『禮記』のつづき。
西脇のことばは、さまざまに乱れる。あることばの運動が、どうしてそんなところへ行ってしまうのかわからない部分がある。ことばとことばの脈絡に断絶がある。--というのは矛盾した表現になってしまうが、あることばの連続が、ふいに切断された瞬間に、ことばが「もの」のようにしてそこに存在する。それが私には美しく感じられる。
「坂の夕暮れ」。前半は、ことばが「文学」っぽい。
ここには「日常」のことばにはないことばの動きがある。それを私はとりあえず「文学」っぽいと呼んだのだが、こういうことばを読むと、意識が研ぎ澄まされていくというか、意識が緊張していくのがわかる。緊張の中で、いままで見たことのないものが見えはじめる。
これはたしかに詩である。
そして、この詩が、後半にがらりとかわる。
「かすかにかむ柿に残された渋さ」。この具体性は、あまりにも具体的過ぎて、びっくりしてしまう。前半にあらわれた「沈んでゆく光りの指」という「比喩(文学)」の対極にある。そして、それはまた「日常」でもない。「日常」をたたきわったようなものである。それ自体が「日常」をたたきわったようなものであるが、そのことばは前半のことばの脈絡からかけ離れることで、ことばの運動自体に「断面」を誘い込む。それが美しい。この瞬間の「手触り」が私は大好きである。
そして、そういうことばの運動のあと、「はてしない無常」がくる。「舌をかなしく/する」という不思議な「肉体」がくる。前半の「文学」(頭の中のことば--比喩)が、「肉体」そのものに、突然変わっている。
「悲しい裸の記憶の塔」と、「舌をかなしく/する」の、ふたつの「悲しい」「かなしく」をつきあわせると、ことばの断面がよりくっきりと見える。
西脇のことばは、さまざまに乱れる。あることばの運動が、どうしてそんなところへ行ってしまうのかわからない部分がある。ことばとことばの脈絡に断絶がある。--というのは矛盾した表現になってしまうが、あることばの連続が、ふいに切断された瞬間に、ことばが「もの」のようにしてそこに存在する。それが私には美しく感じられる。
「坂の夕暮れ」。前半は、ことばが「文学」っぽい。
あのまた
悲しい裸の記憶の塔へ
もどらろければならないのか
黄色い野薔薇の海へ
沈んでゆく光りの指で
そめられた無限の断崖へ
いそぐ人間の足音に耳傾け
なければならないのか
ここには「日常」のことばにはないことばの動きがある。それを私はとりあえず「文学」っぽいと呼んだのだが、こういうことばを読むと、意識が研ぎ澄まされていくというか、意識が緊張していくのがわかる。緊張の中で、いままで見たことのないものが見えはじめる。
これはたしかに詩である。
そして、この詩が、後半にがらりとかわる。
頭をあげて
けやきの葉がおののくのを思い
うなだれて下北(しもきた)の女の夕暮の
ふるさとのひと時のにぎわいを思う
まだ食物を集めなければならないのか
菫色にかげる淡島の坂道で
かすかにかむ柿に残された渋さに
はてしない無常が
舌をかなしく
する
「かすかにかむ柿に残された渋さ」。この具体性は、あまりにも具体的過ぎて、びっくりしてしまう。前半にあらわれた「沈んでゆく光りの指」という「比喩(文学)」の対極にある。そして、それはまた「日常」でもない。「日常」をたたきわったようなものである。それ自体が「日常」をたたきわったようなものであるが、そのことばは前半のことばの脈絡からかけ離れることで、ことばの運動自体に「断面」を誘い込む。それが美しい。この瞬間の「手触り」が私は大好きである。
そして、そういうことばの運動のあと、「はてしない無常」がくる。「舌をかなしく/する」という不思議な「肉体」がくる。前半の「文学」(頭の中のことば--比喩)が、「肉体」そのものに、突然変わっている。
「悲しい裸の記憶の塔」と、「舌をかなしく/する」の、ふたつの「悲しい」「かなしく」をつきあわせると、ことばの断面がよりくっきりと見える。
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新倉 俊一 | |
慶應義塾大学出版会 |
