詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自助・共助・公助と学術会議

2020-10-23 15:57:50 | 自民党憲法改正草案を読む
自助・共助・公助と学術会議

 他のところで書いたのだが、少し追加してまとめ直しておく。
 東洋経済のウェブサイト(https://toyokeizai.net/articles/-/381397)に載っていた記事を読みながら考えたことである。見出しに「『10社以上でクビ』発達障害46歳男性の主張」と書いてあった。
 発達障害の人は、社会の中では「少数者」である。発達障害のひとの存在は、それは非常に見えにくい。こんな例えはよくないのかもしれないが、たとえば車椅子の使用者にならば「見える」。そして階段をスロープに変えればある程度そのひとの「自由度」が高くなるということもわかる。どう対処すればいいか、ほかのひとにもある程度わかる。しかし「発達障害」の場合は、よほど詳しいひとでないかぎり、どう対処するのがいちばんいいのか、見当がつかない。また、そういうひとが差別/排除されても、理不尽とは思いにくいかもしれない。記事の中にもあったが「きょう初日のひとよりも仕事が遅い」などと非難しているひとからみれば、この男性は「排除」されても何の問題も感じないだろう。逆に仕事がスムーズに進むようになったと喜ぶかもしれない。
 世の中には「見えにくい少数者」が大勢いる。
 そういうひとたちが「排除」されたとき、多くのひとはその「排除」に気がつかない。首になった男性が、どんな生活をしているか、どんな苦境に陥っているか、それも「見えない」。こういうことが、これからの大きな問題になる。「見えにくい少数者」は「少数者」であるという理由で「排除」されやすいのである。「排除」されたも、だれも気づかないという危険が、すぐそこまで来ている。

 こいうことがなぜ「学術会議」と関係があるかというと。
 「少数者の運命」というのは「学術会議」にもあてはまることだからである。学者は、絶対的に「少数者」。
 そして、悲しいことに、「学者」を差別すること( 排除すること) に対して、多くの人は「良心の呵責」を感じない。「発達障害」のひとの仕事を奪ってしまうことに対しては、後ろめたく感じるひとがいるかもしれないが、6人の学者が「学術会議の会員に選ばれなかった」からと言って、そのことを「親身」になって考える人は少ないだろう。
 理由は簡単。
 ふつうのひとから見れば、「学者」は自分たちより優れている。優れているひとに配慮なんかする必要はない。配慮が必要なのは、「学者」になれない国民の方である。「学者」になれず、資本家につきつかわれている労働者の方である。「学者」は自立しているから、それで十分じゃないか……。
 こういう「国民の心情」を菅(と自民党)は巧みに利用している。
 「目に見える少数者(たとえば車椅子使用者)」と同時に「目に見えない少数者(たとえば発達障害のひと)」がいる。
 この「目に見えにくい少数者」から排除していくことが、いま、日本で横行している。
 「学者」の排除のあとは、個人の思考/嗜好/指向が狙われる。「少数者」から排除される。「少数者」の排除は、「多数者」には「私には関係ないから、知らない」という無関心のなかで拡大していく。
 「分母」が小さくなれば、いままで見過ごされていた「少数者」がどんどん強調されるようになる。
 マスクをしていないひとに「マスクをしてください」と注意する。そのとき注意されたひとが「すみません」と言う前に「お金がなくて買えないんです」と答えれば、「注意したのに反抗された。公共精神がない反抗的な人間だ」というレッテルで排除される。「お金がなくてマスクが買えないひと」は「少数派」だからだ。
 冗談のように見えることが、冗談ではなくなる。
 その第一歩が「6人の学者の任命拒否」である。
 「気に食わないから排除する」が菅の政治によって始まっている。
 そして気に食わないひとを見つけるのに、どうも警察が関与している。警察国家(密告社会)が急速に動いている。

 脱線したが。
 コロナ感染拡大という状況の中にあって「マスクを買えない少数派」から、私はこんなことを考えるのである。
 菅は「自助・共助・公助」と言った。コロナ感染という社会の中では、「自助」は、たとえば手洗いの励行ということがある。そしてマスクの着用もそのひとつだ。その「自助(マスクを着用する)」ということが経済的にできないとき、「それでは町内会でマスクを買って助けましょう」というのが「共助」という形で必ず働くかというと、そうではないときがある。「町内でマスクを買えないひとがいる。そのひとを助けるのは共同責任だから、みんなでマスクを提供しよう」という形で動かないときもある。
 「町内からコロナ感染者が出たら、みんなが困る。共同責任になる。マスクを持たないひとが出歩かないように監視しよう」という動きが出ないとも限らない。「食事を一回抜いてマスクを買えばいい。マスクを着用するのは自己責任だ」という「責任の押しつけ」が始まらないとは限らない。
 「学者」のひとたちは理性的だから、そういうことは起きない/起こさない、と言えるかどうか。
 たとえば「6人の任命拒否」。その6人に対して、「政府方針を批判するようなことをいうから任命されないのだ。任命されないのは自己責任。6人のために予算が減らされたり、ほかのひとまで政府方針を批判していると思われるのは心外だ」というひとが出てこないとは限らない。菅と会談した梶田は、私には、そういう人間に思える。6人がいなければ、学術会議はいままでの活動ができたのに、と思っているかもしれない。そうすると、そこから6人の問題を「共同責任」のように詰問されるのは困る、6人は学術会議とは関係がない。「排除してしまえ」ということが起きかねないのだ。
 学術会議の会員になりたいのなら、「自助努力」が必要。政府方針を批判するのは「自己責任」でやれ。他の学者に迷惑をかけるな。会員に任命されなかったからといって「共助(任命拒否を撤回しろという運動)」を会議に求めるな。そういう運動が起きないとは限らない。
 「学者以外の世界」では、実際、そういう動きが起きていると思う。任命されなかったのは本人の責任。任命しなかった菅に問題はない。「学問」は菅が会員に任命しなくてもできるはず。「自己責任」で自分の好きな研究をすればいい。
 こういう「むちゃくちゃ」が起きる。実際、起きている。
 なぜか。
 「学者」という存在が、多くのひとからは「見えない少数派」であり、同時に「特権的な少数派」として認識されているからである。「見えない少数派」が「見えないまま」ならふつうのひとは何も言わない。突然「見える」状態になって、しかも、何かわけのわからないことを言う。「学者が国民よりえらいなら、自分で問題を解決すればいい。頭がいいんだから、それくらいできるだろう」。多くのひとは「心情の共有」へ向かって、一致団結していく。

 こうした動きが危険なのは、「少数派」よりも「多数派」こそが「正しい」と考えてしまうことだ。ある社会の中から「少数派」は排除する運動が始まると、それは次々に「少数派」探しに拡大する。「少数派」が「共助」を阻害している。「少数派」がいなければ「共助」は簡単に、確実に実行できる。「少数派排除」が「多数派団結の方法(手段?)」として動き始める。
 最初は「学者」、つぎは芸術家、つぎはスポーツ……とあっという間に拡大するだろう。それは、先に書いたように「マスクをつけていない/マスクを買う金がない」というようなところにまであっという間に拡大する。「政府を批判する集会に参加していた」とか、「政府を批判する文章をネットに書いた」とか、「学者」よりももっと「見えない少数派」を狙い撃ちするだろう。
 たとえば、この私。こういう文章を書いている人間が、ある日突然、こういう菅批判の文章を書かなくなったとして、いったいだれが気にするだろう。「見えない人間」が「消えた」だけである。世の中は、何一つ変わっていない。
 世の中は何一つ変わっていない。6人が任命を拒否されても、学者はあいかわらず自分の好きな学問をやっている。6人だって、勤務先を首になったとかという話は聞かない。何も変わっていない。
 しかし、「何も変わっていない」という印象を演出しながら、急激に変わっていくのである。「解釈の変更」という、それこそ「見えにくい動き」を利用しながら、変わっていくのである。その動きの中に、菅は「自助・共助・公助」を盛り込んだ。「自己責任・共同責任」を強いるように仕向けている。




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