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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(127)

2014-07-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(127)        2014年07月27日(日曜日)

 「ソフィスト、シリアを去る」はソフィストに「あの名高いメヴィス」のことを書かないかと誘いかける詩である。その「口調」に詩がある。

見目のよさは最高。アンチオキア切っての騒がれる青年。
またとない人生。あれだけかかるのはいない。
メヴィスを二、三日囲うとするだろ。
百スタテルだぞ、おい。アンティオキアでな、
いや、アレクサンドリアでも、ローマでさえもだよ、
メヴィスみたいな よか二才(にせ)はまたとないよ。

 「よか二才」--好青年(九州語)、古語「兄(せ)」より、と中井久夫は注釈に書いている。中井は雅語、俗語、漢語、和語をとりまぜて詩の「声」を再現しているが、ここでは九州の「口語」をつかって、感覚をいきいきと伝えている。いつもなじんでいることばが、気心の知れた身内に語りかけることばが、制御がきかないまま噴出している。
 「あれだけかかるのはいない。」と突然金の話からはじまる。ただし「金」ということばはつかっていない。(原文にはあるかもしれないが。)「かかる」ということばだけで「かね」とわかる。そういう雰囲気のなかでことばが動いている。
 中井は「意味」よりも、「場」の雰囲気、そこで起きている「こと」に重点をおいて翻訳している。
 「金」を意識させたうえで、その経費が何のための経費かを説明する。「囲うため」。この俗語も強烈である。恋人として自分のそばにおいておくために金がかかる。「二、三日囲うとするだろ。/百スタテルだぞ、おい。」という倒置法と念押しが強烈だ。「だろ」「だぞ」「おい」という荒々しい響きが、語り手の欲望を露にしている。
 そこにはメヴィスへの羨望と同時に、彼を恋人として囲うことのできる人間への羨望も含まれている。
 そうした感情の発露にあわせて、「よか二才」が飛び出す。「よか二才」と言った人間は、そのことばを発した瞬間「方言(九州語)」を話しているという気持ちはないだろう。無防備に、感情があふれている。
 引用が逆になるのだが、これは書き出しの二行と比較すると、よくわかる。

おえらいソフィストくん、今シリアを去るところだね。
「アンチオキア論」執筆の企画を持って--。

 ここには方言がないし、口語の、直接感情に呼びかけてくる強さもない。ことばは感情を遠回りして、慇懃に相手に語りかけている。
 このことばの調子がメヴィスを「見目のよさは最高」と言った時から乱れはじめる。「囲う」という俗語で欲望が刺戟され、暴走していく。そのリズムを中井は巧みに再現している。たぶん、カヴァフィス以上に、と思ってしまう。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

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