詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(222 )

2011-06-07 08:32:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。
 西脇の、どこが終わりかわからない長い詩を読んでいると「意味」はどうでもよくなる。あちこちの行に「意味」はあるだろうけれど(くっつけることはできるだろうけれど)、その「意味」のつらなりがどこへたどりつくのか--そういうことはさっぱりわからない。ただ、適当にページをめくってぶつかった行を読めばいいのだろう。

マクさんの夫人はいう
「どうしたしまして、私共のご奉公は
さいのかわらのざようにいくらつみましても
ご恩にくらべてはいくら積んでも
もとの河原になつて
果てしがないのでございます」
だがよくききれない傍白があつた
「ダダダンササンコココンバババンワ
アンタハンノイノチガナナナナククク
ナナナナルヨヨクオイデヤシタ」
市子のことばの足に花が咲く

 カタカナで書かれている部分。「旦那さん、こんばんは/あんたはんのいのちが亡く/なるよ/よくおいでやした」と考えればいいのかもしれない。」そうすると「意味」がりかいできる。「意味」が聞き取れるなら、それを再現する時、日本語のなじみのある「文体」にすればいいだけのことである。
 ことろが、この詩では、「意味」を聞かずに、音を聞き取っている。「聞き取れてい」のは、「意味」なのである。その「意味」を追跡せずに、谷川は「音」そのものを追い掛けている。
 「意味」が通るように書けば「音」がこわれる。「音」を正確にとれば「意味」がなくなる。こわれる。「意味」がこわれたときと、「音」がこわれたとき。どちらが楽しいだろうか。
 むずかしい。
 西脇は、しかし、この「よく聞き取れない」ことばを歓迎している。
「市子の言葉の蘆に花が咲く」とかきそえる。「花」は一種の「比喩」。でたらめな音、意味から解放された音を西脇は「花」と呼んでいるの。

 この「音」は、次のような展開もみせる。

太陽は去つたが
すべての女神の髪の毛の
浅黄色がまだ残つている
カツシカのホンソウする車の中で
記憶の喪失ははるかにみだれ
忘れがちのパナマの
帽子の破滅をいそぐ
うすぼけた思考のつらなりの中で
ヒルガオというラテン語のあの長い
音節がただまわるだけ
沈み深遠の中におぼれた
コンウォウルス!

 「カツシカ」は「葛飾」、「ホンソウ」は「奔走」。漢字で書いた方が「意味」が正確に伝わる。けれど、そのとき「意味」が強すぎて「音」を楽しむ余裕(?)がなくなる。こういうことを嫌って、西脇はカタカナをつかう。「意味」よりも(わかることよりも)音の自在さを楽しむ。
 音楽は西脇のことばの基本なのである。
 「ヒルガオ」のくだりは、もっと象徴的である。「意味」が問題なら、ラテン語などどうでもいい。何語であろうが、「ヒルガオ」は「ヒルガオ」以外の意味にはなれない。「ヒルガオ」という存在はすでに思い出されている。認識されている。ラテン語であろうがにほんごであろうが、その想起されているヒルガオがかわるわけではない。ピンクのアサガオのような花。地面を這う花。その名前である。
 でも「音」は違う。ヒルガオという花の存在は同じでも、それに対応することばが違う。
 そして、この「ことば」は音と同時に「長さ」をもっている。(「ヒルガオというラテン語のあの長い/音節」)--音に長さがあれば、そこから「時間」もうまれてくる。
 この「時間」の感覚。
 それは「女神」が導き出したのか、あるいは時間が女神を導き出したのか、「長さ」というひとことが「いま/ここ」と「古代」の「ギリシャ(?)」を呼び出したのか。
 わからない。どっちでもいいなあ。気分次第でどちらかを答えよう。(詩、なのだか、これくらいのいいかげんさは許されるだろう。)


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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