南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

あ、セシリア・チャンがテレビで喋っている!

2009-02-28 01:28:01 | HONG KONG
今日(2月27日)、香港のコーズウェイベイのタイムズ
スクエアのシティースーパーで買い物をして帰ろうと外に出
たら、人々がじっと何かを見上げている。それはまるで突如
現れたUFOでも見ているかのようでした。何だろうと思って
見上げると、そこには大画面モニターに映ったセシリア・
チャン(張柏芝)の姿が!何やらインタビューのようで、
何かを切々と訴えているようです。しかし私は広東語が
さっぱりわからないので、その内容は残念ながら理解でき
なかったのですが、アップになると彼女の目は明らかに涙目
でした。これはただ事ではないぞと思いながらタクシーに乗
り家に帰ったのです。



早速調べてみたら、エディソン・チャン事件の最大の被害者
(流出写真の枚数が一番多かった)のセシリア・チャンが、
一年間の沈黙を破って、テレビの二時間のインタビューに
登場したのだそうです。おそらく先週のエディソン・チャン
のバンクーバーの法廷での証言で、流出写真の女性の一人が
正真正銘セシリア・チャンであると認めたことで、彼女と
してももう覚悟を決めて対抗措置に出たのでしょう。

この一年間の辛い生活を振り返りながら、エディソン・
チャンのことは無責任な男だということで徹底的に非難したの
だとか。彼のおかげで恥ずかしい思いをしたのですから恨みも
あるでしょう。しかし、一方的にエディソン・チャンのほうに
非があるというということを言えるのかどうか。彼もいちおう
被害者ですし、またそんな男に身体を許した彼女のほうの責任
もありますね。

しかしセシリア・チャンのこの2時間にもわたるインタビュー
では、いろんなことをしゃべったようなのですが、一番の
ポイントは、夫のニコラス・ツェ(謝霆鋒)への感謝。この
辛い時期に、夫が自分を支えてくれたということを目に涙を
ためて語ったのだとか。人気スターのニコラス・ツェはここ
で株をあげましたね。

エディソン・チャンのバンクーバーでの証言をきっかけにし
て、被害者の女性たちも積極的な行動に出てきましたね。
これからますます目が離せなくなる香港の芸能界です。

裁判に向けて動き出したエディソン・チャン

2009-02-27 02:22:02 | HONG KONG
ちょっとブログの更新をさぼっていたのですが、この間も
アクセスしてくださる方がいて、昨日なんか、gooブログの
訪問者数ランキングで何と788位になっていたのでびっくり
でした。これはおそらくこれまでの自己ベストではないかと
思います。ちなみにgooのランキングの788位前後のランキン
グはこんな感じになっています。このあたりの訪問者数は
500を超えています。



自分のブログは、テーマが絞りきれておらず、気まぐれな内容
で、しかも時々さぼってしまうので、固定読者はあまり考えら
れず、いつも見ているのはMy Wifeくらいじゃないかと思うの
ですが、何で更新をしていないのにこんなに訪問者がアップ
したのか見てみると、どうやら一年くらい前のエディソン・
チャン(Edison Chen, 陳冠希)関連の記事が原因だったようです。

そう、あれからもう一年。流出写真のスキャンダルで、香港
の芸能界から去って、カナダでひっそりと潜伏をしている
エディソン君ですが、その後、どうしたのかなと思っていた
ら、ちょうど2月26日の香港NEXT MAGAZINE(壹週刊)
の表紙に、エディソン・チャンと4人の女性(ジリアン・
チョン鐘欣桐、セシリア・チャン張柏芝、ボボ・チャン
陳文媛、レイチェル・ガン顏穎思)が出ていました。
「迫爆性史」という何かすごそうな見出しの文字です。

会社の若手社員のマイケル君(彼もちょうどエディソン・
チャンと同じくらいの年代)に聞いてみたら、先週、
カナダのバンクーバーの法廷に出廷して、何か証言をした
らしいとのこと。久々に公の場所にエディソンが登場した
ということで、香港のマスコミが大騒ぎをしていたようです。

詳しい事はよくわかりませんが、香港に戻れない彼はバン
クーバーの法廷で証言をしたようです。この事件では、写真
を違法に流出させたパソコンの修理業者が逮捕されています
が、エディソン・チャンが被害者として、彼らを告訴する
ためには、彼が事実を証言する必要があり、これまで公には
コメントされなかった、女性関係のこと、「淫照」(みだら
な写真)を撮影したことなどを事実として認めていくことが
必要となっているらしいのですね。

さらに、四月に香港で開かれる裁判では、これら四人の女性
も法廷で証言をしなければいけなくなるかもということで、
これまた何ともワイドショーが大喜びしそうなシチュエー
ションが到来しそうな気配です。エディソン・チャン事件は、
一年たったこれからが本当のクライマックスとなるのかも
しれません。これまではあくまでもマスコミサイドの勝手な
想像の世界。

これからは一つ一つの事実について、エディソン・チャン
自身と、女性たちが事実関係を認めていくという作業になり
ます。これはこれでドラマチックですね。本人らにとっては
恥ずかしいことなので、かわいそうなのですが。

この雑誌の記事に書いてあるのですが、エディソン・チャン
は個人的にパソコンを常に使っていて、セントラルのelite
という店で、2003年に17インチのG4MacBookを買い、
2004年には15インチのアップルノートブックを買ったのだ
そうです。2006年にパソコンを修理に出したらしいのですが、
その時に業者の人間が彼のパソコンから写真を盗み出し、
写真を勝手に流出させたというのが事件の真相なのですが、
流出した写真が偽物ではなく、彼が撮影した本物の写真で
あるということを認めないといけないので、彼にとっても
女性たちにとってもお気の毒なことです。

昨年一年間、Googleの検索キーワードで、中国でナンバー
ワンに輝いたのが「陳冠希」、つまりエディソン・チャン
というワードだったのだそうです。台湾では3位だったそう
です。また、香港のラジオ局が選定する2008年Man of
the Yearはオバマ大統領だったのですが、エディソン・
チャンが二位だったとか。彼は芸能界から消えて久しいの
ですが、芸能人としての知名度は中華圏でナンバー1ですね。

わずか300円で楽しめるミシュランのお店が香港にあった

2009-02-18 02:28:45 | HONG KONG
ミシュランの香港版(マカオもおまけ)2009は、東京に続いて
アジアで二カ所目ということで話題となり、昨年末に出版され
たのですが、早速私も成田の書店で購入しておりました。英語
と中国語(繁体字)の二カ国語並記になっております。400
ページ以上の本ですが、結局、三ツ星レストランは、香港では
香港島のセントラルのフォーシーズンズホテルに入っている
龍景軒(Lung King Heen)ただ一つ。二つ星が7つ、一つ星
が14でした。東京はもっと多いのですが、香港は他の都市に
比べて、少なすぎるということはないのだそうです。

この星付きの香港のレストランで私が行った事のあるのは、
ワンチャイの福臨門と、ランカイフォンのYung Keeだけです
ね。しかし星付きでないのを入れたら、ミシュラン香港に出
ているレストランは結構行ったことのあるのが出てます。
ちょっとリストアップしてみましょう。
● コーズウェイベイのエクセルシオールのYee Tung Heen(中華)
● コーズウィベイのLee Gardens 2にある西苑酒家(West Villa)
● コーズウィベイのLee Gardens 2にある上海料理の新吉士
● タイクーシンの北京城(Peking Garden)
● フォートレスヒルのLei Garden
● パシフィックプレースのZen(采蝶軒)
● マリオットのMan Ho (萬豪殿)
● ランカイフォンのなお膳
● ランカイフォンの寿司喰
● セントラルのZuma

という感じです。東京だとミシュランに出ているお店にはなか
なか行く機会はないのですが、香港だと結構いけています。

そんな中で、ちょっとこんなのあり?というお得なミシュラン
のお店を見つけました。ワンチャイのMTRの駅からヘネシー
通りをコーズウェイベイ方向に二三分歩いたところにある
小さな麺専門店、楊記麺家(Yeung’s Noodle)です。



うっかりすると通り過ぎてしまいそうな小さなお店なのです
が、まあ麺のお店にしてはこぎれい。こんなんで本当に
ミシュラン?という感じのカジュアルさで、一人でも実に
気軽に入れる感じです。

これがお店の中です。



中はこんな感じ。テーブルは8つしかありません。混んで
いる場合は合席となります。解説を読むと、このお店は別の
所にあり、ワンチャイに移って新装開店したようです。



じつはこのお店、会社の近くなので、何ヶ月か前にぶらりと
入ったことがあったのですが、ミシュランに載っているお店
だとは知りませんでした。ですので今日は二度目の来店。



メニューはこんな感じです。本当は片方を裏返して撮影した
かったのですが、間違えて同じ面を向けてしまいました。
麺だけに、ごめんなさいということで...(しばしご歓談を)
ちなみに裏側は湯麺などが並んでいます。こちらの面に
並んでいる麺は、汁のない麺(つけ麺のような感じ)のも
のです。私は店のおばさんがお薦めの、蝦なんとか牛肉撈麺
というのにしました。真ん中あたりにある左に丸印のつけて
あるものです。
(これ下を見ると、麺のタイプもいろいろ選べるようですね。
河というのはひらべったいきしめんのようなやつ、米は
ビーフンですか、私はオーソドックスに麺にしました。
というか何も言わないと自動的に麺になるようではあり
ますが)

まず、スープが来ました。蝦の香りがします。



これだけ飲んでも、けっこういけると思いました。



さて、麺が来ました。何かしゃぶしゃぶにした牛肉の上に
なにやら粉末が。これが蝦の粉のようです。ふりかけのよう
な感じです。何か量も少なめな感じです。麺をスープにつけ
ながら食べたのですが、これが意外とうまい。香港の麺は
何かワンパターンでそれほど好きではないのですが、麺には
腰があるし、スープが結構いい味を出している。この粉の
ようなふりかけが効果を出しているのかなと思い、食べて
しまいました。ちょっと量が少なめなので、小腹が空いた
ときには最適でしょうが、ディナーとしてはちょっと物足り
ない感じです。

しかし、これで25ドルぽっきり。日本円では300円くらい
です。香港は税金もかからないし、この店はとくにサービス
料もとらないので、こんなに安くていいのと思うほどの衝撃
でした。まあ、おいしかったのですが、こんな気軽なお店を
入れておいていいの?と聞きたくなるようなミシュランの
選択でした。

マンハッタンとヒマラヤとグランドキャニオンと仏陀の共通項は?

2009-02-17 01:47:18 | Weblog
ニューヨークのマンハッタンのセントラルパークのウェストに、
ジョン・オートナーというカメラマンが住んでいます。最後に
会ったのは、今から12年以上も前のことなので、今もそこに
いるのかどうかわかりませんが、よくニューヨークを舞台に
した映画に出てきそうなアパートでした。ちょっと石段を
上って玄関のドアがあり、中に入ると階段で上の階につな
がっていました。

そんなに広いアパートではないのですが、ちょっとアン
ティークでクリエイティブなニューヨークライフという感じ
のスタジオ兼居住空間でした。細い階段を上に二階くらい
あがるとこぎれいなダイニングがありました。ジョン・
オートナーは、私と、もう一人同行したアートディレクター
(日本人)を満面の笑顔で迎えてくれました。そして、
奥さんのマーサさんの手料理をいただいたわけです。

この奥さんがまた素敵なニューヨーカーで、とっても気さくな
人でした。仏陀の話や、ネパールの話をしたりしたのですが、
その後、数年してやっと私は手塚治虫の『仏陀』を読み、
いろんな人の仏陀の話を読んだのですが、今だったらもっと
深い話ができたと思うと、もう一度お会いしたい気になります。
料理もとても美味しく、帰りにお皿のプレゼントをくれました。
さらに、ニューヨークでバスに乗ってみたいんだけど、乗り方
がよくわからない言うと、「私もちょっと出かけるところが
あるから」と一緒にバスに乗ってくれて、乗り降りの仕方を
教えてくれました。

カメラマン、ジョン・オートナーとは、二日間くらいマン
ハッタンの各所とコネチカットかロードアイランドのほうで
ロケをしました。何か忘れていましたが、彼はどちらかと
いうとそんなにファッショナブルな写真を撮る人ではなかっ
たのですが、我々は彼にあえて、若い男女のモデルを使って
撮影をしました。ちょっと雰囲気が違ったかなという感じ
ですが、カメラのことにはやたらに詳しいので、技術的に
はよくできた作品となりました。

ニューヨークのロングアイランド、ロングネックでジョン・
オートナーが生まれたのは1951年。私より4才年上です。
カンサス大学で写真と東洋哲学を学び、20の年にインドと
ネパールへの旅に出たのだそうです。その頃は、ヒッピーや、
カウンターカルチャーということでインドがブームでしたか
らね。ちなみにアーティストの横尾忠則さんが、カメラマン
の篠山紀信さんとインド旅行に行くのも70年代の前半です。

オートナーは、その20才のときのヒマラヤでの経験が
ベースになって、カメラマンとしての方向性を定めたと
言っています。彼は、その後、彼は数年おきに、ネパールや
インド、タイ、ブータン、ミャンマー、カンボジアなどを
訪れていています。彼がこれまでに出した写真集を見ても、
”Buddha”や”Angkor”や『息づかいのすべてが祈りである場所』
(”Where every breath is a prayer”)など、インドやアジア
のものが多くあります。

彼にはニューヨークの写真が多いので、ニューヨーク専門の
カメラマンかと思っていたのですが、実はそういう壮大な
東洋哲学の背景を持っていたのですね。彼のマンハッタンの
写真もどこか神秘的な雰囲気がするのは、そのせいなのかも
しれません。

最近作は、”Canyon Wilderness of the Southwest”という
写真集。これはこれまでのアジア物とは違って、アメリカの
中西部の風景写真。ユタ、アリゾナ、コロラド、ニューメキ
シコにまたがる一帯にある、グランド・キャニオン、ブライス・
キャニオン、ペトリファイド・フォレストやその他まだあまり
知られていない渓谷などの壮大な風景を撮りまくった写真集
です。これまで、仏陀とか、ヒマラヤなどの神秘的な写真を
撮っていた彼が、アメリカ中西部の地形を撮る。彼はおそらく
そこに神の存在を見ているのかもしれませんね。この写真集は
6000部の限定版ということなのですが、ウェブで一部の写真
を見るだけでも、息をのむような写真の連続です。

こちらがそのウェブサイトです。
http://welcomebooks.com/canyonwilderness

ジョン・オートナーのオフィシャルサイトはこちらです。
http://www.ortnerphoto.com

また、何か何年ぶりかに、会ってみたいカメラマンです。


サザンプトンの砂はスーパーモデルの香り

2009-02-15 02:51:37 | Weblog
ニューヨークのロングアイラインドの北東の外れにサザンプ
トンというリゾート地があります。Southhamptonというと、
ご本家はイギリスの南の港町。あのタイタニックが出航した
港がそれです。このロングアイランドのサザンプトンも上品な
海辺の町。マンハッタンからそれほど遠くない距離なのですが、
砂が意外と白っぽいので、いきなりリゾート地に来た感じでした。

1995年、私がまだシンガポールに赴任になる1年ちょっと前、
写真撮影の立ち会いで、この地を訪れました。この時のカメラ
マンはジル・ベンシモン (Gilles Bensimon)。フランス人で、
雑誌Elleのクリエイティブ・ディレクターを長年やっていて、
ファッションカメラマンとしては世界的に有名な人でした。

こちらはそのジル・ベンシモンの写真です。



彼はスーパーモデルのエル・マクファーソン (Elle Mcpherson)
と結婚していたことで有名だったのですが、1989年に離婚して
いました。ある日、私が、別のカメラマンのマネージャーと
マンハッタンのレストランで食事をしていたら、「ほら、
あっちのテーブルにいるの、Elle Mcphersonだぜ」とアメリカ
人のマネージャーが教えてくれました。彼女のことをそれほど
知らなかった私は、そう言われてもあまりピンとこなかったの
ですが、Gilles Bensimonの前の妻だと言われたときにはびっく
りしました。同じカメラマンと言っても、こんなに華やかな
生活をしているのもいるのかと。

その日のサザンプトンは、天気もよく、撮影日和でした。
日本人は私一人だけ、あとはヘアメイクやら、スタイリスト
やらがやたらいっぱい来ています。三人の女性モデルを使って、
屋外でキャットウォーク的な写真を撮影するのがメインでした。
オートフォーカスでの連写を表現するという技術的なテーマは
ありましたが、撮影は典型的なファッション・フォトグラフィー
の雰囲気でした。

しかし、待てども、待てども彼は現れません。のんびりした
オフシーズンのリゾートの青い空の下で私たちは、彼を待ち
ました。どれくらい待ったでしょうか、やがて彼は、オープン
カーに一人のモデルを乗せてやってきました。まるで映画の
ワンシーンのようにその時の映像が蘇ります。すぐ撮影にとり
かかるのかと思ったら、ヘアスタイリストに頼んで、その女性
モデルの髪をばさばさ切らせています。後でわかったのですが、
そのモデルの名前は、ケリー・キロレン。この撮影が終わって
まもなく、ジル・ベンシモンと結婚することになる女性です。

撮影は無事に終了しました。フランス語なまりの英語で指示を
するのですが、スタッフの何人かはフランス人です。カメラ
マン本人は、ちょっと芸術家っぽい雰囲気ですが、他の
スタッフは、彼の意向を正確につかみ取ろうと必死に彼の言葉
に耳を傾けます。一日の撮影でしたが、ファッション・フォト
グラフィーの世界とはこういうものかと感じさせられる撮影
でした。

そういえば、このケリー・キロレンと私はツーショットの写真
を撮影しました。その撮影に立ち会ったメーカー側のアメリカ
人の技術者が余興で撮影してくれたんですが、あの写真、
どこにいったかな?

それから数ヶ月して、たまたま日本の本屋で『Top Model』
(だったと記憶しているんですが)という雑誌を買いました。
その中に、偶然、ジル・ベンシモンと、ケリー・キロレンの
結婚式の記事が出ていました。その結婚式は華やかで、
クリスティー・ターリントンとか、その他の有名人も出ていた
ように記憶しています。

英語のウィキペディアを見ると、その後、彼女との間に二人の
娘が誕生したということなのですが、彼は1944年生まれなので、
子供ができたのは彼が52才かもっと上。今の私とほとんど同じ
くらいの時だったのですね。しかし、2006年1月に彼は、
ケリーと別れることになったそうです。結婚の期間は10年ほど、
原因はまた別のモデルとの女性関係だと言われています。

ちょっと今、検索をしてみたらびっくり。このケリー・キロ
レン今、アメリカではセレブになっているんですね。
ウィキペディアにも出ているし、テレビ番組にも出ていれば、
雑誌のファッション記事でも有名。自分のサイトもありました。

こちらです。
http://kellykillorenbensimon.com/

まあカメラマンもすごい人でしたが、このときのモデルも
すごい人だったんですね。あらためてびっくりです。

海外にいても「そばにいるね」

2009-02-14 11:52:47 | Weblog
2008年、シングルCDの売上ナンバー1と同時に、「着うた
フル」のダウンロードでナンバー1になったのは、青山テルマ
feat. SoulJaの『そばにいるね』でした。アルバムセールスでも、
その歌が入った『Diary』は年間18位に入りました。この
アルバムは実は私も買いました。『そばにいるね』は何度聞い
ても名曲だと思ったからです。

私は今、仕事で香港に住んでいるのですが、妻は東京の下町
に離ればなれ。いわゆる単身赴任というやつですが、バレン
タインデーの日に離ればなれというのはちょっとやはり切ない
思いです。こんな離ればなれのバレンタインデーに、『そばに
いるね』なんかを聴いたら余計切なくなりますね。香港の花屋
では、バレンタインデーの日に恋人に贈るための予約の花束が
いっぱい置いてありました。結構気張った大きな花束も多かっ
たです。

さて、『そばにいるね』で替え歌でも考えようと思って
「蕎麦にするね」というフレーズを思いついたのですが、
蕎麦アレルギーの妻はきっといやがるだろうなと思ったし、
後が続かなかったので、替え歌はあきらめました。

そのついでに、漫才コンビのナイツではないですがヤホー
(Yahoo!のことです)で検索していたら、この『そばに
いるね』を台湾でカバーしているグループを見つけちゃっ
たんですね。皆さん、大嘴巴(DA Mouth)って知ってます?
台湾のヒップホップグループなんですが、「大きな口」と
いう意味なんだそうですね。この4人グループの女性
ボーカルが実は日本人の千田愛紗(せんだあいさ)という
女性。純粋な日本人で沖縄出身。沖縄アクターズスクール
出身なんだそうです。

もともと台湾のオーディション番組で勝ち残り、2001年に
Sunday Girlsという日本人ばかりの4人組のユニットで台湾
デビューしたなかの一人だったのだそうです。千田愛紗は、
台湾のテレビ番組で活躍していたらしいのですが、2007年
11月に大嘴巴(DA Mouth)というグループでデビュー。
2008年7月には日本のレコード大賞に相当する台湾の
音楽賞・第19回金曲奨において最佳演唱組合奨(最優秀
グループ賞)を受賞したのだそうです。

2008年12月19日、二枚目のアルバム『王元口力口』を
リリースしたのです。このアルバムの中に『そばにいるね』
のカバーが『永遠在身辺』というタイトルで入っているよう
です。YouTubeをチェックしていたら、ありました。この
ビデオクリップ。
こちらです。
http://www.youtube.com/watch?v=ZPlOqyGWvbk&feature=related
(とここでYouTubeの動画にリンクをしましたが、もしリンク
が外れてしまったらごめんなさい。以前の自分の記事を
チェックしてみたら、動画のリンクが結構外れてしまって
いました。ですので、この動画もリンク先がなくなって
しまう可能性もあります)

早速、この『永遠在身辺』をチェックしてみました。ファンタ
スティック!です。青山テルマの原曲はちょっと聴き飽きて
いたので、このエキゾチックな中国語(北京語)の発音すごく
いい。しかもこのビデオクリップの中の千田愛紗、とても
大人っぽいセクシーな雰囲気です。他のヒップホップ系の曲
では、元気でちょっと子供っぽいキャラなんですが、この
クリップはしっとりした大人の女性。

彼女は全く中国語を知らない状態で数年前に台湾芸能界に
飛び込んだのだそうですが、ここまで見事に歌いこなせる
のはさすがです。よくがんばりました。私は海外でこういう
ふうにがんばっている日本人を見ると嬉しくなります。
こういう人がいることを日本の人たちにももっと知って
ほしいと思います。

今日、会社の近所のCDショップに行って、台湾の4人組の
グループで一人が女の人のCDのアルバムはあるかと聞いた
のですが、残念ながら香港のその店にはありませんでした。
でもきっと中国香港でもじきにブレークするんじゃないかと
いう気もします。

千田愛紗の情報がいろいろ出ているページはこちらです
(中国語)。
http://www.wretch.cc/mypage/sendaaisa


彼らの独占インタビューのページはこちらです。
(日本語)
http://www.taipeinavi.com/area/area_r_article.html?id=220&area2=


また千田愛紗のウィキペディアはこちらです。(日本語)
http://ja.wikipedia.org/wiki/千田愛紗

千田愛紗さんのご自分のブログはこちらです。(中国語)
http://www.wretch.cc/blog/sendaaisa

香港にて日本のバレンタインデーを考察する

2009-02-13 01:21:04 | HONG KONG
バレンタインデーです。日本では、女性がチョコレートを贈る
日になってしまっていて、最近では男性から女性に「逆チョコ」
を贈るということを流行らせようとしているチョコレートメー
カーの陰謀がありますが、果たしてそう簡単にいくかどうか。
日本の男性は、バレンタインデーには受け身になることに慣れ
てしまっているので、「逆チョコ」で積極的な行動に出ようと
する男子は特殊なマイノリティーであるに違いありません。

そもそもバレンタインデーにチョコレートを贈るというのは、
チョコレートメーカーの販売促進行為であり、戦略的陰謀で
あったのです。日本国民はこの陰謀にまんまとはまり、バレン
タインデーには女性が男性にチョコレートを贈るというのが
定着してしまったのです。意中の人に愛を伝えようとしている
女性にとっては重要な日なのですが、大半の女性にとっては
迷惑な日であるに違いありません。何もしないでチョコレート
を待つだけの男性にとっては、もらえる人にとっては嬉しい日
であり、もらえない人にとってはつまらない日となるのでしょ
うが、果たしてこれでよいのかどうか...

マーケティング戦略的にみてみると、好きな男性に女性から
チョコレートを贈るだけでは、チョコレートの販売数量は思春
期の未婚の女性の数を超えることはない。それではチョコレー
トメーカーにとっては、小さなパイを奪い合う熾烈な戦いに
なるだけであまりうまみがない。市場を拡大するためには、
それほど好意を持っていない人にもあげてもよいことにすると、
売上は格段に増える。「義理チョコ」はチョコレート販売量を
一気に広げる革命的概念だったのです。
これはマーケティング的にみると実にロジカルで、わかり
やすい戦略です。さらに「逆チョコ」で女性だけでなく、
男性にも購買者を広げようとするメーカー。ここまでくる
とちょっと、机上のマーケティング理論に踊らされている
ようでいやですね。

先日から堀紘一さんの『一流の人は空気を読まない』
(角川書店)という本をぱらぱらと読んでいるのですが、
日本人は空気を読みすぎて、結局はみんなに合わせること
しかできなくなってしまう。村八分に合うことが怖いので、
自分がどんなに嫌であっても、まわりに合わせてしまうと
いう傾向があるようです。こういう風土が日本にはあるの
で、このように徹底したバレンタインデーの風習が定着し
てしまっているのです。

ところで海外のバレンタインデーはどうかといいますと、
と言っても、シンガポールと香港しか知らないのですが。
日本のように、チョコレートワンパターンというのでは
ありません。それに女性から男性への一方通行というので
もありません。むしろ男性が女性に対して愛を示すのも
普通です。男性は女性には亜束を贈り、女性は男性に手作り
のお菓子や、とくにチョコレートとは限定しないプレゼント
を贈るようです。

上の写真は、香港のコーズウウェイのタイムズスクエアに
入っているシティースパーの一角ですが、日本のトレンドが
部分的に入ってきているような感じがします。しかし既成の
チョコレートを売っているではなく、ここでは女性がちょっと
手を加えて手作りのオリジナルなチョコレートを作るための
材料を売っています。何か日本も昔はこういうロマンチックな
手作り感がバレンタインの風物だったんじゃないでしょうか。
それがいつの間にか商業主義に染まってしまって...

海外では、女性だけでなくて、この時期は男性も花を買ったり、
プレゼントを買ったりして忙しいのですよ。そもそもバレン
タインデーは恋人たちの日。恋人でなくても、夫婦でもよいの
だと思いますが、とにかく愛する人に、思いを伝え合うことが
重要なのだと思います。チョコレートどうのこうのではなくて。
香港やシンガポールで、愛する人のために花を買う男性は、
かっこいいと思います。


カメラマン、ニール・スレイヴィンの話

2009-02-12 00:28:48 | Weblog
振り返ってみると、これまでずいぶんいろんなプロカメラマン
と仕事をしてきました。それも海外のカメラマンと。自分は
写真を専門に勉強したわけではないのですが、海外のプロ
カメラマンからずいぶんいろんなことを教わった気がします。

正確な年は忘れてしまったのですが、今から20年も前のこと
です。何かの資料を探せばはっきり年代が特定できるのかもし
れませんが、日記をつけていなかった私には、かすかな記憶
の糸を辿っていくしか他にしようがありません。

当時日本のパソコン市場と通信市場を牛耳っていた某大手
電気メーカーの会社案内の仕事で、ボストンのデザイン会社
を使い、三人の世界的に有名なカメラマンを使い、世界各地
で写真撮影を行うというプロジェクトがありました。バブル
の絶頂期で、今では考えられない規模の予算をかけて会社
案内を作っていました。

撮影は三人のカメラマンほぼ同時期に行われたのですが、
私は、ヨーロッパおよびエチオピアという地域を担当する
ことになりました。そしてそこを担当するカメラマンは、
ニール・スレイヴィン(Neal Slavin)というアメリカの有名な
写真家でした。それまでに数々の賞を受賞していて、
1986年には “Corporate Photographer of the Year”を
受賞していました。(最近ではムービーのほうに進み、
ウィリアム・メーシーとローラ・ダーン主演の“Focus”
という映画を監督したようです)

最初に彼に会ったのは11月のパリ。それはボジョレー
ヌーボーの解禁の木曜日の夕方。ルーブル博物館のそばの
クラシックなホテルのロビーでした。山ほどの写真器材を
アシスタントが運んでいて、まずその量にびっくりしました。
これほどの量の写真器材を見たのは初めてでした。ハッセル
ブラッドのカメラ、各種レンズ、膨大な量のフィルム、
照明用ライト、スタンド、三脚、脚立、発電機複数、
ゼラチン、暗幕などなど。さすがに世界のカメラマンは違う
と思ったものでした。

パリではお客さんのパリの事務所を撮影。ポートレートを
数名撮影しました。

そこからデュッセルドルフへ、そしてミュンヘンへ。ミュン
ヘンに着いたときちょうど初雪が降り出していました。
ミュンヘンではサービスセンターを撮影。現地のお客さん
サイドに話が通ってなくて、ちょっとしたトラブル。まあ
企業もの撮影ではこうしたトラブルはよくあるものです。
各都市では、レンタカーで移動していましたが、ドイツ
ではクラシック音楽をかけながら朝もやの田舎の並木道を
ドライブするのはこれこそヨーロッパだなという感じが
したものです。

それからロンドンに一泊、そこから電車でバーミンガムの
近くのウォルバーハンプトンという駅で乗り換えて、
テルフォードという町に到着。そこでテレビを作っている
工場で撮影でした。森の中の小さなホテルで一泊したとき、
テレビの音声が英語とは全く違う言語だったのでびっくり
しました。あれはウェールズの言葉だったのでしょうか。

工場では、一人の女子工員がテレビを組み立てているところ
を集中的に撮影していました。中判のフィルムなので、
一回一回のシャッターがかなり時間がかかります。ここで
私が感心したのは、撮影している女子工員に対して、大きな
声で、しかも丁寧に、”Could you please look at the
camera”というふうに”Could you”をしょっちゅう使うの
です。とても丁寧な表現です。「ビ~ィッグ・スマ~イル!」
とか叫んでモデルになってもらっている女性のいい表情を
引き出そうとします。さすが世界一流のカメラマンは違う
なあと感心していました。

そしたらここでもトラブル発生。日本人の現地駐在の担当者
が、切れて怒りだします。「もういい加減にしてくれよな。
こんな邪魔されちゃあ生産が間に合わないんだよな」と延々
と愚痴を言い出します。しかも日本語で。日本語がわかる
人間は私しかいないのですが、その時私はジャパニーズ・
アメリカンの振りをして、ちょっとわからないふりをして
おりました。カメラマンのほうは、写真に妥協はしません。
何枚も何枚も撮り続けます。担当者が文句を言っているのは
わかっているのですが、それよりもなによりも彼はプロの
カメラマンとしての仕事を優先します。仮に工場に迷惑を
かけたとしても、それは何とか挽回できる。しかし、いい
写真は妥協をしてしまったら二度と撮る事はできない。

このときにプロカメラマンの魂を感じたのでした。
こういう情熱が写真のできばえを左右するんだなと思いま
した。その時の写真は会社案内の中で一ページフルで使わ
れました。

その後、我々はスコットランドのエジンバラへ。各場所で
一日はフリータイムがあります。私は、エジンバラ城に
行ったり、エジンバラの街を散策したりして楽しみました。
スコーンと紅茶がとても美味しかったのを覚えています。

スコットランドの半導体の工場を撮影して、私たちは最後の
目的地、エチオピアのアジスアベバに向かいました。エチオ
ピアのことはまた詳しく書きたいですが、ここは別世界で
した。カメラマンのニール・スレイヴィンは、直前になって、
できれば行きたくないと言い出しました。最悪の事態に備え
て、私は自分で撮影しようかと思ったのですが、結局彼らは
アジスアベバに着きました。当時はまだ革命後の軍事政権が
支配をしていて、戒厳令が出ていました。帰ってしばらくし
て、再びクーデターがあり、政府の役人がかなり殺されたと
聞きました。『皇帝ハイレセラシエ』という文庫本を帰って
から読み、行くのをいやがったニール・スレイヴィンの気持
ちがそのときやっとわかったのでした。

しかし、アジスアベバに着いたら、真っ青な空で、人々の眼
は澄み切っていて奇麗で、夜の満天の星はとても奇麗でした。
小学校で撮影をしたのですが、ポラロイド写真を初めて見る
子供たちのまなざしが、まさに未知との遭遇という感じで人
だかりになりました。そういえば、あのとき、子供たちに囲
まれて自分の写真を撮ってもらいましたね。あの写真どこに
あるのかな?

黒い砂に秘められた遠い昔の思い出

2009-02-11 01:53:32 | ハワイ
ハワイ島の黒砂海岸の黒い砂です。私の砂のコレクションの
一番最初のものです。1992年5月、私は某カメラメーカーの
カタログ写真撮影の仕事で、ハワイ島に行きました。その時
のカメラマンはロジャー・レスマイヤー。この人はNASAや
宇宙関係の写真で有名なカメラマンだったのですが、じつは
若い頃、有名人の写真もたくさん撮っていたのです。彼の
サイト、http://www.ressmeyer.comを見ると彼の作品も
出ているのですが、シャーリー・マクレーンのポートレート
は以前にどこかで見た事がありました。有名人と宇宙科学、
なんだか全く無関係のジャンルです。

このハワイ島のロケも、宇宙科学とは全く関係なく、まるで
グラビア誌の撮影のような雰囲気でした。モデルは、トロピ
カルなビキニの女の子たち。モデルの一人はミスハワイだと
言っていました。星空とかロケットとか宇宙飛行士の写真を
撮っている人が、こんな官能的な写真をちゃんと撮れるのか
ちょっと冒険でしたが、まあ何とか撮れていました。

その中の一つが黒砂海岸にたたずむ水着の女性というもので
した。アメリカのこの手のカメラマンはやたら早起きです。
朝のマジックアワーの時間帯が勝負だということで、朝の3
時頃からホテルを出発して、現場に行き、メークをしたりし
て夜明けを待ちます。それはとても神秘的な撮影でした。

そこにメーカーから製品技術関係のアメリカ人のマイクがい
ました。名字はスパニッシュ系の名前です。彼に合ったのは
このハワイ島が最初だったのですが、ラテン系の陽気な
にいちゃんでした。撮影が終わると、彼はフィルムケースに
この黒い砂浜の砂をおもしろ半分に入れていました。当時の
撮影はデジタルではなく、35ミリフィルムなので、フィルム
ケースはいっぱいあります。それを見て、私もついついつら
れてその黒い砂を、フィルムケースに詰めました。

昔、私が高校生だった頃、野球部が春の選抜で甲子園に出て、
負けたときに自分ら応援団もどさくさにまぎれて(その日の
最終試合だったので)グランドに降りて砂をかき集めたのを
思い出していました。その時の甲子園の砂はどこかに行って
しまったのですが、このハワイの黒い砂は大事にとってあり
ました。

カメラマンのロジャー・レスマイヤーは、その後、彼は
ストック写真のCorbisで働き、1999年にGetty Images
の副社長になったのですが、2004年には自分でScience
Fiction Imagesという会社を立ち上げたのだそうです。

彼はマジックアワーの明け方と夕暮れ前だけ働いて、日の高
い日中はプールサイドで休んでいました。あの撮影は朝は早
かったけれど、とても楽しい思いでです。この黒い砂を見る
たびに思い出します。あれからコレクションはどんどん増え
ていき、今は30本以上の砂のコレクションになっています。


諸葛孔明の経済政策

2009-02-10 01:36:23 | 古代中国
昨日、古代中国商の時代の貝の貨幣のお話をしたついでに、
もうひとつ上海博物館で見た貨幣のお話を一つ。この上の写真
は、三国志の時代の蜀の国の通貨『直百五銖銭』という鉄製の
貨幣です。それまであった蜀の『五銖銭』100枚に値するという
意味の名前なのだそうです。などというと古銭マニアの人のアク
セスが増えそうですが、私は残念ながら古銭マニアではなく、
たまたま博物館で目撃した展示品のことを適当に書いているだけ
なので、本格古銭マニアの人は期待しないでいただきたいと思い
ます。

このお金が作られたのは調べたところ214年。日本ではまだ
卑弥呼というミステリアスな女性くらいしか歴史に登場してきて
いない頃のことです。その頃中国では、208年有名な赤壁の戦
いで、呉の孫権とのタッグで魏の曹操を破ったあの三国志のヒー
ローの劉備(といっても彼は赤壁の戦いでは実質的な活躍はして
いませんが)が、今の四川省の成都に入り益州の牧となるのが
214年。三国志の蜀の国の実質的なスタートとなるのですが、
そのあたりからこのお金が鋳造され始めたのだそうです。

これを考えたのは、誰あろう、諸葛孔明をおいて他にないで
しょう。ジョン・ウー監督の映画『レッドクリフ』では金城武
が演じておりましたね。いつも羽根扇を持っている人です。
諸葛孔明というと映画のイメージからも何か軍略の天才のよう
に思われていると思うのですが、じつは彼ほど多芸多才な人は
いないのではないかと思えるほどの人でした。私ごときが諸葛
孔明のことを語るのは諸先輩方からするどい突っ込みを受け
そうで、気が引けるのですが、じつは政治経済に関しても天才
だったのではないかと思っております。

蜀の国は今の四川省が中心の山国。面積も三国の中で一番
小さいし、人口も少ない。こんなところを拠点にするのは
ちょっと損なんじゃないかと思っていました。周りを険しい
山で囲まれているので、敵が攻めてきた場合、守りやすいと
いうメリットはあるのですが、その他は結構不利じゃないか
なと思っていたのですが、実は、さすがは諸葛孔明さん。
蜀の国は、実は塩と鉄の大産地だったそうなんです。
当時これらの資源は今でいうとおそらく石油、天然ガスに
匹敵する貴重な天然資源。それらの天然資源が眠る土地で
あることをおそらく彼は最初から知っていたのでしょう。

また、蜀は漢の時代から、シルクの名産地。宮中の礼服には
必需品だったのではないかと考えられるシルクなので、
これをおさえることはさらに有利。塩と鉄とシルクの三つを
押さえれば、国土は小さくとも他国にまさる経済力を持てる、
そう諸葛孔明は考えたに違いありません。

彼がすごいのは、それ以外に、外圧を除いてから、国内の農業
生産力を回復させ、経済を復興させて物価の安定を計る、
そして徹底的に行政改革を行うのです。まさに構造改革。
それまで巣食っていた悪徳官僚を罷免し、行政組織を簡素化し
ていきます。徹底した法令遵守を説き、信賞必罰の姿勢を徹底
させます。また同時に、灌漑を行い、農地を拡大していきます。
国民の生活は安定し、国の経済力は増えていきます。(しかし
その後の度重なる遠征で経済力は衰えていくのですが)

そんな諸葛孔明が、劉備が蜀を拠点としたときに行ったのが
この貨幣の鋳造でした。彼は徹底した市場価格への介入を行っ
て、諸物価の安定を図ったのだとか。このお金は、西暦234
年まで鋳造されるのだそうですが、その年を最後に消滅します。
その年とは、諸葛孔明が遠征の途上、五丈原で命を落とした年
です。蜀はその後263年まで続くのですが、孔明の死が蜀の
国の実質的な滅亡でした。孔明が没してから4年後、やっと
その頃、邪馬台国の卑弥呼の使者が魏の洛陽の都に到着するの
です。日本で最初の通貨と言われる和同開珎が登場するのは、
それから500年近く後の708年のことです。

こんな昔の中国にこんなすごい人がいたんですね。今の時代に
もこんな人が欲しいです。


貝をめぐる回想

2009-02-09 00:34:00 | 古代中国
この一月にハワイに行ったとき、ワイキキのビーチウォークに
入っているお店で小さな貝殻の袋詰めを買いました。石鹸や
キャンドルなどを売っているお店でしたが、貝を部屋のインテ
リア用に売っていたのです。何故これを買ったのか、妻は訝し
がっていましたが、実をいうと、このミックスの中に宝貝
(子安貝)の小さいのがいっぱい入っていたからです。
子安貝というと安産のお守りとして使うところがあるのですが、
私がその貝にこだわったのは、日本の少子化問題を何とかしよ
うとかそういう理由ではありません。

実は、古代中国の殷の王朝(商の王朝)の時に使われた最も
古い貨幣がこの貝だったのです。私は宮城谷昌光さんの古代
中国に題材をとった小説が好きで、数年前によく読んでいた
のですが、その中の『王家の風日』という作品があります。
今から3000年以上も前の話です。その中に、費中という役人
が当時の受という帝王に向かって、子安貝を通貨として使用
する案を提案する場面が出てきます。

子安貝は当時、中国の東か南の沿岸でしかとれないもので、
生命の誕生への呪力をもつものとして、王室では尊重されて
いたものですが、それが国の公式の通貨として認定されること
になっていきます。実はこれが商業の始まりでした。商業の
「商」はこの商王朝の「商」のことだったのです。
貨幣経済の始まりでした。

漢字の貝の文字は、この子安貝の形から生じた象形文字でした。





通貨を意味したこの貝の文字は、お金にかかわる様々な漢字に
使われています。「賣」(売という文字の旧漢字)にも、
「買」という漢字にも「貝」が入っているし。「販」にも、
「貨」にも、「財」にも、「賃」にも、「費」にも、「資」
にも、「貢」にも、「贈」にも、「賄賂」にも、「貯」にも、
みな「貝」が入っているのですね。「敗」や「貧」という文字
にも入っていますが、これは一文無しになってしまって悲しい
感じですね。今の日本にも実は貝がこんなにも活躍していたと
はあらためてびっくりです。

さらに、「朋」という文字。これは一見、貝には関係ないよう
に見えますが、この二つの月は実は宝貝を紐で束ねたものを
二つ並べたものの象形文字だったのです。この「朋」も先ほど
の『王家の風日』の中で費中が受王に提案しています。貝を
つらねてひとまとめにしたものを「朋」と呼び、通貨の基本
単位とすることになるのです。この文字がやがて「ともだち」
の意味で使われるようになるのですが、これは対等のものを
並べるということなんですね。



昨年、仕事で上海に出張したおり、ちょっと時間があったので、
上海博物館を訪問しました。ここは以前にも行ったことがある
のですが、通貨のセクションがあるのでとくに気に入っていま
した。陶器や、書などもいろいろあるのですが、時代とともに
変遷した中国の通貨を眺めていると、それを使って生活をして
いた人々の姿が見えてきそうで何時間も眺めていても飽きま
せん。



これがその通貨の展示の入り口付近にある貝の通貨の展示です。
3000年以上前の人々がこれを通貨として使って、商売をして
いたのかと思うと不思議な気持ちになります。ある場所では
ハワイで買った貝のように、簡単に手に入るのに、古代中国の
海から離れた王朝では、希少価値だったのです。タイム
マシーンに乗って、このハワイで買った貝を持って、3000年
前の古代中国に旅したら、結構リッチな旅ができるのかも
しれないなんて思ったりする私でした。


飛行機事故で亡くなった彼らのために私が今語るべきこと

2009-02-08 16:53:04 | Weblog
旅で訪れた場所の砂をフィルムケースに入れて持ち帰り、コレ
クションにするのは1992年から始めたことでした。高校球児
たちが甲子園の砂を持って帰るのと同じような感じで、仕事
の写真撮影の立ち会いや、プライベートな旅行などで訪れた
場所の砂を、思い出の一部として持って帰ってきました。
上の写真の4本の小瓶は、フィルムケースから詰め替えたも
のですが、4本とも1992年の5月のものです。左から、
アメリカのユタ州モアブ、モアブの近くのアーチズ・ナ
ショナル・パークのノースポイントという場所、同じく
モアブ近郊のデッド・ホース・ポイント、そして一番右は
ユタ州とアリゾナ州の境目のモニュメント・バレーです。
モアブ近郊は、自然が作ったアーチとか、渓谷とか、不思議
な地形が多い場所。モニュメント・バレーは、西部劇などで
おなじみの風景で、ナバホインディアンの居住区になってい
る場所です。

何故このような場所の砂があるのかと言うと、某カメラ
メーカーのカメラのカタログの写真撮影でこの場所を訪れた
のです。その時に起用したカメラマンが、山の写真では
世界的に有名なゲーラン・ローエル(Galen Rowell)だった
のです。1940年生まれの彼は、登山家としても有名だった
のですが、大自然の美しさの虜になった彼は、30を過ぎて
プロカメラマンになります。被写体は山や大自然。1984年
には、アンセル・アダムズ賞を受賞します。チベットから
南極まで、彼は地球を相手に写真を撮り続けていました。
写真集もいくつも出していて、ナショナル・ジオグラ
フィックの雑誌でも活躍していました。ネイチャー・
フォトグラフィーの世界ではセレブリティーでした。

1992年といえば、私が36才、ゲーラン・ローエルは51才。
その時の彼は今の私とそれほど変わらない年齢でした。
そんなに大きくはない彼でしたが、山登りで鍛えた彼は、
じつに引き締まった身体つきで、顔つきも精悍で、西部劇
ではヒーローとして登場しきそうな人でした。今から17年
も前のことなので、記憶が定かではない部分が多いですが、
いつも毅然とした彼の立ち居振る舞いと、50を過ぎても
澄み切った眼、そして彼がよく使う”lovely”(グッドという
意味)と”pretty”(非常にという意味の形容詞)ははっきり
と覚えています。

ハワイ島での別のカメラマンとの撮影を終えて、コロラド州
デンバー経由でユタ州のモアブの町に入った私は、その小さ
な町のモーテルで彼に会いました。スーツケースが飛行機
会社の手違いで、デンバーではなくモンタナ州かどっかに
行ってしまっていたので、デイパックだけでそのモーテル
でチェックインをしていたら、そのロビーにいたのが
ゲーラン・ローエルと、彼のマネージャーでもある奥さん
のバーバラ・ローエルでした。こんなところにいる謎の
日本人は彼のクライアントに違いないと思ったのでしょう、
彼らは早速私のところに来て、挨拶しました。

西部の男ゲーラン・ローエルは当然のようにブルージーンズ
で、格子模様のシャツを着ていましたが、靴はウェスタン
ブーツではなくてトレッキングシューズでした。背筋が
すっと伸びていて、まっすぐに私を見て、握手をしました。
その握力は山で鍛えられたものでした。

バーバラ・ローエルは魅力的な女性でした。1948年1月生
まれなので、当時45才。映画とかに出てきそうな素敵な
カップルでした。ハワイ生まれの彼女は、アウトドアブラン
ドのノース・フェース(North Face)で広報の仕事をして
いたそうなのですが、1981年4月、たまたまカタログの
仕事で起用したゲーラン・ローエルとその週のうちに恋に
落ち、約一ヶ月後に結婚したのだそうです。

私がモアブで会った彼らは、結婚してから11年目。歩くとき
も手をつないでいる彼らの後ろ姿を見て、私は、あ、いい
なあと思ったりしたのでした。翌日は朝早く起きなければ
ならないので、町のレストランで、私たちは早めの夕食を
しました。初めて出会ったのに、何だか昔から知っている
友人のような気がしたのが不思議でした。バーバラは、
南米に行ったときの話や、ネパールに長期間滞在したときの
話や、ダライ・ラマと会ったときの話をしていました。
その時の私はダライ・ラマが誰かなどということは恥ずか
しながら知りませんでした。(昨年ロンドンに行った時、
偶然ヒルトンホテルでダライ・ラマに会ったときはびっく
りしましたが)

数日の撮影を終えて、私たちは車でモニュメント・バレーに
行きました。モアブから数時間かかります。何もない大平原
を通って南に向かうのですが、その車中の会話がとても楽し
かったのを覚えています。バーバラは、途中で寄ったガソ
リンスタンドの売店でポテトチップスとコーラを買ってき
ました。私がポテトチップスをぽりぽり食べていると、
「やっぱりバーベキュー味がおいしいわよね」みたいなこと
を彼女は言っていました。それから、漢字の話をして、
バーバラとか、ゲーランを漢字で書いて、その意味がとてつ
もなくへんてこな意味になったときは大笑いをして喜んでい
ました。

この撮影の話は思い出すといろいろあって語り尽くせないの
ですが、すべての風景がとても美しく、何年経っても忘れら
れません。数日間の撮影が終わって、私たちは再びモアブに
戻り、ゲーランとバーバラを近くの飛行場に送っていきまし
た。飛行場といっても、セスナ用の小さな滑走路が一本ある
だけのものです。バーバラは、ゲーランと結婚してからセス
ナの免許を取り、自分で操縦して飛行機移動しているとのこ
とでした。事務室の小さな掘建て小屋があるだけの飛行場で、
彼らがセスナで飛び立っていくのを見送ったのを昨日のこと
のように覚えています。彼らは、レンタカーに三脚を忘れて
いったので、郵送で送り届けましたが。

それが最後でした。彼らが2002年8月11日、カリフォ
ルニア州のビショップの近くでの飛行機事故で亡くなったと
知ったのはつい最近のことでした。

彼らのウェブサイトはまだ残っています。
英語ですがこちら↓です。
http://www.mountainlight.com/

チャッティスガルから来た青年

2009-02-06 23:52:15 | インド
「ぼくが住んでいるのはインドの真ん中のチャッティスガルだよ」
と一つ空席を挟んで飛行機の座席に座っていたインド人の青年
は英語で言いました。チャッティスガル?仕事では全く接点が
ない地域だけどかすかに記憶にある。北部にあるチャンディガル
に名前が似ているけれど、かたやインドの中でも最も平均世帯
収入の多い都市であり、もう一つはインドの中でも貧しい地域。
その青年はそのチャティスガル州から来たのだと言うのです。

正直、チャッティスガル州というのはほとんど知りませんでし
た。後で調べてわかったのですが、ここは2000年の11月まで
マディアプラデシュ州の一部だったのです。その時までインド
で最大の州だったのですが、チャッティスガルが州として独立
したのですね。この州だけでも人口が2千万人以上いますので
(インドの中ではそれほど多い州ではありませんが)、大体
オーストラリアと同じくらいの人口規模です。

青年は、インドのアディティア・ビルラ・グループの会社で
ビジネスコンサルティングをしていると言うのです。これから
インドネシアのジャカルタに出張で行くのだそうです。本当
はすごくエリートなんだろうな~。

これは1月にデリーからシンガポール行きの飛行機が濃霧で
翌日に振替になった飛行機の機内での会話でした。前日は
一言も話をしなかったのですが、今日は彼のほうからいろ
いろと話しかけてきました。

「ぼくの家には家族が50人くらいで住んでいるんだ」
え?50人?インドの田舎はいくら大家族制だとは言っても
それはちょっと想像がつかないくらいの規模です。白川郷の
合掌造りの家は大家族で生活できる大きさだと思うのですが、
50人というのはちょっとすごい。
「父親は9人兄弟だし、またぼくの兄弟姉妹も9人いるし、
そのほとんどが一緒に住んでいるので、それくらいの数に
なるんだよ」
そのチャッティスガルから来た青年は、嬉しそうに携帯電話
を見せる。そのスクリーンにはまだ小さい女の子の赤ちゃん。
まだ生まれて数ヶ月だと言うのです。
「それじゃあ会いたくてしかたないんじゃないの?」
と言うと、「そうなんだよねー」とその青年は言いました。

チャッティスガルは鉄鉱石で有名なんだそうですが、彼の
家族はほとんどが鉱山関係の仕事に従事しているのだそう
です。外の一般企業に勤めたのはファミリーの中で彼が初め
てだと言っておりました。

日本にはこういう大きな家族はないのかと彼は質問してきま
した。日本ではせいぜい二世帯住宅。ほとんど核家族化して
いると言うと、チャッティスガルから来た青年は不思議そうな
顔をするのでした。

インドは結婚はお見合いが大半だというのは以前から聞いて
いましたが、彼もやはりお見合いでした。お見合いは
アレンジド・マリアッジと言います。親が情報収集をして、
下調べをし、子供に話を持って来るというシステムです。

「もし親がリコメンドしてきた相手を気に入らなかったらどう
するの?」と聞いてみました。
「それはそれでもいい。親は子供の気持ちを尊重して、また別
の相手を探してくる」というのです。昔聞いたのは、インドで
はお見合いの時は、もはや拒否権はないということだったんで
すが、地域によって、家族によっていろいろ違うんでしょうか。

「ところであなたはお見合い結婚?それとも恋愛結婚?」と
その青年は聞いてきました。飛行機の中の会話としては、かな
り親密なレベルの内容です。しかも見ず知らずの旅人同士。
「ぼくは、恋愛結婚」
と言いながら、ふと妻の顔が脳裏をよぎりました。
運命の赤い糸による結婚だとしたらそれは恋愛結婚と言えるの
だろうか、などとふと思ったりしました。

そんなこんなでいろんな話をしているうちに飛行機はシンガ
ポールに着き、名前も聞かないうちに別れ別れになってしまい
ました。旅で出会った異国人と、こんなに立ち入った話をした
のは初めてでしたが、なんか気分は爽快でした。しかし、名前
を聞いておけばよかったなあ。このブログを書くときも、名前
を知らないので、チャッティスガルから来た青年などと書かな
ければならないのですから。

歴史を変える言葉の力

2009-02-05 00:17:05 | Weblog
上の写真は有名なアメリカのラシュモア山です。アメリカ初代
大統領のジョージ・ワシントン、第三代大統領トーマス・
ジェファーソン、第26代大統領セオドア・ルーズベルト、
そして第16代大統領のエイブラハム・リンカーンの4人の
大統領の顔が掘られています。

これはサウスダコタ州にあるのですが、私はここに行ったこと
はありません。なぜこの写真(これはマイクロソフトのクリッ
プアートです)をもってきたのかといいますと、原因はオバマ
大統領の演説。あのオバマ大統領の演説を聞いていますと、
アメリカの歴史をさかのぼらざるをえません。

なかでもこの右端のエイブラハム・リンカーン。オバマ大統領
はこのリンカーンのことをかなり意識しているのですが、
リンカーンと言えば有名なゲティスバーグの演説。あの「人民
の人民による人民のための政府」という演説ですね。アメリカの
歴史を語る上では、重要な演説です。

リンカーンの肉声は聞く事はできませんが、『歴代アメリカ
大統領ベスト・スピーチ集』をちょっと前に聞いてみました。
フランクリン・D・ルーズベルトからジョージ・W・ブッシュ
までの大統領の演説が出ています。これらの大統領の演説を
聞いてみると、どの人もオバマ大統領と比べるとスピーチの
技術がそれほどでもないなあと思ってしまいました。棒読みっ
ぽい感じがしてしまう人も多いです。言葉はかっこいいのです
が、何か説得力がない人もいます。そうして見るとオバマは
アメリカ史の中でもまれに見る演説の名人ということができ
のではないかと思います。

リンカーンは、87年前のアメリカ建国の歴史を振りかえり
ながらスピーチをしていますが、オバマもまた、アメリカの
建国の理念とその歴史に言及しながらスピーチをしています。
日本で言えば、江戸時代なのですが、日本の政治家がそんな
昔のことに触れるのはまずありえません。そういう意味では
アメリカの歴史は日本より短いにも関わらず、政治の歴史の
厚みがありますね。

大統領のスピーチと言えば、思い出すのが、映画『インデ
ペンデンス・デイ』の中のホイットモア大統領の演説です。
異星人との最後の戦いを前に大統領は、パイロットたちに
向かって演説をします。「7月4日はもはやアメリカのため
の独立記念日ではない。人類全体のための日となるのだ。
We celebrate the independence day!」という台詞で、
パイロットたちの士気を鼓舞します。

これ実は、シェイクスピアの『ヘンリー五世』の中の、
「聖クリスピアンの日の演説」をベースにしています。
戦力に劣り、確実に負けそうなイングランド軍の兵士たち
のやる気を引き出し、奇跡の勝利をもたらすのがこの演説。
これはお芝居の中の台詞ですが、言葉の力が歴史を大きく
動かすという例です。この演説、ケネス・ブラナーの映画
で見ましたが、実に見事です。言葉だけで、兵士たちを
どんどんやる気にさせ、十人力の働きをさせ、実際に勝つ
のです。言葉ひとつで歴史を変えられるのです。

また同じくシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の
中のマークアントニーの演説。これまたすごいです。
実は、大学のときに、英文科だったのですが、授業で『ジュ
リアス・シーザー』の購読をやりました。先生は今は亡き
安西徹雄先生でした。言葉の力だけで民衆は右に左に動く
ということをそのとき知りました。その力の原動力が
修辞学(レトリック)であり、スピーチ能力だったのです。

言葉の力で歴史が変わっていくということはありえないこと
ではありません。オバマ大統領のアメリカでそれが可能に
なるのかどうかわかりませんが、少しでもそうなればと
思います。言葉の力で社員が変わり、会社が変わるという
こともできればいいなあと思います。