帯は洪水状態になっています。場所はよくわかりませんが、マニ
ラの中心地の、ファーストフード店が集まっているあたりです。

マックが水没しています。と言っても店内は、ちょっと高くなっ
ているので、中にまでは水が入っていませんが、まわりは水浸し
です。マックだけではなくて、隣のKFCも、その他の店も水の中で
す。これはちょっと尋常じゃないですが、雨期のマニラではこう
いう光景は日常茶飯事のようです。まあ大変な国だ。

カメラマンの車で、土砂降りの中を私が泊まっているドゥシット
ニッコーホテルまで送ってもらうところなのですが、この洪水で
車が立ち往生してしまいました。我々が乗っている車は、4WDの
9人くらい乗れるバンで、車高が若干高いのでよいのですが、
普通の乗用車は、床くらいまで水が来ていて、車内に水が入って
きたら大変だろうなと思いました。車高の低いポルシェとフェラー
リかだったらこういうときは悲惨だと思います。

歩いている人は膝くらいまで水に浸かってしまいます。マックに
来ていた人も、駐車場の車までいくのが大変なので、出るに出ら
れないという人たちが沢山いるようでした。

先のほうでは、水没した車がエンストを起こして道の真ん中で
止まっていたりして、車がなかなか動きません。またその先の
交差点付近は、右折左折が大混乱状態なので、つまっていて
全く身動きがとれないです。

こんなときでも、マックのデリバリーの人たちは黄色いカッパ
を着て、がんばって宅配をしているようでした。バイクもかなり
水に浸かっているので、徒歩で届けている人もいました。いくら
なんでもこりゃ大変です。

秀吉が高松城を水攻めにしましたが、これはマックの水攻めです。
孤立したマックから帰るに帰れない人々。幸いにしてここは24
時間営業なので、いくらでも居ることができます。また食べ物は
十分にあるので、餓死する危険もありません。

こういう水害状況のときに歩くのは、長靴だと長靴の丈以上の水深
となった際に余計なことになるし、靴を脱いで裸足だと危険だし、
靴を履いたままだと、靴はいっぺんでダメになるし、こういう時は
サンダルか、クロックスの靴とかが威力を発揮するんだろうなと
思いました。

自分はダイビング用のシューズを持っていますが、それもいいです
ね。防水の靴は、膝くらいまで水が来る状態ではほとん意味がなく
なってしまいます。このような状況では、水と同化して生きるしか
ないのですね。(でも自分は同化したくないですけど)。

さて、明日はシンガポールに戻り、日曜には無錫に入ります。中国
の無錫旅情の無錫です。ではまた。

鶴松君は疑惑のデパート

2006-09-07 03:40:28 | 戦国時代
日本は、「紀子様の男子ご出産」のニュースでもちきりだったようで
す。ニュースは朝からひっきりなしにその話題を繰り返し、何だか
とても平和になったような雰囲気でした。41年ぶりの男子だとか、
皇位継承3位であるとか、日本は全国的にお祝いムード。一人の赤ん
坊の誕生がこんなに話題になるというのは、何だかすごいことです。

東京で働いている私の妻の「下町娘」は、その日、自分で子供を
出産する夢をみたとか。まったくの安産で、こんなに簡単に生まれ
ちゃったと思ったところで目がさめて、テレビをつけたら紀子様の出産
のニュースをやっていてびっくりしたそうです。奇遇です。これは
すごい超能力かも。

私は、ここ一日二日、「功名が辻」の中で、茶々(淀)が産んだ鶴松君
のことをちょっと調べていました。秀吉が53歳か54歳のときに、淀と
の間に生まれたとされる子供なのですが、この子が生まれたときも、
大変なお祭り騒ぎだったようなのです。

司馬遼太郎先生の「功名が辻」の本の中で、鶴松君が誕生した頃の様子
が次のように表現されています。「鶴松誕生のときは、天子は産衣を贈
られ、公卿、大名、富商は大坂城へ引きもきらず参賀にゆき、城内は
ごったがえしたものだった」これは何だか今の紀子様の男子誕生と同じ
ような盛り上がりだったようですね。

でもこの淀殿の鶴松君は、じつは疑惑の子供だったようなのです。
それまで、数々の側室を相手に子作りに励んできた秀吉さんですが、
全然子供ができなかったのですね。寧々さんも、子供ができない原因
は、自分のほうにあるのか、秀吉のほうにあるのかさんざん悩んだ
ようなのですが、結論としては、秀吉のほうに問題があるということ
でみんなうすうす納得していたようなのですね。

それが53、4歳にして初めての子供!これはちょっと疑いたくなっ
ちゃいます。ドラマとかだと、なんだかすごい年寄りに見えますが、
じつは自分の年齢とそんなに変わらないのですね。う~ん、自分も
もうそんな歳か。ちょっとショック。

この鶴松君の誕生は、寧々さんにとってはショックです。側室に先を
越されたというショックもあったのですが、今まで不妊の原因は夫の
秀吉にあったと思っていたのに、実は自分のほうにこそ原因があった
可能性があるのです。いろんな意味でショックだったのでしょうね。

加藤廣さんの小説『秀吉の枷』の中では、鶴松君の誕生のあたりのこ
とが非常に興味深く書かれています。秀吉は淀の懐妊の知らせに歓喜
するのですが、その後で主治医に出産予定についてこっそりと訊ねま
す。「来年の5月」との主治医の答え。秀吉はさらに、上旬か、中旬
かと訊ねるのですが、主治医は下旬と答えます。秀吉はもともと計算
には長けているので、逆算をします。淀(茶々)のもとに足しげく
通ったのは7月以前。出産が5月下旬ということだと、計算が合わ
ない。まさか、自分の子供ではないのでは、と思うとぞっとする秀吉
なのですが、それを人に言うことはできない。

結局は、悩みながらも自分の子であると言い切ってしまうしか道はな
いと開き直り、自分の子供というふうに思い込むのです。疑惑の一人
は、茶々のもとにいる大蔵卿局の息子の大野治長。美男子だったそう
です。しかし、それを追求したところで、どうしようもない。大河
ドラマを見ると、石田三成がかなり怪しいですよね。

ひょっとして、三成が茶々と結託して、秀吉の子ということで、自分
たちで子供を作るという策略を弄していたのかもしれません。三成は
その頃、茶々のそばにいなかったので、それはありえないという説も
ありますが、じつは頭のよい三成のこと、巧妙なアリバイを仕組んで
世を欺いていたのかもしれません。

いずれにしても、この鶴松君、生まれてきたとはいえ、父親の秀吉に
とっては、本当は誰の子だかわからないという疑惑の子どもだし、
寧々にとっては憎き敵の茶々の子であるし、他の側室にとっては
妬みの対象でもあるし、また秀吉の甥の秀次にとっては自分の出世を
脅かすうるさい存在の子供であるし、みんなにあまり快く思われなかっ
たのではないかと想像されます。

淀(茶々)と三成にとっては、今後の豊臣家の中での地位を盤石の
ものにするための重要な戦略的素材であったろうと思いますが、
病弱のため幼くして死んでしまいます。大河ドラマの中では、あっさ
り生まれてきて、あっけなく死んでいくのですが、この死だって、
よく考えれば疑惑の固まりです。鶴松君のことをよく思わない人は
周りにいっぱいいます。そのような人たちが、何らかの手を下したと 
いう疑惑も否定できないのではないでしょうか。あるいは全くの無関
係と思われる徳川家康だって、こんな子供が豊臣家の跡継ぎとして
育っていったら自分の天下取りの邪魔になるということであらかじめ
消したということだって考えられるし(それはない?)、でも歴史の
中にはいろんなミステリーが未だ解明されずに残っていると思うの
ですね。まあ想像は勝手ですから。

というわけで、鶴松君というのは、さんざん世間を騒がして歴史から
消えていってしまいます。その真実は明らかにされないまま。今の世
の中だったらワイドショーとかで取り上げられそうなテーマですね。

ところで、このテーマにはまったく関係ないですが、あと数時間でま
た飛行機に乗らなければなりません。シンガポールのチャンギ空港か
ら、マニラにでかけます。また、工場でのビデオ撮影です。ではまた
マニラからお届けします。

「功名が辻」の副田甚兵衛に捧ぐ

2006-09-04 01:17:40 | 戦国時代
この上の写真はタイトルとはあまり関係がないのですが、シンガ
ポールの紀伊国屋(リャンコート店)の店内の様子です。本当は
こういうところで写真を撮影してはいけないのでしょうが、こっ
そり撮影してしまいました。シンガポールには、紀伊国屋がある
ので、日本人としては非常に便利です。

前にここで「秀吉の枷」を買って、未だに読み終わっていません。
この本の中では、淀が秀吉に対して受け身ではなく、戦略的な行動
に出るところも面白いのですが、このへんはまた別の機会に語り
たいと思います。

本日、題材としたいのは、今日の「功名が辻」35話の前半に出て
きた野口五郎演じる副田甚兵衛(そえだじんべい)です。彼は、
秀吉の妹の旭と結婚するのですが、家康に旭を嫁がせるために、
離縁させられてしまいます。その後、甚兵衛は行方をくらまして
しまっていました。

針売りの行商をしているところを千代に発見され、旭の手紙を
手渡されます。甚兵衛は、あくまでも自分が針売りであることを
主張するのですが、その寒い冬の夜、彼は旭の手紙を読みます。
座って手紙を読む甚兵衛に、次第にスポットライトが強く当たり
はじめ、旭の手紙のクライマックスのところで雪が降り出します。

このシーンの演出は、まるで演劇の舞台の演出のようで、テレビ
ドラマとしてはリアリティがないのですが、これはまあこれでよ
いかと納得してしまいました。私は大学時代、演劇をちょっと
やっていたのですが、このシーンの照明、演出は、その時代を
思い出して、なつかしくなってしまいました。人物がスポット
ライトに一人だけ浮かびあがり、手紙を書いた人物の声がかぶる。
そしてそこに雪が降る。いかにもの設定なのですが、この部分、
そのわざとらしさが、ちょっと気に入ってしまいました。

圧巻は、死ぬまぎわの旭のところに、副田甚兵衛の代理として
針売りの格好をした本人が手紙を読むという場面です。雨の降る
庭に現れた副田甚兵衛。傘をかぶっているので、その顔はわから
ない。懐から手紙を取り出す。しかしそれは文字が書かれていない。

この部分は、去年の大河ドラマの「義経」の中の弁慶の勧進帳の
場面を彷彿とさせますが、文字が書かれていない手紙という演出も
それだけでドラマチックです。野口五郎演じる副田甚兵衛は、手紙
を読んでいる振りをして、自分の気持を切々と訴えます。

「旭、そなたは、わしの生涯の妻じゃ。
そなたの気持がわかっておれば、関白殿下の頼みなどは振り切って
おったであろう。されど、もはやこの世で互いに添いとげることは
叶わぬようじゃ。この世で叶わぬならば、あの世でゆっくり語りあ
おう。互いの苦労自慢を致そう。そして笑いあおうぞ。
旭、いかなることがあろうとも、わしらは夫婦じゃ。
病をしっかりなおせ。待っておるぞ。
いつまでも、待っておるぞ」

副田甚兵衛は、この台詞をいい終わるや、姿を消すのですが、旭は
その言葉の余韻の中で、静かに息を引き取ります。

副田甚兵衛という人物は、これまでは全く影の薄い登場人物でした。
しかし、この回のこの場面は、最初で最後の見せ場となりました。
運命のいたずらで切り裂かれてしまった一つの夫婦。しかし甚兵衛
は、愛を貫き通します。一見、たいした活躍もせず、頼りない男の
ように見えた甚兵衛は、最後の最後で男らしさを見せるのです。

旭は、死の間際で、甚兵衛のこの言葉に接し、さぞ嬉しかったので
はないかと思います。また、甚兵衛も最後に、旭に直接、自分の思
いを伝えられて、満足だったのではないかと思います。

テレビでは、旭の葬儀の後、針を売り歩く甚兵衛が「旭!」と叫ぶ
シーンで終わっています。原作シナリオでは、「数日後、東福寺の
旭の墓前で、甚兵衛は自害して果てた」ということになっています
が、自害のシーンは敢えてカットされたものなのでしょう。自害の
シーンまで入れてしまうと残酷すぎてしまったかもしれません。

テレビでは、副田甚兵衛なる人物がかなり登場したのですが、司馬
遼太郎の「功名が辻」の中では、ほとんど話題になっていません。
また名前も、副田甚兵衛ではなく、「佐治日向守」という名前になっ
ています。ご参考までにそのあたりの部分を引用してみましょう。

「秀吉には、異母妹がいる。朝日姫といい、佐治日向守という凡庸
な武士の妻であった。美人ではなく、老いてもいた。四十四歳で
あった。この朝日姫を家康にあわせようと思い、夫の佐治に、
なにごとも天下治平のためだ。
と説得し、離縁させた。
佐治はこのことを恥じて切腹して果てている」

何とこれだけなのです。テレビの副田甚兵衛のキャラクターは脚本
の大石静先生のイマジネーションが生み出したものなのでしょう。
このドラマ全体の中では、マイナーな役所なのですが、こういう
脇役の中にもドラマ性があり、主筋のストーリーの周辺にいくつも
のドラマが平行して展開していくところが大河ドラマの大河ドラマ
たる所以でしょう。

戦国時代の混乱の中でも愛を貫きとおした男、副田甚兵衛。この
シーンを見ていて私が思っていたのは、実は、東京の下町にいる
下町娘のことでした。私たちは、彼らのように悲劇的
な状況に置かれているわけではありませんが、甚兵衛のように
純粋でありたいと思っております。

恥ずかしながら、甚兵衛の台詞を私用にアレンジしてみたいと
思います。
「いかなる状況にあろうとも、わしらは夫婦じゃ。
シンガポールに早く来い。待っておるぞ。
いつまでも待っておるぞ」
失礼しましたー。

国境のある風景

2006-09-03 10:52:36 | アジア
深センの国境の風景です。右の建物は鉄道の深センの駅、そして正面
突き当たりの建物は、国境検問所です。その向こうは香港。左のほう
にかすかに見えている緑の山は香港です。香港は、1997年に中国に
返還されたのですが、特別行政区となっている香港と中国の間には
いまだに国境が存在しています。

15年以上前に、仕事で、陸路、香港から深センに入ったことがありま
した。そのときの検問所は、ぼろぼろの建物でした。中国に入国した
とき、そこは土埃の荒野が広がっていました。それから数年間で、こ
の国境の町は急激に発展を遂げます。このあたりでは昔の面影は全く
ありません。

その時(15年以上前)は中国側の国境にはいかめしい職員がいて、
カメラなどの所持品を申告しなければなりませんでした。持ち込む
機材に関して、中国側が持ち込み禁止、一時預かりとなったものが
ありました。照明用の電源とかでしたが、これは出国の時無事に
戻ってきて安心しました。

この上の写真の国境は鉄道でしか越えられませんが、車で国境を越え
る場合は、何カ所かある検問所を通過しなければなりません。深セン
と香港特別行政区の国境は、くねくねと流れる深セン河に沿って設定
されています。この駅のあたりだけ、河が香港側に突き出した形で
蛇行しています。

この写真の検問所の左のほうにはバスターミナルがあるのですが、
そっちのほうまで歩いていくと、香港側の風景が丸見えです。こちら
側の深センが、国境ぎりぎりまで大都会になっているのに、国境の
向こう側の香港は緑の野山です。国境のフェンスも見えています。
不思議な光景です。

今まで、陸路で国境を越えた経験は、シンガポール=マレーシアの
国境を越えたことは何度かあります。マレーシアから国境を越えて
仕事をしにきている人も多いですし、シンガポールからマレーシアに
買い物に行く人も多いです。ですので、シンガポールとマレーシアの
国境は日常的な国境です。

シンガポールとマレーシアの国境は日帰りで往来する人も多いですが、
深センと香港の国境も日帰りで往来している人も多いのでしょう。
国境を越えると、通貨も異なり、物価も異なります。そういうところ
で、ビジネスチャンスを得ている人たちも多いのでしょうね。

国境というのは何とも感慨の深い場所です。最近では気楽に国境を
行き来している人は多いですが、異なる国がそこで接しているのです。
国境の向こうとこちら側で別れ別れになっている家族もいるのでしょ
う。かつては自由を求めて命がけで国境を越えた人たちもずいぶん
います。国境にはいろんなドラマが秘められています。

北朝鮮と中国の国境では、不法出国する人たちが後をたたないと言わ
れています。中国の文化大革命の頃、海を泳いで香港に密入国した人
たちも多かったとか。今は昔です。

深センでは、人々の身なりは香港とかと変わらない気がしましたが、
ときどき、汚い身なりの女性を目にしました。日本でも、ぼろぼろの
身なりをしたホームレスの人たちはいるので、深センにいても不思議
ではないのですが、まだお洒落にすればいけそうなくらいの女性が、
うす汚れた服で歩いている姿はショックでした。急速な都市化の歪み
なのでしょうか。

私と妻の下町娘の間には国境よりも、遠い距離という名前
の国境が横たわっています。やがて下町娘はシンガポール
に来る予定なのですが、まだしばらくの間は離ればなれの生活です。
国境の向こうとこちらで、心を通じ合わせる。そこで愛が純度を増す
のでしょう。でも早く国境がなくなるといいですね。