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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(34)

2014-07-26 10:27:13 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(34)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「歌」というのは「論理」とは違って、かなりいいかげんなものを含んでいる。--と書くといろんなひとから叱られそうな気がしないでもないが(この詩集を書いた池井からも叱られそうだが)、どこかに「論理」をつきやぶって動くものがあることばが「歌」なのだ。そして、その「論理」をつきやぶって動くことばというのは、詩なのだ。
 「日和」は家を出てバスに乗るまでのことを書いているのだが、

きせつはずれのうろこぐも
こころがそらにすわれそう
でも
にんげんばかりがいとわしく
にんげんわたしがうとましく
にんげんとすれちがうたび
しかつめらしくめをそらし
なにおもうのかうつむいて
でも
くさばなはかぜはよろこび
こころもかぜにそよぎそう
こんないいおひよりのあさ

 日和のいい朝なのに池井の気持ちは「にんげんばかりがいとわしく/にんげんわたしがうとましく」と、朝の気持ちよさとは「矛盾」して動いている。いや、逆か。「にんげんばかりがいとわしく/にんげんわたしがうとましく」感じる朝なのに、草花、風が喜んでいるのに気づいてしまう。朝がめぐってくること、草花がいきていることと池井は無関係だからといえばそれまでなのだが、そして私はきのう、その「無関係」を「非情/永遠」ということばと結びつけて屁理屈を書いたのだが。
 「非情/永遠」と書いたくらいでは、おさまりのつかない「矛盾」がそこにある。
 どうして、私たちは、「にんげんがいとわしく」「わたしがうとましく」感じられるときにも、「くさばな」や「かぜ」にこころが動いてしまうのだろう。もちろん、暗い気持ちにあわせて草花も風もうるさく感じるときがあるのだけれど、そうでないときもある。これはなぜなんだろう。
 何かが「矛盾」している。そして、その「矛盾」に人間はすくわれている。

 池井の詩は、こんなふうにつづいていく。

うちをでて
ばすにのる
ほんのつかのま
のしりのしりとあしあとが
おおきなふるいあしあとが
うちよりずっとおとくから
ばすもかよわぬずっとさき
へと
にんげんわたし
おきざりにして

 私は草花や風(自然)を「非情」と考え、「非情」ゆえに「永遠」であると考えるのだが、池井は違う。
 草花や風は「あしあと」とともに遠くからやってきて、遠くへとつづいていく。それは「にんげんわたし(池井)」を「おきざりにして」つづいていく。それは「非情」に見えるかもしれないが、それ自体「情(こころ)」をもっていて、人間を超越した「こころ」をもっていて、そのこころゆえにつづいていく。歩いていく。自立した存在なのだ。
 その「つづいていく」ものについて池井は「のしりのしり」という大きな感じのことばをつかってあらわしている。「おおきな」と言いなおしたあと「ふるい」ともつけくわえている。
 それは池井の「いのち」以前からはじまり(古い、というのは池井よりも古いという意味である)、池井よりも大きく重いのだ。その「いのち」、その「ちから」が草花と風を存在させている。
 池井は、そういうものを感じている。
 そして、そう感じているとき、池井は、その「いのち」「ちから」よりも、「つづいている」ことの方に力点を置いているかもしれない。それが「ある」というよりも、それが「つづいている」(歩いている)にことばの重点を置いているかもしれない。「あしあと」ということばが、そういうことを象徴している。




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