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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(148)

2014-08-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(148)        

 「玄関の広間の鏡」は「同じ空間で」の続編として読むことができるかもしれない。ここではカヴァフィスは「玄関の広間の鏡」になって男色の世界を書いている。「同じ空間で」はカヴァフィス自身が「街」になったが、「街」ではあまりにも「世界」が広すぎる。「感覚」が絞りきれない。「鏡」では、その「感覚」が「視覚」に限定されて、男色の世界が繰り広げられる。
 豪奢な屋敷の玄関の広間に、買い入れて八十年はたつ鏡がある。ある日、洋裁師の女子が包みをもってやってきた。領収書が来るまでの間、少年は鏡に向かって、少し身繕いをした。そして、去っていった。

だが古い鏡は悦ばしく嬉しい。
長い生涯にずいぶんさまざまなものを眺めたけれど、
今日までの幾千幾万の事物や顔貌はメじゃない。
一瞬ではあるが一分のすきもない美しさを今抱擁した誇り--。

 鏡の中に少年をすっかり取り込んだ。全身をくまなく映し出すことで、彼を自分のものにした。それは眼によるセックスである。
 そういうことはカヴァフィスには実際にあったのかもしれない。セックスはしていないが、眼でしっかりと理想の美しさをつかみ取って、そのことに興奮したということが。あるいは日々、「幾千幾万の事物や顔貌」を超える真実の美を探していたのかもしれない。「メじゃない」という「口語」は、視覚の眼をつよく意識した中井久夫の訳語だと思う。原文は「眼」とは違うことばかもしれない。

 この詩には、いま書いた「意味」を超えて、とてもおもしろい「訳」がある。

ネクタイをちょっと直した。五分たって領収書が来た。

 この「領収書が来た」ということばのスピード。現実には領収書が自分でやってくるわけではないから、「領収書が運ばれてきた」あるいは「領収書をもって召使があらわれた」であろう。けれど少年にとって問題は領収書だけなのだから「領収証が来た」で充分なのである。
 この部分は森鴎外の「寒山」に似ている。そのなかに、たしか「水が来た」という短い文章があった。奥から水が運ばれてくるのだが、それを「水が来た」と言い切る。余分なものが削ぎ落とされ、ことばが早くなる。
 そういう速さのあとに「長い生涯に……」ではじまるゆっくりしたことばが動く。そうすると、緩急の変化のために書かれていることがいっそう印象的になる。「一瞬」と書かれている最終連の喜びが充実したもの、長くゆったりしたもののように感じられる。
 中井久夫は雅語、俗語、漢語などを自在に駆使しているが、多くの作家の文体をも下敷きにしてことばを動かしているかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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