「蟻」。この作品にはたしかに「蟻」が描かれている。それはそれでおもしろいが、私は、その「蟻」が登場するまでがとても好きだ。
秋は
あらゆるものを透明にする
神の手もぼくの視野をさえぎることはできない
小さな庭の諸生物も
鈴虫の鳴き声とともに地下に消えた
この書き出しは「蟻」とは無縁である。そればかりか「蟻」を遠ざけている。「秋」は「蟻」の季節ではない。
どうして、「蟻」が登場するのか。
秋、日が落ちてしまったら、田村はひとりで旅に出る--と書く。そこから、ことばが動いていく。
ぼくの一人旅とは
まずポーカー・テーブルのスタンドに灯をつけて
三人の椅子にむかって
カードをくばるだけ
それから赤ワインをグラスにつぎ
おもむろに自分のカードを眺める 白波に消えた足跡の砂浜
グリーン・リバーという混濁した川が流れているロッキー山脈の小さな町
無数の生物とその毒素を多量に排出する南アフリカ
星座をたよりに航行する深夜の貨物船
ぼくは半裸体の漁師のペテロ
ぼくは廃屋の三階建てをたった一人でツルハシをふるっている青年
ぼくはペスト コレラ エイズ まだ持ち札はたくさんある
ぼくはマドロス・パイプをくわえた貨物船の船長
ぼくは熱帯にも寒帯にもコロニイをもっている蟻
蟻 おお わが同類よ
宇宙から観察したら 身長3ミリの蟻と
一七五センチのぼくとたいして変らない
「蟻」にたどりつくまでに、田村は、さまざまな場所を通る。複数の人間になる。そして、ペスト、コレラ、エイズという病気になる。複数の存在になる。複数の存在になりながら、同時に、その存在を捨てる。一瞬のうちに、その生を生きて、それを捨てる。その過激な運動の果てに、「蟻」にたどりつく。
したがって、そのとき、「蟻」とはまた、さまざまな生を生きてしまった何かなのである。「蟻」という存在のなかに、人間の複数の可能性を田村はみている。
こういうありかたを「肉眼」というこれまでの田村の表現を借りて言い直せば「肉・蟻」というものが、ここでは描かれているのだ。
田村が「蟻」を描くことで、その「蟻」は「肉・蟻」になる。「肉・蟻」から世界を見ると、「肉眼」で見た世界が見える。
ここに、田村の詩のひとつの秘密がある。
田村は、ぼくを描くが同時に、ぼく以外も描く。「他人」を描く。詩のなかで「他人」になる。それは、自分の「肉眼」ではなく、「他人」の「肉眼」で世界を見るためである。「他人」の「肉眼」こそが、田村自身の「肉眼」を育ててくれる。
全世界に分布している蟻は一万種 人種の総人口よりはるかに多い
ギリシャ神話では
アイギナ島の住民が疫病で全滅したとき
ゼウスは蟻をその住民に変えたという
さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
人間の世紀末
1999
ゼウスが「蟻」を人間に変えたのなら、田村はことばで「ぼく」を「蟻」に変えるのだ。そして「肉・蟻」になるのだ。それは「肉眼」よりももっと、「未分化」の「生」である。
蟻と人間だけが一億二千万年も生きながらえてこれたのは
という行を手がかりにするならば、その「一億二千万年」の「いのち」そのものになる。「蟻」になることによって。そのとき「世紀末」はひとつの「断崖」である。そこには半裸体のペテロもツルハシをふるう青年もペストもコレラもエイズも同時に存在する。
青いライオンと金色のウイスキー (1975年)田村 隆一筑摩書房このアイテムの詳細を見る |