南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

「功名が辻」マイベスト10

2006-12-26 02:15:21 | 戦国時代
メリークリスマスのメッセージをアップしようと思っていたら
すでにクリスマスも終わってしまったので、年末のまとめとし
て「功名が辻」のシーンのマイベスト10を公開したいと思い
ます。

この間、総集編があったのですが、あらためて見て、いろいろ
と思い出に残るシーンがあるなあと思いました。これに順番を
つけるということは、なかなか難しいのですが、自分のまとめ
として、勝手にランキングをつけてみようと思います。

言っときますけど、これはあくまでも個人的なランキングなの
で、皆さん、これは納得いかないとか思われるところもあるか
と思いますが、悪しからず。独断と偏見のランキングです。

いきなり第一位:炎の中の「婚儀承知」
4回めの「落城の抱擁」の回でのシーンですが、落城間際の
稲葉山城で、千代の親代わりの不破市之丞が自害しようとして
いるのを、秀吉が止めて、一豊と千代の結婚を承諾させてしま
うという場面。状況的にはちょっとわざとらしいのですが、死
のぎりぎりのところで実現する結婚。「千代は、生きて、一豊
様の妻になりとうございます」という必死のアピール、そして、
その後の市之丞の「婚儀承知!」という台詞。これは忘れられ
ません。

第ニ位:一豊の最後の「喉が渇いた」
一豊の最後の時、よりそう千代が、「まだまだこれからでござ
いますよ。私たち、誰もおよばぬ、日の本一の夫婦になるので
ございます」という台詞。その後に一豊の「喉が渇いた」とい
う言葉。戦国の世に、これほど平和な最後はないのでしょうが、
これは感動です。こういう最後を迎えられたら、一番幸せなの
ではないかと思いました。

第三位:仏門に入る拾の「かしこまりました」
武士への未練が残る拾が、一豊と千代に仏門に入るよう説得さ
れる場面。「ご下命とあらば従います。されど、そうでなけれ
ば、いやでございまする」と拾。一豊が、「父の命である」と
厳しい口調で言うと、拾が「かしこまりました」と言う。この
場面、いつ見ても感動です。

第四位:副田甚兵衛の「待っておるぞ」
北条攻めの回に出てくる話しで、メインの話しではないですが、
死の床にある旭の前に、針売りに扮して甚兵衛からの手紙を読
むという設定の副田甚兵衛。「もはや、この世で叶わぬならば、
あの世でゆっくり語り合おう。互いの苦労自慢をいたそう。そ
して笑いあおうぞ。旭、いかなることがあろうとも、わしらは
夫婦じゃ。病をしっかり直せ。待っておるぞ」
この台詞、泣けてきます。

第五位:吉兵衛の「上手の大将になられましたな」
亀山城への一番乗りを果たした五藤吉兵衛が、致命傷を負い、
一豊に「わしの城の天守に立て」と励まされる。一瞬こぼれる
笑い。まだまだ、吉兵衛は、これから一豊を助けなければいけ
ないのにここで死んでしまう。もっと生きてほしかったと、思
う人物でした。このシーンも泣けます。

第六位:信長の最後の「痛いのう」
本能寺の場面での濃と信長。「あの世で会おうと仰せになられ
ても、殿は地獄、私は極楽、これでは死に別れにござります」
という濃の台詞、すごくかっこいいです。ここにも愛を全うし
ようという一組の夫婦の姿があります。でもその後に、鉄砲で
撃たれた信長が、発する「痛いのう」という言葉。自分は神だ
から痛みは感じないと豪語していた信長も所詮は一人の生身の
人間だったということが、この一言に現れています。さらに
濃が撃たれる場面で、光秀が「きちょうさま」と叫ぶ。ここに
もまた遂げられなかった愛の姿が。本能寺を単に信長の最後と
してだけでなく、濃の生き様、そして光秀と濃の秘められた愛
なども表現していて実に面白い場面でした。

第七位:一豊の「黄金十両!」
内助の功を表すエピソードとして一番有名な名馬を買う場面。
「暮らし向きのことには使ってはなりませんよ」と言われて
いたのを、ここぞと使う千代。それに最初は不満を覚える一豊。
しかし、千代の説得で、馬を買うことを納得する一豊。これは
有名な場面ですが、やっぱり印象に残ります。

第八位:千代の「私も同じ夢を追いとうございます」
一豊と千代が祝言をあげた夜、二人で語り明かす。「一国一城
の主になることが夢」と語る一豊に、「戦は嫌いでございます。
されど一豊様の夢が一国一城の主なら、私も同じ夢を追いとう
ございます」と言う千代。とくにドラマチックな場面ではない
のですが、記憶に残る台詞です。

第九位:千代の「お命の持ち帰りこそ功名の種」
この言葉だけで、感動してしまいます。命惜しむな、名こそ惜
しめと言われていた時代に、命の大切さをストレートに訴える
千代の気持が感動的です。

第十位:その他いろいろ
その他、市の台詞も印象に残っているし、三成、淀も鮮明です。
秀次の最後のシーンもよかったです。あと、細川ガラシャの
「首か胸か」のシーン。寧々の台詞もよかったなあ。いざ、
選びだそうと思うと、選ぶのが大変です。まだ忘れてる名場面
があったかもしれませんけど。

皆様、何で六平太が入っていないのかとか、何で竹中半兵衛が
入っていないのかとかご不満の方もいらっしゃるかもしれま
せんが、これはあくまでも個人的な意見なので悪しからず。
では、おさわがせいたしました。

鶴松君は疑惑のデパート

2006-09-07 03:40:28 | 戦国時代
日本は、「紀子様の男子ご出産」のニュースでもちきりだったようで
す。ニュースは朝からひっきりなしにその話題を繰り返し、何だか
とても平和になったような雰囲気でした。41年ぶりの男子だとか、
皇位継承3位であるとか、日本は全国的にお祝いムード。一人の赤ん
坊の誕生がこんなに話題になるというのは、何だかすごいことです。

東京で働いている私の妻の「下町娘」は、その日、自分で子供を
出産する夢をみたとか。まったくの安産で、こんなに簡単に生まれ
ちゃったと思ったところで目がさめて、テレビをつけたら紀子様の出産
のニュースをやっていてびっくりしたそうです。奇遇です。これは
すごい超能力かも。

私は、ここ一日二日、「功名が辻」の中で、茶々(淀)が産んだ鶴松君
のことをちょっと調べていました。秀吉が53歳か54歳のときに、淀と
の間に生まれたとされる子供なのですが、この子が生まれたときも、
大変なお祭り騒ぎだったようなのです。

司馬遼太郎先生の「功名が辻」の本の中で、鶴松君が誕生した頃の様子
が次のように表現されています。「鶴松誕生のときは、天子は産衣を贈
られ、公卿、大名、富商は大坂城へ引きもきらず参賀にゆき、城内は
ごったがえしたものだった」これは何だか今の紀子様の男子誕生と同じ
ような盛り上がりだったようですね。

でもこの淀殿の鶴松君は、じつは疑惑の子供だったようなのです。
それまで、数々の側室を相手に子作りに励んできた秀吉さんですが、
全然子供ができなかったのですね。寧々さんも、子供ができない原因
は、自分のほうにあるのか、秀吉のほうにあるのかさんざん悩んだ
ようなのですが、結論としては、秀吉のほうに問題があるということ
でみんなうすうす納得していたようなのですね。

それが53、4歳にして初めての子供!これはちょっと疑いたくなっ
ちゃいます。ドラマとかだと、なんだかすごい年寄りに見えますが、
じつは自分の年齢とそんなに変わらないのですね。う~ん、自分も
もうそんな歳か。ちょっとショック。

この鶴松君の誕生は、寧々さんにとってはショックです。側室に先を
越されたというショックもあったのですが、今まで不妊の原因は夫の
秀吉にあったと思っていたのに、実は自分のほうにこそ原因があった
可能性があるのです。いろんな意味でショックだったのでしょうね。

加藤廣さんの小説『秀吉の枷』の中では、鶴松君の誕生のあたりのこ
とが非常に興味深く書かれています。秀吉は淀の懐妊の知らせに歓喜
するのですが、その後で主治医に出産予定についてこっそりと訊ねま
す。「来年の5月」との主治医の答え。秀吉はさらに、上旬か、中旬
かと訊ねるのですが、主治医は下旬と答えます。秀吉はもともと計算
には長けているので、逆算をします。淀(茶々)のもとに足しげく
通ったのは7月以前。出産が5月下旬ということだと、計算が合わ
ない。まさか、自分の子供ではないのでは、と思うとぞっとする秀吉
なのですが、それを人に言うことはできない。

結局は、悩みながらも自分の子であると言い切ってしまうしか道はな
いと開き直り、自分の子供というふうに思い込むのです。疑惑の一人
は、茶々のもとにいる大蔵卿局の息子の大野治長。美男子だったそう
です。しかし、それを追求したところで、どうしようもない。大河
ドラマを見ると、石田三成がかなり怪しいですよね。

ひょっとして、三成が茶々と結託して、秀吉の子ということで、自分
たちで子供を作るという策略を弄していたのかもしれません。三成は
その頃、茶々のそばにいなかったので、それはありえないという説も
ありますが、じつは頭のよい三成のこと、巧妙なアリバイを仕組んで
世を欺いていたのかもしれません。

いずれにしても、この鶴松君、生まれてきたとはいえ、父親の秀吉に
とっては、本当は誰の子だかわからないという疑惑の子どもだし、
寧々にとっては憎き敵の茶々の子であるし、他の側室にとっては
妬みの対象でもあるし、また秀吉の甥の秀次にとっては自分の出世を
脅かすうるさい存在の子供であるし、みんなにあまり快く思われなかっ
たのではないかと想像されます。

淀(茶々)と三成にとっては、今後の豊臣家の中での地位を盤石の
ものにするための重要な戦略的素材であったろうと思いますが、
病弱のため幼くして死んでしまいます。大河ドラマの中では、あっさ
り生まれてきて、あっけなく死んでいくのですが、この死だって、
よく考えれば疑惑の固まりです。鶴松君のことをよく思わない人は
周りにいっぱいいます。そのような人たちが、何らかの手を下したと 
いう疑惑も否定できないのではないでしょうか。あるいは全くの無関
係と思われる徳川家康だって、こんな子供が豊臣家の跡継ぎとして
育っていったら自分の天下取りの邪魔になるということであらかじめ
消したということだって考えられるし(それはない?)、でも歴史の
中にはいろんなミステリーが未だ解明されずに残っていると思うの
ですね。まあ想像は勝手ですから。

というわけで、鶴松君というのは、さんざん世間を騒がして歴史から
消えていってしまいます。その真実は明らかにされないまま。今の世
の中だったらワイドショーとかで取り上げられそうなテーマですね。

ところで、このテーマにはまったく関係ないですが、あと数時間でま
た飛行機に乗らなければなりません。シンガポールのチャンギ空港か
ら、マニラにでかけます。また、工場でのビデオ撮影です。ではまた
マニラからお届けします。

「功名が辻」の副田甚兵衛に捧ぐ

2006-09-04 01:17:40 | 戦国時代
この上の写真はタイトルとはあまり関係がないのですが、シンガ
ポールの紀伊国屋(リャンコート店)の店内の様子です。本当は
こういうところで写真を撮影してはいけないのでしょうが、こっ
そり撮影してしまいました。シンガポールには、紀伊国屋がある
ので、日本人としては非常に便利です。

前にここで「秀吉の枷」を買って、未だに読み終わっていません。
この本の中では、淀が秀吉に対して受け身ではなく、戦略的な行動
に出るところも面白いのですが、このへんはまた別の機会に語り
たいと思います。

本日、題材としたいのは、今日の「功名が辻」35話の前半に出て
きた野口五郎演じる副田甚兵衛(そえだじんべい)です。彼は、
秀吉の妹の旭と結婚するのですが、家康に旭を嫁がせるために、
離縁させられてしまいます。その後、甚兵衛は行方をくらまして
しまっていました。

針売りの行商をしているところを千代に発見され、旭の手紙を
手渡されます。甚兵衛は、あくまでも自分が針売りであることを
主張するのですが、その寒い冬の夜、彼は旭の手紙を読みます。
座って手紙を読む甚兵衛に、次第にスポットライトが強く当たり
はじめ、旭の手紙のクライマックスのところで雪が降り出します。

このシーンの演出は、まるで演劇の舞台の演出のようで、テレビ
ドラマとしてはリアリティがないのですが、これはまあこれでよ
いかと納得してしまいました。私は大学時代、演劇をちょっと
やっていたのですが、このシーンの照明、演出は、その時代を
思い出して、なつかしくなってしまいました。人物がスポット
ライトに一人だけ浮かびあがり、手紙を書いた人物の声がかぶる。
そしてそこに雪が降る。いかにもの設定なのですが、この部分、
そのわざとらしさが、ちょっと気に入ってしまいました。

圧巻は、死ぬまぎわの旭のところに、副田甚兵衛の代理として
針売りの格好をした本人が手紙を読むという場面です。雨の降る
庭に現れた副田甚兵衛。傘をかぶっているので、その顔はわから
ない。懐から手紙を取り出す。しかしそれは文字が書かれていない。

この部分は、去年の大河ドラマの「義経」の中の弁慶の勧進帳の
場面を彷彿とさせますが、文字が書かれていない手紙という演出も
それだけでドラマチックです。野口五郎演じる副田甚兵衛は、手紙
を読んでいる振りをして、自分の気持を切々と訴えます。

「旭、そなたは、わしの生涯の妻じゃ。
そなたの気持がわかっておれば、関白殿下の頼みなどは振り切って
おったであろう。されど、もはやこの世で互いに添いとげることは
叶わぬようじゃ。この世で叶わぬならば、あの世でゆっくり語りあ
おう。互いの苦労自慢を致そう。そして笑いあおうぞ。
旭、いかなることがあろうとも、わしらは夫婦じゃ。
病をしっかりなおせ。待っておるぞ。
いつまでも、待っておるぞ」

副田甚兵衛は、この台詞をいい終わるや、姿を消すのですが、旭は
その言葉の余韻の中で、静かに息を引き取ります。

副田甚兵衛という人物は、これまでは全く影の薄い登場人物でした。
しかし、この回のこの場面は、最初で最後の見せ場となりました。
運命のいたずらで切り裂かれてしまった一つの夫婦。しかし甚兵衛
は、愛を貫き通します。一見、たいした活躍もせず、頼りない男の
ように見えた甚兵衛は、最後の最後で男らしさを見せるのです。

旭は、死の間際で、甚兵衛のこの言葉に接し、さぞ嬉しかったので
はないかと思います。また、甚兵衛も最後に、旭に直接、自分の思
いを伝えられて、満足だったのではないかと思います。

テレビでは、旭の葬儀の後、針を売り歩く甚兵衛が「旭!」と叫ぶ
シーンで終わっています。原作シナリオでは、「数日後、東福寺の
旭の墓前で、甚兵衛は自害して果てた」ということになっています
が、自害のシーンは敢えてカットされたものなのでしょう。自害の
シーンまで入れてしまうと残酷すぎてしまったかもしれません。

テレビでは、副田甚兵衛なる人物がかなり登場したのですが、司馬
遼太郎の「功名が辻」の中では、ほとんど話題になっていません。
また名前も、副田甚兵衛ではなく、「佐治日向守」という名前になっ
ています。ご参考までにそのあたりの部分を引用してみましょう。

「秀吉には、異母妹がいる。朝日姫といい、佐治日向守という凡庸
な武士の妻であった。美人ではなく、老いてもいた。四十四歳で
あった。この朝日姫を家康にあわせようと思い、夫の佐治に、
なにごとも天下治平のためだ。
と説得し、離縁させた。
佐治はこのことを恥じて切腹して果てている」

何とこれだけなのです。テレビの副田甚兵衛のキャラクターは脚本
の大石静先生のイマジネーションが生み出したものなのでしょう。
このドラマ全体の中では、マイナーな役所なのですが、こういう
脇役の中にもドラマ性があり、主筋のストーリーの周辺にいくつも
のドラマが平行して展開していくところが大河ドラマの大河ドラマ
たる所以でしょう。

戦国時代の混乱の中でも愛を貫きとおした男、副田甚兵衛。この
シーンを見ていて私が思っていたのは、実は、東京の下町にいる
下町娘のことでした。私たちは、彼らのように悲劇的
な状況に置かれているわけではありませんが、甚兵衛のように
純粋でありたいと思っております。

恥ずかしながら、甚兵衛の台詞を私用にアレンジしてみたいと
思います。
「いかなる状況にあろうとも、わしらは夫婦じゃ。
シンガポールに早く来い。待っておるぞ。
いつまでも待っておるぞ」
失礼しましたー。

石田三成と茶の温度の科学的根拠

2006-08-22 21:25:34 | 戦国時代
「茶を所望じゃ」と秀吉は、まだ寺の小僧であった佐吉(石田三成)
に頼んだ。佐吉は、大きな茶碗に七、八分にぬるくたてたお茶を
持ってきた。のどが乾ききっていた秀吉は、それを一気に飲んだ。
「さらに一ぷく」と秀吉は佐吉に命じた。今度は、温度をやや熱く
し、量は半分くらいにした。秀吉はそれを飲んだあと、さらに三杯
目を頼んだ。するとその茶碗は小ぶりになっていて、湯の量はほん
のわずかで、温度は舌の焼けるほど熱かったという。

これは、秀吉が最初に石田三成に出会うときのエピソードです。
秀吉は、ここで石田三成の頭のよさに感心し、寺から自分のところ
にもらいうけたということです。

この話を最初、司馬遼太郎さんの『関ヶ原』の冒頭の部分で読んだ
とき、ただ単に飲みやすいかどうかという程度の問題なのだと思っ
ていました。

ところが、昨日のNHKの「生活ほっとモーニング」での熱中症の対処
法の話を何気なく見ていたら、熱中症になった場合には、水の温度は
ぬるめのほうが効果があるという話が出ていました。温度が低ければ
低いほど(と言っても限度は摂氏5度くらい)小腸まで到達する
時間が速いということです。

水分を吸収するのは、のどや胃ではなく、小腸なのです。熱中症で
水分が足りなくなっている場合には、一刻も早く小腸に水を届ける
必要があります。熱いお湯だと、胃に留まって、小腸までなかなか
たどり着かないようなのです。湯温が低ければ低いほど、小腸まで
水分がはやく届くとのことです。

このあたりの詳しいデータは生活ほっとモーニングのサイトに
出ていますので、そちらでご確認ください。

この時、秀吉が熱中症の症状であったのかどうかはわかりませんが、
蝉の鳴く暑い夏の日に、鷹狩りで体力を使い、喉もからからになって
いたというのは熱中症に近い状況であったのかもしれませんね。
それにしてもこの石田三成、ちょっと頭がよすぎですよね。
彼は、秀吉の下で、数字がからむ仕事では相当活躍したようですが、
このお茶のエピソードにその計算高さが明確に現れているのは面白い
です。

でも、最後の「関ヶ原」のとき、自分の緻密な計算がぼろぼろと崩れ
ていき、あてにしていた武将から裏切られたりするのは、何ともあわ
れでございます。やっぱり世の中計算づくではいかないこともあると
いうことでしょうか。

愛は計算じゃないっすと、世界の中心で叫びたくなって
しまいます。

私は昔から計算が苦手で、数字アレルギーなのですが、この年になっ
て会社の経理数字や、銀行の残高や、給料の支払いや、税金などで
こんなに数字とにらめっこできるのは生まれて始めての経験です。
でも本当は数字は好きじゃありません。石田三成が今の世によみが
えって、シンガポールに就職活動に来たら、採用したいところです。
でも、人間的にはどうかな?という疑問が残りますが、売り上げは
きちんと上げてくれて、私としては秀吉のように、遊んで暮らせる
のになあと思ったりする今日このごろでございます。

木下藤吉郎のプレゼンテーション

2006-02-05 18:45:50 | 戦国時代
この前、織田信長へのプレゼンテーションについて考える途中だったのですが、
ちょっと先行きが不安になってしまったので、その部下の木下藤吉郎氏のほう
に鞍替えしました。以下、インタビュー形式でお届けします。
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聞き手「本日は、木下藤吉郎さまをお招きし、プレゼンテーションに関しての
お話を伺いたいと思います。木下さんは、どうしてそんなにプレゼンテーション
が御上手なんでござりますか?」

木下「よくぞ聞いてくれた。実はそのことに関しては常々説明したいと思うとっ
たのじゃが、忙しくてなかなかその時間が取れんかった。聞き手としたら、あん
たのその最初の質問はいきなり直球なので、普通の人間だったら答えに窮する
ところじゃが、わしは違うから大丈夫じゃ」

そこに、下町娘がお茶を持って入ってくる。

木下「ありがとさん。わしは茶がすきじゃ。(下町娘に)後で電話番号教えてな」

聞き手「(咳払いをして)ところで、木下さん、清洲城の三日普請や、墨俣の一夜
城の時もそうでしたが、この間の稲葉山城攻略のときにも三日で城を落としてみせ
ると宣言なさいましたよね。あれは見事なプレゼンテーションだと思うのですが」

木下「よう覚えておいてくれましたな。あの稲葉山城のときは、三日と言ったのに
三日たっても城が落ちなんだでのう、あん時は立つ瀬がなかったぞ。竹中半兵衛殿
がもっと早うあの抜け道のことを言ってくれておったらと悔やまれる」

聞き手「あの時、御屋形様の前で、三本の指を示し、ちょっと遅らせて[三日で]
とおっしゃいましたよね。あの技はプレゼンテーションの時のボディランゲージ
におけるポイントなのですが、それを見事に使われておりました」

木下「ボデーなんたらかどうか知らんが、わしゃーとくに理論的にやっとるわけ
じゃなく、本能的にやっとるだけだよ。御屋形様がああいうお人じゃからのう、
もたもたしておってはだめなのじゃ。まず何でもいいから、一瞬でメッセージを
伝えなければいかん」

聞き手「なるほど。だから、三日でとか、一夜にして、というインパクトの
ある言葉を使われるのですね。木下さんは、三とか一とか少ない数を効果的に
使われますが」

木下「猿は3より上の数は数えられん(笑い)というのは冗談じゃが、数は
一日とか三日と言い切ってしまったほうが、印象が強い。二日とか、四日とい
うのはなんだか弱い」

聞き手「なるほど、プレゼンテーションの世界でも、3というのは重要な数で
すね。一枚のスライドで表現するのは3つくらいのポイントに絞れとよく言わ
れます。また最終的には言いたいことは一言で言えないといけないとか」

木下「そうそう、言いたいことは一言でまとめられないといけない。三日で
稲葉山城を落とすと宣言したときも、本当は、細かいところまで算段ができて
おったわけじゃなかったんだが、あの時は弾みで三日でと言ってしまったわけ
じゃな」

聞き手「仕事の世界で、とにかくがんばります、とか言ったりするんですが、
また政治家なども、善処しますとか言ったりするんですが、いつまでにそれを
達成するのかということを明言しないので、本当にやる気があるのかどうかは
わからないし、結局なかなか進展しない。スケジュールを最初に宣言してしまう
というのは、現代の日本のビジネスマンにはなかなかできないことですよね」

木下「わたしががんばってやります、というだけでは、何の具体性もない。
三日でというふうにスケジュールを提示することによって、プロジェクトが
具体性を持つ。具体性がないと、物事は進みゃーせんぞなもし」

聞き手「プレゼンテーションでは、結論を先に言うべきか、最後に結論を持って
くるべきかという議論がありますが、木下さんは前者のほうですよね」

木下「そうそう、わしゃあんまり理屈をこねくりまわして最後に結論に持って
くるという悠長なのは嫌いじゃ。御屋形様もそれは嫌いじゃ」

聞き手「御屋形様は、木下さんのそういうところも気にいられていらっしゃる」

木下「うん、ここだけの話だけど、御屋形様は、気が短くて、結論もはっきりと
おっしゃらない。かかれー、とか励めとかはよく言われるが、ちょっと言葉足ら
ずなところがある。しかし拙者の場合は、きちんと理由を言い添える。
だから御屋形様は拙者のそういう部分を高く買っておられる」

聞き手「そうだったんですか。また、木下さんは、名字を羽柴に、お城の今浜
を長浜にCI変更されることになるんですよね?」

木下「あんた何でそんなことまで知っとるの?まあええけど、丹羽長秀さんと、
柴田勝家さんのお二人のお名前を一字づつちょうだいしようと思っとる。名前
自体がすごいプレゼンテーションになるんじゃ。また長浜の地名は、御屋形様
のお名前から一字ちょうだいしようと思っている」

聞き手「すばらしいプレゼンテーションですね。それを見ただけで、織田家へ
の忠誠心が強烈にアピールできている。くどくどと説明するより、メッセージ
が強烈に伝わってきます」

木下「プレゼンテーションとは、まあそういうもんじゃ」

聞き手「プレゼンテーションというのは、パワーポイントの技術論や話術とか
が重要だと思われがちなのですが、本日は木下さんにもっと重要なものがある
と教わったような気がします。本日はお忙しいところ、どうもありがとうござ
いました」

木下「これからNHKの大河にのう、出んといかんので、このへんで失礼する。
えーと、さっきのあのお茶をもってきたおなごは?」

聞き手「木下さん、早くしないと遅れてしまいます」

木下藤吉郎氏はあわてて去っていくのでありました。

もしも織田信長がクライアントだったなら

2006-02-03 22:33:53 | 戦国時代
もしも、織田信長がクライアントで、私が広告代理店として
打ち合わせんに呼ばれたと想像してみました。
昨日、織田信長のせいで(昨日のブログ参照)コンピュータが
壊れるという惨事があったので、まあその復讐の意味もあって、
織田信長を笑い者にしてやろうという魂胆でこういう話しにした
ててみました。これはあくまでもて気まぐれで書いていることな
ので、歴史的な意味は全くありません。

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私はクライアントの織田信長に招かれて(というか命令されて)、
岐阜城と改名されたばかりの稲葉山城の石段を登って、指定さ
れた天守閣までやっとのことで辿り着いた。

この天守閣は山の上にあるので、ここまで登ってくるだけで、
一苦労である。50を過ぎた私には、かなりきつく、息が苦しく
て思わずへたりこむ。何でプレゼンテーションをこんな場所
に指定したのかなあ、と私はクライアントである信長を恨んだ。

「ほら、早く行かないと遅刻。遅刻したら、これよ」
と首のところに平手チョップのような格好をして立っているの
はなんと下町娘(ハートマーク省略)ではないか。
「なんでこんなところにいるのか」と息を切らしながら訊ねる
と、心配だから付いてきたと言う。

「しょうがないなあ。もしあのどすけべな木下藤吉郎が来て、
側室に来てくれと言われたどうするんだ」と言っているろころ
に、ひょこひょことやってきたのは、何と木下藤吉郎その人で
あった。

「南方よりこられたというのは貴殿のことでござりましょうや?」
下町娘のほうにちらっと好色な目をやりながら、面倒くさそうに
私に訊ねた。なるほどその雰囲気は猿そのものである。下町娘が
我慢できなくなって笑った。

「何がおかしいのでござりましょうや?」と藤吉郎が憮然とし
た表情で言う。眉間に皺を寄せるとさらに猿に似てくる。
「おやかたさまがさっきからお待ちでござるよ。はようこちらに」
藤吉郎は私たちを先導してどんどん天守閣の中に入っていく。

「天守閣の中ってもっと広いかと思ってたんだけど...」
とつぶやく下町娘に対して、藤吉郎が口にチャックをするような
格好をして、「余計なことは言わんようにね、お姉ちゃん」
とちょっとスケベったらしい口調で注意を促した。

階段を登っていくと、窓の外の下界を眺めている人物の後ろ姿が
目に入った。その、毅然とした雰囲気、漂うオーラ...それが
織田信長その人であるということは言われるまでもなくわかった。

「南の国から参った者たちをお連れ申しつかまつりましてござり
ます」木下藤吉郎の敬語の使い方はまだぎこちない。ちらっと
目配せしてそのまま去っていった。猿者(さるもの)は追わず、
というギャグを思いついたが、それはそのような場所では慎ま
なければならなかった。

振り向く織田信長。それはどことなく舘ひろしに似ている。
NHKの配役はまんざら間違いではなかったかと少し安心してしまう。
織田信長は、いつも座る自分の所定の席までつかつかと歩いて、
どっかと腰を下ろし、ぎょろっとした目を私たちに向ける。
ああ、こんなに目に力のある人だったのか、信長って。部屋中に
緊張感が漂い、斜め後方に座っている下町娘も緊張して硬直し
ている。

「そのほう南方より来たというのはまことか」
信長の声が静寂を破った。
「はいシンガポールという国から参りました」
私も緊張しているので、うわずった声でそう答えた。
「何と?シンガ?そのような国の名はいまだ聞いたことがない。
いいかげんなことを申すでないぞ。
お~い、山内一豊、あれを持て!」

まさか、山内一豊がこの岐阜城にいるなんて!こんなに信長の
近くにいるほど史実では出世してなかったのに、おかしなあと思い
ながら待っていると、山内一豊(らしき人物)が大きな地球儀を
抱えて、入ってきた。

ぺこりとお辞儀をしながら、「山内一豊です。地球儀をお持ち
いたしました」と爽やかに挨拶をする。若いわりにはなかなかの
律儀者である。

織田信長はその地球儀を右手でゆるりと回しながら、
「その国はどこにあるのか」と詰問してきた。
すでに織田信長が地球儀を持っていたという噂は聞いたことがあ
るが、実際にこういう現場で見ると、すごいインパクトである。
さすが時代を先取りしていた人物だなあと実感できる。

私はおそるおそるその地球儀に近づき、はっとして、汗がにじみ
出てきた。何とそれは昔の地図であるので、シンガポールは未だ
存在していない。インドとか、ジャワとかは何となくわかるが、
シンガポールはない(筆者注:シンガポールの建国は1965年、
歴史に現れるのは遥か後の18世紀以降のことである)。

織田信長は、目をかっと開いて、刀を抜く素振りをした。
ああ、もう、こんなあっけなく切られてしまうのか、もう
ちょっと生きたかったなあ。こんなタイミングで「人間五十年」
とか踊られた日にはどうしよう、と生きた心地ではなかったが、
信長はそれ以上刀を抜かなかった。何か思うところがあったの
だろう、ふっと窓の外に目をやると、手元の紙の上に筆でなに
ごとか文字を書いていた。

後ろのほうを見ると、下町娘が山内一豊と雑談をしている。
「今度ぜひ千代さんにお会いしたいので、よろしくお願いします」
という声が聞こえる。こんな緊張した場面で、なんということ
だとあきれるが、信長はそんなのは耳に入らぬ素振りで、紙に
文字を書いている。

信長は、腕組みをしながら、自分の書いた文字を眺め、何事か
納得したような感じでゆっくりと頷いている。そしておもむろに
両手で紙を持ち私のほうに見せながら、
「これが今回の広告のテーマじゃ!」と叫んだ。
そこに書かれていた文字は
天下布武
という文字であった。
<続く>
------------------------------------------------------

登場する人物はあくまでもフィクションであり、実際の史実
とは全く関係がありませんので、ご了承ください。
時間切れで後が続かなくなりましたので、またいずれ、気が向けば
続きを書きますが、気が向かなければ続けません。

まだ新しいコンピュータをセットしないと家ではアクセスできません。
ですので、なかなかコメントもできないかもしれませんが、今しばら
くのご辛抱を。

浅井家の興亡

2006-01-28 02:30:31 | 戦国時代
「功名が辻」でも出てくる浅井氏に関して
図式化してみました。浅井氏は長政(ながまさ)
の時に、信長の妹のお市の方と政略結婚をするのが
有名ですが、それ以外にもドラマに満ちています。

北近江の浅井家は、浅井亮政(あざいすけまさ)が初代の
当主です。この人は元は京極氏の家臣だったのですが、
かなり知勇にたけた武将だったようで、独立して戦国大名
となります。南近江の六角氏(ろっかくし)と争っていまし
たが、越前の朝倉氏の援助を受けて独立できるのです。

二代目は、浅井久政(あざいひさまさ)です。この人は、朝倉氏
一辺倒で、あまり評判はよくなかったようです。ですので、
子供の浅井長政(あざいながまさ)らによって、強制的に隠居
させられてしまいます。

そして三代目となるのが、長政(ながまさ)です。彼は親の久政
と違い、切れ者でした。また浅井三将と呼ばれる優れた家臣を
持っていたので、戦国の世においてかなりの存在感を示します。
信長も長政には一目を置いていたので、妹の市を嫁がせて、同盟
関係を保とうとします。父親の久政は、信長に対しても、市に
対しても懐疑的でした。結構うるさいことをいろいろ言って
きます。長政にとってはちょっとこうるさい父親でした。

長政は、美濃の斎藤氏を攻撃したり、六角氏と戦ったり、かなり
活躍するのですが、最後は、姉川の戦いで負けて、小谷城で自害
して果てます。まだ28才という若さでした。

長政と市は政略結婚でしたが、真剣に愛したようです。子供は
茶々(のちの淀殿)、初(後の京極高次妻)、於江与(後の
徳川秀忠妻、家光の母)の三人の娘と、万福丸です。万福丸は
男子でしたので、助け出された後、殺されてしまいます。

浅井方についていた浅井三将というのは、赤尾清綱(あかおきよ
つな)、海北綱親(かいほうつなちか)、遠藤直経(えんどう
なおつね)の三人でした。それぞれが頼りがいのある優れた家臣
で、浅井家を支えます。しかし、三人とも姉川の戦いの後、
討ち死にしてしまいます。

ちょっとここでついでに南近江の六角氏のことについても触れて
おきましょう。六角氏の最盛期は六角定頼(ろっかくさだより)の
頃です。彼は先見の明を持ち、政治的な才能に恵まれていました。
「楽市令」というのを発表し、商業を活性化したようです。「楽市」
って、織田信長のオリジナルかと思ったら、六角氏がすでにやって
いたのですね。

その子、義賢(よしたか)そして、義治(よしはる)となり、六角氏
は衰退の道を進みます。

この六角氏の領内に、蒲生氏郷(がもううじさと)がいました。
彼は一時信長のところに預けられるのですが、その才能を信長が
見抜き、信長の娘の冬姫と結婚することになりあます。また彼は
高山右近とも親しく、クリスチャンネームはレオで、右近と同じく、
「利休の七哲」の一人でした。彼は、信長の家臣となり、秀吉んも
仕えることになります。

秀吉のいろんな戦に参加し、朝鮮征伐にも参加しました。
朝鮮出兵から帰ってきてから病気になり、それがもとで京都で
亡くなってしまいます。

浅井家をとりまく歴史は実に面白いですね。



斎藤家のお家騒動

2006-01-27 01:41:57 | 戦国時代
本日は再び戦国時代に戻って、複雑な
斎藤家の周辺をスクープしてみました。
今「功名が辻」でも美濃の話が出てきますが、
斎藤家の一族の関係はちょっと複雑です。
そのへんを補足するために、斎藤道三から義龍、龍興にいたる
流れを整理してみました。

ちょっとこの家系はこうして図式化してみてわかったのですが、これは
とんでもない家系です。ちょっとホームドラマではなく、サスペンス
です。

斎藤道三は、美濃の蝮(まむし)と言われている人ですが、もとは
京都出身の油屋で、美濃の国を横取りしてしまったという豪傑です。
当時はやっていた「下克上」(げこくじょう)の代表的な事件です。

この人には子供が何人かおりました。その中の一人が信長に嫁ぐ濃姫
ですが、こういう家系にそだったら尋常な性格ではいられないという
気がします。NHKの大河ドラマは、和久井映見さんがやっていますが、
彼女のような上品さでは生きていけないのではと心配してしまいます。

道三の後を継ぐのが、義龍(よしたつ)という人なのですが、彼は
深芳野という側室の子供でした。実は、道三の子供ではないという
噂がありました。そこで、親子の関係はぎくしゃくし、道三は
義龍をうとんじて廃嫡しようとします。自分の子供はまだ他に何人か
いるので、義重とか龍定とかをかわいがります。

そうすると義龍は面白くありません。義重と龍定の二人を殺して
しまいます。血のつながりはないかもしれませんが一応弟なのです。
こんなのを端で見ている濃姫の心境はたまったもんではありません。
やがて義龍は、父親道三に歯向かって戦争になってしまいます。
長良川の戦いで、斎藤道三は討ち死にしてしまいます。親子で戦う
というのは何とも残酷です。

義龍は斎藤家の当主となり、二代目となるのですが、31、2才で
若くして病死してしまいます。それを継ぐのが龍興(たつおき)です。
まだ中学生くらいの歳でいきなりの殿様です。彼にとってはたまった
もんではありません。この問題の美濃国の政治をやれと言われても
その歳でできるわけはありません。彼はぐれてしまいます。
全然やる気がありません。それを見るに見かねた竹中半兵衛が、
クーデターを起こし、稲葉山城を乗っ取ってしまいます。

反省した龍興おぼっちゃまは、再び城に戻ってくるのですが、
そんなにうまく立ち直るわけはありません。竹中半兵衛のほうもこう
いう環境で働くのは相当嫌になっていたのだと思います。
そういう状況を見て、ヘッドハンティングしようとしてくるのが秀吉
です。秀吉は、三顧の礼をもって、何とか半兵衛を説得し、自分の家臣
にすることに成功します。

斎藤龍興は、織田信長に攻められて、稲葉山城を明け渡してしまいます。
信長もこのへんのチャンスは狙っていたのでしょう。これまでの御家
騒動の経緯を分析していれば、美濃はいただきと思ったに違いありません。
美濃が内部崩壊してくれたので、信長は美濃を手にいれることができます。
さらに竹中半兵衛も秀吉の下につきます。

さて龍興のほうはといいますと、城を逃げて、伊勢長島に、さらには
畿内にとび、さらに越前の朝倉方に逃れます。そして、越前の刀根坂
(とねざか)の戦いで信長の軍団に討ち滅ぼされてしまいます。
哀れな最後です。

ところで斎藤道三の親戚で濃姫のいとこである明智光秀は、織田信長の
家臣となりますが、最後には、本能寺で信長を殺してしまいます。
光秀は秀吉に滅ぼされます。

戦国時代だから仕方ないのですが、斎藤家の周辺はすごく血なまぐさい
です。こういう環境からはいくらなんでも和久井映見のような姫は
生まれてこないんじゃないかと思いますね。

織田信長の周辺にいくのも怖いですが、斎藤家の周辺も怖いですね。
図にしてみてはじめてこの家系の恐ろしさが感じられました。

「功名が辻」のドラマをご覧になる方は、この図を参考にして
斎藤家の大変さを十分ご理解いただければと思います。

織田信長の事業計画表

2006-01-22 15:30:52 | 戦国時代
今回は、織田信長の事業計画に関して
図面にしてみました。ちょっとこれまで
の相関図とは違います。織田信長がどんな
ことをやった人物なのかを図解してみました。

織田信長はテレビで見ると、戦争ばかりしているように見えますが、
戦争以外にもいろんなことをやっているのですね。この図の意図は
歴史に詳しい人にはあたりまえのことかもしれませんが、あまり
詳しくない人のために整理してみたものです。

真ん中に「天下布武」という言葉が書いてありますが、これは
信長の事業計画のスローガンです。パチスロとかゲームにこの
名前のものがあるみたいですが、もとは信長が事業計画の中で
スローガンとしていたものです。武力を用いて天下を統一すると
いうような意味です。このようなはっきりしたスローガンがあった
ので、信長の事業はどんどん発展していくのです。

事業計画を大体四つの分野に分けてみました。
1.支配地を拡大するための勢力拡大事業:そのための戦争です。
2.斬新な政治改革事業:組織を改革し、大胆な改革を行います。
3.天下統一事業:具体的に天下を取るための手続きです。
4.そして文化改革事業です。
これ以外に、和平工作としてのネットワーク拡大事業などもあり
ます。これらを猛烈なスピードでトップダウンで行っていったのが
信長と言えるのではないでしょうか。

1.勢力拡大事業
天下を取るためにはまずベースとして国力を増強しなければいけ
ません。国土を拡大してより多くの資産、軍力を持たなければ
なりません。そのために戦をして次々と近隣諸国を吸収していき
ます。最大のプロジェクトは、桶狭間の戦いで今川義元を退けた
ことです。美濃攻め、浅井朝倉攻め、延暦寺の焼き討ちなども
すべて敵対勢力を退けての勢力拡大計画の一環です。

政治改革事業
領内の整備、人材の登用、軍備増強、市場活性化などいろいろな
課題がありましたが、信長はトップダウンで次々と手を打って
いきます。秀吉などの才能のあるものを採用していく人事政策、
鉄砲などの将来の兵器に着目した軍備増強計画、また軍人を農
作業から切り離し、プロの軍人集団を作っていくのも信長です。
さらに「楽市・楽座」という市場原理を導入します。自由市場
を作り、商業を活性化します。また検地を行い、土地の情報把握
を明確にしました。その他無駄な関所を撤廃したりとかの政治
改革を行いました。今の時代の郵政民営化以上の改革をどんどん
実行に移していたのです。

天下統一事業
天下統一の手続きを進め、それを内外に告知していく事業です。
美濃の稲葉山城およびその城下の井ノ口を「岐阜」とネーミング
します。これは古代中国の王朝「周」の国が起ったのが「岐山」
の麓であったということで、ここを日本の岐山にしようとした
ことでそのようにネーミングしたようです。(阜というのは小さ
な丘という意味とも、孔子の生まれた曲阜の地名からとったと
も言われています)。このネーミングによって、彼は、これから
私は周の国が天下を治め、善政を行ったようにがんばるよという
プレゼンテーションだったわけです。
また、足利義政を利用して(そのための明智光秀)の上洛作戦。
さらに安土城を築城しての天下人であることをアピールするなど
いろんな事業を行っていきます。

文化改革事業
信長は結構文化的な事業も行っています。戦争のイメージとは
全く違う茶の湯の世界。当時、茶の湯は武家の間に流行っていた
ようなのですが、それをネットワーク増強の手段としても使います。
今の時代でいうと、ゴルフのような雰囲気でしょうか。千利休など
がレッスンプロのような形で活躍します。さらには、西洋ファッ
ション、西洋文化の取り入れなど文化発展事業を行っていきます。
戦一辺倒でなく、粋な部分を持っていたのがまたかっこいいです。

これ以外にも自分の娘たちを嫁がせての和平工作など(妹の市を
浅井長政に嫁がせるのもこの一環)も行います。

信長はこんなにいろんなことをほとんど一人で決断していたので、
精神的なプレッシャーは相当なものだったと思われます。
それを、癒していたのがお濃の方などだったのですね。
蘭丸もその癒しに関係してくるのでしょうが、詳細は不明です。

信長は相当勉強していました。ドラマでは勉強している姿は全く
出てきませんが、中国の古代の歴史や、日本の過去の歴史も相当
勉強していたようです。やはり歴史を知ることは大切ですね。

ついに山内一豊を中心にした相関図

2006-01-21 04:11:37 | 戦国時代
山内一豊に関する相関図を作ってみました。
NHKの「功名が辻」の視点を意識した図にして
あります。とくに下町娘レベルの方(?)に
参考にしていただければと思います。
でもちょっと複雑になってしまったかな?

今回の図は、フォトショップで色をつけて、さらにア-トっぽい
感じにしてみました。(凝り過ぎ?)こういう相関図を芸術作品
として売り出そうかな?しかし、お金のためではなく、道楽として
やることに意義があるのですね、きっと。今回はちょっと時間を
かけてしまった。

今回の図は、あらためて説明する必要もないのかもしれないの
ですが、一応、説明させてください。(説明好きの私を許してね)
山内一豊を一人のサラリーマンというふうに考えてみました。
彼は長年の就職浪人の時期を経て、名古屋地方にある中堅企業の
株式会社織田コンツェルン(企業スローガン「はげめ!」)に入社
します。社長は軍神摩利支天を彷彿とさせる(ってどんな感じ?)
若き御曹司信長社長です。新人の山内君は入社まもなく信長社長
から辞令をもらい、子会社羽柴コーポレーションに出向社員として
派遣されることになります。

羽柴コーポレーションは、次々と若手を採用していて、一豊の
同期の同僚には中村(一氏)君や、堀尾(吉晴)君がいました。
後のスター社員になる石田三成君や、加藤君、福島君らはまだ
幼さの残る学生アルバイトでした。

ある日、羽柴コーポレーションの大部長(じつは社長)の秀吉は、
岐阜の大手他社で勤務している頭脳明晰の戦略企画部長の竹中
半兵衛氏をヘッドハントしようとして、アクションを起こします。
竹中氏はなかなか了承しませんが、熱心な羽柴大部長の説得に
ついに羽柴コーポレーションに移籍することを決意します。
(この人テレビでは会津藩主のように見えるかもしれませんが
違いますからご注意ください。それは「新撰組」の話です)

羽柴コーポレーションにいた時代、同僚たちとのつきあいも多く
ありましたが、実は大部長夫人=ねねさんを中心とした奥様たち
のネットワークが存在していました。千代もそのグループに入っ
ていました。他には、中村君の奥さんのとしさん、堀尾君の奥方
のいとさんなどもいて、お料理教室をやったり、着物デザインを
やったりして楽しんでいました。千代はそういう付き合いを通じ
ていろんな情報を夫のために入手しているのでした。

この奥様グループは、やがて淀殿の率いるグループと敵対する
ことになります。このグループはそのまま徳川派となり、関ヶ原
の東軍を形作っていくことになります。千代は徳川家康がやがて
次期社長になる本命であると読んでいました。その読みが当たり
ます。

山内君から見て、本社織田コンツェルンの幹部の人たちはいずれ
も凄腕の人たちで、山内君が対等に口をきけるようなものでは
ありませんでした。だから子会社に出向にきたことを感謝しま
した。それはわりとのんびりした生活でした。

やがて、本社の信長社長が直属の部下の恨みを買って、傷害事件
で死亡してしまいます。その主犯の明智君が社長の椅子に座ります。
山内君らと岡山出張に行っていた羽柴大部長は、すぐに本社に戻り、
明智君を社長の椅子から引きずり降ろそうとするのですが、明智君
はその直前に逃げようとします。逃げようとした途中に、階段から
落ちて死亡してしまいます。

信長社長亡き後の会社は、まさにお家騒動です。柴田派と羽柴派で
対立するのですが、結局羽柴派が勝利します。羽柴秀吉は、織田
コンツェルンを自分の会社にしてしまい、豊臣コンツェルンとして
しまいます。そして自らはグループCEOとして君臨します。そうなる
と次期社長をどうするかという問題が浮上します。子供に恵まれ
なかった秀吉は、姉の息子の秀次を次期社長にと考えます。
秀吉は、山内君を秀次直属の部長に任命します。千代はこの秀次が
あまり好きではありませんでした。

やがて秀吉に子供ができると、その子に会社を継がせようとします。
そうなると、秀次が邪魔になります。結局、秀次は左遷させられ
非業の最後を迎えます。

一豊には年上の二人の部下がいました。金八先生と、とら屋のひろし
さんです。いえ、五藤吉平衛と、祖父江新右衛門です。テレビでは
新右衛門は子供が7人くらい登場してきます。あとこの図に入れ
忘れましたが、一豊の弟の山内康豊がいました。山内家の二代目は
この康豊の子供がなります。

まあこんな感じですが、何か参考になりましたでしょうか?
よけいこんがらがってしまったりしたらごめんなさい、ではまた。

お市の方をめぐる人物相関図

2006-01-19 22:34:59 | 戦国時代
3回連続で、相関図シリーズです。
今回は、「功名が辻」で大地真央さんが
演じているお市の方。絶世の美女という
ことで、「利家とまつ」では田中美里さんが
やっていました。昔の「秀吉」では、頼近美津子さん
(元NHKのアナウンサー、フジサンケイグループの鹿内氏との結婚
および、その後の尾家騒動で話題になった人)が演じていました。
ちょっと個人的にはイメージと違うなと思ったものです。
頼近さんは実生活のほうが複雑なので、彼女の件だけでも相関図を
作りたくなるほどドラマチックですが…

今回の大河ドラマのお市の方は、大地真央さんですが、そのキラリと
した聡明な感じがお市の方のイメージに合っていると個人的には思う
のです。ちょっと大地真央さんの経歴を調べてみたら、何と1956年
2月5日生まれということは、私と学年が同じではござい
ませんかそれにしちゃ若いあと松平健と結婚していて、
昨年離婚したのですね「利家とまつ」では松平健が柴田勝家を
やっていたのですが、柴田勝家とお市の方は最後は燃える城の中で
二人で自害するのですが、これは何かの因縁なのでしょうか?
離婚した二人が同時出演しないよう配慮している(?)NHKさんの
苦労もいかばかりかと察せられます。

ところで問題のお市の方のチャート。今回は多少色をつけて芸術的に
してみました。お市の方を中心に、左に浅井長政、右に柴田勝家を
配しました。この左右対称のシンメトリーの美しさにまずは感動して
しまいます。結婚相手の二人ともが、城の落城とともに死んでしまい
ます。ということは、このお市の方は不幸を呼ぶ女性なのかな?

最初の旦那の長政さんは、信長と敵対してしまい、最後はどくろの
杯にされてしまいます。信長さんは、なんとまあ恐ろしいことを
するんでしょう。本能寺の変が終わって、今度は柴田勝家と再婚
します。お市の方は秀吉のことが嫌いだったので、あてつけに
柴田勝家に走ったような感じです。でも結局は秀吉に攻められて、
あえなく二人で自害することになります。

そのとき秀吉は、三人の娘を助け出すのですが、長女の茶々を
ちゃっかり自分のものにしてしまうところが抜けめないです。
母親のお市の方に密かな思いを寄せていたが叶わず、それを
娘の茶々で実現させてしまうというのが、何か変質者っぽい
感じですが、執念の夢の実現です。

お市の方はとってもセレブでしたけれど、長政さんとの間に
できた3人の娘もいずれもセレブでした。一番の長女の淀殿
はスーパーセレブですが、次女と三女もすごいです。次女は、
京極高次という大名の正室になりました。この京極さんという
のは、この奥さんの七光りのおかげで出世したというので
「蛍大名」と言われているとか。
また三女のお江与は、徳川秀忠の正室になり、後の三代将軍
家光を生むことになるのですから大変なセレブです。

この図の右下のほうが複雑になってしまいましたが、淀殿の
息子の秀頼と結婚するのが、三女お江与が生んだ千姫という
のもまた複雑な因縁です。また、秀頼は実は秀吉の子供では
なくて、大野治長が淀殿にはらませた子供であるという噂も
あります。今となっては確認できませんが。石田三成ではと
いう説もありますが、当時三成は多忙だったので、治長説が
有力のようです。

大野治長は、淀殿の乳母である大蔵卿の息子です。淀殿とは
幼なじみでもあるので、気心が通じていたのでしょう。
うわさが立っておかしくない状況だったのだと思います。
大野治長は、大坂の陣で、豊臣方の司令官としてがんばるの
ですが、最後は、淀殿と秀頼らを自害させ、自らも命を
絶ったのです。もし本当に秀頼が治長の子供だったとしたら、
これは究極の一家心中です。
是非、秀頼と治長のDNA鑑定をしてもらいたいものです。

NHKの大河ドラマの「徳川家康」では夏目雅子さんが淀殿を演じて
いました。素晴らしい演技でした。「秀吉」では、松たか子さん
でした。小川真由美さんのもありましたね。自害するあたりの演技
はすごく記憶に残っています。「利家とまつ」では瀬戸朝香さん
でした。今回の淀殿は、永作博美さん。永作博美さんは、乙女塾
出身で、リボンという三人組で活躍していました。私は、リボンの
「サイレントサマー」が特に好きでした。乙女塾のコンサートを
見にいったことがあります。
だから個人的には今回の淀殿は応援したくなります。
リボンも三人組でしたが、淀殿は三姉妹の長女というのも奇遇
ですね。

ではごきげんよう。

秀吉をめぐる人物相関図

2006-01-19 00:24:34 | 戦国時代
この間、下町娘とタイ料理を食べながら
戦国時代に関して話していたら、「私は
信長、秀吉、家康の3人の中では一番好き
なのはやっぱり秀吉」と言っておりました。
信長は平気で人を殺すけど、秀吉は人を殺さずに勝つ方法を考える、
信長とか家康は友達になりたくないけど、秀吉だったら友達になれる
かもしれないという理由でした。(秀吉はもうこの世の人ではないので、
友達にはなれませんけど)

昨日の信長の図に味をしめて、今回は秀吉を中心にした図解を作って
みました。名前がまるで、「出世魚」のようにころころ変わっていま
すね。日吉丸木下藤吉郎羽柴(筑前守)秀吉
そして豊臣秀吉ですね。信長とかねねからは、サルとか、はげネズミ
とか呼ばれています。最終的には太閤様と呼ばれるほどに出世します。
この出世物語一つとっても、やっぱり秀吉はドラマチックです。
晩年の老害は困りものでしたが、それまでは見事な展開です。

秀吉の図を眺めてみて気付くのは、養子だとか、親戚だとかの関係が
多いということです。ホームドラマみたいです。部下の中で、加藤清正
とかは親戚ですし、また石田三成や福島正則などはちっちゃなころから
小姓として秀吉に使えていました。いわば、ジャニーズ事務所出身の
タレントのようであります。石田三成は知性派のタレントですが、
福島君や加藤君はちょっと悪ぶってワイルドな肉体派のタレントと
言えるでしょう。

この図を見ていて、関ヶ原の分裂状態が明確に現れているのが見えます。
この図の左側でブルーの線でかこったあたりが東軍で、右の黄色い線で
かこったあたりが西軍です。東軍と西軍は、家康と三成の対立ではあり
ますが、この図を見て明確なように、実は、ねね(北政所)と茶々
(淀殿)との火花を散らすような対立でもあります。正妻と側室の
対決。それに回りの男たちが引き込まれてしまいます。

淀殿を応援するのが、イケメンエリート官僚の石田三成。(この二人は
できていたとのもっぱらの噂です)。石田三成は西軍を立ち上げます。
石田君は仲間がほしいので、友達の大谷君を仲間に引き入れます。
大谷君は、この戦は勝てないと思いながらも友情のために石田君と
一緒に戦うことを決意します。大谷君は実はハンセン病患者で身体が
不自由なのですが、関ヶ原では一生懸命戦い、命果ててしまいます。
大谷君はドラマの中では頭巾を被っていたりします。

ねねを応援するのが、徳川家康です。というか、ねねが徳川家康を
応援するというのが正しいのでしょうが、加藤清正とか、福島正則
なども出身が同じなので、ねね派です。山内一豊と千代も二人とも
ねね派です。「功名が辻」の原作のなかで、淀殿が千代を自分の
派閥に引き入れようと工作する場面が出てきますが、千代は淀殿を
好きになれません。むしろねねのほうに人間的な魅力を感じます。
そんなこともあって、山内一豊は東軍になります。もしも千代が
淀殿のほうに魅力を感じていたら、一豊は西軍に入っていたでしょう。
ささいなことで、運命も歴史も変わってしまいます。

秀吉の女性関係に着目してこの図を見てみると、正室のねねと側室
の淀殿のほかに、何人も側室がいるのですね。この前の「利家とまつ」
には松の丸殿がたしかちょこっと出ていました。これはもうハーレム
状態です。これ以外にも、信長の妹(浅井長政と柴田勝家の妻)にも
心を寄せていたという噂があります。浮気常習犯で、気が多い
すけべオヤジでした。山内一豊の妻の千代のところに夫の留守の時に
やってきて「一回だけでいいからやらせて~」と迫る場面があります。
NHKがこの場面をどうするかわかりませんが、秀吉は身体をよじって
逃げようとする千代の着物の裾から手を入れてしまうという描写に
なっています。このときはやかんのお湯がこぼれてしまって、大事に
は至らなかったのですが、秀吉はそれほど女好きのようです。

秀吉とかと比べると、山内一豊は、側室は一人ももたないまじめ夫
でしたが、人間的なスケールという点においては秀吉の大きさには
かないません。

秀吉の役はこれまでにいろんな俳優が演じていますが、竹中直人さん、
武田鉄矢さん、香川照之さんの秀吉が印象に残っています。今回の
大河ドラマでは柄本明さんがやってますけど、この人はやっぱり
演技が上手いですね。いい味を出していると思います。
功名が辻でも秀吉は注目です。

ではまた。


信長の時代の人物相関図

2006-01-18 02:47:23 | 戦国時代
今夜の飛行機で下町娘(=妻)が
日本に帰っていきました。彼女の仕事の
関係で今回は長くシンガポールに滞在する
ことができませんでした。

日本に帰る彼女への手みやげに、こんな図を描いて、戦国時代の
とくに信長の周辺に関して説明してあげました。彼女は歴史に
関してはあまり詳しくないので、戦国時代の人物関係がよくわから
ないということを言っておりました。今回のNHKの大河ドラマの
「功名が辻」はいきなり戦国時代です。いろんな人物が出てきます。
かなりこんがらがってきます。そこでできるだけわかりやすく特別
講義をしてあげました。

この図の中心は、時代のヒーロー、織田信長です。
昔、緒方直人が主演した織田信長は「キング・オブ・ジパング」と
いう英語のサブタイトルがついていたので、そこに書いておきました。
私は歴史を専門的にやっているわけではないので、細かい部分はよく
わからないところも多いです。が、できるだけわかりやすく単純化
して説明してみました。

この図で、女性が黄色、男性が水色にしてあります。恋愛関係または
夫婦関係にはハートマークを使いました。関係のある人物を線や点線
で結びましたが、位置関係がまずかったため、複雑に線がからみあっ
てしまいました。今後改訂版を作る必要があります。

信長は、時代のカリスマリーダーであり、その下に部下がおりました。
会社経営にたとえますと、信長は天才肌のワンマン経営者であり、
時代感覚に優れ、自らの考えをどんどん実行に移していくリーダー
でした。そこに部下が何人もいます。柴田勝家とか、前田利家とか、
木下藤吉郎(羽柴秀吉)などがいて、その中のあまりメジャーではない
部下が山内一豊でした。この部下たちは、尾張とか美濃で採用された
生え抜きの部下で、どっちかというと田舎もんで,ワンマン信長に
忠実に使える部下たちでした。なかでも秀吉はよいしょがうまいので、
信長社長にかわいがられ、課長から部長へ、そして役員へと、とんとん
びょうしに出世していったような感じです。

そんななかで、山内一豊は、馬揃えというイベントで注目を集めたほか
はあまり際立った業績がありませんでした。馬揃えを今の会社生活に
たとえれば、会社の社内運動会(?)で優勝してしまったみたいな
もんかな?

明智光秀も信長の部下なのですが、彼は別格です。外部からヘッド
ハントされて招かれた社外取締役みたいな感じで、あきらかに他の部下
たちとは一線を画していました。何といっても当時の中心地であった
京都の文化には詳しいです。他の部下たちは、田舎育ちなので、そう
いうのは苦手です。信長は、まずは京都進出を目指しておりましたので、
京都の文化に詳しい光秀は必要な人材でした。それになによりも、
落ちぶれていたとはいえ腐っても将軍の足利義昭につながっている。
信長社長にとって、足利義昭は京都進出のために必要な人間でした。
だから、信長は明智光秀を部下にしてしまいます。

招かれて部下になってはみたものの、ワンマン信長社長はルール
無用の非常の経営をしていきます。頭のいいエリートの明智君は、
だんだん考え方の違いを意識するようになります。信長社長は、
明智君のやり方がいちいち癇に障ってきます。社内イジメは
エスカレートします。頭のいい明智君は、このままでは会社が
内部崩壊してしまうと焦ります。誰かが、信長社長のワンマン
経営をやめさせないと、と思います。誰かが鈴をつけないと
いけないのですが、他の部下にはそれができない。
できるのは自分しかないというわけで、本能寺の変になると
いう感じですね。

明智君のこの本能寺は単独行動であり、ちゃんと根回しができ
ていない。だから、反逆ということになり、羽柴君にやっつけ
られてしまうのですね。織田社長亡き後の次期社長選出について
は、清洲での役員会で揉めるのですが、羽柴取締役が巧妙な作戦
で強引に三歳の三法師ちゃんを社長とし自分がその顧問に就任
してしまうのです。で、うやむやのうちに自分が社長に…


その社長就任劇をはたで見ていて、はらわたが煮えくり返るのが
柴田取締役一派。彼らは羽柴社長なんか認められん!と公然と
反旗を翻します。結果的には、柴田派は負けてしまい、羽柴社長は、
豊臣社長と名前を変えてバージョンアップします。

というような感じで、説明していき、女性関係がどのようにこの
歴史の中でからんでいたのかを説明しました。そしたら下町娘
はすごくよくわかったと感激しておりました。図式化すると
すごくわかりやすいということでした。今回の図は織田信長を
中心とした図ですが、これをもっと洗練させ、また違う切り口で
図にしていくのもよいかなと思っております。

う~ん、歴史というのは面白いですね。

シンガポールはこれから新年

2006-01-16 01:25:10 | 戦国時代
シンガポールのチャイナタウンはすでに
旧正月の雰囲気で満載です。いろんな
屋台が出て、夜中までいっぱいの人です。
今週末は下町娘が来ていたので、
チャイナタウンまで行ってきました。

さて、インドから帰って来て、NHKの「功名が辻」の再放送を
土曜日に、そして第二回目を日曜日に見ました。これから始まる
ドラマの前説的な感じで、一豊と千代が偶然出会うという場面が
出てきました。司馬遼太郎さんの本では、一豊と千代が結婚する
あたりから始まるので、この最初の二話のストーリー展開は
ちょっと予期せぬ展開でしたが、ドラマとしては面白い設定かと
思いました。

原作とテレビのシナリオが変わっていても、ドラマとして面白く
展開できていればよいのだと思います。

二人がまだ早いうちから偶然出会っているところとか、一豊が
桶狭間の戦いで信長に出会うところとか、秀吉に出会うところ
とか、六平太が千代の子供の頃からの知り合いであるところとか、
これらはすべてテレビシナリオのオリジナルです。これらが、
今後のドラマの盛り上がりを考えてのことだと思うので、先の
展開の楽しみがあります。。

ところで、桶狭間の戦いの場面で、信長(舘ひろし)が号令する
[Ka k qwa re!]のセリフのいい方がちょっと気になったという
指摘を下町娘がしていたので、注意深く見ていたら、
確かにちょっとへんな感じがしました。

舘ひろしのインタビュー記事を見たら、ここは織田信長が感じた
恐怖心を素直に表現しようとしたのだとか。これは新たな視点ですね、
信長というのも単に強いカリスマというだけでなく、いろんな面を
持っていたと思うので、そういう新たな信長像が描かれるのは歓迎
です。

さきほど2チャンネルの掲示板を見て
いたら、功名が辻のことに関していろんな意見が出ていて面白かった
です。とくに「おい舘ひろし」というセクションは笑えます。まあ
いろんな人がいろんなことを感じるのでしょうが、このドラマで
今の所一番注目を集めているのは、主役ではない舘ひろしの信長の
ようです。

信長が気になったので、これまでの過去のドラマを見てみました。
たまたまビデオをとってあった、木村拓哉の「信長」は若々しさと
反逆精神に溢れていて非常に好感のもてるものでした。このテープ
下町娘がじっくり見たいというので貸しました。
昔の大河ドラマの「家康」に出ていた役所広司の信長もそれなりに
よい感じがしました。昔、緒方直人がやった信長(大河ドラマ)は
ちょっと人間的なインパクトという点で弱いような気がしました。
大河ドラマ「秀吉」の中に出て来た渡哲也の信長は歳はとっていま
したがカリスマ性はすごく感じられました。最近の反町の信長は
個人的にはわりと好きな感じの信長でした。

そういう目で舘ひろしの信長を眺めてみると、ちょっと違いますね。
何となくギラギラした輝きがないような気がするのですが、もっと
別の側面を表現しようとしているのでしょうか?たしかに皆さん
ご指摘のように聞き取りにくい箇所がいくつかありました。
まあ今後の展開に期待しましょう。本能寺の変での立ち回りを
舘ひろしがちゃんとこなせるか、下町娘が心配しており
ました。

ではまた。

「功名が辻」の時代の男性ファッション

2006-01-05 16:50:55 | 戦国時代
この写真も標題とは関係ないのですが、
豊川稲荷にあったダルマの屋台が
グラフィック的に奇麗だったので撮影
したものです。

さて、昨日、江戸東京博物館で開催されている
「山内一豊とその妻展」で見た「腰巻き」の展示に関して
書いたのですが、詳しくは昨日の記事をご覧ください。

しかし、お市の方と淀殿の親子は、ともに最先端の「腰巻き」
ファッションでさぞかっこよかったのだろうと想像します。
千代の小袖のデザインといい、「功名が辻」のドラマは服飾
デザインという見地から見ても十分楽しめるものだと思います。
NHKがどこまでそこに挑戦するのかわかりませんが、戦国時代の
とんがったファッションの雰囲気を再現してほしいと思います。

これからインドに向けて出張にでかけるので、「功名が辻」と
いうような雰囲気ではないのですが、インドに出かける前に日本
の戦国時代関係は片付けておかないといけないと思い、補足して
いるわけでございます。

江戸東京博物館の展示を見て、歴史にはあまり明るくない私の妻
(=下町娘)が一豊が使っていた兜の兎の耳のやつを
見て、「デザインがすごいかっこいい」と言っておりました。まるで
前衛アートの彫刻のようでもあり、実際に被るとちょっとふざけた
ような雰囲気にもなり、それがまた粋だったのでしょう。

あと、メキシコのソンブレロのような南蛮帽。展示されていたのは
かなりぼろぼろになっていたのですが、当時はいろいろな装飾が
施されていて、きっと奇麗だったんだろうなあと思われます。戦で
これを被る事はなかったようですが、何かの行事の時に一豊がこれを
被ったらしいです。今の時代でも、こういうの被るのは勇気がいるの
ですが、あの戦国時代~徳川初期にこの帽子を被るというのは、何か
すごいことだったのだろうなあと思います。

さてそろそろ、旅の支度をして、飛行場に向かわないといけないの
ですが、山内一豊もこうしてあっちこっちに出張に出かけていたのだ
ろうなと思うと、時代は変わっても、やってることは同じだったり
して面白くなってしまいます。

インドの最初の目的地は、バンガロール。現地につきましたら、
あちらからブログを更新してみたいと思います。
では行ってきま~す。