詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(221 )

2011-06-05 15:28:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。 
 私の書いていることは西脇の詩を理解する上で何の役にも立たない。私の感想には、何ひとつ「文学的事実」というか、「文献的」ことがらに関する考察がない。
 私は、ただ、どこをおもしろいと思って読んだか、ということを小学校の児童が口にするような感じで書きつらねたいのである。口の両端を指で引っ張って「岩波文庫」って言ってみろ、「いわなみうんこ」。あ、いまうんことっていなあ、きったっねえなあ、笑ってよろこぶような類のことを書いているにすぎない。
 なぜ「いわなみうんこ」がおかしいか、というようなことは理屈をいっても始まらない。ただ楽しいだけだ。友達が困った顔をするのが楽しいのか、うんこ、うんこと汚いといわれることばをしゃべることがうれしいのか、そんなことはつきつめてもどうしようもない。そういう「ことば」の遊びをへて、ことばが動いているだけなのである。

毎日のように
マクベスの悲劇と梅ぼしのにぎりを
石油会社からもらつた

 ええっ、石油会社がマクベスの悲劇(シェークスピアの本?)と梅干しの入ったにぎり飯を毎日くれる? そんなこと、あるの?
 ないよなあ。
 だから、詩は、次のようにつづいていくのだ。(詩にはつづきがあるのだ。)

毎日のように
マクベスの悲劇と梅ぼしのにぎりを
石油会社からもらつた
青いフロシキにつつんで
赤い実がなつているリンボクの一本の
樹と花が咲いているザクロの
一本の樹が垣根から頭を出している
アパートの前を通つて
ゾウシガヤへ用事に出かける

 「毎日のように」は「ゾウシガヤへ用事に出かける」へとつながるのである。マクベスとおにぎりは、そのときもっているだけのことである。「石油会社からもらつた」は「フロシキ」を説明しているのである。読み返せば、わかるが、前の方から順番に1行1行「意味」を考えながら読んでいくと、変な書き方としか言いようがない。学校の作文でこんな変な文章を書いたら「整理して書きなさい」と指導されるだろう。
 西脇は、しかし、もちろん「わざと」書いている。
 マクベスとおにぎりを石油会社からもらうというのは変--そのへんという感覚をわざと強調する。何かが強調されると「世界」のバランスがくずれる。「世界」をとらえている枠組みが少しだけど、ずれる。ずれると、その隙間から「何か」が見える。この何かは、説明ができない。
 岩波文庫がいわなみうんこにかわるときに見える何か(感じる何か)とは違うけれど、もしかすると同じものかもしれない。「あれっ」「どうして?」わからないけれど、何かが動く。
 リンボクとザクロの書き方も変である。

赤い実がなつているリンボクの一本の樹と
花が咲いているザクロの一本の樹が
垣根から頭を出している

 という行の展開なら、意味がとおりやすい。西脇は、その「意味の通り」をわざとぎくしゃくさせている。ぎくしゃくすることが、なにかしら、ことばを刺激するのである。
 「意味」はかわらない。
 「意味」と「ことば」の緊密な関係がくすぐられる。関節が外され、脱臼する。脱臼は、痛いが、はたからみると、そのぎくしゃくは変な具合に(変だから)楽しい。笑ってはいけないが、笑ってもかまわない。(詩、なのだから。)
 そして、このぎくしゃくした動きを読み通して思い返す時、あ、それはまるで垣根からはみだしているリンボクやザクロノあり方にも見えるねえ。リンボクやザクロは「形式」をはみだして自由に枝を伸ばし、花を咲かせている。西脇のことばも、その「形式」をはみだした運動をまねしているのである。
 「形式」というのは「枠」である。それを破るのは、まあ、子どもの楽しみである。してはいけない、というわれることをするときほど、子どもにとって胸がときめく瞬間はない。そんなことをしたって何になるわけでもない。ただ、それが「できる」ということが楽しいのである。
 西脇の、この奇妙な行をまたがったことばの動かし方--そういうことをしたからといって、特別何かが起きるわけではない。けれど、そういうことができる、そういうことをしても「意味」が生まれてくるし、勘違いの一瞬には何かくすぐられたような感覚になるという快感がある。ただそれだけのために、詩というものがあってもかまわないのだ。
 ゾウシガヤ(雑司ヶ谷)。カタカナで書いたら、突然、音がにぎやかになる。音のにぎやかさが浮き立ってくる。このことも、特に意味があるわけではない。ただ、そう書きたいから書くだけなのである。

 意味ではなく、ただ、そういうふうに書きたいだけ--という、その感じが楽しい。私は、どうしても「意味」を書いてしまう。音だけを動かして、けの音の動きおもしろくない?という具合には書けないなあ。
 だから、西脇の詩が好き。




最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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