詩人がことばを書くのではない。ことばが詩人を、詩人の肉体を引きずって行く。「どこへ」。それはわからない。
だが、そのことばに引きずられるままではいけない。田村は、ひとつの「枠」を設定している。禁忌を設定している。「「北」についてのノート」に記されている。それは確かに「ノート」と呼ぶべきものである。
田村は、ことばと「頭脳」の関係を熟知している。また、ことばの「罠」も熟知している。「頭脳」、あるいはことばは、すぐに結びつきたがる。連想というつながりへ動いて言ってしまう。「北」と「雪」、「北」と「氷」。これらは結びついたとき、「矛盾」という形をとらない。そういうものは詩ではない。
詩は、矛盾でなければならない。
「頭脳」(頭)は矛盾を嫌う。合理的ではないからだ。「頭脳」は人間の肉体のなかでもっともずぼら(?)な器官であって、ひたすら楽をしようとする。安易な径路をたどろうとする。数学も物理も、もっとも合理的な論理をもとめる。それを「答え」は判断する。合理的ではないもの、論理的ではないものを、誤謬とする。世界の運動をもっとも省力化しようとするのが数学・物理(科学)である。
詩は、そうであってはならない。矛盾・誤謬でなければならない。合理的ではないと判断され、除外されたもののなかにある「いのち」を復活させるのが詩である。合理的なものを破壊し、矛盾にかえし、合理的という枠が殺していたもの(合理性によって葬られた死者)を甦らせるのが詩である。
こういう詩のことを、田村は「自由」ということばでとらえている。
「「北」についてのノート」には、まえがき(?)がついている。そこに「自由」ということばが出てくる。
絵画、音楽(ことばを含まない演奏という意味だと思う)は国境を持たない。なぜなら、それは感性(肉体の感覚)へ直接訴えかけてくるからだ。眼と耳がそれを受け入れる。障害物はない。ところが、ことばは、いったん「頭」を通らないと感覚にまではならない。肉体へと働きかけない。感情を動かさない。--一般的には、そう考えられている。しかし、田村は、逆に考える。
人間の感覚・感性は直接的に見えても、実際は、そうではない。感覚・感情にも「一定」の径路がある。人間の感情・感覚はひとりで形成されたものではなく、集団のなかで形成され、みがかれたものである。そのことを人は、ふつうは、意識しないけれど。
たとえば冷たい水は絵画では寒色で表現される。暖色で表現される冷たい水はない。
何を冷たいと感じ、何を温かいと感じるか--視覚の領域では、それはもうほとんど固定化されていて、そこには「自由」がない。ピンクで「冷たい水」を表現するのは、たぶん、許されていない。
ことばも、もちろん、同じようにつみかさねられてきた感情・感覚・認識の径路をたどる。「北」と「雪」、「北」と「氷」は安直に結びつき、そこに径路があるということさえ、人は気がつかない。
ところが、外国語がであうとき、その安直な結びつきは、安直ではおさまらない。外国語に熟達しても、あるいは熟達すればするほどというべきか、それぞれの国語が特有の径路をもっていることがわかる。ほんとうに共通のなにかを感じようとすれば、そこには微妙なずれがあることがわかるはずだ。
このとき、ふつう、人は「外国語は不便だ」と感じる。ところが、その不便さのなかに、田村は可能性を見ているのだ。同じ径路をもたないということ--それは、別の径路の可能性をくっきりと浮かび上がらせる。自分がしらずに身につけてきた径路を破壊し、抑圧されているもの、合理的な径路が隠しているもの(わきに退けたもの)に直接触れることができる可能性がある。
そういうことを田村は「自由」と言っている。
その「自由」の定義は、「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「厳禁」ということばから逆に証明することができる。「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「自由」ではないのである。それは私たちが無意識のうちに獲得してきたことばの運動であり、感覚の連動なのである。
2連目を読むと、そのことがさらにわかる。
「フィーリング」。ことばのなかには、そのことばを話す国民が獲得した(確立した)フィーリングがある。(それはときとして、何か国語にも共通するものである。)そういうものは「自由」ではない。
「自由」なことば--それは「氷河期」に対して「燃える言葉」。
「氷河」と「燃える」は矛盾する。それは対立→止揚→発展、という運動ができない。氷河が燃えれば氷河ではなくなる。「頭脳」の「合理的な論理」に反する。
けれど、その「頭脳」に反すること、合理的な径路に反することのなかに「自由」がある。詩がある。詩が、すくいださなければならない「いのち」がある。いや、すくいだすのではなく、田村の流儀にしたがっていえば、かえっていかなければならない「いのち」がある。
だが、ことばが「自由」の回路であるとして、そのことばはどうやって手に入れることができるのか。
「肉体」をとおしてである。
詩の最後の方に書いている。
「この眼で」の「この」には原文では、傍点が打ってある。「この私の」つまり、肉眼でと田村は言いたいのだろう。「頭脳」ではなく、「肉眼」で手に入れるのだ。「頭脳」には蓄積されたことばの「回路」がある。その回路から遠い「肉体」で存在をつかみとること。田村は、そういうことを意志していると思う。
「肉体」がつかみとったもので、「頭脳」をたたきこわす。破壊する。完成された回路を叩き壊すとき、そこに新しい原野が広がる。詩という原野が。
だが、そのことばに引きずられるままではいけない。田村は、ひとつの「枠」を設定している。禁忌を設定している。「「北」についてのノート」に記されている。それは確かに「ノート」と呼ぶべきものである。
世界を、さらにもう一度、凍結せしめねばならぬ。「北」の詩には、雪、氷、凍、寒、囚人、その他、「北」を連想せしめる如き言葉(修辞)は厳禁。
田村は、ことばと「頭脳」の関係を熟知している。また、ことばの「罠」も熟知している。「頭脳」、あるいはことばは、すぐに結びつきたがる。連想というつながりへ動いて言ってしまう。「北」と「雪」、「北」と「氷」。これらは結びついたとき、「矛盾」という形をとらない。そういうものは詩ではない。
詩は、矛盾でなければならない。
「頭脳」(頭)は矛盾を嫌う。合理的ではないからだ。「頭脳」は人間の肉体のなかでもっともずぼら(?)な器官であって、ひたすら楽をしようとする。安易な径路をたどろうとする。数学も物理も、もっとも合理的な論理をもとめる。それを「答え」は判断する。合理的ではないもの、論理的ではないものを、誤謬とする。世界の運動をもっとも省力化しようとするのが数学・物理(科学)である。
詩は、そうであってはならない。矛盾・誤謬でなければならない。合理的ではないと判断され、除外されたもののなかにある「いのち」を復活させるのが詩である。合理的なものを破壊し、矛盾にかえし、合理的という枠が殺していたもの(合理性によって葬られた死者)を甦らせるのが詩である。
こういう詩のことを、田村は「自由」ということばでとらえている。
「「北」についてのノート」には、まえがき(?)がついている。そこに「自由」ということばが出てくる。
絵画と音楽に国境はなし、というのは、真赤な嘘なり。ぼくが、北米の田舎町で経験した「自由」、および「自由」の回路となりうるもの、ただ一つ、それは言語なり。 北米、アイオワ州にて。一九六八年一月
絵画、音楽(ことばを含まない演奏という意味だと思う)は国境を持たない。なぜなら、それは感性(肉体の感覚)へ直接訴えかけてくるからだ。眼と耳がそれを受け入れる。障害物はない。ところが、ことばは、いったん「頭」を通らないと感覚にまではならない。肉体へと働きかけない。感情を動かさない。--一般的には、そう考えられている。しかし、田村は、逆に考える。
人間の感覚・感性は直接的に見えても、実際は、そうではない。感覚・感情にも「一定」の径路がある。人間の感情・感覚はひとりで形成されたものではなく、集団のなかで形成され、みがかれたものである。そのことを人は、ふつうは、意識しないけれど。
たとえば冷たい水は絵画では寒色で表現される。暖色で表現される冷たい水はない。
何を冷たいと感じ、何を温かいと感じるか--視覚の領域では、それはもうほとんど固定化されていて、そこには「自由」がない。ピンクで「冷たい水」を表現するのは、たぶん、許されていない。
ことばも、もちろん、同じようにつみかさねられてきた感情・感覚・認識の径路をたどる。「北」と「雪」、「北」と「氷」は安直に結びつき、そこに径路があるということさえ、人は気がつかない。
ところが、外国語がであうとき、その安直な結びつきは、安直ではおさまらない。外国語に熟達しても、あるいは熟達すればするほどというべきか、それぞれの国語が特有の径路をもっていることがわかる。ほんとうに共通のなにかを感じようとすれば、そこには微妙なずれがあることがわかるはずだ。
このとき、ふつう、人は「外国語は不便だ」と感じる。ところが、その不便さのなかに、田村は可能性を見ているのだ。同じ径路をもたないということ--それは、別の径路の可能性をくっきりと浮かび上がらせる。自分がしらずに身につけてきた径路を破壊し、抑圧されているもの、合理的な径路が隠しているもの(わきに退けたもの)に直接触れることができる可能性がある。
そういうことを田村は「自由」と言っている。
その「自由」の定義は、「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「厳禁」ということばから逆に証明することができる。「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「自由」ではないのである。それは私たちが無意識のうちに獲得してきたことばの運動であり、感覚の連動なのである。
2連目を読むと、そのことがさらにわかる。
氷河期--燃える言葉、エロティックなリズムで書くこと(小動物、森の動物が歩くリズムで)。深刻、悲愴、孤立、断絶、極北、極点、原点、の如き用語、フィーリング、使用すべからず。
「フィーリング」。ことばのなかには、そのことばを話す国民が獲得した(確立した)フィーリングがある。(それはときとして、何か国語にも共通するものである。)そういうものは「自由」ではない。
「自由」なことば--それは「氷河期」に対して「燃える言葉」。
「氷河」と「燃える」は矛盾する。それは対立→止揚→発展、という運動ができない。氷河が燃えれば氷河ではなくなる。「頭脳」の「合理的な論理」に反する。
けれど、その「頭脳」に反すること、合理的な径路に反することのなかに「自由」がある。詩がある。詩が、すくいださなければならない「いのち」がある。いや、すくいだすのではなく、田村の流儀にしたがっていえば、かえっていかなければならない「いのち」がある。
だが、ことばが「自由」の回路であるとして、そのことばはどうやって手に入れることができるのか。
「肉体」をとおしてである。
詩の最後の方に書いている。
敗戦時におけるツキジデス像をこの眼で見ること。
「この眼で」の「この」には原文では、傍点が打ってある。「この私の」つまり、肉眼でと田村は言いたいのだろう。「頭脳」ではなく、「肉眼」で手に入れるのだ。「頭脳」には蓄積されたことばの「回路」がある。その回路から遠い「肉体」で存在をつかみとること。田村は、そういうことを意志していると思う。
「肉体」がつかみとったもので、「頭脳」をたたきこわす。破壊する。完成された回路を叩き壊すとき、そこに新しい原野が広がる。詩という原野が。
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