南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

飛行機の中で『鈍感力』を読む

2007-02-28 02:15:04 | Weblog
シンガポールに戻ってきました。

成田空港のTSUTAYAで、店先に平積みしてあった渡辺淳一
の『鈍感力』を買いました。常々、自分には鈍感なところ
が多く、日頃それをコンプレックスと感じていた私にとって、
鈍感であることをむしろ好ましい資質として論じている
この本は、新鮮な驚きでした。

精神的にも、医学的にも、あるいは恋愛額的にも、鈍感力
は必要不可欠な資質であるというのです。なんだか、
すごく勇気づけられる気がして。鈍感であることは素晴ら
しいことなのだと思うに至ったのであります。

渡辺淳一さんですから、男女関係や、夫婦関係における
鈍感力の重要性もかなり出ているのですが、仕事、それも
海外での仕事に関して論じている部分がありますので、
ちょっとご紹介しましょう。

いまのような国際化時代、どこの国に行ってどのような
自然の下でも、さらに現地のどんな食物を食べても元気
で生きていける。こうした環境適応能力ほど素敵で逞しい
ものはありません。そしてこの環境適応能力の原点になる
のが、鈍感力です。いい意味で鈍感であるからこそ、どの
ような環境、どのような人々とも合わせて生きていけるの
です。これから全世界に羽搏き、新しい時代を切り拓いて
いこうと思う人は、まず自らの鈍感力をたしかめ、あると
思う人はそれを大切に、ないと思う人はそれを養うよう、
さまざまな環境にとび込み、強くするよう鍛えるべきです。
そしてそのためには、なにごとにも神経質にならず、いい
意味ですべてに鈍感で、なにごとにも好奇心をいだいて
向かっていくことです。


ちょっと引用が長くなってしまいましたが、これはまさに
日頃私が感じていることです。たしかに海外生活において
鈍感力は重要な資質と言えるのでしょう。

あと女性は、肉体的にも環境に対する鈍感力を持っている
という話も出てくるのですが、皮下脂肪を男性よりも蓄えて
いる女性は、寒さや環境に対してもかなりタフであるという
話が出ています。

ここで私は『タイタニック』の映画を思い出しました。
酷寒の北大西洋上で男性のジャックが死に、女性のローズ
が生き残ったというのは、女性の皮下脂肪というか、鈍感
力を物語るエピソードだったのかもしれません。

今の世の中、リストラなどの問題も日常化しており、躁鬱病
とかの精神的な病が多くなっています。このような時代に
こそ鈍感力というものが重要性を持ってきているのでしょう。

まだ今年も始まったばかりですが、この言葉、流行語大賞に
ノミネートされるかもしれませんね、

わたしの「千の風になって」

2007-02-27 13:06:24 | 日本
今、東京の江東区門前仲町のマンガ喫茶でネットにアクセス
しています。先ほど、近所を散歩していたら、永代橋の近く
の水路沿いの土手にある桜の木がもう開花していました。
まだ三月にもなっていないのに、まさかと思ったのですが、
ちゃんとした桜の花でした。

日本に来て、みんなから「寒いでしょ?」と言われるのです
が、私は、日本に到着した土曜日の夕方から今まで、何だか
あったかいなと思っていました。昨日の昼頃も、外を歩いて
いると、日差しがもう春だなと思いました。もしも自分が
植物だったら、この光の暖かさに反応して、春だと思って
しまうのだろうなと思いました。

体質がおかしくなってしまったのでしょうか?ここ数日の
東京の外気はとても清々しい気温に感じられます。いやな
寒さではなく、むしろ気持がよい感じです。外を歩くときは
ダウンジャケットを着ているのですが、ちょっと暑いなあと
いう気さえしています。久々に味わう、日本の寒さの中に
春の気配をもろに感じてしまう私でした。

今回の来日の主目的は、25日の日曜日に愛知県の田原で行わ
れた、母の一周忌の法要でした。午前十時半から、田原の
竜門寺というお寺で、法要がとり行われました。曇り空の
下で、お墓にお線香をあげて、読経が行われました。

母が亡くなった約一年前のことが思い出されてきて、時の
経過のはやさも同時に思い知らされたのですが、私はふと、
「千の風になって」の詩を思い出していました。きっと、
母だったら、三河弁でこんなふうに言うのだろうなとか
想像しました。
お墓の前で泣いちゃあいかんよ。
わたしゃあ、そこにゃあおらんでねえ。眠っとらんでねえ。
わたしゃあ、今は千の風になって吹いとるででねえ。
わたしゃあ、春を待ちきれんで咲きだした桜だでねえ。
わたしゃあ、シンガポールに降るにわか雨だでねえ。
わたしゃあ、夜空に輝くカシオペア座だでねえ。
お墓の前で泣いちゃあいかんよ。
わたしゃあ、そこにはおらんでねえ。死んじゃあおらんでねえ。

三河弁と言えば、去年やっていた宮崎あおいさん主演の
『純情きらり』でおなじみの方言です。

今日の、火曜日の新聞に、テノール歌手、秋川雅史さんの
『千の風になって』が、3月5日付オリコンのシングル・
チャートで、クラシック系の音楽家としては最高の53万4千
枚を売り上げ、過去の『もののけ姫』の記録を超えたと出て
いました。

私はまだこのCDを買っていませんが、これから買いたいと
思っているし、そういう人は数多いと思いますので、この
記録はさらに伸びるでしょう。

先ほど、この詩の原作者について調べていたのですが、この
ことについて書くとまた長くなってしまいますので、これは
また別の機会に書きたいと思います。ではまた。

飛行機で読んだ「千の風になって」

2007-02-25 01:50:15 | Weblog
日本に着きました。今、愛知県の豊橋です。

シンガポールから日本に向かう飛行機の中で、新井満さんの
「千の風になって」を読んでいたら、涙が出てきてしまいました。
この本の真ん中あたりに、これまた新井満さんの作曲した歌の
楽譜が出ていました。このメロディーを楽譜で追っていったら、
これまた感動でした。格好をつけていない素朴なそのメロディー
は、普通の人が何気なく歌いそうな感じで、じーんと胸に響いて
きます。

「あとがき」に代える十の断章の中で、新井満さんはニューヨーク
の同時多発テロの追悼集会のことに触れています。

2001年9月11日、ニューヨーク同時多発テロ事件
の当日、世界貿易センタービル高層階にあるレストランで
シェフをしていたクラークさん(39才)は、崩壊した
ビルと運命を共にして命を落とした。彼が最後に目撃され
たのは、ビルの88階で車いすの女性を必死に助けようと
している姿だった。

翌2002年9月11日、グラウンド・ゼロで行われた
一年目の追悼集会で、クラークさんの娘、ブリッタニー
さん(11才)は、この英語詩を朗読した。

「まるでこの詩は、父が耳元でささやいてくれている
ような気がしてなりません」
そう前置きして。

たしかNHKのハイビジョンスペシャルの番組で、この少女が
「千の風になって」の英語の詩を朗読している場面があったよう
な気がします。この部分を書き写していて、涙がぼろぼろと
こぼれています。飛行機のキャビン・アテンダントの人に見られ
ているのかもしれませんが、もう涙がとまりません。

2001年8月、同時多発テロのほぼ一月前、私は撮影の仕事で
世界貿易センタービルにいました。ビルの最上階のレストラン
で、ベーグルサンドを食べながら、同じ会社のスタッフたちと
打ち合わせをしたのが昨日のことのように思い出されます。
平日の午前中だったので、あまり人はいなかったのですが、
クラークさんはその時、厨房で働いていたのかもしれません。

ビルの展望台の売店には、WTC(世界貿易センター)の土産
物が並んでいました。売店のおばさんが暇そうにしていたの
を思い出します。あのおばさんも、あの日、風になったので
しょうか。

世界貿易センターの中のオフィスはアメリカのオフィスが大体
そうであるように禁煙でした。ビルの外では、タバコを吸いに
下まで降りてきた人たちが、美味しそうにタバコを吸っている
のを見かけました。あの人たちは...

私達は、その頃、世界貿易センターのビルまで歩いてすぐの
トライベッカの小さなホテルに宿泊していました。表の通りか
らは、二つのタワーが見えていました。

ある朝、そのホテルの近くを散歩していたら、消防署があり、
梯子車が出ていて訓練をしていました。しばらくその訓練の
様子を眺めていたのですが、ニューヨークの消防士は映画の
ように格好いいなあと思っていたものでです。おそらく、9月
11日のその日、グラウンド・ゼロに真っ先に駆けつけて、自ら
の命を顧みることなく、ビルを駆け上ったのは、おそらく彼らです。

撮影の前後、私達は、世界貿易センターの周辺にいました。
海沿いのマリーナ側の建物の中にスターバックスがありました。
撮影の当日、100人以上のモデルを集めて、世界貿易センター
を背景にして写真撮影をしました。今から思えば最後の記念
撮影だったような気がします。

* * * * * *

新井満さんのこの本で、いろんな思いでが蘇ってきたのですが、
実は、この人とは不思議な縁があります。

去年の3月5日、私の母が亡くなったのですが、その直後、
西葛西の駅前の本屋で、新井満さんの『般若心経』を見つけ
ました。母の葬儀をきっかけにして、『般若心経』のことを
知りたいと思いました。丁度タイミングよく、新井満さんが、
大胆に分かりやすい『般若心経』の本を出してくれていました。
私はこの本を何冊か買い、実家の仏壇のそばに置いてもらい
ました。認知症がひどくなり施設に入っている父親にも持って
いきました。本などは読めないかもしれないと思ったのですが、
「読むよ」と言っていたので、渡してきました。

新井満さんは、私とは年が10年くらい離れているのですが、
大学の先輩でした。実際に会ったことはないのですが、電通
に勤めていて、中森明菜の「少女A」とかの作詞をした先輩が
いるということは私がまだ学生の頃に聞いたことがありました。

大学の頃、私は「作詞家養成講座」というのを通信教育で
やっていたので、新井満さんは、私のあこがれでした。
『般若心経』と『千の風になって』に共通して見られるのは、
翻訳とは本来はこうあるべきだというスピリットを示してくれた
ことです。新井満さんは、表面的な言葉の背後にある精神や
気持を現代語に翻訳しようとしているような気がします。

私が学生時代に、シェイクスピアのマイナーな作品の
『ベロナのニ紳士』を舞台用に現代日本語に翻訳しなおし
たことがありました。シェイクスピアがこれを書いた時点では
抱腹絶倒の喜劇だったのだろうなと思い、それを再現する
ためには原文に忠実である必要はないと思い、シェイクスピア
の原文を勝手に変えさせてもらいました。実際に上演して
けっこう評判がよかったのですが、シェイクスピアがあの世で
にやっと笑っている気がしました。

こういうのも新井満さんが『般若心経』や『千の風になって』
でやられた事にちょっとだけ似ている気がします。

日本に向かう飛行機の中で、これを書いていますが、やっと
涙がとまりました。知らない人が見たら、妻に振られて泣いて
いるのかと思ってしまうかも。そういうことはありませんですね。

飛行機に乗って、雲の上を飛んでいると、自分も「千の風」
になったような気がしてしまいます。
死んでなんかいませんが。

サムイの暑い日々

2007-02-24 09:17:41 | ビーチリゾート
今は、チャンギ空港のANAのラウンジにいます。朝の飛行機
なので、余裕を持って家を出てきたら、かなり早く着いてし
まいました。本を読んだりしたら眠ってしまいそうなので、
コンピューターを繋ぎました。眠気ざましのブログです。

コーヒーを飲んでいるので、眠気はさめてきました。この
ANAのラウンジは、喫茶店のようなソファーの席が50席くら
いあるのですが、パソコンにLANケーブルがつなげる席が
いくつかあります。LANケーブルをつないだら、何の設定も
なしに、無料で、インターネットに繋がってしまいました。
なんだかすごく得した感じです。

この時間を利用して、一週間前のサムイ島の思いでを少し
書き残しておこうかとおもいます。この上の写真は、サムイ
島のチャウエンビーチのブリラサというホテルの部屋から
見えた日曜日の朝日です。ダイビングに行く日だったので、
朝早く起きたら、ちょうど朝日が昇るところでした。その
あまりの美しさに、写真を撮ったのですが、こういうのは
やっぱり一眼レフのほうがよいですね。コンパクトカメラ
だと、限界があります。

木曜日に取引先の新年パーティーに出たとき、日本人駐在
員の人が、二人いたのですが、二人とも旧正月はプーケット
に行って来たと言っていました。私も昔はプーケット派
だったのですが、最近はサムイ派に変わりました。津波の
ちょっと前に一度だけランカウィに行きましたが。津波が
あってからというもの、プーケットにはなかなか行こうと
いう気になりません。復興を支援するためには、我々観光
客がどんどん行ってあげるのがよいとはわかっているので
すが、ちょっとまだ抵抗があります。

プーケットとは反対側の東の海にあるサムイ島には、津波
は来ませんでした。サムイ島は、プーケットとよく比較さ
れますが、サムイ島のほうが、のんびりした感じが残って
います。それでいて、スターバックスや、ハーゲンダッツ、
そしてお洒落なイタリアレストランなんかもいっぱいあって、
その手頃な感じが自分としては心地よい感じです。

サムイのチャウエン・ビーチを歩いていると、ムエタイの
宣伝カーが何度も通りました。渋めの声で、「トゥナイト!
トゥナイト!」と英語で言っているのが、非常に分かりやすく、
その声が今でも鮮明に頭に残っています。

ここまで書いたら、そろそろ飛行機のボーディングのようです。
ちょっと中途半端ですが、ではまた。

サムイ島でエイリアンに接近遭遇!?

2007-02-24 05:42:55 | ビーチリゾート
この上の写真は先日、サムイ島に行って、近くのタオ島でダイ
ビングをした時に偶然見かけた怪奇生物です。ひょっとして
海中にも宇宙人が?ってそんなわけはありません。この生物は
おなじみのエイです。この青い斑点が何とも不気味ですが、
彼の名前は(彼女かもしれませんが)、ブルースポッテド・
スティングレイといいます。「青い斑点のエイ」って、その
まんまではありませんか。

南国の海底をイギリス人のジョン君と二人だけで潜っていると
岩陰にこいつが隠れていたのです。狭いところに入り込んで
安心して眠っているような感じでした。よこっちょのひれの
部分がゆっくりと動いておりました。私はちょっと怖いので
遠巻きに見ていたのですが、ジョン君は、私からカメラを受け
とるとかなり近くに寄って撮影してくれました。それがこの
写真です。

こういう場合、写真の著作権とかはどうなるんでしょうね?
シャッターを押したのはジョン君なので、この写真に関しては
彼が著作権者となるのか、それとも、たまたま彼にシャッター
を押してもらっただけなので、私が著作権者になるのか、法的
には微妙なところだと思いますが、こういうのを「生活笑百科」
とかで相談してみたくなります。どなたかご存知の方は教えて
ください。

私は、ダイビングを初めてから20年くらいにはなるのですが、
まだトータルで50本くらいしか潜っていません。水中カメラは
ニコンのクールピクスの5200に専用ハウジングをつけて使って
いるのですが、なかなかよく撮れるので満足しています。でも
カメラが古くなったので、新しいのを買いたいと思ったのです
が、何と、ニコンさんは水中ハウジングをやめちゃったとか。
儲からないからと言って水中から撤退しないでほしかったです
ね。その昔、ニコノスで水中の世界を制覇していたニコンの事
を知っているだけに寂しい思いがします。

しかし、このブルースポッテド・スティングレイ君。見れば
見るほど、奇妙な風貌をしておりますな。うちの妻はこの写真
を見て、これはカバではないかなどと言っておりました。たし
かにそのようにも見えないことはありません。私達がまだ小さ
な子供の頃、空想画で書いた宇宙人の姿って、なんかこんか
雰囲気だったような気がします。「ワレワレハ、ウチュウジン
デアル」と声帯を震わせて語りかけてきそうな雰囲気でもあり
ます。

さっき、ちょっとエイというのをインターネットで調べてみた
ら、エイという漢字は「海鷂魚」と書くのですね。これは半世
紀生きて来て初めて知りました。何でこういう字を書くように
なったのか、疑問は残ります。何だかクイズに出そうな漢字で
すね。この真ん中の字は、書けと言われても書けないですけど。

ところで、今日の土曜日の朝の便で私は日本に行ってきます。
母の一周忌の法事が田舎であるのです。あまり寝ていないので、
ちょっとしんどいですが、日本は寒いんでしょうね。ではまた。

ハッピー・ニュー・イヤー

2007-02-23 02:21:05 | シンガポール
先日の18日の日曜日が旧正月の元旦だったのですが、今週から
来週にかけては、正月のイベントが多く、挨拶もハッピー・
ニュー・イヤーです。たった今も、取引先の会社の新年パー
ティーがシンガポールのシャングリラホテルであったばかりで
す。300人弱の人がいたでしょうか、余興やゲームありの盛大
なパーティーでした。

旧正月パーティーの一番の目玉は、魚生(ユーシェン)です。
これは新年の定番の料理で、サラダのような、刺身のような、
ちょっと甘ったるいドレッシングの料理です。各種素材がそれ
ぞれおめでたい意味を持ったものばかりで、みんなで「ローヘ
イ!」とか、それぞれの願望とかを叫びながら、大皿の上の具
を箸で高々と持ち上げて、混ぜるという儀式をともないます。

そんなすごい美味いものではなく、毎日こんなものを食べさせ
られたらちょっとうんざりしてしまいます。とくに甘いのが
苦手な人にはかなり苦痛です。

うちの会社は昨日の水曜日から仕事初めだったのですが、昼
社員がどっかで魚生セットを買ってきて、オフィスの会議テー
ブルで、その儀式を執り行いました。にぎやかで、明るい儀式
です。

材料の重要な要素となるのは、刺身です。シンガポール人の
大好きなサーモンは必須です。この他、白身魚も入ったりして
います。サラダ部分は、人参、大根、胡瓜、キャベツ、クラゲ
などが千切りにしてあります。ソースは、ガーリックオイルに、
醤油、スィートプラムソース、紹興酒、ライムなど。これに、
トッピングとして、ローストピーナッツを砕いたもの、五香粉、
ローストした白ごま、ショウガ、コリアンダーなどをかけ、
短冊型のコーンフレークをまき散らします。

こんなんだと味が想像できないと思うのですが、味覚を楽しむ
ようなものではありませんね。日本には、類似の味覚がありま
せんが、さしみのつまの上にサーモンの刺身をのせ、ごま醤油
ドレッシングをかけて、その上から蜂蜜を振りかけて、ライム
を絞ったような複雑な味。タイ料理のパッタイ(焼きそば)の
味がこれに一番近いような気がします。もっと詳しいレシピを
知りたい方は、こちらを
http://www.arukikata.co.jp/webmag/2004/0412/sp/041200sp_02_03.html

今日のはシャングリラホテルのものだったので、かなり高級な
魚生でした。箸で高くまで持ち上げたほうが縁起がよいので、
テーブルの上は、こぼれた具でぐちゃぐちゃになります。おか
しな儀式があったものです。

この上のミカン二つと、アンパオ袋はこのような新年会の典型
的なおみやげです。アンパオ袋には、宝くじのようなものが
入っていました。丸いのはブックマークのような感じですが、
このえとのイラストはあきらかにブタですよね。「いのしし年」
だと主張している日本は、少数派ですね。中国の人口は圧倒的
に多いし、シンガポールもその他の国でもブタが主流ですから。

ところで今日は、歯医者に行って、虫歯(奥歯)を一本抜いて
きました。旧正月の期間中に、歯を抜くのが縁起がよいのか
悪いのか知りませんが、観てもらっているうちに、抜かないと
だめだということがわかったので、麻酔をして、抜いてしまい
ました。ちょっと痛かった~。

この歯医者はこれまでに何度か通ったことがあるのですが、
日本人の先生です。やっぱり歯とかになると、日本人でないと
不安ですね。

この歯医者の椅子に座っていると窓の外にオーチャードの
高島屋の建物が見えています。でもその景色を眺めていて、
ホテルの名前が変わったところが多いんだなあと思いました。
建物は全く同じなのに、経営者が変わる。ロゴだけが変わる。
私がシンガポールにいる間に、マルコポーロホテルがなくなり、
全日空ホテルがなくなり、コンコルドホテルがホリデーインに、
ニューオータニがノボーテルに、スタンフォードがスイソテル
に、というように変わっています。まあ10年近くもこっちに
いるので、仕方がないのかもしれませんが。

牛丼の吉野家のシンガポールでの展開

2007-02-22 02:09:56 | シンガポール
義理の弟は東京の下町で料理屋をやっているのですが、彼の
ほうからシンガポールの吉野家の様子を教えてほしいという
リクエストがあったので、シンガポールの高島屋の地下にあ
る吉野家に行ってきました。この上の写真は、そのお店の
様子です。

日本の吉野家とは、かなり違っているのがおわかりいただけ
るでしょう。日本は、カウンターで、個人客がさっさと食べ
るという雰囲気ですが、シンガポールの店舗では、テーブル
席がメインで、ファーストフード店のような雰囲気です。

来ているお客さんも、ファミリーあり、若者グループあり、
カップルありの、全くファーストフード店と同じ感じです。
注文は、入り口のカウンターでオーダーして、商品をトレイ
で自分でテーブルまで持っていくシステムもファーストフー
ド店と同じです。

日本だと、お客さんは、さっさと食べて帰っていくのですが、
シンガポールの店舗は、食べるだけではなく、友達や家族で
語らいあうための場所となっています。回転率という点では、
日本のようには効率的ではないのでしょうが、あらゆる層の
顧客がリピーターとして利用することで、商売が成立してい
るものと思われます。

メニューは普通の牛丼だけでなくて、いろいろなメニューが
あります。メニューはこちら参照。
飲み物もお茶だけでなく、各種ソフトドリンクが。さらに
おにぎりとか、茶碗蒸とかもあってかなり日本と違います。
シンガポール人の大好きなサーモンもメニューに入っている
のが、さすがです。

でも私達日本人にとって、やはり吉野家といえば、牛丼。
こちらでは、「ビーフ・ボウル」といいますが、味噌汁付き
が「バリュー・ミール」となります。ビーフ・ボウルの単品
レギュラーサイズが4ドル80セント(約350~400円)です。
日本の吉野家が牛丼を出さなくなった期間も、こちらでは
普通に牛丼が食べられました。味もけっこう美味く、たまに
食べると、懐かしい感じがしていました。

吉野家は、日本以外では、中国、香港、台湾、アメリカなどに
かなりの店舗展開をしているのですが、この小さなシンガポー
ルに、15もの店舗がすでに存在しているのですね。驚きです。

さて、この高島屋 Ngee Ann City店に入ってみて、一番奥の
壁が100年前の築地のイラスト(上の画像の右下がその一部)
になっていて、そこに描かれているのが、100年前、築地に
オープンした吉野家の一番最初の店舗なのです。これは妻に
教えてもらってはじめてわかったのですが、吉野家って実は
すごい歴史があるのですね。

魚市場の一角にある二階建ての家は、一階と二階がお店のよう
で、お客さんが牛丼を食べている様子が見えています。魚関係
のイメージが強い築地で、牛丼というのが何か不思議な感じで
すが、まあ魚屋さんや、寿司屋さんだって、たまには牛丼が
食べたくなるのですよね、きっと。

私が大学を卒業したのは25年くらい前のことですが、東池袋の
下宿のすぐそばに吉野家の店舗がありました。代々木にいた頃
も、新宿にいた頃も、いつも近くに吉野家がありました。最近
までいた西葛西のマンションにタクシーで向かうときの目印は
葛西橋通りの葛西橋を渡ってすぐのところの吉野家が道を曲が
る目印になっていました。なんだかずいぶん吉野家に縁があった
のですね。

この間、日本に帰ったときに、吉野家の前で行列で並んでいる
人たちの姿を見て、何だかすごい光景だなあと思いました。
牛丼の店でありながら、牛丼が時間限定でしか食べられない。
その特別の牛丼を求めて人々は列を作る。やっぱり、一世紀の
歴史を持つ吉野家は、牛丼なんですね。ではまた。

千の風は南の空にも吹いている

2007-02-20 15:18:30 | アジア
今朝、NHKの『生活ほっとモーニング』を見ていたら、「わたしの
"千の風になって”」
というのをやっていました。今日は
シンガポールはまだ旧正月の休みなのです。ゲストは中島啓江
さんと、千住明さんでした。暮れの紅白歌合戦で秋川雅史さん
が歌った「千の風になって」が、身近な人をなくした人の心の
支えになっているという内容でした。中島啓江さんがステージ
で、『千の風になって』を歌っているのも紹介されましたが、
彼女の歌も素敵だったし、聴衆が涙を流しながらも微笑んでい
るというコメントが印象的でした。

去年の12月頃だったか、NHKのテレビを見ていたらハイビジョン・
スペシャルで、この詩が朗読されていて、思わず見入ってしま
いました。木村多江さんが、アメリカなどを旅して、『千の風
になって』の元の詩が、世界でどのように人々をいやしている
のかをレポートしていました。いい番組でした。

それから、新井満さんの『千の風になって』(講談社)を買い
ました。この本の中で、「あとがき」に代える十の断章の中の
6番目の章にとても面白い部分がありましたのでご紹介します。

「遅かれ早かれ、僕は逝くことになるだろう。そこでお願い
なんだがね」
「はい、何でしょう」
「僕の葬式の時は、ぜひこのCDを遺影のうしろから流してくれ
ませんか」
「わたしが先に死んだら、どうするんですか」
「たぶん、それはないと思うね。頑強な君より、ひ弱な僕の
ほうがきっと先に死ぬさ。そうに決まっている。それは自信を
もって言えることでね。だから頼むよ」
妻はしばらく黙っていたが、やがてぽそりと呟くように言った。
「りょうかい」
それからすぐにつづけて、
「ところで死んだあとあなた、何に生まれ変わるつもりですか」
「さあてね...」
私も、まだそこまでは考えていなかった。
「あの歌のように、光や風になるのもいいが、象やライオンと
いう手もある。いや、いっそ屋久島杉のような樹木になるかな」
「一生のお願いがあるんだけど」
妻はおもむろに口を開いて言った。
「何?」
「ナマコだけはやめてください」
妻はナマコが大の苦手なのである。
(新井満「千の風になって」より引用)

これを読んだときは、思わず吹き出してしまいました。私の
妻もナマコが大嫌いなので、私がナマコに生まれかわるのだ
けは困ると言っておりました。

この写真は、昨日までいたサムイ島で撮影したものです。空
は青く晴れ渡り、とても気持のよい旅でした。このような空
に吹いている風なども、千の風なのかなとふと思いました。

母が亡くなってから間もなく一年になります。このブログ
の去年の3月の頃に書いたのですが、ちょうど私がお見舞い
で帰っている間、他界しました。3月5日のことです。
今週末、一周忌で田舎に帰ります。

去年の正月は、おせち料理を美味しそうに食べていたのに、
2月には入院して、病状は悪化していっていました。母が
亡くなるときに、外国にいる私が来てくれるのかをいつも
気にしていた母でしたが、私が田舎にいる間に、母は亡く
なりました。私がその時のために呼ばれたのか、それとも
母が気を使って、私が滞在している間にあの世に行こうと
思ったのかわかりませんが、不思議な出来事でした。

私が数年前、シンガポールに来てまだ間もない頃、両親に
一度遊びにきてもらおうとして、パスポートを取る手続きを
しようとしたことがありました。母は以前から、糖尿病だっ
たので、病院に英語で証明書を書いてもらっていました。
しかし、パスポートをとらぬうちに、母がまた入院したり、
結局外国には一度も行けないで、あの世に行ってしまいました。

ひょっとしたら、母は、千の風になって、シンガポールとか
サムイ島とかの南国の空を吹き渡っているのかもしれません。
風にはパスポートもいらないので、自由に飛び回っているのか
もしれません。母が亡くなってから、まだ一年も経たないの
ですが、ずいぶん遠い昔のことのようにも思えます。

今日、シンガポールのコンドミニアムの部屋の窓を開けている
と、とても気持のよい風が海のほうから吹き込んできます。
ひょっとして、母がこの風になって、何か伝えに来ているのか
なという気もします。もっとしっかりしなくっちゃ。

サムイ島と唯川恵の「ベター・ハーフ」

2007-02-20 01:04:21 | アジア
サムイ島からシンガポールに戻ってきました。今日の昼過ぎ
まで、サムイ島のチャウエンビーチにある、ブティック・
ホテルのブリラサにいました。この写真は、そのレストラン
のグリーン・オリーブからの風景です。これはイタリア・
レストランなのですが、タイ料理もあり、その味はかなり
美味しく、昨夜のディナーに引き続き、本日の朝食、そして
昼食と連続で利用してしまいました。

今日の昼食は、タイ式フライドライスをシーフードで頼んで
みたのですが、これがまた恐ろしくうまい。普通のフライド
ライスなのに、味付けが違います。今までタイでフライド
ライスを何度も食べているのですが、ここのフライドライス
はこれまでで最高の味です。妻は、フレンチフライを食べた
だけですが、これも美味しかったです。

まだ若いイタリア人のシェフが、客の一人一人に挨拶に来て
いましたが、味もよく、スタッフの接客もよく、のんびりと
して静かで、おまけに目の前の海が信じられないくらいに
奇麗だったのです。マスターカードの宣伝で「プライスレス」
というキャンペーンがありますが、この景色はまさにプライス
レスだなあと思いました。

私は、この旅行に、唯川恵の「ベター・ハーフ」という本
を持ってきました。まだ読み終わっていませんが、八割くらい
まできました。あと少しです。

妻が、この旅行のために本を二冊くらい買ったというので私も
何か買おうと思って、シンガポールの紀伊國屋に行ったら、
なぜかこの本を選んでしまっていました。この著者の本は今ま
で読んだ事ないのですが、この本を選んだ理由は次の通りです。
1)主人公の名前が自分の名前と同じだったこと。ちょっと
立ち読みしたら他人事とは思えませんでした。
2)主人公の仕事が広告代理店であること。自分も広告の仕事
をしているので、ますます他人事とは思えませんでした。
3)著者の唯川恵(ゆいかわけい)さんが、1955年生まれで
私と同じだったこと。ますます興味がそそられました。
4)そして、この小説は、7月1日に行われる結婚式のシーン
で始まるのですが、7月1日が私の誕生日であること。ますます
他人事とは思えませんでした。
5)タイトルからして、どうやら夫婦の話しであるらしいこと
だいたい以上のような理由です。

サムイ島のビーチでこの本を読み始めて、思ったことは、
これは男が読む本ではないのではないかということ、またこの
ような奇麗で平和なリゾートで読むべき本ではないのではない
かということでした。読み進むにつれて次々と起こる悲惨な
出来事と、この美しいリゾートとのギャップに頭がおかしく
なりそうだったのですが、どんどんと引き込まれていきました。

これは妻だったらもっと喜んで読むのだろうという気がしまし
た。途中までしか読んでいないのに、この悲惨な夫婦の話しを
妻にしたくてしかたがありませんでした。しかし、「私が自分
で読みたいので、ストーリーは絶対に教えないで」というので
す。ということで、このブログにもしばらくは詳しいことは
書けません。

途中まで読んで、こんなに問題の多い夫婦もいるんだ、これに
比べれば自分達は何て幸せなんだろうかということを考えさせる
効果がありました。まさに反面教師です。いろんな問題がぎっし
りとつまっていて、なんだか面白くなってしまいます。

というようなわけで、サムイ島でこの本を読んだのは、結果論で
言えば、非常によい選択であったと言えるのかもと思います。
まだ、この本の結末を知らないので、ちゃんとしたことは言えま
せんが、また読み終えましたら、コメントしたいと思います。

サムイ島チャウエンビーチのおすすめのホテル

2007-02-19 13:26:27 | アジア
旧正月はシンガポールを脱出して、タイのサムイ島に来ていま
す。サムイ島は二回目ですが、チャウエンビーチのブリ・ラサ
に泊まっています。海沿いのブティックホテルで、部屋数数は
30いくつかしかなくて、それぞれがまるで自分の家みたいな作
りになっています。2005年にできたばかりなので、まだ新しく
何から何まで素晴らしく、あまり人には教えたくないというく
らいの隠れ家的ホテルです。

ここのホテルのウェブサイトはこちらです。
http://www.samui-hotels.com/burirasavillage/
ホテルというよりも別荘のような感じで、青い海や、緑の木々、
澄み切った空気、満天の星空を自分のものにしたような感覚は
なにものにも代え難い贅沢な感じです。
ここのレストランがこれまた最高。グリーンン・オリーブとい
うイタリアレストランですが、タイ料理のメニューも豊富でと
ても美味しい。ホテルのスタッフの対応も素晴らしく、タイは
微笑みの国なんだなとあらためて感動します。

上の写真は、ホテルの前のビーチの写真ですが、白い砂浜に
青い海です。海に入ってわかるのですが、水の透明度も最高。
それに人があまりいないというのもよいです。すごくゆったり
とでき、とてもリラックスできます。アジアは、こういう
リゾートが近場にあるということがよいところです。

昨日の日曜日は久々にダイビングをしました。スマトラ沖津波
以降は、ダイビングをやっていなかったので、本当に久々です。
2004年にサムイ島に来たときも、タオ島というところにダイビン
グに行ったのですが、今回も同じスポットで潜りました。日本
系のダイビングショップで申し込んだのですが、ガイドは
イギリス人のイケメンにいちゃん。何と、彼と二人だけでの
ダイビングでした。女性一人だけで申し込んで、いきなり彼の
ようなイギリス人の若者が来たら、すごく嬉しくなるのではない
かなという気がするほどの若者でした。機材のセットアップなど
は彼のほうで全部やってくれたので、とても助かりました。

一本目は、ウェイトが軽すぎて、後半、浮き気味になってしまい、
とても疲れましたが、二本目は重さを増やしたら安定してとても
楽でした。いろんな魚がいて、全く別世界の感覚を楽しみました。

今、このブログを、ブリラサビレッジの部屋のバルコニーで書
いています。畳だと5枚くらい敷けるくらいの広さの場所で、
縁台で寝っころがってノートブックパソコンを広げています。
ワイヤレスなので、こんな場所でもネットワークが繋がっていて
しかも、無料。こういうことでもすごく嬉しくなります。

バルコニーの柵の向こうには、スパの藁葺き屋根(藁じゃない
かもしれないけど)や、レストランの屋根が見えて、ヤシの木
やいろんな植物の緑を抜けて、光り輝く海が見えています。
このホテルは決して安くはないのですが、こういう空間にいる
と、これはお金には代え難い贅沢さがあるという気がします。

リラックスすることの大切さをあらためて教えてくれた旅でした。

突然ですが今日からコサムイに来ました

2007-02-17 03:08:19 | アジア
今日は、シンガポールの会社は旧正月の前で半休にしました。
一日中やっている会社もあるのですが、うちはさっさと休み
にしました。月曜日、火曜日は旧正月の祝日となっています。
この期間、シンガポールにいてもしょうがないので、タイの
コサムイに来ました。去年の11月頃から予約をとっていたの
ですが、この時期は旧正月の旅行シーズンのため飛行機がな
かなかとりにくいです。とくに近場のリゾートはいっぱいです。

シンガポールを夜の8時過ぎのバンコクエアウェイズで出発し、
1時間半ちょっとで、コサムイに到着です。時差が一時間ある
ので、到着してもまだ8時台。シンガポールとは全然違う、
のんびりした田舎の感じにほっとしてしまいます。2、3年
くらい前に一度来たことがありました。

その時は、チャウエンビーチの北の外れのバーン・ハートンガム
というホテルに泊まりました。今回は、チャウエンのどまんなか
からやや南よりのブリラサ・ビレッジに泊まっています。
いわゆるお洒落なブティックホテルです。チェックインしたら、
何と、スィート・ルームにアップグレードしてくれました。

その部屋の大きさにびっくり。すごく広く、天井も高く、バルコ
ニーも大きくって感動です。さらに、インターネットが無料で
ワイヤレスで接続できてしまい、大感激。もう言う事なしです。

静かで、お洒落な、ブリラサビレッジ。今日から3泊こちらの
ホテルで宿泊です。ではまた。

アンパオ袋の今年のトレンド

2007-02-15 21:14:55 | シンガポール
今年のトレンドというほど、いろいろ見ているわけではないの
ですが、たまたま手元にあるアンパオ袋がこの写真のものです。
アンパオ袋とは、日本で言えば、お年玉袋、ポチ袋、ご祝儀袋
みたいなものなのですが、この時期、旧正月のお祝い用に、
アンパオ袋がいろいろと出回っています。

これに小銭を入れて、お年玉として、人に渡すのがこちらの
流儀。子供だけではなくて、社員にも、掃除のおばさんにも
渡したりします。金額は、数ドルから、十ドル、数十ドル程度。
コインではたぶんダメなのでしょう。少なくとも札を中に入れ
ます。上の写真の横長、縦長のは、お札をおらなくても入れら
れるサイズですが、小さいのは、おらないと入りません。

アンパオは、結婚式の時とかにもご祝儀袋として使われるの
ですが、結婚式のときとかは赤い色のものが多いような気が
します。旧正月も元々は赤い色のものが正当派なのでしょうが、
この写真にあるような最近のものは、赤の色に全然こだわって
いないのが、新しいパターンです。

ブタの絵がついているものがたまたまここに三つ入っています
が、これはこの旧正月で、「ぶた年」になるから、えとの
「ぶた」をイラストであしらっています。え?ぶた年?それは
いのしし年の間違いじゃないの?と疑問をいだかれる皆様、
この絵は、どれを見ても絶対にいのししとかではなくて、ぶた
ですよね?ピッグですよね?前のブログの記事でも紹介した
ように、こちらでは「亥年」、「猪年」は、中国語では「ぶた
の年」の意味なのです。いのししというのは野生の亥、野生の
猪のことなのですね。

英語ではYear of Pigといいます。Year of Dragonとか言うと
すごくかっこいいのですが、Year of Pigって何かお笑いっぽい
ですよね。従って、これらイラストもぶたの使い方はお笑い系。
シリアスでかっこいいぶたは存在していません。真ん中の葉巻
をくわえて、サングラスをかけたのは、シンガポールのローカル
の広告代理店のアンパオなんですが、かっこいいというよりも
おふざけ路線です。一番左のはスターハブという通信/ケーブル
テレビの会社のもの、右はオーシーノというブランドのものです。
個人的にはこのオーシーノのぶたのグラフィックは、とても
可愛いと思います。

その奥の赤いのは、右が東京三菱UFJのアンパオ袋、絵はぶた
ではなく、金魚(でめきん)です。左はDBSというシンガポール
の銀行。これら銀行系のものは、きわめてオーソドックスです。

今の時期、いろんな企業が宣伝用にアンパオ袋を作っていて、
さらに市販のものもいろいろあります。

というわけで、ハッピー・ニュー・イヤー!

南の国のチョコレート

2007-02-14 20:31:30 | シンガポール
今日はバレンタイン・デーです。日本は女性が男性にチョコ
レートを贈る日となっていますが、シンガポールは恋人たち
の日。こちらでは、男性のほうが、女性に花や、装飾品など
のプレゼントを贈ります。女性から男性にも贈り物をします
が。チョコレートがバレンタインのプレゼントということは
ありません。夜はカップルたちが、バレンタイン・ディナー
を楽しみます。雰囲気としては、日本のクリスマス・イブの
ような雰囲気に近いのでしょうか。

この間、会社で、日本のバレンタイン・デーは、女性から男
性にチョコレートを贈るのが恒例になっているという話を、
現地社員たちにしたら、何と、今日会社に来たら、机の上に
チョコレートの箱があるのです。社員全員からの(と言っても
全員で8人ですが)、署名入りのカードも置いてありました。

なんだか、照れくさい感じです。社員に「ありがとう」と言っ
ら、"Happy Valentine!"と言っていました。バレンタインも
お祝いの日なのですね。まあ私は、社員に厳しい上司という
感じではなく、どちらかといえば甘い対応なので、チョコレー
トのようなスイーツは、そういう意味でも自分には相応しい
のかと苦笑してしまいます。

箱をあけると、小さなチョコレートがキレイに並んでいました。
上の写真がそれなんですが、中央のマンダリン・オレンジの
形をしたチョコレートが、いかにもシンガポールの旧正月とい
う雰囲気がしてとても素敵です。フレーバーはトロピカルフルー
ツのものがいろいろとあるようです。外見からはよくわかりま
せんが。

これは、シンガポールのブランドの"SINS"というチョコレート
です。シンガポールにチョコレートのブランドがあったとは、
全然知らなかったのですが、これなかなかよさそうです。
ウェブサイトはこちら→http://www.sinschocs.com
シンガポールに数店舗あって、かわいらしいチョコレートを
いろいろ売り出しているようです。

チョコレートとシンガポールとかって、あまりイメージが
つながらないですが、実はシンガポールは、チョコレートや
ココアの原材料となる、カカオ豆の加工では、世界的な供給元
となっているそうです。もちろんシンガポールにはカカオ豆の
畑などなく、すべての原材料は輸入なのですが、シンガポール
に運ばれてきたカカオ豆は、ここでチョコレートの原材料に
加工されるようなのですね。

完成品としてのチョコレートは、ベルギーとか、アメリカ、
フランスなどが輸入元としては有名ですが、ココア粉になると
数量的には、シンガポールが日本への供給元のナンバー1の
国となります。金額的にはオランダらしいのですが。

これは結構知られていない事実ですね。農産物の全くないシン
ガポールでカカオ豆が加工されて、それが日本などに輸出さ
れている。これは面白いですね。

日本はチョコレートがすごく消費されているようなイメージが
ありますが(とくにバレンタインデーの今日など)、世界的に
見れば、日本の一人当たりのチョコレート消費量はとても少な
いのですね。国際菓子協会の2002年のデータによれば、
一番多いのはスイスで10.3キロ。これはすごい量ですぞ。
日本は、1.8キロなんですね。でもヨーロッパの国で、
ポルトガルは日本より少なくて1.6キロ、スペインも同じく
1.6キロなんですね。チョコレートはどちらかというと寒い
国の文化なのかなという気もします。

この間、NHKのテレビを見ていたら、シャンパンを飲みながら、
おつまみでチョコレートを食べている外国人のパーティーの
様子をやっていました。シャンパンにチョコレート?そんなの
試したことないけど、なんか美味しそうでした。

こういう私は、実家が菓子屋なので、子供の頃からチョコレー
トにはずいぶん縁がありましたけど。まあいずれにしても
ハッピー・バレンタイン!

スマトラ沖地震・津波と神様の存在

2007-02-11 22:02:32 | アジア
橋廣治さんの「東南アジアにおける宗教事情」(近代文芸社)
という本を読みました。2004年12月に起きたスマトラ沖地震・
津波で20数万人の人々が亡くなったのですが、スマトラの
メダンで日本国総領事館総領事である著者の橋さんが、被災
の現場でアジア人々の宗教観に関して考えていく一冊です。

震源地となったバンダ・アチェ市は、スマトラ島の北の端に
あります。地図で見ると、バンダ・アチェは、シンガポール
からはずいぶん北にあるんですね。緯度でいくと、ペナン島
と同じくらいの緯度、またシンガポールからの距離は、プー
ケットに行くのと同じくらいの距離感覚です。

インドネシアというと、シンガポールよりも南のイメージが
あるのですが、スマトラ島の大半は、マレーシアに平行して
いるかのように存在しているのですね。地図で見ると、津波
被害の大きかったプーケットは確かに至近距離。また距離は
遠くても、スリランカや、インドまで、海で遮るものがない。

「この被災は偶然のものではなく、それは神のなせる業では
ないのだろうか」と、特定の宗教を持たない著者は、被災地
の現場で感じたと言います。逆に、キリスト教徒の人たちは
「こんな酷い事になるなんて、もしかしたら神はおられない
のではないのか」と考えたと言います。

バンダ・アチェは、ほとんどの人がイスラム教です。イスラ
ムの人は、この災害に直面して、「これは神様の思し召し。
死者は別の世界に行った」と考えていたそうです。一方、
バンダ・アチェより少し南の二アス島という島は、スマトラ
沖地震の3ヶ月後、地震が直撃し、相当な被害がでます。
この島は、ほとんどがキリスト教なのだそうです。宗教の
違いを超えて、天災はやってくるというのが証明されました。

インドネシアでは、津波を題材としたDVDが市販されている
そうです。それはこんな内容なのだそうです。
「何故、かの地に大災害が発生したのか。
この世の出来事は全て全知全能の神アッラーのされたもう業
アチェにおいては長く紛争が続き、軍人が多くの人々を殺した
プーケットでは麻薬、売春が行われている
モルディブは白人たちに売春しているので島ごと沈んだのだ
インド、スリランカはイスラム教徒を迫害している
ペナン島では麻薬があり性が乱れている
全知全能の神アッラーはお怒りなのだ」
この災害は神の仕業と言わなければ、何とも説明のしようの
ないことなのでしょう。

著者の橋さんは、イスラム教、キリスト教、仏教、ヒンズー教
など様々な宗教があるが、アッラー、イエス・キリスト、釈迦、
様々なヒンズーの神々などを通して、その先にある大きな神の
存在にたどり着き、結局それは宗教が違えど、同じようなもの
ではないのかという結論に到達していくのです。なんだか、
すごい深い内容の本でした。

私は、津波の被災地の一つとなった、プーケットにも、ピピ島
にも何度か行ったことがありました。2005年の1月も、プーケッ
トの旅行を予約していたのですが、ホテルが営業不能になった
ということで旅行代理店からキャンセルの通知が来ました。
もしも自分が、偶然にもその時期に、被災地のどこかに行って
いたかと思うと、恐ろしくなります。

プーケットでは、パトンビーチのビーチ側のバンガローによく
泊まっていたので、その時、そこに泊まっていたら、おそらく
朝寝坊をしていたでしょうから、気がついたら、何が何だか
わからないうちにあの世に行ってしまっていたのでしょう。

私は、橋さんのの本を読んだあと、この自然災害での死者の数と、
広島、長崎、およびその他の空襲で亡くなった日本の人たちの
数を比べてみようということを考えました。スマトラ沖地震・
津波で亡くなった人々は、行方不明者を含めて、22万6194人と
いう数でした。各国別の詳細はこちらです。
http://rescuenow.cocolog-nifty.com/sumatra_earthquake/

広島原爆と長崎原爆で亡くなった人の数を調べたら、びっくり
しました。何と、広島では、死者、行方不明者あわせて、
12万2338人、長崎では、7万3884人。被爆後5年の間に亡く
亡くなった方を含めれば、広島で20万人、長崎で14万人という
驚くべき数字でした。東京でも1945年3月10日の東京大空襲で
は、死者が8万3千人、日本のほとんどの都市が空襲被害を
受けているので、トータルではすごい数になります。
日本の空襲被害に関してはこちらを参照。

広島と長崎の二都市だけで、スマトラ沖地震・津波の被害者の
総数よりも多いです。この事実には言葉を失います。
スマトラ沖地震・津波の被害者はものすごい数だと思っていた
のですが、実は日本の空襲の悲劇もとんでもない規模だったの
ですね。自然災害は、神の怒りということであきらめもつくの
ですが、原爆や空襲はを落としたのは、神ではなく人間なんで
すよね。人間が神の代理をするということが許されるのでしょ
うか。罪もない人々が制裁を受けないといけないほど、日本は
とんでもない国だったのでしょうか。当然の報いとして、我々
はこの死を受け入れないといけなかったのでしょうか。絶対に
防ぐことはできなかったのでしょうか。

広島や長崎の被爆現場で、あるいは次々と空襲を受けて焼け
野原となっていった焼土で、人々はそこになにを感じていたの
でしょうか。

なんだか、こういうことを考えると、複雑な気持になります。
地震や津波と、戦争被害を同列に考えてはいけないのでしょう
か?神様教えて。

シンガポールのクレージーホースの栄枯盛衰

2007-02-10 07:50:07 | シンガポール
クレージーホースというキャバレーはパリでは有名なのですが、
シンガポールでは2005年の12月、アジアで初めての店として
営業を開始しました。お固いシンガポールに、クレージーホー
スができるということは、革命的な出来事であり、観光客を
大量に呼び寄せるための起爆剤になるのではと期待されており
ました。

2005年、11月、シンガポールでアジア広告会議(ADASIA 2005)
が開催されましたが、このイベントで、クレージーホースの
プレビューが行われました。この様子は私のブログでもご紹介
いたしました。こちらです。→(クレージーホースを見たぞ。)

2005年、12月、シンガポールでリニューアルオープンした
クラークキーの一角に、クレージーホースは大々的にオープン
しました。当時はチケットをとるのも大変という日もありまし
た。

しかし、それから月日が経ち、客席は空席が目立つようになり、
毎日の客席占有率は35%程度になり、採算が取れなくなりまし
た。これを経営するエンワー・オーガナイゼーションは、クレー
ジーホースの閉鎖を決定し、この二月四日の興行を最後に、わ
ずか一年ちょっとの歴史の幕がおろされました。

この上の画像は、二月三日の中国語のフリーペーパー"my paper
我報”の表紙に乗った記事です。「シンガポール人に必要なの
は何?開放性、それとも性の開放?」という見出しですが、
シンガポールに必要なのは、「性」以前に「開放」であるとし、
法律の厳しさに触れる内容となっています。

営業赤字が4億5000万円くらいに膨らんでしまったそうです。
担当者は「空港や公共交通機関で広告を展開できず、認知度が
上がらなかった」と説明しています。公衆道徳を乱すとの理由
でヌード雑誌の販売が禁止されている国とあって、また日本か
ら輸入されて来る週刊誌のヌードグラビアも通関でそのページ
だけ切り取られてしまうシンガポールでは、セクシーなのダン
サーの露出は小さな新聞広告などに限られていたそうです。

また、この写真にあるように、肌の露出もかなり制約があり、
かなり妥協をしなければならなかったようであります。結局、
私は、このシンガポールのクレージーホースには行けずじまい
に終わってしまいました。

シンガポールでは、カジノなどの総合リゾートの計画が進行し
ていますが、クレージーホースの開業はちょっと早すぎたのか
もしれないと言われています。

二十年以上前、パリに何度か出張に行ったので、本場のクレー
ジー・ホースを見ました。リドも見ました。ムーランルージュ
も見ました。どれも、お色気が売り物のショーですが、その
奇麗さと、演出の素晴らしさに感動したものです。中でも
クレージーホースは、モダンでシンプルなパーフォーマンスで
した。リドは、ど派手なレビューで、これはこれで素晴らしい
のですが、クレージーホースは女性の身体の美そのものを表現
しようとしていたように思います。

柳沢厚生労働大臣は、女性を「機械」に喩えて、大顰蹙を買い
ましたが、クレージーホースのダンサーたちは、その動きは
まさに「機械」 です。おもちゃの兵隊をヌードダンサーが演じ
ているような感じで、動きは軍隊のようにストイック、表情は
基本的には無表情です。いやらしさはほとんどないのですが、
それを演じている女性たちがヌードであるということで、妙な
エロチシズムが醸し出されているという感じです。

結局、シンガポールのクレージーホースは、間違った季節に咲
いてしまった徒花(あだばな)となってしまったのですが、
やがて、人々の記憶からも消えていくのでしょう。ちょっと
一抹の寂しさはあります。

また、同時に、この情報は、それほど大きなニュースにはなっ
ていないので、観光パンフレットや、旅行ガイド、いくつかの
観光サイトにまだクレージーホースのことがかなり掲載されて
います。シンガポールに来たら、クレージーホースに行こうと
思っている人たちも多くいるのかもしれません、そのような人
たちが、地図を見ながら、現場にたどり着いて、そこに廃墟と
なったクレージーホースの建物を見たときの失望感は、いかば
かりかと察せられます。まあ、実際のパーフォーマンスを見て
失望するよりもましかもしれませんが。

以前、シンガポール観光局の広告で、「If your guide book
is more than 8 months old, burn it. (もしもあなたの
ガイドブックが8ヶ月以上古いものだったら、焼き捨てろ)」
というキャッチのものがありました。シンガポールは、次々と
新しいアトラクションができているということをアピールした
ものですが、これが逆の意味で真実になってしまったことが
皮肉です。本当に、シンガポールの観光ガイドはちょっとでも
古いと意味がありませんね。