なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ442 少水の魚

2023年11月12日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第442回。令和5年11月12日、日曜日。

令和5年、2023年のカレンダーも残り少なくなってきました。
その分残りの命も少なくなったことになります。

ひとびとの命は昼夜に過ぎ去り、ますます減って行く。水の少ない所にいる魚のように。かれらにとって何の楽しみがあろうか。(『ウダーナヴァルガ』無常)

朝起きて池を見ると水がガクッと減っていて、浅い水の中で鯉が窮屈そうに泳いでいます。
浄水ポンプの調子が悪く循環の途中で水が漏れるらしく、毎日地下水をずいぶん足さなければなりません。
鯉にとってはこの水の中が世界、この水の中でしか生きられないので、居住世界が狭くなることは生きづらいことに違いありません。
彼らに何の楽しみかある。
お釈迦様は実に譬えが上手です。

人生の残りが毎日毎日少なくなっていくのに、他人事のように漫然と過ごしている私たち。
少水の魚の如く、そこに何の楽しみかあらん。
この言葉は、曹洞宗の修行道場で、三と八のつく日修行僧が僧堂に集まって勤める「三八念誦」の八の日に読まれます。

是の日已に過ぎぬれば、命も亦随って減ず、少水の魚の如し、斯に何の楽しみか有らん。衆等当に勤めて精進して頭燃を救うが如くすべし。但だ、無常を念じて、慎んで放逸なること勿れ。


修行僧たちも、日々修行に励みながら月に3回、世の無常であることを確認するのです。
慎んで放逸なること勿れ。「でたらめするな」ということですね。
何事にも丁寧に、日々の生活を丁寧に。それが曹洞宗の教えだと言ってもいいです。
父親が、「塔婆の字を丁寧に書け」「お経は丁寧に読め」と言っていたことを思い出します。

最期に「ああ楽しかった」と言って死ねるためには、このいただいた命を精一杯使い切ったという満足感が必要でしょう。
精一杯といっても寿命が決まっているわけではありませんから、何歳とかではなく、その日がいつであってもいいように、その時その時に精一杯でなければならないということです。それが丁寧に生きるということです。
人に悪口を言わず、人の幸せを願い、自分の命に恥じない務めを果たし、しっかりと前を向いて生きる、それができていると自覚できれば、それは精一杯と言えるでしょう。
毎日毎日水は減り続けているのに、そのことに気がつかずに、刹那的な楽しみにうつつを抜かしていると、終いに「死にたくない」などと口をパクパクして苦しみを感じてしまうことになりかねません。

最近のこのブログの記事が、寂しいことばかり書いている、何かあるのではないか、と心配してくれるむきもあるようです。
ご心配いただいてありがたいことですが、特には何もありません。
病気が見つかったとか、死期の予感がしているとか、一切ありません。
歳相応に年齢を重ねた衰えが見えてきただけです。
そして、本当に少水を実感しているのです。
魚と違って、我々に水を足してくれるものはありません。
確実に一日一日残りは減っているのです。
そう考えると、今まで楽しいと感じていたこともつまらなく見えたりします。
少水に合わせて、為さざるべきこと為すべきことを選択していかなければならないと思うのです。
残りの時間でもう少し自分を磨いていきたいと思います。

無常を観ずることは、今生きていることの有難さを感じさせてくれます。
それは寂しさではなく、より良き生への転換点になります。
仏教が根本苦とする「四苦」は「生老病死」という順序で読まれますが、分かりやすくするためには「死病老生」の順序の方がいいように思います。
自分の命が消滅する恐怖、愛する人と別れなければならない悲しみ。「死」は生あるものの第一の苦です。
「病」は、痛い苦しいということもありますが、死に至る恐怖という苦でもあるでしょう。
「老」も同じように、目の前に迫ってくる死を感じる苦しさと言えます。
生まれたものは死ななければならない。死の苦しみを抱えて生まれてくるのが「生」の宿命です。
その苦しみからの解放のために説かれたのが仏教なのです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

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