南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

外国人と英語で初めて話したのは、いつ?

2006-10-19 02:30:19 | Weblog
今の時代の皆さんは、外国人と話しをするというのがそんなに
珍しいことではなくなっていますが、私が中学校で英語を学び
始めたころ、外国人と話しをするどころか、田舎の町では外国
人を見ること自体がめったにないことでした。

今でこそ、私の故郷の愛知県の田原市は、豊橋が国際的な港と
して発展したので、外国人の姿があたり前のように見られるの
ですが、私が高校を卒業して東京に出るまで、町で外国人の姿
を見るということはありませんでした。

そんな町で、英語を勉強し始めた私にとって、せっかく勉強し
た英語が本当に使えるものなのかどうか、試したくてしょうがあ
りませんでした。本当に、日本人の先生から教わった英語で世
界の人と話しができるんだろうか。という興味がどんどん高
まっていくのでした。

中学の3年のとき、一番仲のよかった友達は、近所の時計屋の
息子のマー君でした。彼は、名古屋の私立高校に行き、過激派
の思想にとりつかれ、若くして亡くなってしまいました。クラ
シック音楽も好きで、私の家に遊びに来たときは、カラヤンの
指揮の真似をして、マーラーは最高にいいというようなことを
熱く語っていました。私はクラシックは全く興味なかったので
すが、彼の話しを、静かに聞いてあげていました。

中学3年の時、彼とは同じクラスでした。東京方面への修学旅
行を目前に控えたある日、マー君とぼくは、二人で修学旅行の
大きな目標をたてました。
「外国人と英語で話してみよう!」
そしてどちらがより沢山の外国人と話せるか競争しようという
ものでした。

と言っても、中学の3年くらいの教科書だけでは、外国人と
会話をするような例文がありません。まさか「あなたはペンを
持っていますか?」みたいな不自然なことを聞くわけにはいき
ません。修学旅行先で遭遇する外国人は、おそらく観光で日本
に来ている人なのだろうから、それなりの内容の会話ができな
いといけない。ということで、ぼくらは英会話のテキストから
使えそうな文章をメモ帳に書き出して、暗記したのでした。

いよいよ修学旅行になりました。ぼくらはまず、富士山の白糸の
滝を見て、箱根の大湧谷に行きました。富士山を見ることも初
めてだったのですが、どこかに英会話を試す適当なターゲット
はいないかということばかり考えていました。ガールハントな
らぬ、外人ハントです。

大湧谷の煙がもやもやとしている小道を歩いていくと、前方に
ターゲット発見。ぼくの心臓が高鳴る音が周囲の谷間にこだま
すかのようでした。まるで神風特攻隊のように、前方を一人で
歩いている西洋人の男性に突進していったのです。
「すいません、ちょっと話してよいですか?
ど、ど、ど、どこから、来ましたか?」のように英語で尋ね
ました。後は、気が高ぶっていて細かくは覚えていません。
しかし、その男性が、イタリアのミラノから来た人であり、
名前がルイジ・バルツィということは今でもはっきりと覚え
ています。

初戦は勝利でした。何をもって勝ったというのか不明ですが、
とにかく外国人と英語で話しが通じたということで、ぼくは
興奮状態でした。さて、次のチャンスが訪れます。その場所は
鎌倉の長谷の大仏の前でした。ぼくらがそこに到着したとき、
たまたま白人の団体が到着していました。またまたぼくらの
鼓動が高鳴ります。獲物がうじゃうじゃいます。ビッグチャ
ンス!

ぼくは、大仏の前にいた白人のカップルに近づいて、話しか
ました。二人とも目が水色で、髪の毛はブロンド。見るからに
見た事もない典型的な白人でした。初めてみる水色の瞳を見て
いると、何だか魔法にかかったように硬直している自分がいま
した。そのうちにクラスメートたち、というか他のクラスの
生徒たちも、もの珍しそうに、ぼくらの周りを取り巻き初め
ました。ぼくはいきなり日本代表として、外国人使節と話しを
する人みたいになって、話しをしないといけなくなりました。

まわりの好奇の目が、ぼくにプレッシャーを与えてきます。
「ど、ど、ど、どこから来ましたか?」
ととりあえず聞いてみました。すると相手は、典型的なアメリ
カ英語でしゃべってきます。ちょっと待ってよ、こっちが用意
していた文章は伝えることができるけど、そっちが言ってる
ことが何だかわからないよ~。自分の言いたいことは暗記して
いたのですが、ヒアリングは全くダメです。
「ウィスコンシン」という言葉が聞こえました。これはアメリ
カの中西部カナダよりの州の名前ですが、この人たちは自分ら
がウィスコンシン出身だと言っているのだなということまでわ
かりました。

ぼくは、いかにもわかったように、頷きながら、日本の印象な
どを尋ねてみました。でも何を答えたのか全くわかりませんで
した。幸いに周囲を取り巻いているクラスメートたちのほうも
さっぱりわかっていなかったので、何とか会話をしているとい
う雰囲気には見えたのかもしれません。この時は瞬間的にぼく
はヒーローでした。「あの人たちはアメリカのウィスコンシン
から来たと言っていたよ」と言ったら、みんなが「すご~い!」
という尊敬のまなざしでぼくを見ていたのでした。

マー君も同じようにがんばっているようでしたが、集客力(?)
という点ではぼくのほうが勝ったように記憶しています。

あれからうん十年、今、私はシンガポールの会社で、英語を
使って仕事をしています。英語を使って仕事をすることが夢
だったので、夢が実現したということになります。しかも今、
この国での私の立場は「外国人」です。まさか自分が外国人に
なってしまうとは、想像もできませんでした。

英語が何となく道具として使えるようになったのは、仕事で
使うようになってからですね。実際に使ってみて初めて身に
つくのが語学なのだなあと思います。また言葉だけでなく、
何かを本当に伝えたいという気持のほうも重要だなあと思う
今日この頃です。

でも英語よりも、日本語で、妻の下町娘に自分の気持を
うまく伝えるのがもっと大変だと思いますけどね。

2 コメント

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最後の (ゴトウ)
2006-10-19 22:38:50
夢と希望にあふれた少年時代の話をちょっとくすぐったいような笑みとともに読んでいたら、最後でやられました。

ごちそうさまでした!
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最後の一文 (南の国の会社社長)
2006-10-20 01:57:05
ゴトウさん、これは思いつきで付け足しただけですが、そういうのろけるつもりはぜんぜんなかったのですよ。でも結果的には、そういうかんじですよね。まあ、下町娘へのサービスですね。
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