詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木清「人生論ノート」から「娯楽について」

2023-02-06 17:28:52 | 考える日記

 「娯楽」について考えるとき、何から考えればいいか。娯楽の反対の概念は何か。仕事や勉強が思い浮かぶ。仕事からは、義務や責任ということばが思い浮かぶ。仕事(勉強)からの解放=自由。それが娯楽ということになるか。
 仕事と娯楽は反対。では、自由の反対は? 義務、責任はすでに考えた。ほかには? 仕事がつらいのは「強制」されていると感じるからかもしれない。強制は、支配。支配されると苦痛。苦痛から逃げられたら、自由。この自由は、幸福かもしれない。
 しかし、仕事をしないと生きていけない。生きていくとき、仕事をしなければならないと同時に、仕事だけでは苦しくて生きていけない。娯楽は、仕事からの解放。暮らしというのは、生活ということ。そうすると「生活」というのは「仕事」と「娯楽」から成り立っているのだが、このふたつということばに注目すれば「対立」とか「分裂」というこばが思い浮かぶ。「ひとつの生活」が仕事と娯楽に分裂する。対立する。遊びにゆきたいけれど、仕事がある。あしたデートの約束をしていたが、急に仕事のために会社に行かなければならなくなった。これは、つらいね。
 対立、分裂の反対のことばにどういうものがあるだろうか。統一がある。両立ということばもある。
 そういうことを話し合った後、いま考えたことばが、三木清のエッセイのなかでどんなふうにつかわれているか、注意しながら読んでいく。三木清は、美術鑑賞、音楽鑑賞という「受け身」の娯楽と、画家、音楽家という文化をつくりだす職業(仕事)を比較しながら、生活と仕事ではなく、生活と娯楽、さらに娯楽と芸術の両立(統一)についても考えている。終わりに近づいてきたところに、こういう文章がある。

 娯楽は生活のなかにあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。

 この文章を読み終わったとたんに、「これが三木清の結論だね」と18歳のイタリア人が言う。娯楽には享受的娯楽(受け取るだけの娯楽)と創造的な娯楽がある。仕事が何かをつくりだすように、娯楽も何かをつくりだすものでなくてはならない。作る楽しみがないといけない。
 私が、三木清がいちばん言いたいことは、どこに集約的に書かれている(結論があるとすれば、それはどこに書かれている)と問いかける前に、読みながら「結論」を推測する。それは、つねにどの文章に対しても「考えながら読む」という習慣がついているからだ。
 感激した。感激して、ほかにどういうことを語ったのか、どういう具合に三木清の文章を読み進んだのか、忘れてしまった。読むとは、だれかの考えを理解すると同時に、常に自分の考えを整理すること、自分の考えを見つめなおすこと。そのうえで、自分に納得できるものを「結論」と判断すること。
 その考え(結論)に賛成できるかどうかは別にして。
 自分なら、どう考えるか。どう論理を進めていくか。それを考えながら、読むことは、簡単そうでむずかしい。母国語でもむずかしいが、外国語になると、さらにむずかしい。それを、ぱっとやってしまう。
 そのうえで、「三木清の考え方に賛成だ」と言う。
 ほんとうに感動した。こういう「授業」を日本人相手にできるなら、それをやってみたいなあとも思った。
 時間が余ってしまったので、マルクス・アウレーリウスの「自省録」についても雑談した。イタリア人だから知っていて当然なのかもしれないけれど。「哲学青年」なのだと思った。余談だけれど。


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