南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

ラッフルズのバーでドライマティーニを

2006-10-10 00:16:44 | シンガポール
シンガポールのラッフルズホテルといえば、シンガポールスリン
グがあまりにも有名ですが、実はラッフルズホテルはマティーニ
でも有名なのです。その昔、『月と6ペンス』などで有名な作家
サマセット・モームが作品執筆のためにこのラッフルズホテルに
宿泊していたのは有名な話。「サマセット・モーム・スイート」
という名前の部屋もあります。

マティーニ好きだったサマセット・モームをしのんで、
このホテルのバー&ビリヤードルーム(有名なロングバーではな
くもっとひっそりとした一角にあるバー)には、すごい種類の
マティーニがあります。メニューを見ているだけでも楽しくなる
くらいです。サー・ウィンストン・チャーチルとか、007と
かその名前もドラマ性のあるものが多いです。この写真はかなり
前にマティー二のイベントが行われたときに撮影したものです。
観光名所のラッフルズホテルに来て、定番のシンガポールスリン
グでなく、マティーニを飲むというのが通ではないかと個人的に
思っております。

こんな話しを書いているうちに、北朝鮮が核実験?
今度、ラッフルズホテルに「キムジョンイル」という名前か、
「安全性が徹底的に保証された地下核実験」という名前のマ
ティーニをおいてほしいと思う今日この頃。ベースはドリアン
の絞り汁に、たっぷりのキムチ、なんて言っていると
北朝鮮関係の方からクレームが来てしまうかもしれませんので、
この話題はこのへんにしておきましょう。

ところで、昨日ちょっとふれた『功名が辻』の話です。ブログ
はテーマを絞って書くのがよいのだと思いますが、私のは逆に
あえてテーマを絞らないという考えをもっていますので、悪し
からず。人間の心も人生もそんなに単純ではないということを
表現するため、私のブログは敢えていろんな異質な要素をカク
テルのようにミックスしています。

その『功名が辻』の話の中で、山内一豊は、豊臣方につくのか、
それとも徳川方につくのかで大いに迷うという場面があります。
最終的には、徳川方についたということで結果オーライになっ
たのですが、一つ間違えば三成方について、関ヶ原で負けて、
山内家は滅びさっていたかもしれません。それほどまでに、
このときの決断は微妙でした。

このことを考えたとき、じつは自分の最近の過去にも似たよう
な決断ポイントがあったのに思い当たりました。これまでこの
話はちょっとタブーな雰囲気があり、どこにも書いたことがな
いのですが、もはや時効であると勝手に判断して書いてみるこ
とにします。

数年前の話です。東京の本社はお家騒動で揺れていました。
まあよくある話といえばそうなんですけど、自分の身近なとこ
ろでそういうのが起こるのは初めてでした。うちの東京の会社
は何十年か前に創業したオーナー社長が経営を行っており、
役員会は、時代物の話によくあるように、いわゆる年寄りが
牛耳っていました。

高度経済成長の頃は無策のままでもどんどん伸びていった業績
がバブル崩壊の後、売り上げは伸び悩みを続けていました。
このままではいかんと思ったミドルたちが叛旗を翻しました。
反会社派の領袖は、関ヶ原を控えた徳川家康のような雰囲気で、
若手を自分の仲間につぎつぎと取り入れていきました。その中
には、たしかに加藤清政みたいなやつや、福島正則みたいな
血気盛んな若手がいました。夜毎、会社の近くの居酒屋でクー
デターのための会議が開かれていました。

いつしか私もその仲間になっていました。ちょうどその頃、
司馬遼太郎の「関ヶ原」や、「織田信長」を読んでいて、また
DVDで「坂本龍馬」を見てたりしていたので、改革派のほうに
正義を感じていたのです。そのときの会社は、戦国時代で言え
ば、滅び行く豊臣家であり、幕末で言えば、腐った徳川幕府の
ようなものでした。改革派が会社の経営権をとり、旧会社派の
年寄り連には一斉に退いていただく、というのが改革派の野望
でした。会社側はどんどん追い込まれていきます。

何日も、何日も、改革派の地下活動は続き、会社での暗い会議
が続きました。そんなある日、そんな騒動の余波で、会社の先
輩が辞めることになり、その送別会に行きました。本当は、
その日は夜にもかかわらず会社で会議がある予定でした。私は、
その深刻な会議よりも、送別会を優先しました。その送別会の
帰り、まだ続いているはずの会議に出る予定にしていたのです
が、私はそれをすっぽかして、見晴らしのいい公園の土手の上
で風に吹かれていました。

こんな面倒なことに巻き込まれるのは、本当に自分のやりたい
ことと違う、こんなんだったらあの先輩みたいに会社を辞め
ちゃったほうがすっきりする。改革派のやりかたは、ちょっと
強引すぎるし、こうやって結果的に誰かを不幸に陥れるのは
自分のやり方じゃない。何でこんなことやってんだろう。こん
なことが自分の人生にとってよいことなんだろうか。夜風に吹
かれながらそんなふうに思っていました。今から思うとドラマ
の一場面のようです。そう思いながら、その日の会議はすっぽ
かしました。それ以降、改革派とも距離を置きました。

しばらくたって、行き過ぎた改革派の人たちが、会社から懲戒
免職されるという事件が起こりました。社長が勇気を振り絞り
改革派を一掃したのです。その衝撃は会社の内外を揺るがせま
した。改革派の人たちと仲のよかった、お客さんは、会社を
糾弾し、出入り禁止状態にしました。改革派の人たちは、会社
から仕事を奪っていきました。その後遺症から回復できるまで
何年かかかりました。私たちは苦しい時代を耐え忍び、やっと
何とかがんばれる状況になった感じです。

今から考えると、もしも自分が改革派側の人間だったとしたら、
自分もクビになっていたのでしょうか。そのときの私には、
どちらに行くことも可能でした。そのとき右に行くか、左に
行くかは、インスピレーションが決めることでした。あるいは
運命が決めることと言ってよかったのかもしれません。

そんなこんなで、私は今の会社に残っています。どちらが正し
くて、どちらが間違っていたのかは、本当のところよくわかり
ません。徳川家康が言うように、「正しき事が、正しき事とは
限らぬのが人の世」ということなんでしょうか。運のよい(と
自分で思っていて、妻の下町娘もよくそのように
言う)私は、結果的に正しい決断をしたのでありましょう。
正しいか、正しくないかは、その後の結果が決めるこという
ことができるではないでしょうか。

ちょっと深みがあってほろ苦いカクテルのようなお話でした。