南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

旧正月の休みの最終日

2006-01-31 15:05:29 | シンガポール
こんなに長い休みはどうして過ごしたらよいのかと心配
していたくらいなのですが、気がついたらあっという間に
最終日を迎えていて、多少の焦りを感じております。
この休みの間には、いろいろ溜まっていた仕事も片付けな
いといけないと思いながらも全く手がつけられず、ブログ
もどんどん更新できるかと思ったらそういうこともなく、
だらだらと過ぎ行く時間をただ呆然と見送るばかりで、
まったく情けない結果となりました。

しかしながら、生産性はきわめて低かったのですが、のん
びりとできたという点においては、まあよかったと思って
おります。静寂の4日間でした。

昨日と今日は、近くのイーストコーストパークに行って
ジョギングをしてきました。と言っても、30年くらい走って
いなかったので、なかなか長いことは続きません。すぐに
息が苦しくなってしまうので、少しずつです。海岸のビーチ
沿いの道を走ったり、歩いたりするのは気持ちのよいもの
です。

上の写真は、本日のイーストコーストパークの風景ですが、
海沿いにテントがいくつも見えました。たぶんマレー系の人
たちなんでしょうが、彼らは旧正月はただの長い休みという
意味しかないので、この休みの間、この海辺でキャンプをして
いたのかもしれません。何か気持ち良さそうでした。

キャンプと言えば、以前、屋久島にロケで行ったとき、山の
中で何泊かキャンプしました。テントを張ってキャンプして
いたら、台風が来ていて、テントが吹き飛ばされそうになり
怖くて寝られませんでした。屋久島の山の中で転々とキャンプ
したのですが、時々雨が降っていて結構大変でした。台風の後
で川の水が増水していて、川を歩いて渡るときに膝くらいまで
水に浸かってしまうので、防水の靴とか履いていても全く意味
がありませんでした。昔の戦争の時は雨の時とかさぞかし大変
だったのだろうなあとその時思ったものでした。

話は戻りまして、シンガポール。イーストコーストはかなりの
人がぶらぶらと時間を過ごしていて、平和な空気が漂っていま
した。犬の散歩をしている人、ピクニックシートを敷いて日本
の花見のようにみんなで食事をしている家族、ギターを弾いて
いる男に合わせて歌を歌っているフィリピン系の男子グループ、
ローラーブレードをおそるおそる練習している中国系の中年の
オヤジさん、ただぶらぶら歩いているインド人の家族、海水浴
をしている子供を見ながら波打ち際に足元まで水に浸かりなが
ら立っている白人の夫婦、昼寝をしているマレー系のおばさん、
自転車を一生懸命こいでいる中国系の男の子...そこでは
みんながゆっくりと時間を過ごしていて、ひょっとしたら、
平和というのはこういう風景のことを言うのだろうかと思いま
した。

日本にいると、平和の風景というのはあまり意識したことが
ありませんでした。花見の時期は平和な雰囲気はするのですが、
酔っぱらいがいたり、喧嘩があったりで、完全な平和というの
とは違う気がしました。旧正月の間のイーストコーストの風景
は、平和そのもので、酔っぱらいは皆無で(マレー人などのイ
スラム教徒は酒をのみません)、またいろんな人種が混在して
いても、ギスギスしたところがなく、喧嘩をしている人を見か
けません。日本だと、同じ民族でありながら(同じ民族だから
こそ?)殺伐とした雰囲気になってしまっているように思えた
りするのでした。

イーストコーストで今日、こんな光景を見ました。中国系の
家族が自転車を楽しんでいるときに、小学生低学年くらいの
男の子が転んで足首あたりを怪我をしたようなのです。お父さ
んがその子を抱えてきて、ベンチに寝かしていました。それほ
ど大した怪我ではなかったのですが、足首が出血しているのか、
ハンカチを縛り付けていました。母親がベンチで男の子のそば
にいて心配そうな顔をしていました。男の子のお姉ちゃんが
遅れて自転車を引っ張ってやってきました。そこにたまたま
インド人の労働者風青年が自転車で通りかかりました。青年の
一人はビニール袋に氷を持っているようでした。どっかで使う
ものだったのでしょう。インド人の青年たちは、自転車を降り
て、ベンチの男の子のところにさっと駆けつけ、「怪我は氷で
冷やすのがいい」と言って、自分が持っていた氷のビニール袋
をまるごとその母親にあげたのです。母親は躊躇していたので
すが、インド人は、「遠慮することはない。これで冷やして」
と言い捨てて、また二人で自転車で去って行きました。

明らかに、その二人のインド人と中国人家族は知り合いでは
なく、たまたま通りすがりのようでした。その光景を見て、
インド人って何て親切なんだろう、人が困っているときには
なりふり構わず助けるという姿勢に感動しました。

インド人の親切さ、義侠心を見るのは、実はこれが最初ではあり
ません。今月インドに出張しているときに、車で移動している
時に、反対車線でバイクが事故にあったようでした。私たちの
車の前を走っていた車が急に止まり、路肩に車を寄せたかと思う
と、その青年運転手がいきなり車から走り出て、反対車線で事故
で倒れている男のもとに走りより、抱きかかえて向こうの歩道に
運んだのです。向こうの歩道からも、何人かの義侠心のある男
たちが協力して怪我人を助けようとしているのが見えました。
インド人の行動力ある親切心に感動しました。正義の味方という
のは、単に親切な心を持っているだけでなく、このインド人の
ような決断力と行動力を持っている人のことを言うのだなあと
その時思いました。

私たち日本人は、このような事態に遭遇しても、なかなか勇気
ある行動が取れないものです。見て見ぬ振りをするということも
多いです。シンガポールでは、人が困っているとすぐに行動に
移す人をたびたび目撃します。それはインド人だけでなく、
マレー系であったり、中国系であったりするのですが、老人に
電車の座席を譲るというのは日常茶飯事で目撃します。そういう
のを見ると、反省してしまいます。日本人は思いやりがある国民だ
というのが全く事実に反していると思ってしまいます。我々日本人
はアジアの人々の思いやりと行動力に学ぶところが大きいという
のを改めて感じる今日この頃でした。

同じ人種だからという理由ではなく、知り合いだからという理由
ではなく、困っている人がいて、自分が何かできるとわかったら
即座に行動に移すという態度こそ我々が見習わなくてはいけない
ことではないでしょうか。シンガポールにいると勉強になります。

恭喜発財!

2006-01-29 22:30:12 | シンガポール
旧正月です。ゴンシーファーツァイです。
日本の正月が終わったばかりなのに、また正月気分。
1月はなかなか仕事に集中できません。
昨日の午後から、休みのお店が多く、街は静かです。
今日の日曜日はまだ一歩も家を出ておりません。
いつの間にかもう夜なので、今日はこのまま出ないでしょう。
引きこもりになった気分です。

今日は図もお休みです。
火曜日まで休みなので、海外に出ている人たちもずいぶんい
ます。日本人も、どっかに行っている人が多いです。

NHKのニュースで中国の春節のニュースをやっていましたが、
この時期旧正月を祝っているのは中国だけでなく、シンガ
ポールを初め、香港、台湾、ベトナム、マレーシアもみな旧
正月の祝日です。

シンガポールでは、旧正月は、とくに大々的なお祭りがある
というわけではなくわりと静かにすぎていきます。中国系の
人たちにとっては親戚を訪問したりする重要な時期ですが、
それ以外の人種にとってはかなり暇な時期ということになり
ます。

私も日本とかに行くということも考えたのですが、下町娘
は仕事をしているし、飛行機もいい便ば取れないし、日本は
寒いし、また仕事もちょっとあるので、今年は帰らないこと
にしました。

これまで何度かシンガポールで旧正月を過ごしたことはあり
ますが、最近は不便でもなくなりました。最初にシンガポー
ルに来たころ、旧正月になってしまったことがありました。
当時はまだホテルに宿泊していたのですが、街には、24時間
営業のコンビ二もほとんどなく、デパートやレストランは
しまってしまい、街がゴーストタウンとなってしまったのに
はびっくりしました。ホテルのレストランも閉まっていたの
で困ってしまいました。

今では、セブンイレブンのお店があちこちにでき、スター
バックスや、デリフランスなどの喫茶店系のお店は旧正月も
営業しています。旧正月でも営業している店は年々増えて
いるように思えるのですが、本日は外出していないので
どの程度の状況かはよくわかりません。

窓から外を見ると、時々車が走っているのとか、MRT(地下鉄)
が走っているのとか(都心以外は地上を走っています)見え
るのですが、非常に静かで、世の中はどうしてしまったのだ
ろうかと思ってしまいます。NHKのニュースとか見ると、暗い
ニュースばかりが流れてくるので、いやになってしまいます。
家では新聞をとっていないので、今日の新聞は見ていないの
ですが、新聞で目につくのは暗いニュースばかり。新聞を読む
事で世の中の動きがよくわかるというよりかうんざりしてしま
うので、新聞は嫌いです。時々、仕事に関係する重要な記事が
出ていたりすることもあるのですが、新聞(というかマスコミ
全般)の思考は何か画一的でなるべく信用しないようにして
います。

ホリエモンを持ち上げておきながらの、今回の一斉ホリエモン
叩き、群衆の世論を煽動する感じで、これは大学のとき勉強
したシェイクスピアの「ジュリアスシーザー」における群衆
心理の単純さに関して思い出したりしました。

ところで、本日、NHKの「週刊ブックレビュー」を見ていたら
詩集月刊ベストテンをやっていました。これは毎回いろんな
切り口でベストテンを発表しているコーナーです。この第五位
に「対詩 詩と生活」(小池昌代/四元康祐著)が入っていて
びっくりしました。四元康祐氏というのは、
詩人なのですが、実は私の大学の後輩なのです。
一緒にシェイクスピアの演劇で舞台に出た事もありました。
何年か前に偶然立ち寄った新宿紀伊国屋の詩のコーナーで、
彼の詩集「笑うバグ」を買って、その斬新なスタイルに衝撃
をうけたものでした。

彼は大学にいた頃から詩の才能を発揮していたのですが、
たしかうちの東京の会社で短期間のアルバイトしていた事が
あります。今でも覚えていますが、うちの会社の当時の常務と、
彼を正社員として採用しようと、赤坂の焼き鳥屋で説得した
ことがありますが、彼には断られてしまいましたが。

その後、彼には会っていなかったのですが、「笑うバグ」の
中に、アメリカで勉強して、海外で仕事をしているという
ような紹介が書いてありました。また別の最近作では、ドイツ
にいるというようなことが書いてありました。とても懐かしく、
一度会いたいなと思っているうちに、彼はいつの間にか有名
詩人になってしまっていたのです。
誰か彼の近況をご存知の方教えてください。

そういえば、私は学生時代に、詩に興味を持っていました。
白石かず子さんや、伊藤比呂美さんの朗読会に行ったことも
ありました。学生時代(英文科)には、TSエリオットの詩
などもかじっていました。宮沢賢治や高村光太郎のものも
好きでした。「叫ぶ詩人の会」が好きだったのもそういう流れ
です。

今日、「功名が辻」の「落城の抱擁」の会を見ました。
「千代は生きて一豊さまの妻になりとうございます」という
真に迫ったセリフ、いいですね。愛に生きる千代の存在感が
出てきていよいよドラマが本格的にスタートという感じです。
ところどころで感動してしまいました。六平太とかちょっと
縁の下の力持ち的で可愛そうなんですけど、存在感ありすぎ
ですね。竹中半兵衛は、新撰組の沖田総司のように血の出る
咳をしていたのですが、そんな若くして病弱では、信長様に
嫌われてしまいそうで心配です。
そういうのが狙いなんでしょうか?

下町娘は、「千代は、今日のことを今生の思い出に
生きてまいります」というセリフにぐっときたと言っており
ました。また千代と一豊が一緒になることを一生懸命に
手伝ってくれる秀吉に対しても、「けっこういい人じゃん」と
評価していました。千代の花嫁姿にもじ~んときていたよう
です。これからの展開が楽しみです。

浅井家の興亡

2006-01-28 02:30:31 | 戦国時代
「功名が辻」でも出てくる浅井氏に関して
図式化してみました。浅井氏は長政(ながまさ)
の時に、信長の妹のお市の方と政略結婚をするのが
有名ですが、それ以外にもドラマに満ちています。

北近江の浅井家は、浅井亮政(あざいすけまさ)が初代の
当主です。この人は元は京極氏の家臣だったのですが、
かなり知勇にたけた武将だったようで、独立して戦国大名
となります。南近江の六角氏(ろっかくし)と争っていまし
たが、越前の朝倉氏の援助を受けて独立できるのです。

二代目は、浅井久政(あざいひさまさ)です。この人は、朝倉氏
一辺倒で、あまり評判はよくなかったようです。ですので、
子供の浅井長政(あざいながまさ)らによって、強制的に隠居
させられてしまいます。

そして三代目となるのが、長政(ながまさ)です。彼は親の久政
と違い、切れ者でした。また浅井三将と呼ばれる優れた家臣を
持っていたので、戦国の世においてかなりの存在感を示します。
信長も長政には一目を置いていたので、妹の市を嫁がせて、同盟
関係を保とうとします。父親の久政は、信長に対しても、市に
対しても懐疑的でした。結構うるさいことをいろいろ言って
きます。長政にとってはちょっとこうるさい父親でした。

長政は、美濃の斎藤氏を攻撃したり、六角氏と戦ったり、かなり
活躍するのですが、最後は、姉川の戦いで負けて、小谷城で自害
して果てます。まだ28才という若さでした。

長政と市は政略結婚でしたが、真剣に愛したようです。子供は
茶々(のちの淀殿)、初(後の京極高次妻)、於江与(後の
徳川秀忠妻、家光の母)の三人の娘と、万福丸です。万福丸は
男子でしたので、助け出された後、殺されてしまいます。

浅井方についていた浅井三将というのは、赤尾清綱(あかおきよ
つな)、海北綱親(かいほうつなちか)、遠藤直経(えんどう
なおつね)の三人でした。それぞれが頼りがいのある優れた家臣
で、浅井家を支えます。しかし、三人とも姉川の戦いの後、
討ち死にしてしまいます。

ちょっとここでついでに南近江の六角氏のことについても触れて
おきましょう。六角氏の最盛期は六角定頼(ろっかくさだより)の
頃です。彼は先見の明を持ち、政治的な才能に恵まれていました。
「楽市令」というのを発表し、商業を活性化したようです。「楽市」
って、織田信長のオリジナルかと思ったら、六角氏がすでにやって
いたのですね。

その子、義賢(よしたか)そして、義治(よしはる)となり、六角氏
は衰退の道を進みます。

この六角氏の領内に、蒲生氏郷(がもううじさと)がいました。
彼は一時信長のところに預けられるのですが、その才能を信長が
見抜き、信長の娘の冬姫と結婚することになりあます。また彼は
高山右近とも親しく、クリスチャンネームはレオで、右近と同じく、
「利休の七哲」の一人でした。彼は、信長の家臣となり、秀吉んも
仕えることになります。

秀吉のいろんな戦に参加し、朝鮮征伐にも参加しました。
朝鮮出兵から帰ってきてから病気になり、それがもとで京都で
亡くなってしまいます。

浅井家をとりまく歴史は実に面白いですね。



斎藤家のお家騒動

2006-01-27 01:41:57 | 戦国時代
本日は再び戦国時代に戻って、複雑な
斎藤家の周辺をスクープしてみました。
今「功名が辻」でも美濃の話が出てきますが、
斎藤家の一族の関係はちょっと複雑です。
そのへんを補足するために、斎藤道三から義龍、龍興にいたる
流れを整理してみました。

ちょっとこの家系はこうして図式化してみてわかったのですが、これは
とんでもない家系です。ちょっとホームドラマではなく、サスペンス
です。

斎藤道三は、美濃の蝮(まむし)と言われている人ですが、もとは
京都出身の油屋で、美濃の国を横取りしてしまったという豪傑です。
当時はやっていた「下克上」(げこくじょう)の代表的な事件です。

この人には子供が何人かおりました。その中の一人が信長に嫁ぐ濃姫
ですが、こういう家系にそだったら尋常な性格ではいられないという
気がします。NHKの大河ドラマは、和久井映見さんがやっていますが、
彼女のような上品さでは生きていけないのではと心配してしまいます。

道三の後を継ぐのが、義龍(よしたつ)という人なのですが、彼は
深芳野という側室の子供でした。実は、道三の子供ではないという
噂がありました。そこで、親子の関係はぎくしゃくし、道三は
義龍をうとんじて廃嫡しようとします。自分の子供はまだ他に何人か
いるので、義重とか龍定とかをかわいがります。

そうすると義龍は面白くありません。義重と龍定の二人を殺して
しまいます。血のつながりはないかもしれませんが一応弟なのです。
こんなのを端で見ている濃姫の心境はたまったもんではありません。
やがて義龍は、父親道三に歯向かって戦争になってしまいます。
長良川の戦いで、斎藤道三は討ち死にしてしまいます。親子で戦う
というのは何とも残酷です。

義龍は斎藤家の当主となり、二代目となるのですが、31、2才で
若くして病死してしまいます。それを継ぐのが龍興(たつおき)です。
まだ中学生くらいの歳でいきなりの殿様です。彼にとってはたまった
もんではありません。この問題の美濃国の政治をやれと言われても
その歳でできるわけはありません。彼はぐれてしまいます。
全然やる気がありません。それを見るに見かねた竹中半兵衛が、
クーデターを起こし、稲葉山城を乗っ取ってしまいます。

反省した龍興おぼっちゃまは、再び城に戻ってくるのですが、
そんなにうまく立ち直るわけはありません。竹中半兵衛のほうもこう
いう環境で働くのは相当嫌になっていたのだと思います。
そういう状況を見て、ヘッドハンティングしようとしてくるのが秀吉
です。秀吉は、三顧の礼をもって、何とか半兵衛を説得し、自分の家臣
にすることに成功します。

斎藤龍興は、織田信長に攻められて、稲葉山城を明け渡してしまいます。
信長もこのへんのチャンスは狙っていたのでしょう。これまでの御家
騒動の経緯を分析していれば、美濃はいただきと思ったに違いありません。
美濃が内部崩壊してくれたので、信長は美濃を手にいれることができます。
さらに竹中半兵衛も秀吉の下につきます。

さて龍興のほうはといいますと、城を逃げて、伊勢長島に、さらには
畿内にとび、さらに越前の朝倉方に逃れます。そして、越前の刀根坂
(とねざか)の戦いで信長の軍団に討ち滅ぼされてしまいます。
哀れな最後です。

ところで斎藤道三の親戚で濃姫のいとこである明智光秀は、織田信長の
家臣となりますが、最後には、本能寺で信長を殺してしまいます。
光秀は秀吉に滅ぼされます。

戦国時代だから仕方ないのですが、斎藤家の周辺はすごく血なまぐさい
です。こういう環境からはいくらなんでも和久井映見のような姫は
生まれてこないんじゃないかと思いますね。

織田信長の周辺にいくのも怖いですが、斎藤家の周辺も怖いですね。
図にしてみてはじめてこの家系の恐ろしさが感じられました。

「功名が辻」のドラマをご覧になる方は、この図を参考にして
斎藤家の大変さを十分ご理解いただければと思います。

プラズマディスプレーの世界の三国志

2006-01-26 02:19:52 | Weblog
最近は森羅万象を図式化しないと気が
すまない体質になってしまいました。
先週までは日本の戦国時代に集中していた
のですが、いつの間にか軌道が外れてしまい、
今日は唐突ですが、プラズマディスプレーの業界動向です。

これまで、私のブログを見ていただいた方は、あまりの変化に
もう付いて行けないと感じられておられる方もいることでしょう。
ジャンルがばらけすぎると、アクセスが均一に保てないのですが、
まあそれは仕方ないでしょう。図式化するということを趣味とする
おかしな人間がいると思っていただければそれだけで結構です。
図式化という趣味が趣味として定着する可能性は少ないと思いますが。

とにかく今回はプラズマディスプレーです。日頃、新聞は取って
いるのですが、なかなか目を通す時間がありません。しかし、今日
だけは、昼休みの時間に日経新聞を見ました。すると一面に、製品
分野のトップ3が出ていて、「首位交代」という興味深い記事が
出ていました。その一番先に出ていたのがプラズマです。

プラズマは日本では、松下電器が去年の首位の日立を追い抜いて
一位になりました。日立は二位、そして三位はパイオニアでした。
日本の市場はこの三社でほぼ独占しています。数字を見ると圧倒的
に松下電器です。二位の日立は松下の半分しかなく、三位のパイオ
ニアは日立の半分もありません。

ここで思ったのは、これは「三国志」の末期の状況に似ているという
ことでした。「三国志」というのは、魏呉蜀の3つの国が覇権を
争うという歴史なのですが、実質は圧倒的に曹操の魏(ぎ)の国が
国力も兵力も強力でした。また皇帝を擁しているという強みもあり
ました。

それに対して、蜀の国は、どちらかというと辺境の地に追いやられて
いて、国力も軍事力も劣っていました。劉備(りゅうび)が漢の王室
の血をひいているということと、その人徳だけでまわりがついてきて
いる国でした。諸葛孔明(しょかつこうめい)という有名人がおり
ますが、国家としては衰退の途上にある国でした。

「三国志」にあてはめると、松下電器が魏(ぎ)の国、日立が呉(ご)
の国、そしてパイオニアが蜀(しょく)の国ということになるで
しょうか?

松下は東レを自分の陣営の中に取り込み、日立は富士通を取り込み
ました。ソニーも日立のプラズマに資本参加しています。
パイオニアはNECを取り込んでいます。というように淘汰された
姿が今のプラズマの状況ですが、最近、松下と日立は手を握りました。
クロスライセンス、開発、生産、知的財産権などの部分で共同戦線
をとるということになっています。こうなると蜀の国のパイオニアは
たまったものではありません。超大国の二つが手を組んだら、なか
なか勝ち目はありません。今後パイオニアがどのような勝負に出る
のか見物です。

じつはうちの会社は、パイオニアのプラズマの宣伝の仕事をしていま
した。富士通ゼネラルのプラズマの仕事もしていたことがあります。
NECの仕事もしていました。JVCのプラズマの仕事もちょこっとやりま
した。本当は競合企業の仕事はあまりしてはいけないのですが、
プラズマの仕事ばかり来てしまったことがあります。プラズマ専門の
会社になってしまったらどうしようと心配したものでした。今その
中で生存しているのはパイオニアだけです。だからパイオニアには
何とか撤退しないで踏みとどまってほしいと思うのであります。
民生用のプラズマをはじめて商品化した企業として、がんばって
ほしい、と思うのであります。

しかし、ひとたび視点を国際的にシフトしてみますと、この三国志
状態は実は日本国内だけの状態で、国際的には、韓国勢のサムスン
とLGが世界のトップ1と2のシェアをとっているのです。いずれ、
彼らも日本の市場に突入してくることは必至でしょう。これままるで
元寇(げんこう)のようです。神風が吹けばよいですが、そうでない
と日本の市場もやがて韓国勢に席巻されるかもしれません。

また、同時に、国内でもシャープが率いる液晶テレビ連合が攻撃
してきています。プラズマと液晶との戦いになっています。
最近の液晶も大型化してきているのでなかなか侮れません。

こういうあやうい状況が図式化してみると一目瞭然です。
中国はいつも北方や西方の騎馬民族の侵略に悩まされていました。
韓国勢、そして液晶勢にどこまでプラズマの三国志が持ちこたえ
られるか、これはなかなか面白いシチュエーションですね。

ハイデラバードを図式化してみました

2006-01-25 01:04:56 | インド
今日はインドです。歴史ではなくて地理です。
毎日何か一つの事象を図式化してブログにアップ
することが何か修行のような気がしてきました。
関ヶ原の戦いの寝返りを含めた相関関係を図にしようと
思ったのですが、これは一日ではできそうもないとわかりやめました。
これはまた時間のあるときに挑戦したいと思います。

今回は、この間行ってきたインドのハイデラバードを図にしてみました。
ハイデラバードのロジスティクス的利点ということでインドの他の
大都市との関係でまとめてみました。

ハイデラバードという都市は、すでに大都市で、人口は500万人以上
いますが、一見もっと小さな都市のように見えました。ここはインドの
ほぼ中央部にあるので、物流を考えると非常にメリットがあります。
飛行機で行けば、ほとんどの主要都市に2時間で行けます。
この図に書いた、5つの大都市は5メトロと呼ばれていて、インドの
マーケティングを考える上では重要な都市です。

インドは巨大な人口を抱えていて、いずれは中国を抜くと言われて
います。中国は長年「一人っ子政策」をやっていたので、若年層が増え
ておらず、従って労働人口は将来的には増えません。それに対して、
インドは若年層の人口が多く、将来的には中国よりも大きな労働者人口
となります。また購買力のある市場がどんどん膨らんでいきます。

こういう人口増加を考えると、印刷物の需要というものも増えると想定
されます。いくらインターネットの世の中になり、印刷物は減ると言わ
れていても、新聞や雑誌がなくなってしまうことはありません。インド
の人たちは、コンピューターも好きですが、やはり紙に印刷されたもの
も好きです。

この間、ハイデラバードに行ったとき、印刷会社を訪問しました。
仕事で何度か使っていたのですが、訪問したのははじめてでした。
最初は、何でハイデラバードなんかに大手印刷会社があるのか不思議
でしたが、行ってみて納得しました。

まず、ロジスティクスです。ハイデラバードはインドのほぼど真ん中に
あります。配送を考えたら、非常に便利です。また、ムンバイとか、
バンガロール、チェンナイなどは陸上でも道路が通じています。
(インドはデリーでも、コルカタでも道路は通じていますが)
それから、最近のITの発達で、とくに大都市にいなくても仕事を受注
するということができるようになりました。この会社はウェブサイトで
見積もりをすることもでき、データなどもオンラインで受付けられます。
これまで、シンガポールから印刷データは製版フィルムで送っていたの
ですが、「今時そんな旧式なことやっているのはめずらしい」と言わ
れてしまいました。印刷は、ほとんどCTP(コンピューターデータから
直接印刷にまわす方法)です。

また彼らは、ISOの9000・9001を取得していました。インド人はそう
いうマネジメントはすごいです。また安価でまじめな労働力というの
があります。印刷の仕事は機械化されたとはいえ、製本とかでかなり
手作業の部分があります。彼らは大量のアルバイトを安価に動員で
きるので、複雑な手作業の仕事もどんどんこなせるのです。

こういう部分は、日本でやったらかなり高くつき太刀打ちできません。
その工場で、奇麗な場所ではありませんが、たくさんのアルバイトの
人たちが本ののり付けをしたり、袋詰めしたりする光景を見て、
これはインドにはかなわないなと思ったりしました。

ちょっと宣伝になってしまいますが、インドで使うカタログとか印刷
物のご相談がありましたら、どうぞお声をかけてくださいませ。品質も
この印刷会社は非常に質は高いです。

ではまた。


臥薪嘗胆の生まれた時代にタイムトリップ

2006-01-23 23:24:58 | 古代中国
いきなり時代は紀元前の400年代に飛びます。
日本がまだ神話の時代だったころ、中国では
すでに高度な文化が栄えていました。
下町娘の昔からのお友達が中国の無錫に住んでいるので、
ちょっと無錫近辺のネタを取り上げてみたいと思いました。

私も2、3回無錫には仕事で行った事があります。今では巨大な
工業団地が出来ているのですが、私が興味を持っているのは歴史
です。

無錫市は太湖という大きな湖に面しています。中国の中で4番目
に大きな淡水湖だそうで、琵琶湖の3倍くらいの大きさがあります。
紀元前の数百年、ここらは呉の国でした。三国志にも呉の国が出て
きますが、これはそれよりもはるか昔の呉の国です。

そこに「こうりょ」という王様がおりました。この国は、その頃
楚の国と戦っておりましたが、伍子胥(ごししょ)という人と
孫武(そんぶ)という人の補佐を得て圧倒的な力で楚の国を
やっつけます。この時に活躍した孫武は「孫子の兵法」で有名な
孫子で、その頃、呉王のもとで軍事アドバイザー兼将軍をやって
おりました。呉王が、孫武を試すために、宮廷の女だけを集めて
部隊を作りこれを調教してみよと言われた有名な話はこの頃のもの
です。孫子がリアルタイムで生きていて、実際に戦場で活躍して
いたのは興味深いことです。

孫子の兵法にはいろいろ有名な言葉がありますが、「敵を知り
己を知れば百戦危うからず」とか有名です。また武田信玄の
「風林火山」などもこの孫子から言葉を採っています。後の日本
の戦国時代の人たちも孫子はかなり勉強しておりました。

呉のこうりょが楚を攻めている間に、南のほうから越の国に攻撃
されます。そこで呉と越は戦争をするのですが、越に攻められた時の
怪我で、こうりょは亡くなってしまいます。その後を継ぐのが、その
子供の夫差(ふさ)です。この夫差の話は、数年前宝塚がミュージカル
にしたみたいですね。それは全く知りませんでしたが、「愛燃える
呉王夫差」というタイトルです。見たかったです。

この人実は「臥薪嘗胆」の「臥薪」の人で、越から受けた恨みを忘れ
ないために、薪(まき)の上に寝たという人です。寝心地はとても
悪かったと思うのですが、そうしてリベンジの気持ちを忘れないように
したのです。

一方、越の王勾践(こうせん)のほうは、これは「嘗胆」の人です。
この人は呉に攻められて屈辱的な敗北を喫するのですが、それを忘れ
ないように苦い胆をなめて、恨みを忘れないようにしたという人です。
そして長いことかかってその恨みをはらします。

その勾践の補佐役になる軍師が范蠡(はんれい)という人です。
またこの時期に美女として有名な西施(せいし)という人が登場します。
西施と范蠡は昔なじみで密かな思いがあったようなのですが、范蠡は
西施を連れて船で呉に送りとどけます。彼女は貢ぎ物として届けられる
のですが、実は呉王夫差を西施で骨抜きにしようとする計略だったよう
です。その計略通り夫差は西施にメロメロになってしまい。やがて呉の
国が弱体化し、そこを嘗胆していた越王に攻め滅ぼされるという話です。
宝塚では、西施は呉王夫差を愛してしまっていて、結局「愛」をとり、
呉王とともにほろびていくという話になっているようです。

「ひそみにならう」という有名な言葉も実はこの西施にまつわる言葉
です。西施は病弱だったので、ちょっと眉をひそめるようなつらそうな
表情をよくしたそうです。西施は当時みんなのあこがれの美女だった
ため、このまゆをひそめたような表情が大流行したようです。お洒落な
西施スタイルの表情として、奇麗な人も、そうでない人もこぞって真似た
ようです。そこから出た言葉が「ひそみにならう」という言葉でした。

敵方に送られていく女性は、日本の戦国時代にも、浅井長政のもとに
嫁ぐお市の方とか、織田信長に嫁ぐ斉藤道三の娘の濃姫とかおりますね。
戦争の時代に女が自らを政治のために生け贄とするのは、何か自爆テロ
のような雰囲気もありますね。実際、西施は呉の国を滅亡させることに
貢献したのだからまさに自爆テロです。

范蠡は、自分の役割が終わったと判断すると、越の国を去っていきます。
その時に残す有名な言葉が「狡兎死して走狗烹らる(こうとしして
そうくにらる)」というものです。兎が死んでしまえば、それを追って
いた犬は不要の存在となり、煮られてしまう。それと同じように役割を
終えた人間は、不要のものとなる。ということで、范蠡は、何と商人に
なり、その後大成功をおさめるとか。

無錫に蠡園(れいえん)という湖畔の庭園があり、以前行った事があり
ますが、そこはこの范蠡(はんれい)ゆかりの場所に作られた庭園です。
そこには、西施の絵や、彫像などもあります。

「范蠡」のことは、以前、無錫の江南大学を訪れたとき、そこに客員教授
で来ていた日本の先生(広告のご専門)に伺いました。その後、立石優
さんの「范蠡ー越王勾践の名参謀」という本を読んだのですが、あまり
細かいことは覚えていません。

太湖は尾形大作の「無錫旅情」の歌詞にも出てきますが、以前、太湖の
ほとりの公園に行ったとき、そこに無錫旅情の歌詞の石碑があったのには
びっくりでした。

太湖は、「呉越同舟」という故事成語が生まれた場所としても有名です。
呉の国と越の国は国境を接していて仲が悪く、しょっちゅう戦争して
いたのでうすが、沈みそうな船にあっては、呉だとか越がとかかまって
いられなかったこともあったのでしょう。

無錫やその隣の蘇州の近くには、このような歴史のいわれのある場所が
いっぱいあります。ビジネスでそこに行っている日本人はいっぱいいると
思うのですが、こういう歴史的な場所であるということを知っている人は
どれくらいいるのでしょうね。

日頃何気なく使っている故事成語が生まれた場所に行くのはとても
エキサイティングです。中国にはそういう場所があちこちにあって古代
中国マニアにはたまりませんね。

無錫の太湖のほとりには、三国城とか水滸城とかのテーマパークがある
みたいで、三国志の好きな私は是非今度行かなければと思っております。

織田信長の事業計画表

2006-01-22 15:30:52 | 戦国時代
今回は、織田信長の事業計画に関して
図面にしてみました。ちょっとこれまで
の相関図とは違います。織田信長がどんな
ことをやった人物なのかを図解してみました。

織田信長はテレビで見ると、戦争ばかりしているように見えますが、
戦争以外にもいろんなことをやっているのですね。この図の意図は
歴史に詳しい人にはあたりまえのことかもしれませんが、あまり
詳しくない人のために整理してみたものです。

真ん中に「天下布武」という言葉が書いてありますが、これは
信長の事業計画のスローガンです。パチスロとかゲームにこの
名前のものがあるみたいですが、もとは信長が事業計画の中で
スローガンとしていたものです。武力を用いて天下を統一すると
いうような意味です。このようなはっきりしたスローガンがあった
ので、信長の事業はどんどん発展していくのです。

事業計画を大体四つの分野に分けてみました。
1.支配地を拡大するための勢力拡大事業:そのための戦争です。
2.斬新な政治改革事業:組織を改革し、大胆な改革を行います。
3.天下統一事業:具体的に天下を取るための手続きです。
4.そして文化改革事業です。
これ以外に、和平工作としてのネットワーク拡大事業などもあり
ます。これらを猛烈なスピードでトップダウンで行っていったのが
信長と言えるのではないでしょうか。

1.勢力拡大事業
天下を取るためにはまずベースとして国力を増強しなければいけ
ません。国土を拡大してより多くの資産、軍力を持たなければ
なりません。そのために戦をして次々と近隣諸国を吸収していき
ます。最大のプロジェクトは、桶狭間の戦いで今川義元を退けた
ことです。美濃攻め、浅井朝倉攻め、延暦寺の焼き討ちなども
すべて敵対勢力を退けての勢力拡大計画の一環です。

政治改革事業
領内の整備、人材の登用、軍備増強、市場活性化などいろいろな
課題がありましたが、信長はトップダウンで次々と手を打って
いきます。秀吉などの才能のあるものを採用していく人事政策、
鉄砲などの将来の兵器に着目した軍備増強計画、また軍人を農
作業から切り離し、プロの軍人集団を作っていくのも信長です。
さらに「楽市・楽座」という市場原理を導入します。自由市場
を作り、商業を活性化します。また検地を行い、土地の情報把握
を明確にしました。その他無駄な関所を撤廃したりとかの政治
改革を行いました。今の時代の郵政民営化以上の改革をどんどん
実行に移していたのです。

天下統一事業
天下統一の手続きを進め、それを内外に告知していく事業です。
美濃の稲葉山城およびその城下の井ノ口を「岐阜」とネーミング
します。これは古代中国の王朝「周」の国が起ったのが「岐山」
の麓であったということで、ここを日本の岐山にしようとした
ことでそのようにネーミングしたようです。(阜というのは小さ
な丘という意味とも、孔子の生まれた曲阜の地名からとったと
も言われています)。このネーミングによって、彼は、これから
私は周の国が天下を治め、善政を行ったようにがんばるよという
プレゼンテーションだったわけです。
また、足利義政を利用して(そのための明智光秀)の上洛作戦。
さらに安土城を築城しての天下人であることをアピールするなど
いろんな事業を行っていきます。

文化改革事業
信長は結構文化的な事業も行っています。戦争のイメージとは
全く違う茶の湯の世界。当時、茶の湯は武家の間に流行っていた
ようなのですが、それをネットワーク増強の手段としても使います。
今の時代でいうと、ゴルフのような雰囲気でしょうか。千利休など
がレッスンプロのような形で活躍します。さらには、西洋ファッ
ション、西洋文化の取り入れなど文化発展事業を行っていきます。
戦一辺倒でなく、粋な部分を持っていたのがまたかっこいいです。

これ以外にも自分の娘たちを嫁がせての和平工作など(妹の市を
浅井長政に嫁がせるのもこの一環)も行います。

信長はこんなにいろんなことをほとんど一人で決断していたので、
精神的なプレッシャーは相当なものだったと思われます。
それを、癒していたのがお濃の方などだったのですね。
蘭丸もその癒しに関係してくるのでしょうが、詳細は不明です。

信長は相当勉強していました。ドラマでは勉強している姿は全く
出てきませんが、中国の古代の歴史や、日本の過去の歴史も相当
勉強していたようです。やはり歴史を知ることは大切ですね。

ついに山内一豊を中心にした相関図

2006-01-21 04:11:37 | 戦国時代
山内一豊に関する相関図を作ってみました。
NHKの「功名が辻」の視点を意識した図にして
あります。とくに下町娘レベルの方(?)に
参考にしていただければと思います。
でもちょっと複雑になってしまったかな?

今回の図は、フォトショップで色をつけて、さらにア-トっぽい
感じにしてみました。(凝り過ぎ?)こういう相関図を芸術作品
として売り出そうかな?しかし、お金のためではなく、道楽として
やることに意義があるのですね、きっと。今回はちょっと時間を
かけてしまった。

今回の図は、あらためて説明する必要もないのかもしれないの
ですが、一応、説明させてください。(説明好きの私を許してね)
山内一豊を一人のサラリーマンというふうに考えてみました。
彼は長年の就職浪人の時期を経て、名古屋地方にある中堅企業の
株式会社織田コンツェルン(企業スローガン「はげめ!」)に入社
します。社長は軍神摩利支天を彷彿とさせる(ってどんな感じ?)
若き御曹司信長社長です。新人の山内君は入社まもなく信長社長
から辞令をもらい、子会社羽柴コーポレーションに出向社員として
派遣されることになります。

羽柴コーポレーションは、次々と若手を採用していて、一豊の
同期の同僚には中村(一氏)君や、堀尾(吉晴)君がいました。
後のスター社員になる石田三成君や、加藤君、福島君らはまだ
幼さの残る学生アルバイトでした。

ある日、羽柴コーポレーションの大部長(じつは社長)の秀吉は、
岐阜の大手他社で勤務している頭脳明晰の戦略企画部長の竹中
半兵衛氏をヘッドハントしようとして、アクションを起こします。
竹中氏はなかなか了承しませんが、熱心な羽柴大部長の説得に
ついに羽柴コーポレーションに移籍することを決意します。
(この人テレビでは会津藩主のように見えるかもしれませんが
違いますからご注意ください。それは「新撰組」の話です)

羽柴コーポレーションにいた時代、同僚たちとのつきあいも多く
ありましたが、実は大部長夫人=ねねさんを中心とした奥様たち
のネットワークが存在していました。千代もそのグループに入っ
ていました。他には、中村君の奥さんのとしさん、堀尾君の奥方
のいとさんなどもいて、お料理教室をやったり、着物デザインを
やったりして楽しんでいました。千代はそういう付き合いを通じ
ていろんな情報を夫のために入手しているのでした。

この奥様グループは、やがて淀殿の率いるグループと敵対する
ことになります。このグループはそのまま徳川派となり、関ヶ原
の東軍を形作っていくことになります。千代は徳川家康がやがて
次期社長になる本命であると読んでいました。その読みが当たり
ます。

山内君から見て、本社織田コンツェルンの幹部の人たちはいずれ
も凄腕の人たちで、山内君が対等に口をきけるようなものでは
ありませんでした。だから子会社に出向にきたことを感謝しま
した。それはわりとのんびりした生活でした。

やがて、本社の信長社長が直属の部下の恨みを買って、傷害事件
で死亡してしまいます。その主犯の明智君が社長の椅子に座ります。
山内君らと岡山出張に行っていた羽柴大部長は、すぐに本社に戻り、
明智君を社長の椅子から引きずり降ろそうとするのですが、明智君
はその直前に逃げようとします。逃げようとした途中に、階段から
落ちて死亡してしまいます。

信長社長亡き後の会社は、まさにお家騒動です。柴田派と羽柴派で
対立するのですが、結局羽柴派が勝利します。羽柴秀吉は、織田
コンツェルンを自分の会社にしてしまい、豊臣コンツェルンとして
しまいます。そして自らはグループCEOとして君臨します。そうなる
と次期社長をどうするかという問題が浮上します。子供に恵まれ
なかった秀吉は、姉の息子の秀次を次期社長にと考えます。
秀吉は、山内君を秀次直属の部長に任命します。千代はこの秀次が
あまり好きではありませんでした。

やがて秀吉に子供ができると、その子に会社を継がせようとします。
そうなると、秀次が邪魔になります。結局、秀次は左遷させられ
非業の最後を迎えます。

一豊には年上の二人の部下がいました。金八先生と、とら屋のひろし
さんです。いえ、五藤吉平衛と、祖父江新右衛門です。テレビでは
新右衛門は子供が7人くらい登場してきます。あとこの図に入れ
忘れましたが、一豊の弟の山内康豊がいました。山内家の二代目は
この康豊の子供がなります。

まあこんな感じですが、何か参考になりましたでしょうか?
よけいこんがらがってしまったりしたらごめんなさい、ではまた。

お市の方をめぐる人物相関図

2006-01-19 22:34:59 | 戦国時代
3回連続で、相関図シリーズです。
今回は、「功名が辻」で大地真央さんが
演じているお市の方。絶世の美女という
ことで、「利家とまつ」では田中美里さんが
やっていました。昔の「秀吉」では、頼近美津子さん
(元NHKのアナウンサー、フジサンケイグループの鹿内氏との結婚
および、その後の尾家騒動で話題になった人)が演じていました。
ちょっと個人的にはイメージと違うなと思ったものです。
頼近さんは実生活のほうが複雑なので、彼女の件だけでも相関図を
作りたくなるほどドラマチックですが…

今回の大河ドラマのお市の方は、大地真央さんですが、そのキラリと
した聡明な感じがお市の方のイメージに合っていると個人的には思う
のです。ちょっと大地真央さんの経歴を調べてみたら、何と1956年
2月5日生まれということは、私と学年が同じではござい
ませんかそれにしちゃ若いあと松平健と結婚していて、
昨年離婚したのですね「利家とまつ」では松平健が柴田勝家を
やっていたのですが、柴田勝家とお市の方は最後は燃える城の中で
二人で自害するのですが、これは何かの因縁なのでしょうか?
離婚した二人が同時出演しないよう配慮している(?)NHKさんの
苦労もいかばかりかと察せられます。

ところで問題のお市の方のチャート。今回は多少色をつけて芸術的に
してみました。お市の方を中心に、左に浅井長政、右に柴田勝家を
配しました。この左右対称のシンメトリーの美しさにまずは感動して
しまいます。結婚相手の二人ともが、城の落城とともに死んでしまい
ます。ということは、このお市の方は不幸を呼ぶ女性なのかな?

最初の旦那の長政さんは、信長と敵対してしまい、最後はどくろの
杯にされてしまいます。信長さんは、なんとまあ恐ろしいことを
するんでしょう。本能寺の変が終わって、今度は柴田勝家と再婚
します。お市の方は秀吉のことが嫌いだったので、あてつけに
柴田勝家に走ったような感じです。でも結局は秀吉に攻められて、
あえなく二人で自害することになります。

そのとき秀吉は、三人の娘を助け出すのですが、長女の茶々を
ちゃっかり自分のものにしてしまうところが抜けめないです。
母親のお市の方に密かな思いを寄せていたが叶わず、それを
娘の茶々で実現させてしまうというのが、何か変質者っぽい
感じですが、執念の夢の実現です。

お市の方はとってもセレブでしたけれど、長政さんとの間に
できた3人の娘もいずれもセレブでした。一番の長女の淀殿
はスーパーセレブですが、次女と三女もすごいです。次女は、
京極高次という大名の正室になりました。この京極さんという
のは、この奥さんの七光りのおかげで出世したというので
「蛍大名」と言われているとか。
また三女のお江与は、徳川秀忠の正室になり、後の三代将軍
家光を生むことになるのですから大変なセレブです。

この図の右下のほうが複雑になってしまいましたが、淀殿の
息子の秀頼と結婚するのが、三女お江与が生んだ千姫という
のもまた複雑な因縁です。また、秀頼は実は秀吉の子供では
なくて、大野治長が淀殿にはらませた子供であるという噂も
あります。今となっては確認できませんが。石田三成ではと
いう説もありますが、当時三成は多忙だったので、治長説が
有力のようです。

大野治長は、淀殿の乳母である大蔵卿の息子です。淀殿とは
幼なじみでもあるので、気心が通じていたのでしょう。
うわさが立っておかしくない状況だったのだと思います。
大野治長は、大坂の陣で、豊臣方の司令官としてがんばるの
ですが、最後は、淀殿と秀頼らを自害させ、自らも命を
絶ったのです。もし本当に秀頼が治長の子供だったとしたら、
これは究極の一家心中です。
是非、秀頼と治長のDNA鑑定をしてもらいたいものです。

NHKの大河ドラマの「徳川家康」では夏目雅子さんが淀殿を演じて
いました。素晴らしい演技でした。「秀吉」では、松たか子さん
でした。小川真由美さんのもありましたね。自害するあたりの演技
はすごく記憶に残っています。「利家とまつ」では瀬戸朝香さん
でした。今回の淀殿は、永作博美さん。永作博美さんは、乙女塾
出身で、リボンという三人組で活躍していました。私は、リボンの
「サイレントサマー」が特に好きでした。乙女塾のコンサートを
見にいったことがあります。
だから個人的には今回の淀殿は応援したくなります。
リボンも三人組でしたが、淀殿は三姉妹の長女というのも奇遇
ですね。

ではごきげんよう。

秀吉をめぐる人物相関図

2006-01-19 00:24:34 | 戦国時代
この間、下町娘とタイ料理を食べながら
戦国時代に関して話していたら、「私は
信長、秀吉、家康の3人の中では一番好き
なのはやっぱり秀吉」と言っておりました。
信長は平気で人を殺すけど、秀吉は人を殺さずに勝つ方法を考える、
信長とか家康は友達になりたくないけど、秀吉だったら友達になれる
かもしれないという理由でした。(秀吉はもうこの世の人ではないので、
友達にはなれませんけど)

昨日の信長の図に味をしめて、今回は秀吉を中心にした図解を作って
みました。名前がまるで、「出世魚」のようにころころ変わっていま
すね。日吉丸木下藤吉郎羽柴(筑前守)秀吉
そして豊臣秀吉ですね。信長とかねねからは、サルとか、はげネズミ
とか呼ばれています。最終的には太閤様と呼ばれるほどに出世します。
この出世物語一つとっても、やっぱり秀吉はドラマチックです。
晩年の老害は困りものでしたが、それまでは見事な展開です。

秀吉の図を眺めてみて気付くのは、養子だとか、親戚だとかの関係が
多いということです。ホームドラマみたいです。部下の中で、加藤清正
とかは親戚ですし、また石田三成や福島正則などはちっちゃなころから
小姓として秀吉に使えていました。いわば、ジャニーズ事務所出身の
タレントのようであります。石田三成は知性派のタレントですが、
福島君や加藤君はちょっと悪ぶってワイルドな肉体派のタレントと
言えるでしょう。

この図を見ていて、関ヶ原の分裂状態が明確に現れているのが見えます。
この図の左側でブルーの線でかこったあたりが東軍で、右の黄色い線で
かこったあたりが西軍です。東軍と西軍は、家康と三成の対立ではあり
ますが、この図を見て明確なように、実は、ねね(北政所)と茶々
(淀殿)との火花を散らすような対立でもあります。正妻と側室の
対決。それに回りの男たちが引き込まれてしまいます。

淀殿を応援するのが、イケメンエリート官僚の石田三成。(この二人は
できていたとのもっぱらの噂です)。石田三成は西軍を立ち上げます。
石田君は仲間がほしいので、友達の大谷君を仲間に引き入れます。
大谷君は、この戦は勝てないと思いながらも友情のために石田君と
一緒に戦うことを決意します。大谷君は実はハンセン病患者で身体が
不自由なのですが、関ヶ原では一生懸命戦い、命果ててしまいます。
大谷君はドラマの中では頭巾を被っていたりします。

ねねを応援するのが、徳川家康です。というか、ねねが徳川家康を
応援するというのが正しいのでしょうが、加藤清正とか、福島正則
なども出身が同じなので、ねね派です。山内一豊と千代も二人とも
ねね派です。「功名が辻」の原作のなかで、淀殿が千代を自分の
派閥に引き入れようと工作する場面が出てきますが、千代は淀殿を
好きになれません。むしろねねのほうに人間的な魅力を感じます。
そんなこともあって、山内一豊は東軍になります。もしも千代が
淀殿のほうに魅力を感じていたら、一豊は西軍に入っていたでしょう。
ささいなことで、運命も歴史も変わってしまいます。

秀吉の女性関係に着目してこの図を見てみると、正室のねねと側室
の淀殿のほかに、何人も側室がいるのですね。この前の「利家とまつ」
には松の丸殿がたしかちょこっと出ていました。これはもうハーレム
状態です。これ以外にも、信長の妹(浅井長政と柴田勝家の妻)にも
心を寄せていたという噂があります。浮気常習犯で、気が多い
すけべオヤジでした。山内一豊の妻の千代のところに夫の留守の時に
やってきて「一回だけでいいからやらせて~」と迫る場面があります。
NHKがこの場面をどうするかわかりませんが、秀吉は身体をよじって
逃げようとする千代の着物の裾から手を入れてしまうという描写に
なっています。このときはやかんのお湯がこぼれてしまって、大事に
は至らなかったのですが、秀吉はそれほど女好きのようです。

秀吉とかと比べると、山内一豊は、側室は一人ももたないまじめ夫
でしたが、人間的なスケールという点においては秀吉の大きさには
かないません。

秀吉の役はこれまでにいろんな俳優が演じていますが、竹中直人さん、
武田鉄矢さん、香川照之さんの秀吉が印象に残っています。今回の
大河ドラマでは柄本明さんがやってますけど、この人はやっぱり
演技が上手いですね。いい味を出していると思います。
功名が辻でも秀吉は注目です。

ではまた。


信長の時代の人物相関図

2006-01-18 02:47:23 | 戦国時代
今夜の飛行機で下町娘(=妻)が
日本に帰っていきました。彼女の仕事の
関係で今回は長くシンガポールに滞在する
ことができませんでした。

日本に帰る彼女への手みやげに、こんな図を描いて、戦国時代の
とくに信長の周辺に関して説明してあげました。彼女は歴史に
関してはあまり詳しくないので、戦国時代の人物関係がよくわから
ないということを言っておりました。今回のNHKの大河ドラマの
「功名が辻」はいきなり戦国時代です。いろんな人物が出てきます。
かなりこんがらがってきます。そこでできるだけわかりやすく特別
講義をしてあげました。

この図の中心は、時代のヒーロー、織田信長です。
昔、緒方直人が主演した織田信長は「キング・オブ・ジパング」と
いう英語のサブタイトルがついていたので、そこに書いておきました。
私は歴史を専門的にやっているわけではないので、細かい部分はよく
わからないところも多いです。が、できるだけわかりやすく単純化
して説明してみました。

この図で、女性が黄色、男性が水色にしてあります。恋愛関係または
夫婦関係にはハートマークを使いました。関係のある人物を線や点線
で結びましたが、位置関係がまずかったため、複雑に線がからみあっ
てしまいました。今後改訂版を作る必要があります。

信長は、時代のカリスマリーダーであり、その下に部下がおりました。
会社経営にたとえますと、信長は天才肌のワンマン経営者であり、
時代感覚に優れ、自らの考えをどんどん実行に移していくリーダー
でした。そこに部下が何人もいます。柴田勝家とか、前田利家とか、
木下藤吉郎(羽柴秀吉)などがいて、その中のあまりメジャーではない
部下が山内一豊でした。この部下たちは、尾張とか美濃で採用された
生え抜きの部下で、どっちかというと田舎もんで,ワンマン信長に
忠実に使える部下たちでした。なかでも秀吉はよいしょがうまいので、
信長社長にかわいがられ、課長から部長へ、そして役員へと、とんとん
びょうしに出世していったような感じです。

そんななかで、山内一豊は、馬揃えというイベントで注目を集めたほか
はあまり際立った業績がありませんでした。馬揃えを今の会社生活に
たとえれば、会社の社内運動会(?)で優勝してしまったみたいな
もんかな?

明智光秀も信長の部下なのですが、彼は別格です。外部からヘッド
ハントされて招かれた社外取締役みたいな感じで、あきらかに他の部下
たちとは一線を画していました。何といっても当時の中心地であった
京都の文化には詳しいです。他の部下たちは、田舎育ちなので、そう
いうのは苦手です。信長は、まずは京都進出を目指しておりましたので、
京都の文化に詳しい光秀は必要な人材でした。それになによりも、
落ちぶれていたとはいえ腐っても将軍の足利義昭につながっている。
信長社長にとって、足利義昭は京都進出のために必要な人間でした。
だから、信長は明智光秀を部下にしてしまいます。

招かれて部下になってはみたものの、ワンマン信長社長はルール
無用の非常の経営をしていきます。頭のいいエリートの明智君は、
だんだん考え方の違いを意識するようになります。信長社長は、
明智君のやり方がいちいち癇に障ってきます。社内イジメは
エスカレートします。頭のいい明智君は、このままでは会社が
内部崩壊してしまうと焦ります。誰かが、信長社長のワンマン
経営をやめさせないと、と思います。誰かが鈴をつけないと
いけないのですが、他の部下にはそれができない。
できるのは自分しかないというわけで、本能寺の変になると
いう感じですね。

明智君のこの本能寺は単独行動であり、ちゃんと根回しができ
ていない。だから、反逆ということになり、羽柴君にやっつけ
られてしまうのですね。織田社長亡き後の次期社長選出について
は、清洲での役員会で揉めるのですが、羽柴取締役が巧妙な作戦
で強引に三歳の三法師ちゃんを社長とし自分がその顧問に就任
してしまうのです。で、うやむやのうちに自分が社長に…


その社長就任劇をはたで見ていて、はらわたが煮えくり返るのが
柴田取締役一派。彼らは羽柴社長なんか認められん!と公然と
反旗を翻します。結果的には、柴田派は負けてしまい、羽柴社長は、
豊臣社長と名前を変えてバージョンアップします。

というような感じで、説明していき、女性関係がどのようにこの
歴史の中でからんでいたのかを説明しました。そしたら下町娘
はすごくよくわかったと感激しておりました。図式化すると
すごくわかりやすいということでした。今回の図は織田信長を
中心とした図ですが、これをもっと洗練させ、また違う切り口で
図にしていくのもよいかなと思っております。

う~ん、歴史というのは面白いですね。

シンガポールはこれから新年

2006-01-16 01:25:10 | 戦国時代
シンガポールのチャイナタウンはすでに
旧正月の雰囲気で満載です。いろんな
屋台が出て、夜中までいっぱいの人です。
今週末は下町娘が来ていたので、
チャイナタウンまで行ってきました。

さて、インドから帰って来て、NHKの「功名が辻」の再放送を
土曜日に、そして第二回目を日曜日に見ました。これから始まる
ドラマの前説的な感じで、一豊と千代が偶然出会うという場面が
出てきました。司馬遼太郎さんの本では、一豊と千代が結婚する
あたりから始まるので、この最初の二話のストーリー展開は
ちょっと予期せぬ展開でしたが、ドラマとしては面白い設定かと
思いました。

原作とテレビのシナリオが変わっていても、ドラマとして面白く
展開できていればよいのだと思います。

二人がまだ早いうちから偶然出会っているところとか、一豊が
桶狭間の戦いで信長に出会うところとか、秀吉に出会うところ
とか、六平太が千代の子供の頃からの知り合いであるところとか、
これらはすべてテレビシナリオのオリジナルです。これらが、
今後のドラマの盛り上がりを考えてのことだと思うので、先の
展開の楽しみがあります。。

ところで、桶狭間の戦いの場面で、信長(舘ひろし)が号令する
[Ka k qwa re!]のセリフのいい方がちょっと気になったという
指摘を下町娘がしていたので、注意深く見ていたら、
確かにちょっとへんな感じがしました。

舘ひろしのインタビュー記事を見たら、ここは織田信長が感じた
恐怖心を素直に表現しようとしたのだとか。これは新たな視点ですね、
信長というのも単に強いカリスマというだけでなく、いろんな面を
持っていたと思うので、そういう新たな信長像が描かれるのは歓迎
です。

さきほど2チャンネルの掲示板を見て
いたら、功名が辻のことに関していろんな意見が出ていて面白かった
です。とくに「おい舘ひろし」というセクションは笑えます。まあ
いろんな人がいろんなことを感じるのでしょうが、このドラマで
今の所一番注目を集めているのは、主役ではない舘ひろしの信長の
ようです。

信長が気になったので、これまでの過去のドラマを見てみました。
たまたまビデオをとってあった、木村拓哉の「信長」は若々しさと
反逆精神に溢れていて非常に好感のもてるものでした。このテープ
下町娘がじっくり見たいというので貸しました。
昔の大河ドラマの「家康」に出ていた役所広司の信長もそれなりに
よい感じがしました。昔、緒方直人がやった信長(大河ドラマ)は
ちょっと人間的なインパクトという点で弱いような気がしました。
大河ドラマ「秀吉」の中に出て来た渡哲也の信長は歳はとっていま
したがカリスマ性はすごく感じられました。最近の反町の信長は
個人的にはわりと好きな感じの信長でした。

そういう目で舘ひろしの信長を眺めてみると、ちょっと違いますね。
何となくギラギラした輝きがないような気がするのですが、もっと
別の側面を表現しようとしているのでしょうか?たしかに皆さん
ご指摘のように聞き取りにくい箇所がいくつかありました。
まあ今後の展開に期待しましょう。本能寺の変での立ち回りを
舘ひろしがちゃんとこなせるか、下町娘が心配しており
ました。

ではまた。

インドからの帰還

2006-01-14 00:18:08 | インド
今朝、インドから帰ってきました。
最後に訪問したハイデラバードの
街は観光名所がいくつもあって、
思わず写真を撮りたくなるような場所
がいっぱいでした。

街の中には、アラビアンナイトのお城のような建物が
あちこちにあり、郊外の荒れ地には巨石がゴロゴロした別世界の
ような風景があり、そんなかに突如点在するIT工業団地のハイテク
な建物、それはすごくシュールな世界でした。

夕方ハイデラバードを発って、バンガロール経由でシンガポールに
戻ってきたのですが、空港設備の貧弱さに悲しくなってしまいました。
ハイデラバードとかは素晴らしいのですが、空港があまりよくありま
せん。こういうところでインドの評判が下がってしまうのはとても
悲しいです。

ハイデラバードの国内線のターミナルに入ろうとしたら、乗ろうと
しているインディアンエアラインの飛行機は国際線扱いになるという。
インターナショナルディパーチャーに行けという。それはどこかと
聞いてみたら、50Mくらいいったところのビルの2階とのこと。
で、2階に上がろうとしたら、何と階段しかないのです。
普通の人は道路が2階まで通じているので、問題ないのですが、
私のように間違えて一階で降りてしまった人は大変です。
重いスーツケースを持って、2階に上がります。助けてくれる人は
誰もいません。ここでインドのことがかなり嫌いになってしまいます。

カウンターでチェックインします。トランジットでも、バンガロール
の空港で一旦荷物を受け取り、再びチェックインしないといけない
とのこと。まあそれはいいとしても、空港内に大した店がない。
飲み物とかを売っている小さなカウンターはあるが、土産物を売って
いるような店がない。最後に空港で何か買おうと思っていたのに、
がっかりでした。

バンガロールでシンガポール航空に乗り換え。ここでまた時間があり
すぎたのですが、他に行く場所がないので、すぐにチェックインしよう
と思ったら、1時間くらい待たないといけないとのこと。椅子に座って
「功名が辻」の4巻目を読んでいました。土佐の国に行く行かないで
悩んでいるあたりでした。しばらく読書に没頭していてふと見ると、
何とX線のところは長蛇の列。インドでは、チェックインバゲッジは
カウンターとは別のところにあるX線を通さないといけません。
X線の機械は一つしかないので、すぐに長蛇の列になってしまいます。
この長蛇の列でインドのことがもっと嫌いになってしまいます。

チェックインを終えて、ゲート内に入ると、これまたがっかりするよう
な設備。ものすごく小さな本屋と、土産物屋と、飲み物カウンターが
あるだけ、国際空港としてはすごい悲しい雰囲気でした。世界的に有名
なバンガロールなのに空港設備がこんなんでは残念だなあと思うので
した。

先週、ムンバイからハイデラバードに行くときに国内線のジェットエア
ウェイズのターミナルを利用したのですが、ここは新しくできたばかり
で、なかなか奇麗でした。国際空港のほうを先にこのようにしてほしい
なあと思うのでした。お店はいくつかあるのですが、店舗はあまり充実
していませんでした。こういうところ何とかしないといけません。

インドよがんばってほしいと思うのでした。

空港で、何もすることがなかったので、「功名が辻」を読んでいて、
ついにバンガロールの空港待ち合い室で、最後まで読み切ってしまい
ました。バンガロールで最終を迎えるのは何か不思議な感覚でした。
山内一豊が死んだあと、千代は京都でゆっくりと余生を過ごすのですが、
まあこういう人生だったらよかったかと思ったりして、バンガロールで
人生のエンディングに関して考えるのでした。

ではまた

ハイデラバードから愛を込めて

2006-01-12 11:35:18 | インド
ハイデラバードに到着しました。
ハイデラバードというのは何と魅惑的
な響きなんでしょう。インド料理の
メニューで「ハイデラバード風」という
のは何度か目にしたことがあったのですが、
初めてこの都市に来ました。

インドで5番目くらいの規模の都市ですが、雰囲気はムンバイや
バンガロールとはずいぶん違います。イスラムっぽい建物が多い
ので、エキゾチックです。大きな湖のほとりにホテルがあり、景色
はかなり奇麗です。

昨日、湖のほとりのレストランに行ったのですが、雰囲気は欧米の
お洒落なウォーターフロントのレストランという雰囲気で、まさか
ここがインドとは想像できないくらいの感じでした。客層もかなり
のハイレベル。子供連れもいましたが、インドがこんなに豊な国で
あったのかと改めてびっくりしてしまいます。

マイクロソフトのインドでの一番の拠点がこの都市にあり、他にも
アマゾンとかいろんな世界的なIT関連の拠点があるというのも
すごいです。バンガロールなどに比べて、生活費は安いし、安全で
医療設備も充実しているということです。

湖の真ん中に一つの岩から掘り出した巨大な仏像が立っているので
すが、ハイデラバードはインドの中で仏教の拠点にもなっている
というのはまたびっくり。現在、仏教関係のイベントが近くの町で
行われていて、そこにはダライラマも来ているとか。街にダライ
ラマの大きな看板が出ていました。

知らないことがいろいろあります。知れば知るほど、ハイデラバード
という都市は大したもんだと思ってしまいます。ではまた。